第23話 8/26 気持ちを告げる

 数時間前まで、絵の具で空を塗ったかのように、濃い青が僕の頭上に広がっていた。天気予報を確認しても、これから雨になるという予報はなかった。今日一日、快晴らしい。絶好の祭り日和と言える。対照的に僕の心は依然として、靄がかかったように晴れ晴れとしない。


 駅に向かっているところだ。近づくにつれて、不安な思いがどんどん大きくなってくる。栞を信じたい気持ちもあるけれど、そもそもメッセージを見られていなかった場合は、どうしようもない。

 少し涼しくなったかな。まだまだ暑い日が続いているが、以前よりはマシだ。秋がそこまで来ていることを感じさせられる。


 徐々に涼しくなるのは、嬉しいことであるはずなのに、今年だけは夏が延々と続いて欲しい、と思った。来年以降、僕は夏になるたび、彼女のことを思い出すことになってしまうのかな。切なくなるかもしれないけれど、忘れるよりは良い。


 あと五分くらいで駅に着く。浴衣姿の女性が目立ってきた。となり町の祭りはそれなりに大きな規模なので、行く人も多いはずだ。浴衣姿の人たちは、確実にそこを目指しているに違いない。同性同士のグループもいれば、男女で向かう人たちもいた。


 辛気くさい表情をしながら歩いているのは、きっと僕だけ。みんなキラキラした顔つきで、友達や恋人と話しながら歩いている。この空間の中で異質なものであることはわかっている。彼らのような表情をしたいけれど、栞が来てくれるか定かではない今、僕に余裕はなかった。

 それに彼女が来てくれたとして、どうやって会話を続ければいいんだろう。あんな喧嘩別れをしてしまうと、気まずい。顔を合わせづらい。それでも、来て欲しい、と思う。


 駅が見えてきた。時計を確認すると、時刻は五時十五分。念のため、早めに家を出たわけだけど、軽く見渡しても彼女の姿はなかった。僕は券売機の隣の邪魔にならないスペースで待つことにした。ここからなら、彼女が来たかどうかを確認しやすい。

 女性が駅内に入ってくるたびに気持ちは高まり、栞ではないことがわかると、一気に沈む。そんなことを数度繰り返しているうちに、三十分になった。約束の時間だ。彼女の姿はまだない。


 諦めたくない。僕は辛抱強く待った。


 四十五分になっても、彼女は来なかった。やっぱり、ダメだったのかな......。

 僕が諦めそうになり、帰ろうかと思い始めたとき、こつんこつん、という音が響き渡った。下駄が地面に接触する音だ。何となく、本当に根拠はなかったのだけれど、僕は今までにない期待感を胸に、目を向けた。


「来てくれたんだ」


 浴衣姿の栞がいた。ベースとなる紺碧に、淡い紫色の紫陽花が描かれている。大人っぽい雰囲気を感じさせた。


「まあ......」


 彼女はぶっきらぼうに言った。


「やっぱり来たくなかった?」

「......」


 彼女は小さく頷いた。


「その割には、浴衣までちゃんと着てくれてるけどね」


 かなり気合を入れてくれたことが、見て取れる。


「それは......」

「まあ、いいや。とりあえず、電車乗ろ」


 別に浴衣について話し合うために彼女と会っているわけではない。乗る予定だった電車には乗れなかったが、大した問題ではない。もともと早めに出ていたので、花火には余裕で間に合う。


 プラットホームで電車を待つ人のほとんどが、楽しそうにしていた。りんご飴を食べたい、とかそんな会話が耳に入ってくる。

 その中で僕たちだけは、一言も喋らず、お互いを見ようともせず、電車を待っていた。明らかに浮いていた。電車に乗ってからも会話はなく、降車した。


 大勢の人が同じ駅で降り、祭り会場を目指す。正確な場所を把握していなかったけれど、浴衣姿の人たちについていけば着けるだろう、と思い、ルート検索などはしなかった。


 今の僕の顔は鏡を見ていないのでわからないけれど、きっと祭りへ向かう人の顔ではないだろう。事故現場にでも足を運ぼうとしているのかと思うくらい暗い表情をしている気がする。隣を歩く彼女もそんな顔をしている。

 

 何と話しかければ、いいんだろう。今までのように気軽に話しかけることは難しい。とりあえず、気まずい雰囲気を何とかしたい。僕は深く考えず、話しかけることにした。


「人多いね」

「お祭りだもんね」


 会話が途切れた。今までそんなことはなかった。話はよく逸れていたけれど、沈黙が流れることはほとんどなかった。


 僕がどうしよう、と困っていると、今度は彼女の方から話しかけてくれた。


「どうして待ってたの? 駅で」

「僕が誘ったんだから、待つでしょ」

「私は指定された時間に行かなかったんだから、帰っててもおかしくないと思う」


 指定した時間より十五分ほど遅れて、栞はやってきた。


「来てくれるって信じてたから」


 僕は今まで避けていた、彼女の目を見て言った。


「私はそんなに信頼してもらえるほどの人間じゃないよ......それに嫌いになった、って言ったのに」


 確かに嫌いになった人からの誘いを受ける人なんていないと思う。でも、僕はそれが彼女の本心でないことくらいはわかった。


「言われたね。そんな嫌いって言われた人のことを誘う僕はおかしいのかもしれない」

「うん。おかしいよ、秋太くんは」

「僕が来てくれると思ったのは、優しい君は、僕の誘いを無下にできないと思ったから」

「私は酷い女だよ。散々色んなことに付きあってもらったのに、その恩を仇で返すようなことをした。どこが優しいの?」

「それは自己評価だよね。前に栞は言ってたよね。評価は自分じゃなくて、他人が決めるものだって。僕が君をそう評価したんだから、その評価にケチはつけないで欲しい」

「そんなこと言わなきゃ良かったなぁ」


 彼女は今日初めて、強張った表情を崩した。以前までの笑顔とは違うけれど、微笑む彼女の姿は僕を安心させるものだった。


 祭り会場までおそらくあと少し。徐々に騒がしくなってきた。色んな音が聞こえてくるはずなのに、僕の耳には栞の声以外届いていなかった。まるで世界には二人だけしかいないかのように。僕しか見えていない彼女にとって、その表現は間違ってないと思う。


「聞かせて欲しい。どうして、そこまで私に真剣になってくれるの?」


 彼女は興味深そうに言った。本当に不思議なのだろう。


 僕はゆっくりと口を開く。


「君のことが好きだから」


 彼女は立ち止まった。目を見開き、口が半開きになり、戸惑っている。


「嫌われてる人に告白ですか......?」

「別に告白ってほどのことでもないよ。だって、すでに付き合ってるんだし」

「......私は別れようって言ったはずです」

「それを僕は承諾していない。だから、まだ続いてると思ってる」

「私は別れたと思ってるんです!」


 珍しく栞は語気を強めた。


「じゃあ、もう一度僕と付き合って欲しい」


 今にも泣きそうな彼女に言った。周りの人たちからすれば、僕は誰もいないところに向かって、告白しているヤバい人間だ。僕を追い越す人たちから、引いているのが丸わかりな視線を向けられている。全く気にしていないけれど。

 周りの視線なんてどうでもいい。僕の目に映るのは、目の前の彼女だけだ。


「ダメだよ......本当に好きになったら、別れるのが辛くなっちゃう。ううん。そんな風に思ってるってことは、すでに秋太くんのことで頭がいっぱいになってるのかもしれない。そんなに想ってしまっている人との別れなんて辛すぎるよ。好きっていう気持ちを自覚する前に、嫌いになりたかった。でも、秋太くんに対して、嫌いって言うたびに心が痛かった。痛くて痛くて、耐えられなかった。会っていないのは数日なのに、今すぐ会いたいって思った」


 彼女は一息に言うと、深呼吸をし、また口を開く。


「必ず訪れる別れを君は受け入れられる?」


 暗がりでも、彼女の頰を伝う涙が見えた。それすらも、美しいと思ってしまう、自分がいる。


「簡単には受け入れられないと思う。それでも、あんな別れ方をするよりはマシだよ。最後の日まで、一緒に笑って、楽しく喋る。それができれば僕は少しずつ受け入れられると思う」


 僕も彼女と同じように深呼吸をし、続ける。


「栞は僕のことが嫌い?」

「ううん。秋太くんのことが好き。とっても、好きだよ」

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