第17話 呪文

 その日、小田桐は少しだけ遅くに帰ってきた。手には雑貨店の紙袋がある。それがリースなのだろうと、中堂はあたりをつけた。

「お帰りなさい。リースですか?」

「はい、リースです」

 小田桐は玄関に紙袋を置くと、洗面所に向かった。はいはい、手洗いうがいですね、と中堂はそれを見送る。戻って来た小田桐は、袋からリースを取り出して、

「どこに飾りますか? 靴箱の上にしますか?」

「任せます。よく見せて」

 小田桐が渡してくれるのを受け取る。よくある緑のリースだ。赤い実が飾ってある。「クリスマスリース」と聞いて万人が思い出すものだ。もちろん本物ではなくて作り物なのだろうけど。加工がされていて、全体的にきらきらしている。てっぺんにはベルとリボンが飾ってあった。

「良いじゃないですか」

 自然に頬が緩んだ。クリスマスのものを見て、楽しい気持ちになったのはいつ以来だろう。純粋にクリスマスを楽しんでいた頃がもう思い出せない。天邪鬼を発揮してあれこれ理由を付けていたけれど。

 12月に浮かれる口実としてのクリスマスがこんなに楽しくなるものだったなんて。

「中堂さん? 大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」

 自分でもわかってる。泣いていることが。袖で涙を拭うと、リースを小田桐に返した。

「ありがとう。クリスマス終わるまで、飾っておきましょうね」

 珍しく素直な中堂を、小田桐は茶化したりしなかった。涙が止まるまで黙って傍にいた。玄関は寒かったけど、不思議と嫌ではなかった。

「君は優しいですね」

 中堂がそう告げると、小田桐は少し驚いた様な顔をして、頬に口づけた。


「そう言えば、サークルの忘年会予定入ってましたけど、君ってサークルは何に入ってたんですか?」

 夕食を食べながら、中堂は何気なく尋ねた。

「漢方です」

 小田桐は学部を答えるような気軽さでさらっと答える。中堂の箸が止まった。

「は?」

「漢方ってほら、中国の……」

「いや、そんなことを聞いてるんじゃないんです。え? 漢方サークル? なにそれ」

「漢方について色々調べるんですよ」

「えええええ?」

「面白そうだったから入って、結構面白かったですよ。今も仕事に結構生きてます」

「へええええ……?」

 未知の生物を見るような目で見てしまった。小田桐は少し照れた様な顔をする。

「よく驚かれるんですけど、漢方面白いですよ」

「牡蠣の殻とか使うんでしょ」

「ボレイですね。よくご存知で」

「ええ、何故か知ってます……」

 どこで聞いたかは忘れたが、その時もやはり「は?」と思ったので覚えている。誰から聞いたんだっけ……神谷か? 何かの時に聞いたんだっけ……。

「その漢方サークルの人たちはみんな薬剤師さんなんですか?」

「そうですね。俺みたいな病院薬剤師、調剤薬局の薬剤師、製薬会社の薬剤師も」

「製薬会社って薬剤師がいるんですか?」

「薬学の専門家として。開発者もそうですけど、MRさんにもいますね。あとは治験コーディネイターとか……色々あるみたいですよ」

「ああ……君はどうして病院薬剤師になったんですか?」

「やっぱり、現場に行きたかったからかなぁ」

 薬のこと、薬剤師の仕事のことを話している小田桐の目は輝いている。ああ、彼は自分の仕事が好きなんだな……と中堂は実感した。その一方で、ここに来た時、薬剤師って何してるんだろうと思って無神経なことを言ったのを思い出して急に恥ずかしくなる。

「緊張する仕事ですよ。薬剤師が見落としたら大変なことになるし。でも、楽しいですよ」

「そうみたいですね」

 笑顔で仕事について話す小田桐の顔はとても眩しかった。


 小田桐が、乱暴に言えばそこまでの薬学オタクだと思っていなかった中堂は、ある種のショックを受けながら風呂に入った。洗い物は俺やりますよ、と小田桐が引き受けてくれたおかげだ。

(私の知らない小田桐くん……)

 当たり前である。出会ってまだ1ヶ月かそこらだ。自分が彼について知っていることと言えば、忍耐強いこと、豚汁が得意料理であること、中堂のハンバーグが好きなこと、そして、優しいこと。それだけ知っていれば充分とも言える。

 クリスマスを毎年楽しみにしていたのだろう。毎年きっと何か飾っていたのだろう。これまでの彼の人生で。

 どんな風に暮らしてたんだろう。授業を終えてから、漢方サークルに行って、家に帰って、何をして過ごしていたんだろう。

 風呂から上がると、リビングで小田桐がくつろいでいた。

「お先でした」

「あ、お帰りなさい。じゃあ次お風呂頂きますね」

 立ち上がってすれ違う小田桐の袖を掴む。

「中堂さん?」

「こういうことを言うのはたいへんに心苦しいのですが」

「ど、どうしたんですか?」

「寝る前に抱きしめてくれませんか」

「へ?」

「少しだけで良いので。お風呂出たらすぐ部屋に戻ってください」

「え? は、はい……わかりました……?」

 頭に大量の疑問符を浮かべながら、小田桐は了承した。首を傾げながら風呂へ向かう。中堂は部屋に寝室に入った。

 性的なものを一切排した小田桐に触りたい。それで彼の人生が知れるわけでは決してないのだけれど。自分はあまりにも小田桐の表面的なものにしか触れていなかった。どうしてそんなことを欲しているのか。終わりが予定されている自分たちの関係に、互いの人生の情報は必要なのか。

(馬鹿馬鹿しい)

 馬鹿馬鹿しいのは自分の望みだ。

(そんなもの要らないのに)

 神谷の時と同じ失敗をするのか。そう思うと猛烈に不快だった。そんなことを問うてくる自分の理性が邪魔だった。

「どうしたんですか、そんな虫歯を我慢するみたいな顔をして」

 気が付くと、スウェットを着た小田桐が部屋に戻ってきていた。時計を見ると、結構な時間が経っている。

「歯が痛いんですか?」

「身体はどこも痛くありません」

 話は終わりだと言わんばかりに両腕を広げる。小田桐は少し照れ臭そうに笑うと、ベッドに入って中堂を抱きしめた。

「どうしたんですか? 突然」

 甘やかすような声で尋ねられて、じんわりと温かさが広がった。

「別に……たまには良いかなって思っただけです。嫌でしたか」

「いえ、俺もたまにはこういうの良いかなって思いますよ」

 何も疑わず何も躊躇わず背中に回される腕。胸にくっつく小田桐の顔。

「おやすみなさい」

 小田桐のその声が呪文か何かであったかのように、それを聞いた瞬間、中堂はすとんと眠りに落ちてしまった。


 翌朝、中堂が目を覚ましたのは10時過ぎだった。夢も見ずにノンストップでこの時間まで寝てしまい、目覚めのきっかけはカーテンの向こうの、遮りようのない明るさだった。また小田桐を起こせなかった……と血の気が引くのを感じたが、ベッドにも布団にも小田桐はおらず、階下にも人の気配がない。

 1階に下りて玄関を見ると、小田桐のスニーカーがなかった。いつもの日中の玄関だ。無事に出勤したらしい。テーブルには付箋が貼ってあった。

『ぐっすりだったので起こしませんでした。洗い物だけお願いします。すみません。 小田桐』

「ぐっすり……」

 そんなに寝入っていたのか……。

(おやすみなさい)

 小田桐にそう言われてからの記憶がない。なぜだかあの声にものすごい安心感を覚えて、すとんと眠りに落ちてしまったのだ。

(小田桐くん、ちゃんと眠れたんですかね……)

 2人で寝ると身体が休まらないと言われたのを思い出す。途端に、猛烈な罪悪感に襲われて、中堂は溜息を吐いた。

 良いことがあると悪いことがある。

 けれど、何か憑き物が落ちたような、そんな爽快感がある。中堂は顔を洗うために洗面所へ向かった。

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