氷点の水底が揺らぐ

第11話 冷蔵庫前のキス

 小田桐の作った豚汁は、中堂にはとても美味しく感じられた。味噌はいつも自分が使っているものだから、味の違いは味噌じゃない。

「味付けどうしてるんですか?」

「味噌ですよ。ああ、出汁の味が濃いですか? うちの味噌汁って出汁多めなんですよ。顆粒出汁をちょっと多く。中堂さんはあんまり出汁使いませんよね?」

「使わないですね。ちょっと頑張ろうと思って煮干しは買いましたが、使わないで駄目にしましたね」

 どうせ味噌汁なんて、味噌味のお湯に具が浮いていれば良いのだ。前に使って、中途半端に開いているスティックがあった筈だが、あれを使ったのだろうか。

「これは……お弁当に持って行きますか?」

 汁物も入るタッパーなら用意がある。

「スープジャー買ってこようかなぁ」

 小田桐が汁椀から口を離しながら言った。ああ、最近はそう言うものがあるのか、と思っていたら、小田桐の舌がぺろりと口の周りを舐めるのを見て、背筋に衝撃のようなものが走る。

「どうしたんですか?」

 視線に気付いたらしい小田桐がこちらを見た。いつものきょとんとした顔だ。

「なんでもありません。口の周り気になるならティッシュ使いなさいよ、行儀悪い」

「段々世話焼きおじさんみたいになってきてませんか、中堂さん」

「おじさんって言うな、まだお兄さんだ」

 42歳というのは実に微妙な年齢である。抗議を受けると、小田桐は律儀に、

「世話焼きお兄さん」

 言い直す。それを聞いて、中堂はがっくりと肩を落とした。

「……おかしい、私は別に下宿先の大家ではないのに……」

「俺、職場で中堂さんのこと、下宿先の大家さんって言ってますよ」

「まあ、対外的にはそう言うしかないですよね。セフレですとは言えないでしょう」

 セックスフレンド。自分たちの関係に最も近い言葉はそれだろう。だが、それは職場の同僚に大声で言うのがはばかられる言葉ではある。小田桐の様に擦れていない若者なら尚更だ。

「そ、そうですね……」

「何ですか、そんな釈然としない顔をして」

「いや、はっきりそう言われると、そうかあ、そうだったのかぁって思っちゃうと言うか」

「じゃあ、他に何かありますか?」

 意地悪な笑顔を見せて問うと、小田桐はしばらく難しい顔で虚空を睨んでいたが、やがて首を横に振った。

「わかりません」

 それはそうだろう。

 中堂だってわかってないんだから。


 小田桐は結局、豚汁を持って行くことにしたらしい。これとご飯だけでは足りないだろうが、メインは買い足すと言う。いつも中堂が持たせる弁当は何かが足りない。

「でも、肉系買うだけですから、ほんと助かってます。ありがとうございます」

 心からそう思っているのだろう。台所で豚汁をタッパーに詰めながら、逆に恐縮したように小田桐は言った。中堂も洗い物をしながら、

「またハンバーグ作ってあげますよ」

「牛肉高くないですか?」

「合い挽きにします」

 そう言って口角を上げて見せると、小田桐も笑った。その顔を見ていると、ふとこみ上げるものがあって、中堂は手を止めた。

「中堂さん?」

「小田桐くん……」

 笑ったまま首を傾げている小田桐に顔を近づける。唇を合わせた。小田桐が少し身じろぎするのを押さえる。

「これだけ、これだけですから……」

 さっきまでの明るい空気は鳴りを潜めた。少しずつ、小田桐の方も呼吸が乱れてくる。中堂は小田桐の胸を押した。冷蔵庫まで追い詰める。小田桐はずっと何か言いたそうにしていた。その度に唇を塞ぐ。

「……何ですか?」

 どうしても何か言おうとしている小田桐に、怪訝そうな顔で尋ねると、小田桐は流しの方を指した。

「水……」

 中堂が止め忘れた水道の水が流れっぱなしになっていた。


 水を止めてから再開する気にもなれず、中堂は小田桐を風呂場に追いやった。小田桐の方も気まずかったらしく、特に反論せず「じゃあ頂いて来ます」と言ってそそくさと台所を出て行った。残った中堂は洗い物を済ませる。生ゴミの始末をしてから、寝室に戻った。

 身体の熱が収まらない。キスだけで済ませるつもりだったのに。続きをせがんでしまいそうなほどに、身体が熱い。風呂場に押し入って、初めてしたときのように小田桐へ無理強いをしてしまいそうになる。

 こうなること自体は初めてではない。神谷から、抱かれることを教えられてから、身体が疼くことがなかったわけではないから。

 だから、一人で処理できる用意はあった。小田桐が風呂から上がるまでに、済ませなくてはならない。耳を澄ますと、階下で水道を使う音がした。ベッドの下の収納を開ける。小田桐に、この収納の存在を教えていなかったことをそこで思い出した。教えていなくて良かった。

 ドアを閉めて、電気を消した。

「……小田桐くん」

 小さな声で呼ぶ。


 小田桐が様子を見に来るかと思ったが、足音もしなかった。玩具を使って自分を慰めている所なんて、そう他人に見られたいものではなかったから、幸いと言えば幸いではあったが、一抹の虚しさも感じてしまう。

 神谷がそれをしている所を見たがったことがあって、一度だけ見せたことがある。羞恥心が却って火を付けたような気すらしたが、中堂が達する前に、神谷の方が「時間がない」と言って中断させて、そのまま交わって終わった。時間がないと言ったくせに、その時はやたらとしつこく、ねちっこく抱かれたことをよく覚えている。中堂が気持ち良くなっている間、お預けを食っていた分高まっていたのだろう。自分も随分はしたなく乱れた。その時のことを思い出すと、下腹部の熱がますます深くなるような気がした。記憶の中で自分を抱いている神谷の顔が小田桐にすり替わる。

 少しだけ後ろめたさがあった。

 抱いて欲しくて仕方ない、と思っていることを認めたくない。

 それじゃまるで愛しているみたいだから。


 細かい後始末は小田桐が寝てからすることにして、部屋でできる片付けを済ませてから、中堂はリビングに降りた。小田桐がスウェット姿で所在なさげに座っている。緑茶の入ったマグカップが置いてある。

「あ、お風呂お先でした……」

「いいえ……」

 さっきはなんであんなことしてしまったんだろう。熱が抜けて、やっと冷静になった頭で考える。

「お風呂行ってきますね」

「はい……」

「君は寝てて構いません」

「そうします……」

 中堂が洗面所の扉を開けると、後ろで階段を上がる足音がした。小田桐が部屋に戻ったらしい。彼が寝るまで戻りたくない。

 浴槽に身体を沈めると、縁までお湯が上がった。自分より体積のない小田桐が足したのだろう。お湯をすくって顔を拭った。

(どうかしている……)

 本当にどうかしていると思った。最初は腹いせ、八つ当たり、嫌がらせに近い気持ちで関係を持ちかけたのに、今ではどうだ、小田桐が休みになる度にベッドに誘い、ことあるごとにキスしている。

(小田桐くんが嫌がらないから……)

 小田桐が受け入れるから悪い。鼻の下まで顔を沈めて、中堂はぶくぶくと口から息を吐いた。


 翌朝、出勤する小田桐を玄関まで見送った。一夜明けると、気まずさは少し薄れた。平日の朝食はいつも慌ただしいから、会話が少ないことも気にならない。

「ほら、お弁当忘れてますよ」

「あ、すみません。ありがとうございます」

 玄関を開ける。自転車通勤で、そんなに早い時間に家を出ない小田桐を見送ると、太陽は少し高い。

「では気を付けて行ってらっしゃい」

「はい」

 小田桐は頷くと、周囲を見回した。眼鏡を掛けたスーツの男性が自転車で通り過ぎる。それを待つと、小田桐は一歩、中堂に近づいた。背伸びして。頬に唇を当てる。

「行ってきます」

 そう言って、彼は慌ただしく自転車を出して走り出した。残された中堂は、ぽかんとしてそれを見送る。

 触られた頬が熱い。

「……君って奴は……」

 そのまま、玄関先にしゃがみ込んだ。

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