第7話 お弁当

 翌日、小田桐は中堂に詰めてもらった弁当を持って出勤した。職場には冷蔵庫があるので、お弁当を持参した職員はそこで昼まで置いておく。

「あれ、小田桐さんお弁当? 珍しいじゃん」

 同僚の五月女が目を瞬かせた。小田桐も大概無表情と言われるが、五月女の鉄面皮っぷりはなかなかのものだ。

「下宿先の人が持たせてくれました。今日お弁当箱買って帰ります」

 今朝、ハンカチで包んだお弁当を小田桐に渡し、

「君には元気でいてくれないと困りますから」

 と、ベッドで事に及ぶ直前のような顔をした。つまりそう言うことである。その内、精力剤も持たされるんじゃないかと言う下世話な想像までしてしまう。

「近くなって、どう? チャリ通勤になったんだっけ?」

「そうなんですよ。チャリで20分くらいになったからすげぇ楽です」

 朝ゆっくり眠れる……それは7時間寝たい小田桐にはこの上ない環境だった。

 仕事の前の日は寝かせてくれ、と中堂に言ったは良いが、中堂が聞いてくれるとも限らず、最初は戦々恐々としていたのだが……彼は約束通り、そう言う日に手を出してくるようなことはなかった。平日の中堂は、下宿先の大家だった。

 ただ、そういうことをする、という段になると、あのうつくしい顔をに艶然とした笑みを浮かべて小田桐に覆い被さってくる。小田桐くん。甘い声で囁く。

(こういう悪魔いたよな……何か聞いたことあるようなないような……)

 小田桐はオカルトやら何やらに詳しくないから知らないが、サキュバスのことである。睡眠中の男性と性関係を持つと言う。

 君の身体が気に入りましたと言って、娯楽としての性関係を持ちかけてくる中堂は、その時だけ小田桐にとっては悪魔にも等しい理解のしがたいものになっていた。端正な顔が自分の肩や胸に埋められると、知らずこちらの鼓動も激しくなってしまう。

 そして……段々小田桐の方も慣れてしまったと言うか、初めはほぼ中堂の主導だった行為が、徐々に小田桐の主体的な動きも入り始めている。小田桐がその気になりつつあることに気付いた中堂は、意地悪なようで、嬉しそうな顔をして言うのだ。

「気に入りましたか?」

「だって中堂さんばっかりその気じゃ、虚しいじゃないですか」

 悔し紛れに言い返した言葉は、中堂の機嫌を損ねたらしく、その晩は明け方まで離してもらえなかった。本人だって眠いだろうに、小田桐に仕返しするためだけに起きていたのである。

 その気にさせるのが上手い、と思う。別に小田桐だってそんな何人と付き合っている訳ではないが、中堂は持ちかけてから持ち込むまでのスピードが速い気がする。

 ……いや、これは単に中堂が強引なだけか。

 飲まれそうになるのを振り払った。


「小田桐さん、良いよ上がって。下宿先の人待ってない?」

 その日、定時になっても調剤している小田桐を見て、五月女が尋ねた。引っ越してそんなにすぐに残業で帰りが遅くなったら心配するのではないか、と言う気遣いだったが、このやりとりは今日が初めてではない。

「待ってないと思います」

 小田桐も毎度の返事をする。中堂は待ってない。だって今日はベッドに誘える日じゃないから。明日も出勤だ。朝、早起きをしなくて良くなった小田桐は、多少の残業なら利くようになっていた。もっとも、残業しないのが一番良いのだが、病気は病院の勤務規定に慮って発症してはくれない。処方の変更や追加がバンバン指示される。

「ダブルチェックお願いします。五月女さんこそ、おうち遠いんじゃないですか?」

「こいつ、距離で気遣うようになったな」

 薄く笑う。本当に記号のような表情だ。「これは冗談ですよ」というプレート代わりの笑顔。単に表情を変えるタイミングを逸する小田桐と違って、五月女は完全に表情をコントロールしていた。

「これ調剤して、カルテ書いたら帰りますよ」

「そうして。あとは百瀬さんがやってくれるから。お弁当箱買って帰りな」

「おう、やるから帰れ」

 夜勤の薬剤師が手を振った。

「五月女くんも良いよ。前田さんに電話しとくから」

「前田さんに電話したいだけでしょ」

「うっせ!」

 百瀬は病棟の看護師と仲が良いようだった。


 同僚たちの気遣いに甘えて、小田桐はその後、残務を片付けてから退勤した。駅前の食器店で弁当箱を買う。今時珍しい個人商店で、レジの応対をする店主がにやにやしながら、

「自分で作るの? 奥さんが作ってくれるの?」

「下宿先の大家さんが作ってくれます」

「良いおばちゃんだねぇ」

 男性です、と訂正する気にはなれなかった。下宿先の大家というのも、嘘ではないが、まったく本当ではない。嘘でも本当でもない自分の事情を中途半端に明かしたまま店を出て、小田桐は自転車のスタンドを蹴った。

 秋の夕陽はつるべ落としとはよく言ったもので、病院を出たときにはまだ少し陽の気配があった空は、すっかり藍色になっていた。星が出ている。風が冷たい。

中堂の家へ、冬物は持ってきているが、実家へ残りを取りに行かないといけなかった。送ってもらっても良いが、中堂が受け取るかも知れないとなると少し気が引けた。あまり手間をかけさせたくない。

「帰りました」

 自転車で20分。びっくりするほど近い距離だ。それだけ声を掛けて、自分は手洗いとうがいをするために洗面所へ直行する。

雑談もせずにどこかに行こうとする小田桐に、中堂はとても驚いていた。どこ行くんですか、私はここですよ、と。そう言えば、布団を買いに行って帰ってきたときは、配送のこととかを伝えてから行ったっけ。どうやら、小田桐が中堂を探しに行ったと思ったようだった。

「インフルエンザ流行るから、手洗いうがいしないと……」

 と告げると、中堂は、

「ああ……」

 とだけ言った。今ひとつ、ピンと来ていないようだ。

「まあ、病院務めてると年がら年中うがいするようになりますけどね」

 最近は、中堂も買い物なりなんなりから帰宅すると、手洗いとうがいをするようになった。

「うっかり風邪でももらってきて、君にうつしてはいけませんからね」

「健康の話になるとその顔するのやめてもらえませんか?」

 ベッドへ誘うような、艶然とした微笑み。小田桐の身体を単純に心配しているわけではないことが読み取れる。

「君が自分の立場を忘れると困ると思って」

 なんてことを思い出しながらうがいを済ませると、中堂が台所で何か作っている。肉の焼ける香ばしい臭い。

「お帰りなさい、今日はハンバーグですよ。お弁当は足りましたか?」

「はい、おかげ様で」

「このハンバーグも気に入れば持って行ってください」

「良いんですか? 持って行きます」

「もちろん良いですよ。君には……」

「俺には健康でいてくれないと困るからですか?」

「……先回りするようになりましたねぇ……」

 中堂は少し拗ねた様に言った。

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