第8話 氷点の水底

 夕食後、中堂は冷蔵庫を見て溜息を吐いた。オレンジ色のライトで庫内がよく見える。

(極めて経済的な生活をしている……)

 一人の時は、食べたいものを優先して作っていたため、余ったものを腐らせてしまうことも時たまあった。小田桐がやって来て、一緒に生活するようになってから……小田桐がこの生活に馴染んで、口出しをするようになってから、そう言うことがなくなってきた。

「昨日のこれあるじゃないですか。食べましょうよ」

「あ、カレーちょっと残ってるんですね? 出汁で伸ばしてカレーうどんにしましょうよ」

「野菜もらっていきますね」

 料理がある程度できるというのは事実だったようで、小田桐は残り物を家主の中堂よりよっぽど上手く活用していた。冷蔵庫は良い意味ですっからかんだ。最近、カビの生えた料理を見ていない。そう言えば、生活費として神谷から振り込まれた金が大分残っている。小田桐から生活費を入れてもらっているというのもあるが、買い直さないので使わないのだ。

(経済過ぎますよ小田桐くん……! 実家暮らしだったくせに……!)

 うなだれて冷蔵庫に額をぐりぐりと押しつけていると、たまたまリビングにやって来た小田桐が仰天した。同居人がそんなことをしていれば、誰でも驚くだろう。普段からその人が奇行に走っているわけでもなければ。

 いや、小田桐に対して、ことあるごとに性行為を匂わせるのは結構奇行である気がする。

「ちょっと! 中堂さんどうしたんですか!? とっておきのプリンでもなくなったんですか!?」

「そんなギャグ漫画みたいなことしませんよ!」

「そんなギャグ漫画読むんですね。どうしたんですか?」

「なんでもありません。いやほんとに」

「そうですか……?」

 まさか「君のおかげで自分がいかに無駄遣いをしていたか思い知りました」と教えるわけにもいかず、中堂はぷい、とそっぽを向いた。小田桐はまだちょっと怪訝な顔をしていたが、中堂に喋る気がないらしいことを悟って離れて行った。やれやれ、と首を振っていると、ふっと神谷のことが思い出される。


(そう言えば、あの人はここの冷蔵庫の中身なんて見なかったな……)

 神谷に何を食べたいのか、と尋ねれば「何でも良いよ」と言って、中身を問うことさえしなかった。自宅でも冷蔵庫の中身を把握していたか怪しい。全て妻か、雇い人にでもやらせていたんじゃないか。

 ここでもそうだ。中堂が起きるまで絶対自分から下に降りようとはしなかった。中堂が動けるようになって、「何か食べましょうか」と言うまでずっとベッドにいた。

(本当に興味がなかったのか)

 顔と、身体にしか。いや、その両方にも興味があったか、今となってはわからない。家を一軒買い与えるくらいなんだから、感情はあったのではないか、と思いたい気持ちがないでもない。

 けれど、小田桐を気に入ったか──恐らくセックスの相手として──という趣旨のメッセージを中堂が無視してから、一切連絡はない。そろそろ一ヶ月が経とうとしている。

(私はあの人にとって何だったのか)

 きみは美しいね、と言って、慈しむように目を細めて笑ったのは何だったのか。身体を重ねる最中に、幾度も口付けをしたのは何だったのか。

(そうか……)

 目を閉じる。冷蔵庫に、再び額を付けた。

 初めて、悲しいと感じた。悲しい。寂しい。神谷がいなくなったのが堪えると、中堂は自覚した。

(入れ込んでいたのは私の方か)

 言うなれば、中堂の方は神谷のことをひっそりと愛していたのかもしれない。道を外した気持ちであったとしても。初めはただの助平ジジイだと思っていたけれど。慈しむあの目に、頬を撫でる手に、何か自分は勘違いをしていたのかも知れない。

 今、小田桐に口を酸っぱくして言っている、「何でも良いが一番困る」も、神谷にはついぞ言ったことがなかった。自分は神谷に対して盲目的だったのかもしれない。

(馬鹿みたいじゃないか)

 馬鹿みたいだ。家一軒、向こうからしたら端金のようなものだったのに。それをもらったからって舞い上がったりなんかして、自分は他の愛人と違うなどと斜に構えたりなんかして。自分は男だからと。いや、多分、神谷からしたら男も女も関係なかったのだろう。

(なんて恥ずかしい)

 出張先で買ったんだけど、一緒にどうかな。そう言って彼が土産を持ってきて、それを一緒に食べる時間が、自分にとって大切なものだったのに。ちょっと何か食べたいな、君もどうかな。事後出て行く前に何か軽いものを一緒に食べるのが、自分にとって大切なものだったのに。

 彼はそうじゃなかったのか。

(馬鹿みたいじゃないか)

 馬鹿だった。


 小田桐は戻ってこないだろう。こちらの機嫌を損ねたと思ったら、ほとぼりが冷めるまで彼は近寄らない。その気遣いが、今はありがたいと同時に寂しくもあった。あの腕に抱いて欲しい。こんな冷たい床の台所で、一人で泣くというのはあまりにも自分が惨めに感じられた。

(また入れ込むつもりか、私は)

 彼もまた、いつかいなくなる。それを考えると、今、寂しいから抱きしめて欲しいとは言えなかった。

 言うべきではないと思った。


「花粉症ですか?」

「秋でしょ」

 風呂のために再び降りてきた小田桐が、中堂の目が赤いのを見て尋ねた。季節外れにも感じる単語に、怪訝に思って言い返す。

「いえ、秋でも花粉症出る人いますよ。うちの職場の人も、『年取ってから年中花粉症なんだよね』って言いながらくしゃみしてます」

「おいくつですかその人」

「32歳です」

「連れてらっしゃい、張り倒して差し上げます」

 泣いていたことはバレていないらしいと、ほっと息を吐く。同時に、どうして気付いてくれないのか、と相反する腹立たしさもあった。とは言え、中堂に騙されて寝室まで連れて行かれるような鈍感男に、そんな察しの良さを求めても仕方のないことではあった。

「続くようなら受診した方が良いですよ」

「病院勤めらしいこと言いますね……」

「風邪かもしれないし、この季節だとインフルかもしれないので」

「ああ……うつされたら困るってことね」

「心配してるんですよ。何か、ありました? ピリピリしてませんか? 具合悪いですか?」

 こいつ、何でもかんでも病気に結びつけやがる。そうじゃない。そうじゃないんだ。私の涙は。

 察して欲しい一方で、小田桐に何もかも見抜かれるのも癪だ。そんな二律背反が、余計に中堂の苛立ちを煽った。

「何でもありませんよ。洗剤が目に入ったのかも」

「洗いましょう」

「自分でやるから構わないでください」

 冷たくはね除けると、小田桐はすごすごと引き下がった。叱られた犬みたいだ。うん、犬だ。中型犬。大型犬にしては愛想が足りない。

「お風呂頂きます」

「どうぞ」

 小田桐が廊下の奥に消えるのを見届ける。

 一気に虚しくなって、中堂はその場でうなだれた。

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