氷点の水底で過ごす

第6話 生姜焼きと豚汁

「よくよく考えると、他人がずっと家にいるって初めてなんですよね」

 奇妙な同居生活が始まって二週間ほど経ったある日、夕食を食べながら、中堂はぽつりとそんなことを呟いた。今日の夕食は豚の生姜焼き。小田桐は考えるように目を瞬かせてから、納得した顔になる。

「ああ」

 愛人業をしていた中堂は、彼をここに置いていた神谷が来なければ独り暮らしだ。

「そうですよね」

「君は実家だからこの面倒くささがわからないでしょうけど」

「その実家だから実家だからって、やめてもらえませんか。中堂さんだって元はご実家でしょう」

「そうとも言いますね」

 尤も、社会人になって少ししてから独り暮らしを始めた。だから、中堂の両親は息子が15歳も年上の男に家をもらって抱かれていたなんてことは露ほども知らないのである。

「休みの日は作りますよ」

 小田桐は少し気まずそうな顔をした。

「ゆくゆくはしていただけるとありがたいですが、君、料理できるんですか?」

 中堂も最初は料理があまり得意ではなかったが、外食や中食をしていると、あまりにも金が掛かるので自炊した。神谷は食費が掛かることについては何も言わなかった。多分、どうでも良かったんだと思う。そう言うことで、ついこの前まで実家で暮らしていた27歳の男に料理ができるとはとても思えなかった。

「一応」

「どれくらい? 得意料理は?」

「両親共働きだったんで割と作ります。豚汁得意ですよ」

 それを聞いて、中堂は鼻で笑った。

「切って煮込むだけじゃないですか」

「そうかもしれませんけど、具だくさんだから切るのが大変なんですよ……中堂さんの得意料理はなんなんですか?」

「ハンバーグです」

「丸めて焼くだけじゃないですか」

「生で食べるんですか? 失礼ですね、焼くんですよ。それに、玉ねぎを刻むんですから。目に染みるじゃないですか」

「こっちだって長ねぎ切るんですよ」

「長ねぎって、別に玉ねぎほど染みないでしょ。どうせ斜めに切るだけだし」

 そこまで言い切ってから、子供じみたやりとりであることに気付いて首を横に振った。

「子供と話すとこれだから……」

「アラサーですよ」

「子供でしょ。三十までは子供です」

「子供と寝るんですかあんたって人は」

 小田桐は呆れた顔になった。

「法的には大人だから問題ありません。私から見てまだまだ子供ってことです」

「屁理屈……あ、そうだ。来月給料入ったら、生活費もお支払いしますね」

 小田桐は実家に入れていたらしい金額を告げた。思ったよりも高額で、中堂は驚いて手が止まる。

「ありがとうございます」

 だが、彼のやることで驚くのは癪に障るので、あくまで表面上はしれっと流した。さも当然であるかのように。そう、女王様の様に振る舞おう。

「褒めてあげましょう」

「はあ……」

 生姜焼きをおかずに、白米を食べ続ける小田桐。市販の生姜焼き調味料を使った今日の夕飯は、ご飯にとても合う。困ったら豚肉さえあればとりあえずどうにかなるので、常備している調味料の一つだった。

 豚肉は良い。まあまあ安い、美味い、大抵の調味料に合う。最悪焼いて塩を振っても良いのだ。こんがり焼いた豚肉に塩を振って白米に乗せたものの、なんと美味いものか。豚バラを、脂身に焼き目を付けて塩を振り、炊きたての白米を巻いて食べる。脂身の甘味に塩が溶け込んで、白米の味を引き立てる。ご飯には味が付いているのだと。ただの炭水化物の塊ではないのだと、味覚と脳に刻みつける組み合わせだ。

 まずい、食べたくなってきた。塩分と脂質の取り過ぎが気になる年齢であると言うのに。話題を変えよう。

「中国の詩人、蘇東坡は安い豚バラを美味しく調理したと詩に書いたそうで、それが中華料理のトンポーローです。つまり豚は万能の肉です」

 豚の角煮が食べたくなっただけだった。

「はあ……」

「君は何肉が好きですか?」

「牛ですかね」

「それじゃ、今度ハンバーグ食べさせてあげますよ。楽しみに待っていなさい」

 身を乗り出して顔を近づけた。

「きっと君は好きですよ」

 自分たちは食べ物の好みが近いから。前にそう言われたことを思い出したのか、小田桐も少しばかり挑発するような顔になり、

「じゃあ、中堂さんも俺の豚汁好きですね」

「俺の豚汁って、もう少しワード選んでください」

「何でもかんでもシモの方に持って行くのやめてください」

「私たちの間にはそれしかないでしょ」

 そう。自分たちの間にはそれしかない。身体を重ねて楽しむことだけ。なおもお行儀良く嫌そうな顔をしている小田桐に、身を乗り出して囁く。

「今そんなに澄ましてたって、あなた、自分があの時どんな顔してるか、知らないでしょ」

 それを言われると小田桐は弱いと言うことを中堂は知っている。身体の関係を持つにあたって、小田桐はいわゆる「タチ」側、つまり挿入する側である。これは中堂の「愛人業」が、ずっと抱かれる側だった事に起因しているが、半分くらいは、文句を言いにくいだろうという計算もあった。あなただって結局は私の身体で良い思いしてるじゃないですか、と。

 もっとも、本来ならば、どちら側だろうと性行為を無理強いされたら、それは性暴力を受けたと言うことになるのだが。

「でも、私はあの顔好きですよ」

「そうですか……」

 いまいち釈然としていないような顔だ。この流れなら、「今日教えてあげますよ」と言いたいところだが……明日は出勤だった筈なので、今日はベッドに誘えない。

 中堂の気が向いた時にベッドの相手をする。そう言う約束を交わして、小田桐はここに住んでいる。けれど、病院薬剤師の小田桐は、仕事に差し支えがあるからと、休みの前の日、あるいは休みの日中にしてほしいと言った。中堂もそれを了承した。医療職に何かあって責任を問われてはたまったものではない。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

「美味しかったです」

「そりゃ、出来合いの調味料使ってますからね」

「そうじゃなくて……」

 小田桐は何か言いかけて、やめた。一緒に皿を下げに行き、シンクで並んで軽く水で汚れを流す。

「洗い物はしますよ。君はお風呂に入って寝なさい」

「ありがとうございます」

「ああ、でもその前に……」

 中堂は手を拭く小田桐に口づけた。

「ごちそうさま」

「お、お粗末様でした……?」

「粗末だなんてそんな。私は君の身体を気に入りましたと言うのに」

 もう一つ、口付け。小田桐はまるで、子供が顔を擦られたような顔をしている。中堂は歯を見せて笑った。

「可愛いですよ。ああ、そうだ可愛いついでに。君、職場にお弁当とか持って行きませんか? 炊いたご飯が半端に余ってるんですよ。生姜焼きも残ってますし」

 若い男は山ほど肉と米を食べるだろう、という偏見のもと、多めに作ったのだが、小田桐が予想より食べなかったのだ。気を遣ったと思われるのも癪だったので言わなかったが。

「良いんですか?」

「野菜はありませんよ」

「サラダは買います。わあ、嬉しいな……ありがとうございます」

 小田桐は目に見えて喜んだ。ここに来て初めて喜んだ気がする。それまでの間、何も喜ぶことがなかったのか……と思うと、えも言われぬ感情が浮かんでくるが、それを押し込めた。中堂が喜ばせるどころか嫌がらせのつもりで色々していたのだから当然である。

「とりあえず明日はタッパーで良いですか? お弁当箱が要りますね」

「何でも良いです。お弁当箱は明日買ってきます」

「何でも良いが一番困るんですよ」

「それ、持ちネタですか?」

「君、繊細そうに見えてたまにすごく失礼なことを言いますよね」

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