第9章

 こうして、年も明けて、私はこの村を離れて王都のルキーノの実家のルッソ家へ移り住まなければならない刻限も、もう来月にと迫っていました。

 そんな満月の夜のことです。私は庭に出て、入り口の門の方を向いて立っていました。かなり冷え込んでいる夜だったのですが、風もないので不思議と寒さは感じません。

 その門のところに、人影がありました。こちらを向いて立っています。月の光を背にシルエットとなっているその人影は、見慣れた輪郭でした。まるで影だけがそこに存在しているようです。

 その人影は、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきました。足が悪いようで、短い杖をついてびっこを引いています。足音も聞こえません。気がつけば、すべての世界の音が消えてしまっているようです。

 ――ルキーノ!……

 私は心の中で呟きました。私のすぐそばまで来るとその人影から、やっと声が聞こえました。

「ティツィアーナ」

 まぎれもなく、ルキーノの声でした。近くに来て初めて彼がボロボロの軍服を着ていることを知りました。そして彼は両腕を上げて、私を包み込むように抱擁してくれました。

 そのまましばらく私たちは、万感の思いを込めて抱擁を続けました。静寂の中で、時間さえ流れているのかどうか分かりません。

 そして少し体を離して、私は彼の顔を見ようとしました。月の光を背にしているのでよく見えませんが、伸びた髪は乱れてあの端正な顔立ちではなくなっているようです。

 もう一度彼は、私を抱きしめました。

 ――冷たい体……

 でも彼の体には、冷たいながらもまぎれもなく生きている人間のぬくもりが感じられました。幻などではありません。今、彼が私を抱きしめているというのは現実です。

 背後で足音がします。お屋敷の玄関から父と母が駆けだしてきました。

「おお、やっぱり、ルキーノ君ではないか」

 彼は抱きしめていた私を放して、私の両親の方を見ました。そして父と手を取り合っています。

「遅まきながら、戻ってまいりました」

 弱々しく、彼はつぶやきました。

「ティツィアーナが慌てて階段を下りていく足音がしたので、何があったのかと思って出てきてみたら……」

 たしかに私はぼんやりと外を見ていたら、門のところに人影があって……そしてそれがまぎれもなくルキーノだと分かったので、とにかく急いで出てきたのです。

「まあまあ、さあ早くお部屋の中へ。寒いでしょう」

 母に促されて、ルキーノは私たちと一緒に玄関に入りました。

 まずは応接間に通して、父がろうそくに灯りをともしました。ろうそくの光の中で見る彼は、やつれていました。あの端正な、ウニベルシタスのエリート学生の雰囲気は全くなくなっていました。どこか野性的な、研ぎ澄まされた感性を持つ野人へと変貌していたのです。

「お腹減ったでしょう? スープの残りがあったわ。今日は金曜の小斎アスティネンツァだから、お肉は入っていないけど」

 母は台所に向かいました。まきをくべて火をつければ、コーンのスープはすぐに温まります。それと、いくつかのパンを持って戻ってくるまでの間、父が彼からいろいろな情報を聞いていました。私は黙ってそれを聞いていました。この一年と数か月もの間、待ちに待ったその日、その瞬間が今日訪れたのです。

 でも、それにしてはどこか冷めていました。やはり実感がわかないのです。まだ、夢を見ているのではないかという気さえします。


 実は、彼が今日戻ってくるであろうことは、私たちには予想はついていました。

 昨日、戦争に行っていた若者が三人ほどこの村に戻ってきたのです。村中大騒ぎで、どうして今頃になってやっと戻ってこられたのかについては、彼らが語る話が村中にものすごい速さで伝わりました。ルキーノだけではなく、この村から戦争に駆り出されてまだ戻ってきていない家族がいる家にはすべてそのことは知らされました。もちろん、このお屋敷にも知らせに来てくれた人がいます。

 やはり、この日戻ってきた人たちは敵の捕虜になっていたそうです。敵といってもその反乱軍の首領だった人が今では国王です。前の王様の軍隊の兵隊さんたちはみんな新しい王様に逆らったものとして捕虜になり、ずっと北の方の山の中へ連れて行かれて、そこで砦を築く仕事をさせられていたということです。

 そしてクリスマスナターレに当たって捕虜は釈放されましたが、年も明けた今頃になってようやく村にたどり着いたということでした。

 でも、ルキーノはその日のうちには戻ってきませんでした。捕虜になったのはあくまで生き残った兵士たちで、多くは戦死したとも伝えられています。でも、翌日、つまり今日の昼間、また新たに二人の若者が戻って来て、そのうちの一人の話を聞いてわざわざお屋敷に知らせに来てくれた人がいました。

 彼らは釈放された時点で、ルキーノと一緒だったというのです。でもルキーノは足を負傷しており、彼らと同じ速さでは歩けず、到着は夜になってからだろうという情報でした。これで、ルキーノが戦死していないということは確定されました。あとは帰りを待つだけです。

 こうして自分の部屋からずっと門を見つめてルキーノが帰ってくるのを待っていた私は、夜も更けてからついに彼の姿をとらえたのでした。

 そして今、彼は私の目の前にいます。母がパンと温めたスープを持って戻ってきました。彼はむさぼるようにそれを口に運んでいました。その間、話しかけることもできないような勢いでした。彼がようやく食べ終えた後、二階の私の部屋からけたたましい泣き声が聞こえました。寝かしつけていたはずのジュゼッペが目を覚ましてしまったようです。

 私は慌てて二階にあがりました。そしてしばらくあやして泣き終わったところで、そのままジュゼッペを抱いて応接室まで暗い階段を降りました。

 その私を見て、ルキーノは不思議そうな顔をしています。私はまず私の腕の中のジュゼッペを何度も指差し、それからルキーノを指差しました。

「ルキーノ君、君の子供だよ」

 代わりに父が説明してくれました。

「君が戦争に行ってすぐ後に身ごもっていることが分かってね」

「たった数日一緒に過ごしただけで身ごもるなんて、まさに神様からのプレゼントだわ」

 母も、私が常日頃思っていたことを代弁してくれました。

 すぐに立ち上がったルキーノは、それでもきょとんとしています。彼にとっては自分の子供が生まれているなんて、全くの想定外の出来事だったのでしょう。感動とかよりもとにかく驚きの方が勝っていることはひしひしと伝わってきます。

「私の……子供? 本当に?」

「うそを言ってどうするのだね」

 父は笑っていました。

「抱いてあげて」

 母がそう言うので、私は泣きやんでまた眠り始めたジュゼッペを、そっとルキーノに渡しました。慣れない危なっかしい手つきでルキーノはジュゼッペを抱きます。

「私に子供がいたなんて……」

「驚いただろう」

「はい」

 やはり、喜びよりもまだ驚きの方が彼の中の多くを占領しているようです。そのジュゼッペの顔を、ルキーノはじっとのぞきこんでいます。

「たしかに、ティツィアーナにはそっくりだ。でも、私には?」

「残念ながら男の子だけあって母親似だな。女の子だったら父親似の場合も多いんだけどね」

 私の父はそう説明していましたけれど、やはりまだジュゼッペは首をかしげていました。よほど衝撃だったのでしょう。

「そうですか」

 彼がそれだけ呟いた時、ジュゼッペはまた火がついたように泣きはじめました。もうそろそろ人見知りが始まるころです。ルキーノの慣れない手つきでの抱っこでは当然の結果のような気がして、私は微笑みながらジュゼッペを受け取りました。すると、ジュゼッペはすぐ泣きやみました。

「私ではだめなのか」

 ルキーノのその言葉を冗談ととらえた父も母も大笑いしていましたけれど、ルキーノだけは真顔でした。

「さ、とにかく今日は疲れたでしょうから休んで、明日詳しい話をしましょう」

 母がそう言うので、私はルキーノを促して、二階の部屋に上がりました。今日、もう彼が戻ってくるらしいことは分かっていただけに、私のベッドで一緒に寝ていた母はすでに父といっしょの部屋へと移っています。

 二階に上がると、母の言葉通りによほどルキーノは疲れていたらしく、死んだように眠りました。私もその隣でベッドに入りましたけれど、ルキーノの兵営の臭いそのままの体に妙な気分となり、いつまでも眠れませんでした。


 翌朝、ルキーノはなかなか起きないので私は先に起き、しばらくして起きてきたルキーノに、まずは体を洗うように身振りで示しました。

 ジュゼッペはもうお座りができるようになってはいましたが、長時間一人でお座りというのはまだ無理なようです。

 お湯浴びして出てきたルキーノは昨日に比べたら少し小ざっぱりとはしましたが、やはり以前とは何か違います。どうも違和感を覚えるのです。以前はもっとにこやかな人だと思っていました。それが朝起きてから、お湯浴びから帰って来てからも、ほとんど笑わないのです。にこりともしません。冷たい態度というのとも違います。常に野性的感性を尖らせて何かを警戒している、それでいて何かに脅えているという様子さえ見受けられます。髪が伸びたせいでしょうか。それでも少しは懐かしそうに、窓の外を眺めています。以前は私といる時は常に私に何か話しかけてくれているという感じでしたけれど、今は二人の間には沈黙しか流れていません。

 私はペンを走らせました。

 ――お帰りなさい。ご苦労様でした。

 私は立ちあがって、窓際のルキーノのところまで歩き、やはり立っているルキーノにその紙を示しました。

「苦労をかけたな」

 彼は、それだけを言いました。

 またジュゼッペがベッドの上で転がり始めたので、私は飛んで行って落ちないようにジュゼッペを押さえました。

「詳しいことは、またあとで話すよ」

 そこで私はふと思い出しました。お義父とうさんとの約束です。

 ――あなたのお父さんとのお約束で、あなたが戻って来たらすぐに、王都のあなたの家に住むことになっています。

 それをさっと見て、ルキーノは目を伏せました。

「そうだな。それがいい。でも、私がいない間にいろいろなことが動いていたのだな」

 ルキーノは苦笑しているようです。どうにも違和感はぬぐえません。本当にルキーノなのかと疑問に思ったりします。なんだか別人のような気がして仕方ありません。

 それから後も、ほとんど沈黙の中で時を過ごしました。

 さらには、気がついたことがあります。ルキーノはジュゼッペに、全くといっていいほど関心を示さないのです。同じ部屋にいる我が子に話しかけるでもなく、あやすでもなく、抱っこしようでもなく、見もしないという感じなのです。

 そのうち、母が食事だと呼びに来ました。

 もう太陽も中天近くまで上がって、一日二回の食事のうちの午前の食事の時間です。昨日は夜遅くにルキーノは到着したので、簡単なスープとパンのみ彼には食べてもらいました。そこで、今は母が一人で作るには大変だったでしょうけれど、かなりのごちそうが並んでいます。

「まずはルキーノ君の無事帰還を祝い、これまでのご苦労をねぎらって」

 父がワインのグラスを高く上げて、皆で乾杯しました。この日は私も少しだけ、ワインをいただきました。もっとも、もともと虚弱体質の私ですからたくさんは飲めません。ちょっとなめる程度です。

 そして食事をしながら、父がルキーノに話題を振りました。

「時に捕虜になっていたとのことだったけれど」

「はい、辺境のアルピの山の中に砦を築きに行かされていました」

「それは大変だったね」

 さすがに父に対しては邪険に応えることもできずにいるようですけれど、それでも口数は多くありませんでした。

「はい。そこでは、人間扱いはされていませんでした。なんだかこんなごちそうを頂いて、やっと人間に戻れたという感じです」

 そうは言いながらも、彼はやはり笑いもしません。いわゆる文字通りの筆舌に尽くし難い苦労を、彼はしてきたようです。

「砦を築くだけならいい。時々イズラーミコ系の異民族の襲来もありました。その時の戦いといえば……いや、この話は食事中はやめましょう」

 よほど残酷な話なのでしょう。そのあと彼はほとんど無言で食事をしていました。

 食事のあとのティータイムで、彼はようやく重い口を開きました。

「先ほども申しましたように、捕虜生活ではもはや人間扱いされていませんでした」

 彼がメインに話しかけているのは私の父にですが、私も母も同じ席で彼の話に耳を傾けます。

「宿舎は狭い部屋に何十人もが詰め込まれ、蒸し暑い中を体を接して藁の上で寝る始末です。囚人の牢獄の方が、まだ待遇はいいと言えるでしょう。食事も、あれは食事というよりも完全にでした」

 ルキーノは誰とも目を合わせず、うつむいたまま話し続けました。

「来る日も来る日も、炎天下での重労働です。休みの日などというのもありません。それで次々に病気や過労で死んで行く人も続出です」

 私たちは、誰も質問を挿むことすらできませんでした。

「死体が消えるのを目撃したもののうちの大半は、次に消えることになります」

 私も母も顔をしかめ、ずっと目をそらしていました。

「そんな時にイズラーミコの異民族が襲来するのです。そうなると我われは武器と鎧が渡され、作業員から一転して兵士にさせられるのですけど、普段の重労働でふらふらの体で戦っても勝ち目はありません。それはもう戦いというよりも殺戮でした。次々に仲間が首をねられ、胴を斬られ、血を噴き出して倒れていきます。死体が消えるのはそれからです。もう砦全体が血の海です。他の砦では、捕虜の作業員全員が殺されたというところもあったとのことです。こんな襲撃が月に一度はあるのです。最初の捕虜から、数はどんどん減っていきました。今回ナターレの特赦で解放されなかったら、我われも全員死んでいたでしょう」

 私はそこで手を合わせ、ルキーノが無事に助かって戻ってきたことへの感謝の祈りを無言で捧げました。

 午後、ルキーノと私はジュゼッペとともに私の部屋で過ごしました。いえ、私たちの部屋です。王都には知らせの手紙を送りましたから、ルキーノの両親はすぐにこちらに向かってくるでしょう。そうなるとこの部屋ともお別れです。ルキーノに、外を散歩しないか誘いましたけれど、彼は首を横に振りました。

「どうもまだ、この状態に慣れない。あまり外には行きたくない」

 彼が断った理由は、それだけでした。そしてたしかにこの部屋にいても落ち着かないらしく、彼は部屋の中をうろうろと歩きまわり続けていました。その様子は、相変わらず殺気だっています。私は何とか彼をベッドの脇の椅子に腰かけさせて、自分も近くの椅子に座ってまた彼の話を聞きました。ジュゼッペは眠っています。

「さっき、お義父とうさんたちには重労働の話をしたけれど、あれはもはや労働ではなかった」

 彼の目は遠くを見ているようです。

「罪を犯した囚人の服役の方がまだ楽だろう。我われは捕虜というよりも完全に奴隷だった。鞭で打たれ続け、怒鳴られ、殴る蹴るの暴行を受けながらの炎天下での重労働だよ。来る日も来る日もそんな毎日で、ひと夏が過ぎた。たくさんの人が死んだ。私が今こうして生きているのが不思議なくらいだ」

 私はどう答えたらいいか分からず、黙って聞いていました。

「常に死と隣合わせだったんだよ。尋常な精神では到底、耐えられるものじゃあない。だから……」

 彼は一度私を凝視して、それから目を伏せました。

「だから、私は自分が人間であることを捨てた。なまじっか人間であるという意識があるから、つらくて苦しくて心が張り裂けそうになって、壊れてしまう。だから、人間であることをやめた」

 人間をやめたら、何になるというのでしょう?……けものに? あるいは悪魔サタンに?……私は聞くに聞けずにいました。

「私だけでなく、あそこにいた人たちは皆そうだったと思う。人間でいたらやっていかれない世界。そして異民族が襲ってきた時も、私たちは兵士として戦ったのではない。さっき、お義父とうさんには仲間が首をねられ、胴を斬られ、血を噴き出して倒れたことばかり話したけれど、虐殺に近かったなどと言ったけれど、本当は人間としての意識なしに我われは戦った。首をねられ、胴を斬られ、血を噴き出して倒れたのは仲間だけではない。敵もだ。ったのは私たちだ。私も、私もこの手で」

 ルキーノは自分の両手の掌を自分の方へ向けて開き、それを大きく見ひらいた血が滴るような眼で睨みつけました。

「この手で何人の敵を殺してきたか分からない。この手は血で穢れている。首もねた。胴も斬った。そして倒した。何人も何人も何人も殺した! 自分を人間とは思っていなかっただけでなく、相手のことももう人間とは思っていなかった。だからほかの砦はいざ知らず、私たちの砦は襲われるたびに敵を半分は殲滅し半分は追い返した」

 ルキーノは、がっくりと肩を落としました。私は目が熱くなり、さらに熱いものがこみ上げてきました。なんと言葉をかけてあげたらいいのだろう……分からない。それでも一応、私は紙を用意してペンを持ちました。ところがルキーノは私の手からそのペンを荒々しく取り上げ、紙をくしゃくしゃに握りました。

「こんな紙切れじゃないんだよ、私がほしいのは! ティツィアーナ! 君の口から、直接私に労いの言葉を掛けてくれ。あるいは口汚くののしってもいい。とにかく、君の声がほしい!」

 そんなこと言われても無理なことは、ルキーナも分かっているはずです。私の目からは、さらに熱い涙がとめどなく流れ落ちました。

「ごめん……無理だよな。分かっているのに……」

 ルキーノは自分の顔を覆って力を落としています。私は背後に回って、そっとその肩を包み込むように抱きしめました。

 彼の話だと、とても人間扱いされていなかったような過酷な日々の中にいたようです。それがいきなり解き放たれて、戸惑っているのでしょう。

 ここは鞭の音も響かない、重労働もない、異民族も攻めてこない、彼がいた場所から考えると天国だと思いますが、地獄の亡者をいきなり天国に連れていったらそれは戸惑うでしょう。彼は人間性を失った、いや、自ら封じ込めたと自分では言っていましたけど、その失った人間性を取り戻すにはやはり時間がかかるのでしょうか。

 私は新しい紙を用意して、ペンを走らせました。

 ――明日は日曜日です。教会に行きましょう。そして祈りましょう。イエズス様は総ての罪びとを招いています。主に祈りましょう。

 ルキーノは、力なくうなずきました。


 翌朝、空はよく晴れていました。私は両親とともにジュゼッペを抱き、さらにルキーノも一緒に外へ出ました。太陽の光は降り注いでいても、まだ風は冷たいころです。

 教会は歩いてもすぐの場所です。ルキーノのご両親が迎えに来たら、今週にでも私たちは王都に移り住むかもしれません。そうなると、この教会で御ミサにあずかるのはこれで最後かもしれないのです。ご両親は早ければ今日、遅くても明日にはこの村に来られるでしょう。

 驚いたことに、今回捕虜から解放されてこの村に戻った五人が全員、御ミサには参列していました。自分の意志で来たというよりも、皆家族に連れられてという感じです。生気を失い、死んだ魚のような眼をして、殺気立っている様子はルキーノと大同小異です。ルキーノの話通り、やはりみんな人間性を失っているのでしょうか。

 そのお互いは顔を合わせると軽く目であいさつしたくらいで、そのあとは近づいていくどころか顔を見ようともしません。ましてや話をしようなどというそぶりは全くありませんでした。一年の間苦労を共にしてきた間柄としては、互いに冷淡すぎるような気がします。でも、昨日のルキーノの話から考えると、仕方がないことかもしれません。

 御聖堂おみどうではルキーノと私の父が並び、母は女性だけの列にいます。私はジュゼッペを抱いて、俗に「泣き部屋」という少し隔離された乳幼児連れ専用の小部屋にいました。周りはみんな小さな子供ばかりで、毎週顔を合わせているうちに親しくなった人もいます。教会に来れば元領主の姪も農夫の妻も関係ありません。皆、主の御前では平等なのです。

 今日の御ミサは「主の洗礼の祝日バッテージモ・デル・シニョーレ」のミサです。その中の言葉の典礼における『旧約聖書』の朗読は、今日は「イザヤ書」でした。「神」に見捨てられていると嘆く民にも、預言者は力強いメッセージを伝えます。

「耳を傾け、我に来たりて聞け。汝等の魂は活くべし。我また汝等と永遠の契約をなして、ダビデに約せし変わらざる惠みを与えん」

 今、精神的にどん底にいるルキーノの耳にそのみ言葉はどう聞こえていたのか、私はちょっぴり気になっていました。

「悪しきものはそのみちを捨て、よこしまなる人はその思念をすてて主に返れ。さらば憐憫を施し給わん。我等の神に返れ。豊かにゆるしを与え給わん」

 御ミサが終わって一家が合流した時、ルキーノは何だかそわそわしていました。

「申し訳ないが、神父様と話をしてきます」

 私にはすぐ分かりました。神父様と話をするといっても、今のルキーノは帰還のあいさつや世間話などをしに行こうなどと考えるような状況ではないことは分かっています。そうなると、罪を告白してのゆるしの秘跡=告解ペニテンザを受けに行くに違いありません。

 ところが、ルキーノはすぐに戻ってきました。

「今日はこれから結婚式があるのでだめだそうです」

 父は首をかしげていました。

「この村で今日結婚式を挙げる予定の人などいないはずだが……と、いうことはよその村か」

 おそらくその村の神父様に急な用事かあるいは事情ができて結婚式を挙げることができなくなったので、延期を望まない新郎か新婦かが無理を言ってこの教会で挙式ということになったのでしょう。

「ま、少し見て行こうか。君たちが結婚式を挙げたのもここだし、あのころを思い出してルキーノ君の気持ちも少し晴れるかもしれない」

 父がそう言うので、私たちは外に出て結婚式が始まるのを待ちました。

 私たちの時と同じように、まずは御聖堂おみどうの入り口前の広場で式は執り行われます。教会前の広場は一応親族など関係者ですが、私たちの時もその周辺に一般の村人も多数押し寄せて共に祝福してくれたものです。

 今回のカップルはよその村の人というだけに、下手したら関係者だけになってしまいかねないし、それでは寂しいだろうという父の配慮もあったようです。たしかに、広場の周辺で式が始まるのを待っている村人は数えるほどしかいませんでした。誰がここでこれから式を挙げるのかも知らないような人たちばかりで、みんな暇つぶしか話のタネにくらいの気持ちで来ているようです。

 父はその中の一人に、ここでの挙式のいきさつとかを聞いていました。

「いやあ、あの村の神父様、今日の御ミサの後に挙式だっていうのに、御ミサが終わったら即行で王都に来るようにと司教座の方から昨日の夜になって連絡があったとかで、それで急遽この村の教会でってことになったんでさ」

 そのかたが言うことによると、父の推測が当たっていたことになります。

 やがてだんだんと親族の方たちも到着し、広場を埋め尽くして、最後に新郎、新婦の登場です。すでに教会の入り口前には仮の祭壇が設けられ、神父様が待機しています。

 しばらくして、馬車が着きました。馬車は二台。先頭が新郎の馬車、二台目が新婦の馬車でしょう。私たちの時は同じ家から一つの馬車でともにこの教会に来たのですから、だいぶ型破りだったようです。

 果たして最初に着いた馬車から降りてきたのは、赤系統の衣装をつけた新郎でした。続いてその両親が降りてきます。

 その時、ジュゼッペが少しぐずったので、私は軽くゆすってあやしながら、近くの木の周りを少し歩きまわっていました。

「ティツィアーナ、見て。お嫁さん、きれい」

 母が呼ぶので私は両親やルキーノのそばに戻り、次の馬車から今ちょうど降りてきたばかりの新婦さんを見ました。私の時と同じような赤いドレスに、見事な宝石の冠をかぶっています。それが太陽の光を反射させてキラキラと光り、とてもきれいです。

 ご両親とともに正面から教会の入り口に近づくお嫁さん。教会の入り口では新郎が花嫁を迎えるべく立っていま……え? え? え? え? え? え!

 私は全身が硬直し、あわやジュゼッペを落としそうにさえなりました。顔から血の気がサーっと引いて行くのが、自分でも分かるくらいでした。

 さっき馬車から降りてきたばかりの時は遠目だったのでよく分からなかったのですが、この新郎って……そんな……まさか……。

 こんなことが世の中にあるのでしょうか! 私はおぞましいものを見たかのように、慌てて眼をそらしました。めまいがして、吐き気さえ感じます。

 あの男……思い出したくもない……いえ、私の記憶の中ではとうに抹消していたはずのあの出来事……その当事者が教会の前にいる……。

 他人の空似と思いたい。でも、あの顔とクマのような大きな体格を見て、消し去ったはずの過去が生々しく甦ってしまったのです。

 私は母の袖を引き、自分のお屋敷のほうを顎でしゃくりました。

 ――帰りましょう!

 私は必死でそう訴えたつもりでした。でも、いつもならすぐに私が言いたいことを察してくれるはずの母なのに、今日ばかりは首をかしげています。

「具合でも悪いのか?」

 父もうそう聞いてきますので、私は大きくうなずきました。

 次の瞬間、他人の空似であってほしいという私の期待は打ち砕かれました。

 私たちが広場を取り囲むスペースでもわりと教会の入り口に近い方にいたので、新郎の立ち位置からは至近距離でした。そこで私が帰るの帰らないのと身振りで意思を伝えようとして、両親がそれに対してあれこれ言うので、何かもめていると思ったのでしょう。新郎がちらりとこちらを見ました。

 私は目をそらしたまま帰りたかったのですが、本当にどうしてなのか、その時ちらりと新郎の姿を、ほんの一瞬だけですが再び見てしまったのです。

 新郎の顔はまさしくメドゥーザの目、私の全身をまた石に変えてしまいました。でも、そのメドゥーザの目はそのまま反射したかのように、新郎をも石にしてしまっていました。

 私の顔を一目見た男は、目を見ひらき、あっという間に真っ青な顔になり、はっきりと手が震えているのさえ分かりました。さらには私の腕の中のジュゼッペをも見て、ますます口を開けて今度は全身が小刻みに震えはじめたのです。

 こうなるともう、他人の空似ではありません。とにかく私は母の腕を引っ張って、屋敷の方へと歩き出しました。

 私はそのまま、ベッドに横になりました。もう、ルキーノの心をなんとかしてあげようなどという余裕はなく、逆にルキーノの方が驚いて私に付き添って看病してくれました。

「大丈夫かい。しばらく休むがいい」

 ほんの少し、かつての優しかった頃の彼が戻ってきたような気がしました。でも、本当にそんなことを気にしているような状態ではなかったのです。私は布団をかぶって、とにかく震えていました。


 その日の夕食も、私は食べる気はしませんでした。

 私は悪魔を見てしまった……

 震えが止まりません。

 もう、外はすっかり暗くなっていました。両親とルキーノは、下の食堂で夕食をとっていることでしょう。三人がどのような話をしているのか想像もできませんし、そんな気力もありませんでした。父も母もあの新郎のことは知らないはずですから、私にとってまずい話にはなっていないと思います。

 その時、窓の外で音がしました。

 私が恐る恐る布団から顔を出して見ると、月明かりを背に、はっきりと黒い影が窓の外にありました。

 ここは二階です。どうやって二階の窓の外に来たのかと思いましたが、すぐそばに木があってちょうど窓の近くまで太い枝が伸びているので、身の軽いものならそれを伝わって窓の外に飛び移ってくることは可能でしょう。

 私は恐怖に全身が硬直しましたけれど、叫び声を上げることが来ません。部屋の中は暗くてよく見えず、窓からさす月の明かりだけが頼りです。

「お久しぶりですね。領主様の姪御さん。いや、もうあの爺さんは領主ではないのだから、あんたもただの金持ちの娘だな」

 その声に、ますます私の体は凍りつきました。

 そして窓からその人影は部屋に入り込み、私のベッドのすぐそばに立っています。

 それは……今日、教会で結婚式を挙げていた新郎です。ということはつまり……あの男です。もう存在自体が疎ましい悪魔……私の記憶からは抹消していたはずの悪魔……それが同じ部屋の目の前にいるのです。

 私は思い切り悲鳴を上げようとしましたけれど、喉は息を吐き出すだけで、何の音声も出すことはできませんでした。

 男は今ごろ、婚礼の宴のはずです。そこをどうにしかして抜け出してきたのでしょうか。たしかにお酒臭い息を吐いています。

 私はベッドから飛び降りて、壁伝いに後ずさりしました。でも、そんな広い部屋ではありません。すぐに追いつかれて迫ってこられました。

「もう二度とかかわらなくていいと思っていたんだよ。でも、俺、見ちまった。あんた、子供を抱いていたよな。あれはあんたの子か?」

 私はこわごわと、ゆっくりうなずきました。

「そっか。父親は誰なんだ?」

 私ははっとしました。

 この男は、私が結婚していることを知らないようです。無理もありません。婿とりでもないのに結婚しても自分の両親の屋敷にそのまま住んでいる女なんて、普通はいないでしょうから。だから、まだこの家の娘としか思っていないようです。

「嫁入り前の娘に子供?」

 男は鼻で笑いました。

「あんた、俺とやった以外にもすぐに男と寝るんかい? 上品な顔して」

 私は首を何度も横に振りました。自分は結婚していると言いたかったのですけど、紙に物が書けるような状況ではありません。

「そうか、すると、まさか、あの子供は、俺の子供?」

 私はさらに激しく首を横に振りました。

「いや、そうだろう? 俺たち子供ができるようなことをやったんだから、俺の子供だろ? 困るんだよ。やっと嫁さんをもらえたその日に子供を抱いて俺の前に現れるなんて、何を考えているんだ?、嫌がらせか? 困るんだよ!」

 ジョゼッペがこの男の子供だなんて、今まで考えたこともありません。あってはならないことです。ジュゼッペはルキーノと私の子供なのです。

 でもこの男が言うことも可能性はゼロではないので余計に体が寒くなり、震えが止まらない……いえ! そんなことはない! 可能性はゼロです!

 私は心の中でそう叫んでいました。

「とにかくあの子供は、始末させてもらう。子供はどこだ?」

 どこだと言われても、私がベッドで少し休むと行った時からジュゼッペは母が連れて行ってしまっていました。今はそれが不幸中の幸いだったようです。

 男は手に、農作業用の鎌を持っていました。まさかその鎌でジュゼッペを殺しに来たのでしょうか……身の毛がよだつとはこのことです。でもここにジュゼッペがいない以上、その鎌の餌食になるのは……私?!

 その時、ドアが激しく開けられ、ろうそくを立てた燭台を持ったルキーノが飛び込んできました。

 燭台を床に置くと、私をかばうように私の前に立ちました。

「話はドアの外ですべて聞かせてもらった」

「お、おまえは何だ?」

「ティツィアーナの夫だ!」

「夫?」

 男が一瞬ひるんだすきに素早くルキーノは男に蹴りを入れ、男が振りかざす鎌をうまく避けて、背中に回ってその肩を打ち、すぐに右腕をねじあげてその手に持った鎌を床に落とさせました。

 そして片手で男の首根っこを押さえて床へとねじ伏せ、もう一方の手で素早く鎌を拾います。見事な身のこなしでした。

 でも、見事と思ったのはそこまでです。そのあとはもう、信じられない成り行きとなりました。

 ろうそくの光に照らされる中で、ルキーノによって振り下ろされた男の鎌で男の首が飛び、すごい勢いで血が噴き出したのです。ルキーノが飛び込んで来てからその出来事までほんの一、二分といってもいいでしょう。

 ルキーノの動きは実に素早く、無駄がなく、あっという間の戦闘でした。

 そんな瞬間的な、それでいて信じられないような出来事に私はもう恐怖も衝撃も感じないくらいに頭の中が真っ白になっていました。

 鈍い音がして、男の首のない胴体は床に倒れました。そしてすぐに、男の体は霧散して消えました。

 その時、騒ぎを聞いて父が上がってきました。

 そして血の海となっている床を見て目を見開いて立ちすくみ、しばらく茫然としていましたが、ゆっくりとルキーノを見ました。

「こ、これは、いったい……」

「クマを一頭、退治しておきました」

 悪びれもせずルキーノは言い放ち、そして私を見ました。

「そんなことより、ティツィアーナには聞きたいことがある」

 私は耳を疑いました。あの悪魔のような憎むべき男であれ、目の前で人が死んだのです。しかも、ただ死んだのではなく、殺したのはルキーノ。それなのに、それが「そんなこと」なのでしょうか?

 私は人が目の前で死ぬのを見たのは、ルキーノ達が戦争に連れて行かれる時に逃亡した村人を、軍人さんが斬り殺したのに続いて二度目です。あのときは衝撃を受けていたルキーノも、今は人を殺した張本人です。

 たしかにルキーノは戦場でたくさんの人を殺したと告白してくれました。でも、まさか、まさか私の目の前でルキーノが人を殺すなんて……。殺されたのがあんな憎んでも憎みきれない悪魔だったとはいえ、人の命には変わりありません。それを……。

 ルキーノが自分で言っていた通り、彼は人間であることを封じてしまったようです。今日、教会で少しは人間性を取り戻したのかと思ったのですが、また逆戻り……?

 私は衝撃のあまり倒れそうになりましたけれど、そのルキーノが怒りに満ちた目で私を見据えてくるのです。私は衝撃に加え、恐怖で全身が震えだしました。

「場所を変えよう」

 ルキーナに促され、私たちは階段を下りて応接室に向かいました。

 何も知らない母もジュゼッペを抱いて応接室に入ろうとしましたけど、入り口で父が止めました。

「私は入っちゃいけないんですの? でも、ジュゼッペがぐずっちゃって。私は食事の後片付けをしなくてはならないし」

「わかった。ジュゼッペをこっちに」

 父は、返り血を浴びて血みどろになっているルキーノの姿を、母には見せたくなかったのでしょう。

 何も知らないまま母は、あと片付けのために食堂に向かいました。

 私は父からジュゼッペを受け取りました。ソファーに座るや否や、ルキーノは私をじっと見ました。

「さっきのあの男が言っていたことだけどね。どういうことなのか説明してもらおうか」

「その前に」

 父がルキーノに向かって、言葉を挟みます。

「二階で起きたことの方を先に説明してくれ」

「あの男は、窓から侵入してティツィアーナを襲おうとしていました。殺されかけていたのですよ、妻は……あなたの娘は」

「物盗りか……」

「いや、私は二人のやり取りを、部屋の外で聞いてしまいました」

 そしてルキーノは、また私の方を見ました。

「あの男が言っていたことは本当なのか? 『俺たち、子供ができるようなことをやった』って言っていたよな、あの男。おまえは、あの男と寝たのか!」

 私は激しく首を横に振りました。そしてペンにインクをつけていました。私がジュゼッペを抱いたまま書いている間も、ルキーノは私を問い詰め続けています。

「私が死と隣り合わせで、まさしく奴隷として働かされていた時に、おまえは他の男と……」

 そこで私はようやく書いた紙を見せました。

 ――違う。森の中を一人で歩いていた時に、襲われた。

「襲われた? 森の中で?」

「え?」

 父も声を挙げました。

「もしかして、まさか、あの時の……?」

 私はうなずきました。すると父は、ルキーノの方へ体を向けました。

「君が戦争に行ってからすぐのことだった。娘は一人で森の中をさまよっていた時に、この村のものではない男に襲われたと、着るものもボロボロに、全身傷だらけで帰ってきた」

 それから私の方を向きます。

「あの時の男が今日お前を襲うために、二階の窓から入ってきたというのか。それをルキーノ君が助けてくれたということだな。それにしても、なんで今頃……」

 ――あの男は、今日教会で結婚式を挙げていた花婿さんです。顔を見て、びっくりしました。向こうも、私がいることがすぐに分かったみたい。

「どうしてそんなことがあったのなら、話してくれなかったのです」

 目を血走らせて、ルキーノは父に詰め寄ります。彼もまだ興奮状態にあるようです。

「いや、実はティツィアーナには、あのことはもう忘れろと言っておいたんだ。私自身も忘れていた。限りなく不幸な事故として、もうなかったことにしようとそう思っていたんだ。決して隠そうとしたわけじゃないけれど、なかったことにしていることをわざわざ話さなくてもと思ってね。それよりも」

 父はため息をつきました。

「いくらティツィアーナを守るためとはいっても、大変なことをしてくれたね。少し面倒なことになるよ」

 そして父は一瞬だけ天井を見上げて、その上の部屋に意識を向けたようです。そしてすぐに目を戻しました。

「今日結婚した花婿なら、今頃は婚礼の宴の最中だろう。それを抜け出してここに来ていたというのなら、今頃は花婿がいなくなったって大騒ぎになってるんじゃないかな」

「そんなことはどうでもいい。それより、ティツィアーナ!」

 またかなり興奮し始めて、ルキーノは私を見据えました。

「状況は分かった。でも、これだけははっきりさせたい。その抱いている子供は、本当は誰の子供なんだ? あの男は、自分の子供だと言っていた」

 私はまたペンを走らせました。

 ――間違いなく、あなたの子供! あの男は、私が結婚していることを知らなかった。

「なぜそう言い切れる!」

「まあ、ルキーノ君、落ち着いて」

 そう言う父の声も、だいぶ上擦うわずっていました。

「私に全然似ていないではないか」

「この子は母親似なんだ。ほら、ティツィアーナにそっくりじゃないか」

「そりゃティツィアーナが生んだんだからティツィアーナに似ていて当たり前だけど、問題は父親は誰かということ」

 ――あなたです!

 私は慌てて走り書きで、ルキーノに示しました。

「それはあくまで希望的観測だろう。客観的な根拠は?」

 そう言われたら、確かに何もありません。

「それなら、おまえの口からはっきりと言ってくれ。この子が私の子だということを」

 またルキーノは無理なことを言います。

 何も知らないジュゼッペは私の腕の中で、あたりをきょろきょろ見ながら手を動かしています。こんなにかわいい、愛しい人が、あんな悪魔のような男の子供である訳がありません。これまで私がどれだけの愛を注ぎ、私が生まれて初めて感じた愛情を注ぎ、この子をここまで育ててきたのか……。

 私はそのことを訴えようとペンを走らせました。でも、書き始めてすぐにルキーノは荒々しくその紙を奪い、自分の手の中で握りしめました。

「言っただろう。私がほしいのはこんな紙切れに書かれた文字ではない! おまえの口から、おまえの声でこの子が私の子であることを宣言してほしい。そうでなければ信じられない」

「おい、無茶言うなよ。この子は口がきけないことは、君もよく知っているだろう。それを承知の上で、結婚を認めてくれと君の方から懇願したんじゃないか」

 父がいろいろなだめてくれますが、ルキーノは聞く耳を持ちません。どんどん私の方へ迫ってきます。そう言われても、私はなすすべもありません。

「頼む! 一言だけでいいから、何か言ってくれ!」

 今度はルキーノは懇願してきます。なんか遠い遠い昔に、同じようなことがあったような気がします。

 私が生まれるよりもずっとずっと前に……。あのときは私が男で、ルキーノは女だった……?

 なんでそんな訳の分からないことが頭の中によぎったのか、いぶかしく思っている間もなく、今度はルキーノは苦笑を始めました。

「遠い東の国の、やはり妻が口をきいてくれない男の話を聞いたことがある。妻はめちゃくちゃ美人で、男は醜かったからばかにして無視していたんだと。ところがその男が見事に鳥を矢で射た時に、感動して口をきいてくれるようになったなんてことだそうだけど、私は鳥を矢で射ることしかできないような男ではない! それなのにおまえは、私をばかにして口をきいてくれないのだろう!」

 私はまた激しく首を横に振りました。

「まだ、何も言ってくれないのか! そこまで私をばかにしているのか!」

 私はとにかく黙って、首を横に振り続けることしかできませんでした。

「ルキーノ君!」

 父がたしなめてもルキーノは聞かず、すっと立ち上がりました。そして私の腕からジュゼッペを受け取ろうとします。

 帰ってきて以来、彼が自らジュゼッペを抱こうとしたのは初めてです。彼がジュゼッペをしっかりと抱きしめて、それが紛れもないわが子であることを実感してくれたらと思ってジュゼッペを渡しました。

 ところが、ルキーノの手に移った瞬間から、ジュゼッペは火がついたように泣きだしたのです。

 私は嫌な予感がして、ジュゼッペを私の方へ戻してもらおうとしました。でも彼は泣きじゃくるジュゼッペの顔をじっと見ています。そして急に叫びだしました。

「やはりこいつは、私の子ではない! それに、妻にこんなにもばかにされているんだから、二人の間に子供なんかいらない!」

 そして、なんとジュゼッペの両足を持って逆さまにし、振り上げて頭からジュゼッペを床にたたきつけたのです。

 激しい音とともに、ジュゼッペの泣き声は消えました。

 その代わりにジュゼッペの頭は砕け、床はすぐに血の海になっていきました。そしてジュゼッペの体は、たちまちパッと飛び散るように消え失せました。

 私はこれ以上もなく精神が崩壊していくのを感じました。

 そして大きな口を開け、今まで一度も感じたことのないような喉のかすれを覚え、思い切り胸を振動させ、強く息を吐くとともにこれまで封印していたものが一斉に解き放たれたかのように、私の耳にも生まれて初めて聞く自分の声が響きました。

「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」

 すると私の腰のあたりで、いつもの奇妙な光る箱が空中に浮かびあがってきました。

 また、カードが増えています。今度のカードには「LOVE」と書かれていました。

 ――ローヴェ?

 またもや、読めるけれど意味が分かりません。でも今度は今までと違います。

「ブッブー」

 そんな音がして、そのカードの上には赤い×印がつき、そしてカードはこなごなに砕けてとび散りました。

 ふと気がつくと、ルキーノも父も、完全に動きを止めています。

 総ての時間が止まってしまったようです。

 そして私の目の前の空間に、大きく赤い太い文字が浮かび上がりました。


「GAME OVER」

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