第8章

 そんな私の状態とは別に、戦争も次第に本格化してきたとの知らせが、この村にも入ってきます。父が県令の屋敷で主に情報を仕入れて来るのですが、今や王様の軍勢と反乱軍であるグイドの軍勢は、あちこちで小競り合いを繰り返しているとのことです。

 今はまだそれほど寒くはないのですが、これから秋も深まり、冬を迎えるまで戦争が続いているようでは、戦場にいるルキーノの体も心配です。クリスマスナターレまでには戻って来てくれるのでしょうか……? そんなふうに彼のことを心配していましたが、私自身の体にも変調がありました。すでに十月になっていましたので、ルキーノが戦場へと駆り出されてから一週間はたっていました。

 ごく少量ですが、お手洗いで血が出ました。最初は月のものかとも思ったのですが、先月のその日から考えても月のものまでまだ一週間くらいはあるはずです。それに、月のものにしては量も少ないのです。でも、すぐに止まったので気にしていませんでした。メイドにも言いませんでした。このようなデリケートなことは、たとえ同性でもあまり話したくはありません。

 ところが今度は逆に、月のものが来るべき日が来ても一向にそれは来ないのです。やはりあれが早すぎた月のもの?……誰にも聞けません。ルキーノがいなくなったという突然の衝撃と、そして思い出したくもないあの忌まわしい事件などで私の心はずたずたになっていて、その心の傷が体調にも影響を与えているようです。

 秋が深まっていくにつれ、ももとも病気がちだった私ですが、また寝込む日が多くなりました。食欲もありません。食欲どころか、常時吐き気を感じているような始末です。気持ちもずっといらいらし続けて、暗く塞ぎがちです。

 そんな私を気遣ってか、父も母もとやかく言わずにそっとしておいてくれています。でも、あまりに私の状況が酷いので、ある時ついに母は私のベッドのそばまで来て、執事もメイドも退出させました。

 母はベッドの上で横になっている私の顔を立ったままのぞきこむようにして、優しく微笑みました。

「ティツィアーナ」

 そっと私の名を呼びます。

「あなたの体はどんな状況なのか、お母さんに話してごらんなさい。お母さんには、思い当たる節があるのよ」

 母はペンにインキをつけた状態にして、紙とともに私に渡してくれます。私は上半身を起こして、ベッドに座る形になりました。

 自分の症状については、幼いころからずっとついてくれているお医者さんにも一応は伝えてありました。でもお医者さんは、やはり私が負った心の傷によるものでしょうと、私が自分で考えていたことと同じことを言うので、その通りだろうと疑いもしませんでした。

 でも、母の見方は違ったようです。同じ女性として、いやむしろ女性の先輩として別のことに思いが至ったのでしょう。

 私が状況を書いた紙を見た母は、心配するどころか安心したような顔つきでさらに微笑みました。

「おめでとう」

 なんとそんなことを私に言います。

 ――え?

 私は一瞬、あっけにとられました。私のこんな状態がなんでめでたいのか……

「お母さんの経験から言っても間違いないわ。私もいよいよ、おばあちゃんになるのね」

 ――えっ! まさか……私は思わず目を見開きました。考えてもいなかったことです。

 私は状況を呑み込むまで、時間がかかりました。

 ――私のおなかの中に赤ちゃん……?

 結婚しても何年も子供が授からない夫婦もいるのに、たった三日の夫婦生活で赤ちゃん…? すべては『神』のなさせるわざです。全智全能の『神』におできにならないことはない……そう考えても、やはり不思議です。私の目からは大粒の涙がこぼれ始めました。

 ――本当ですか? 本当ですか?

 私は何度も心の中で『神』に問いかけました。今の私のこの状況を哀れんだ『主』が、最大の贈り物を下さったに違いありません。そして、まだ以前と何ら変わりのない私のお腹をさすってみました。この中に赤ちゃんが……? 私とルキーノの赤ちゃんが……? でもまだなんだか実感がわきません。

「ああ、きっとそうですねえ」

 あとでお医者さんにそれを言うと、そんなのんきにお医者さんは言います。男であるお医者さんには、ピンとこなかったのでしょう。こうなるとお医者さんの範疇ではなく、お産婆さんの仕事となります。お産婆さんといっても、実際に生まれるのは来年の初夏の頃だというのでだいぶ気が早い話ですが……。

 それでも、もう私は一人ではありません。お腹の中の子と二人で、ルキーノの帰りを待つことができます。自分のお腹に向かって、その中の子供に心の中の声で話しかけていると、不思議と気持ちが落ち着きます。

 本当ならばこのことをすぐにでもルキーノに知らせてあげたいのですが、戦場にいる彼に手紙を書くなんてできないでしょう。こんなこととは全く知らずに、彼は戦っているはずです。


 お腹の中の子が育つのと同時並行で、世の中の状況、特に今度の反乱軍鎮圧のための戦争の状況も刻一刻と変化していることは、父を通して知らされました。秋ごろに本拠地であるスポレート公国を出た反乱軍はすでに帝国時代の辺境要塞であったボノニアを経て、今やプラケンティアをも占領したとのことです。プラケンティアといえば、もう王都のパピアまでは目と鼻の先、私は位置関係はよく分からなかったのですが、父の話ですと私たちの村は王都パピアとプラケンティアのちょうど中間あたりにあるとのことです。そうなると、いよいよの時は、私たちの村は巻き込まれずにすむでしょうか……? 不安です。

 でも私は一人ではない……お腹の中の子供と一緒にルキーノの帰りを待つことができます。そう考えると、心強いのです。


 そうして秋は深まり、冬の到来を感じ、待降節アッヴェントを迎えました。去年のクリスマスナターレはまだルキーノと出会う前でした。この一年で私の取り巻く環境はがらりと変わってしまいました。今まで何回も一年一年を積み重ねて生活してきたのですけれど、こんなにめまぐるしく状況が変わった一年は初めてです。一年前は見知らぬ人だった人のお嫁さんになって、お腹の中にはその人の子供がいて……でもその人は今は戦いの中……私はただ帰りを待つだけです。去年までは両親と三人で過ごしたクリスマスナターレ……今年は一人増えるはずだったけれど、でも確かに一人増えています…私の体の中で…。

 このころになると体調も落ち着いていて、少しお腹が大きくなったのが分かるようになりました。吐き気もしなくなりました。でも、まだそれほど目立ってはいません。だんだんお腹が大きくなっていくのが分かるようになったのは、年も明けてからでした。


 そんな真冬のある日、真冬といっても間もなく四旬節クワレージマに入りますから春の足音ももすぐそこに来ているということになりますが、そんな時に父は慌てふためいて真っ青な顔でお屋敷に戻ってきました。そして母と執事長と三人で、一つの部屋でこそこそと話しているようでした。私はなんだか、悪い予感しかしません。その日の食卓では、父も母も口数少なく、黙々と食事をしていました。私は何があったのか尋ねたかったのですけれど、食事中はペンも紙もありません。

 ようやく食事が終わってから私は母を捉まえ、身振りで何があったのか尋ねました。母は黙って首を横に振りました。それから、優しく諭すように言ったのです。

「あなたは、何も心配しなくていいのよ」

 何か隠しています。

 私はその夜に、ベッドメイキングに来たメイドのリーザに、紙を見せました。

 ――何かあったの? お父様もお母様も様子が変。

 それを見たリーザは、しばらく何か悩んでいるようでした。そして、意を決したように私を見ました。

「まあ、特に口止めされているわけではありませんから申しますと、今日、何人もの村の人が見てるんです。この村のすぐそばを通っている街道をものすごい数の軍隊が東へ向かうのを」

 ――王様の軍隊?

「そうみたいです。東へ向かうということは、反乱軍に占拠されているプラケンティアを目指しているのでは……」

 私は思わず、それまで会話の文章を書いていた紙をぎゅっと握りしめました。

 王様の軍隊が東へ行ったということは、いよいよ反乱軍との最終決戦が行われるのでは……その東へ向かったという軍勢の中にルキーノもいる可能性も非常に高いのです。

 私は静かに、手を組んで祈りを捧げました。


 薄暗い兵営では、砂ぼこりのせいで弱々しく外からさす光も薄茶色に見えます。簡単な甲冑しか与えられていない兵たちは支給された槍を担いで、整列させられています。私は自分がどういう立ち位置でその姿を見ているのか、よく分かりません。

 私の目が探しているのは、当然ルキーノです。でも兵隊さんたちの数はあまりに多すぎて、彼を見つけられません。何千人もの兵隊さんたちがどんどん入って来ては整然と整列していきます。

 その時けたたましくラッパが響き、兵隊さんたちは掛け声を挙げて戦場へと走って行きました。やがて、野原に一本の大きな川があって、その川の向こうに敵の兵隊さんたちが陣を張っています。この川があの王都パピアの前を流れていたさらに大きな川と合流するのはこのちょっと北に行った所。そこにある城壁の中が、敵が占領しているプラケンティアの町です……なんて、なんで私、そんなことを知っているのでしょう……?

 そのトレビア川を挟んで、敵と味方は睨み合っています。そのうち、王様の軍隊の将軍のような人が馬の上から叫びます。

「神聖なる王の軍勢よ! 我に続け!」

「「「「「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」」」」」

 兵たちは皆、しぶきを挙げて川を渡ります。敵の放つ矢がまるで雨のように降り注ぎます。それを楯で防ぎ、味方の放つ矢に守られながらも兵と兵は川の中でぶつかり、槍で突いたり剣で斬ったりの戦いが始まって、人々の叫びと金属同士がぶつかる音がよく晴れた空にこだまします。なにしろ何千という数の軍勢同士がここでぶつかっているのです。たちまち川の水も真っ赤に染まり始めます。水しぶきをあげて川に倒れるものも多く、それを踏み越えての戦いは続きます。私はそんな中で、とにかくルキーノを探します。不思議と私にぶつかる人は誰もいません。

 また目の前で人が斬られて、血しぶきを挙げて川に倒れました。倒れた瞬間、その体はパッと粉々になって消えてしまいます。でも、倒しした人もすぐに別の人におなかを槍で突かれてもだえ苦しんでいます。また血しぶきが飛んで川の水が染まります。

 私の姿は、敵でも味方でも、兵隊さんたちの眼中にはないようです。誰も私に斬りかかってはきません。

 そのうち、やっとルキーノを見つけました。でもそれは、私の知っている彼ではありませんでした。髪を振り乱し、悪魔のような顔つきで槍を振り回しています。その風車ふうしゃのように振り回す槍でたくさんの敵の兵隊さんたちが突かれ、首を刈られていきます。

 こんな、こんな恐ろしい人が私の夫……?

 その時、初めてルキーノは私を見ました。

「ティツィアーナ! なんで君がここにいるんだ? どうやって来た?」

 彼は叫びますが、私は答えようがありません。その間も彼に何人もの敵が襲いかかりますが、彼は私と話しながらもどんどんその敵を倒していきます。でも私は、これも不思議ですが、なぜかここにいたら危ないとは思わないのです。

 その時、ルキーノは後ろから剣で突かれました。すぐに突いた人を槍で倒しましたけれど、ルキーノの背中からは血が噴水のように噴き出して、音もなく、なぜか不思議に音もなく、彼は川の水の中に倒れました。

 私は不思議と冷静に、両手に口をあてただけでそれを見ていました。もちろん、私はそこで叫び声を上げることはできません。

 次の瞬間、私はベッドで跳ね起きました。冬だというのに、顔じゅうに汗をかいています。

 息も乱れ、胸も早い鼓動で高鳴っています。

 ――なんでこんな夢を見たのかしら……?

 そのあと私は、その晩は朝まで一睡もできませんでした。なんと嫌な夢だったことでしょう。今でも鮮明に覚えています。こんなに色まではっきりとついている夢は久しぶりです。以前はあのゾンビに襲われる夢にうなされてベッドから何度も転落したこともありましたけれど、今ではそんなことももう忘れていました。

 私は、お腹をさすりました。お腹の中にはあの人の子供がいます。

 ――あなたのお父さんは、きっと帰ってくる。

 そう心の中で呼びかけてみます。お腹の中の子供が答えるはずはありません。

 ――万が一あの人に何かあっても、あの人は私のお腹の中に忘れ形見を遺していってくれた……

 一瞬そんなことを考えたあと、忘れ形見なんて不吉な言葉だと気付いた私は、慌ててその言葉を自分の頭の中から消し去りました。

 その時です。ほんの微かですけれど、お腹の奥のはらわたが動いたような気がしたのです。最初は気のせいかなとも思っていましたけれど、一日のうちほんの数回、同じような感覚があります。なんだかお腹の中で小さなお魚が泳いでいるような気もします。

 もしかして、お腹の中で赤ちゃんが動いている……?

 そう思った私はもう嬉しくて、お腹の中の子供が愛おしくて、涙があふれてきました。

 その日のうちに、母にそのことを告げました。

「あらあら、来月くらいになったらもっと激しく動くようになって、お腹の内側から蹴ったりもするのよ」

 笑いながら言う母のそんな言葉を聞いて、私はすごく不思議な気がしました。自分の体なのに、その中に別の命がいるというのが不思議なのです。そんなことを考えて首をかしげる私を見て、母はまた笑っていました。

 母娘のひと時の団欒はあっという間に終わりました。なんだか外が、いえ村全体が騒がしいのです。

「奥様! 一大事でございます」

 外から入ってきた執事長は肩で息をしながらも、姿勢を正して立っていました。

「この村から兵隊として戦争に行った若者が、何人か帰ってきております」

 私はそれを聞くと慌てて立ち上がり、外に飛び出していこうとしました。

「待ちなさい、ティツィアーナ! あなたは走っちゃだめなのよ!」

 そうでした。でも、涙目で母の方を振り返り、今にも飛んでいきたい気持ちを身振りで伝えました。

「一緒に行きましょう」

 母も立ち上がりました。

 教会前の広場まで行くと、そこには村人が何人か固まっているだけでした。兵士の姿は見当たりません。彼らは私の母を見ると、ぱっと直立不動になりました。

「戻ってきた若者がいると聞きましたが」

「はい。ダニロとかエルベルトとか四人くらいです」

 ブドウ畑の農夫である村人は、かなり緊張しているようです。

「その人たちは?」

「はい。もうそれぞれの家に帰りました」

 母と私は名前が出た中でここからいちばん近いエルベルトの家に向かうことにしました。

 入り口を入ると、中では家族たちが大騒ぎしています。

 私の母の姿に、その騒ぎにさらに拍車がかかってしまったようです。

「あれまあ、奥様!」

 エルベルトの母親はビックリ仰天という感じです。構わずに母は農民の家屋の中に入って行きました。

「お宅のエルベルトが戻ってきたとか。話を聞かせてください」

「はい、ずっと駆けっぱなしで来たってことで、とりあえず横にならせています。どうぞ、こちらへ」

 薄暗い部屋に私たちは通されました。わらが敷き詰められたベッドの上に、まだ甲冑をつけたままのエルベルトは横たわっていました。私の母の姿に慌てて起きようとしましたけれど、母はそれを手で制しました。

「そのままでいいのです。戦争は終わったのですか?」

「はい。王様の軍隊が大負けで、みんな兵たちは一目散に逃げ出して、将軍たちの制止も聞かずに散り散りばらばらに自分たちの村目がけて駆けだしました」

 ――王様の軍隊が負けるなんて……予想外の展開に、私は両手で口を押さえました。母も少なからず驚いているようです。

「あの、同じこの村から行った他の人たちは?」

「さあ、かなりたくさんの兵隊が死にましたから、その中にこの村の人がどれくらいいたか……。また、敵の捕虜になった人もたくさんいます」

 私と母は顔を見合わせました。もうちょっと待てば、ルキーノもこのエルベルト同様に走って逃げ帰ってくるのでしょうか……あるいは捕虜に……あるいは……その先は考えたくありません。

 とりあえず母はエルベルトをいたわると、その家を辞しました。すると、村人たちが一斉に村はずれの方へ走っていきます。そちらには遠くを見渡せる小高い丘があります。村人たちはその丘の上へと走っていくのです。私と母もゆっくり歩いて、その丘の上に登ってみました。丘の上は村人たちでひしめき合っていました。

 彼らが眺めている方角を見て、驚きました。遥か北に横たわる山はもう雪で真っ白です。その手前はちょっとした平原が広がっていますが、その真ん中にプラケンティアから王都パピアに向かう街道が横たわっています。私たち家族が都へ行った時に通った街道ですから、その辺は少し知っています。

 驚いたのはその街道を、おびただしい数の人の群れが駆け足で流れているのです。右から左へ、すなわち東から西へ……プラケンティアからパピアに向かっているのです。それは軍隊の行進などという整然としたものではなく、どう見ても敗残兵たちが一目散に逃げているという姿です。遠すぎて一人ひとりの様子は分かりませんが、あの姿はまぎれもなく逃げ帰っているのです。

「奥様! プラケンティアでは王様の軍は大負けだったみたいですぜ」

 隣にいた村人の一人が、私の母に話しかけました。この村の住民で母のことを知らない人はいるわけありませんから、みんな口ぐちに話しかけてきます。

「こりゃ、えらいことですな」

「あの人たちはどこに?」

 母が尋ねると、遠くを見ながらも別の村人が答えます。

「都に逃げ帰るんでしょう。でも、途中に自分たちの村がある人は、そのまま自分の村に逃げ帰るんでしょうな」

「この村にもさっき、何人か帰ってきたみたいですぜ」

 すでにそのことは知っている母も、黙ってうなずきました。

 とりあえずお屋敷に帰った私は、緊張と期待と不安の中で、一日を過ごしました。いつルキーノが帰ってきてもいいように、心の準備をしていたのです。どんな小さな物音にも、ルキーノが玄関の扉を開けた音ではないかと聞き耳をたてました。でも無情に時は流れ、冬ですのでかなり早い時間に外は暗くなり始めました。まぎれもなく、ドアが開く音がしました。私は走らないまでも可能な限り早足で階段を下りました。ドアを開けて入ってきたのは父でした。父が戻ってきたのです。私は大きく息をつきました。

 その日の夕食も、ほとんど喉を通りませんでした。結局、ルキーノは戻ってはきませんでした。その日もなかなか眠れないまま朝を迎え、その昼過ぎにまた村の方が騒がしく感じました。母と顔を見合わせて出てみると、また村人たちは丘の上へと急いでいます。誰かが帰ってきたということではなさそうです。昨日と同じように人びとは遠くを見ているので見てみると、今度は昨日とはうって変わった整然とした軍隊の行進の姿がそこにはありました。

 昨日あれだけばらばらになって逃げ帰っていた王様の軍隊が、今日になってあんな整然と行進するはずはありません。そうなるとあれは反乱軍、グイド公の軍隊に決まっています。

 はたして彼らの掲げている旗――遠いのでよく見えませんが、左半分は白地に赤の十字、右半分は赤地に白で馬に乗った騎士?が描かれているようです。それは、まぎれもなくスポレート公国の旗だと村人たちは言っています。

 私は背筋が寒くなりました。反乱軍があんな大軍でいよいよ都に迫っている。ルキーノはいったい今、どこにいるのでしょうか……それとも……。

 私は慌てて首を激しく横に振りました。


 それからさらに半月ほどたちました。私のお腹はどんどん大きくなり、母が言っていたようにお腹の中の子はこれまで以上に動くようになりました。

 そんなある日、父は村人代表とともに自分の兄、すなわちこの辺りの小領主たる私の伯父の居城へと呼びだされていきました。そして戻ると父は、すぐにブドウ畑の農夫の代表をお屋敷にと集めました。

 私は何を話しているのか知りたかったのですが、遠慮して自分の部屋にいました。でも、農夫たちの悲痛な叫びが聞こえてきます。すすり泣きの声さえ聞こえます。私は音を立てないようにして、階段を下りました。農夫たちのいる部屋のドアに耳をつけたのは六割は不安と心配から、あとの四割は好奇心からでした。

「これまでずっと旦那さまにお世話になってきたんだ。旦那様はどうなってしまわれるのか」

 涙ながらに、年老いた農夫の方が訴えています。

「たしかに、ブドウ畑の所有者が旦那様ではなくお嬢様の嫁ぎ先のお家となっても、何ら変わりなく旦那様と接してこられたけど……」

 なんだかみんなで、父の身を案じているようです。父の身に何かあったのでしょうか? 母は知っているのでしょうか? なぜ家族である私たちよりも、農夫たちに先に何かを告げたのでしょうか? とにかく、夕食の席で何か話があるのかもしれないと、私はとりあえず部屋に戻りました。

 果たして、悲痛な顔で夕食をとりながら、父は厳かに私たちに告げました。まずは、最終決戦のつもりで王都に進軍したグイド公ですけれど、王都に着いた時点ですでに王様は逃亡。堂々と無血入城したグイド公はそのまま王都の大聖堂にて戴冠式を執り行い、自らがこの国の国王となったことを宣言したとのことです。

「でも、前の国王陛下は王の位を持ったまま逃亡された。つまり、まだ退位はされていない。神聖なるレニョディターリヤの国王の地位は、教皇パパ様からの破門によってでしか失うことはあり得ないからね。いつか巻き返しがあるかもしれない」

 そう言う父でしたが、どうも歯切れがよくありません。

「兄も前の国王ベレンガーリオ一世陛下より所領を安堵されて領主となっていたのだから、そのベレンガーリオ陛下がおられない以上、もはや領主ではない」

 ――そうなると……。父の話は私の悪い予想通りでした。

「県令も都から派遣されてきていたのだから、派遣していた国王がおられない以上もう県令ではないので都に戻ったよ。私の県令補佐官という仕事も消滅だ」

 父は苦笑しました。母は黙って大粒の涙をぽろぽろと流して聞いていました。私も、目の前が真っ暗になった思いです。これから世の中、何がどうなっていくのか……。

「執事もメイドも、明日暇を出す」

 とにかく、世の中が大きく変わっていこうとしています。

 翌日、涙、涙で別れを惜しみつつ執事とメイドたちが出ていくと、お屋敷の中は急にがらんとしました。でも、感傷に浸ってばかりもいられません。母が大忙しです。何しろこれまでメイドの仕事だった炊事、洗濯、掃除に至るまですべて母が一人でしなければならなくなったのです。私も今はこんな体ですが、できる範囲で母の手伝いをしました。メイドの仕事ってこんなにも重労働だったのかと、私は思い知らされた感じです。

 その日の午後、一台の馬車が門より入ってきました。ルキーノのお父さんです。今度は私も部外者ではありません。ルキーノのお父さんは私の義父なのですから、私の父との話し合いに私も同席しました。

「我が孫は順調ですかな?」

 頭こそ頭髪はありませんがそれだけに明るく、こんな時でも笑顔を絶やさない人でした。

「早く、孫に会わせてください」

 私のかなり目立ってきたお腹を見て、義父はそう言います。

「時にレジェさん」

 義父は、父に目を戻しました。

「世の中は動くのです。私も前の王様の御用商人でしたから、もはやお役御免です。でもめげない。私の独自の開発した取引先がありますから、生活はこれまでと変わりません」

 メイドがいないので、私がお茶を入れました。もう初めてお会いした頃のように緊張して手が震えるなどということもありません。

「だから、あえて申し上げます」

 義父は身を乗り出しました。

「私があなたから買い取ったブドウ畑の利権は、すべて無償でお返ししましょう。あくまであの領主から守るための措置だったのですから。その領主がもう領主ではない以上、私が所有している必要はない。本来の所有者に戻すべきだ……そう考えたのです」

「ええっ?」

 父はただただ驚いていました。義父はにっこりと笑いました。

「お宅のお嬢さんは今やルッソ家の嫁、つまり私の娘です。娘の実家が困っている時に、手を差し伸べないわけにはいきませんからね」

 今度は義父は大声で笑いました。父も恐縮して、立ちあがって何度も頭を下げていました。


 今までは一公国の長、つまり諸侯にすぎなかったグイド公はもはや反乱軍の頭目ではなく、レニョディターリヤの国王グイド二世となりました。でも、身の周りでは義父のお蔭で我が家も農夫たちも、今までと変わらない生活をすることができています。これまでと違うのは毎日父が家にいることと、家事を母と私でやらなければならなくなったことくらいです。

 幸い蓄えはあるようで、次のブドウの収穫期まで持ちこたえられそうです。農夫たちからの上納はルッソ家との折半ではなく従来通り全額が我が家のものとなることになりましたし、もはや伯父も領主ではないので領主への貢納も必要なくなりました。

 伯父の方はどうやって生活しているのかしらとふと思ったりもしましたけれど、伯父からも叔母からもぷっつりと何の音沙汰もありません。

 今年は復活祭パスカも早く、三月二十三日の日曜日でした。その前の聖週間セッティマーナ・サンタ、すなわち聖木曜日のミサや聖金曜日の典礼、そして復活徹夜祭にも伯父、叔母一家とも姿を見せませんでした。今年は復活祭パスカが早いとはいっても、それが終わると例年通りにかなり春めいてきていました。そしてさらに四月に入ると、裸木であったブドウ畑のブドウの木の枝に一斉に芽が吹きだし始めます。農夫たちもいよいよ農作業が始まり、忙しくなるようです。

 そのブドウの芽がだんだんと育って葉を出しはじめるのと同じ速さで、私のお腹も大きくなっていきます。私の中で、赤ちゃんは確実に育っています。

 でも、そんなふうにブドウもお腹の中の赤ちゃんも育っても、ルキーノが帰ってくる気配は一向にありません。ただ、時間だけが無情に過ぎていきます。

 そして五月。あれからこの村の兵士で、逃げ帰ってきた人はほとんどいませんでした。この村から戦争に行った四、五十人のうち、帰ってきたのはたった四人。もう、戦争が終わってから三カ月はたとうとしています。戦争は冬の真っただ中でしたけど今はもう初夏、私が初めてルキーノと出会ったのと同じ季節です。

 敗残兵の大部分は捕虜になったという話でしたけれど、その先に「あるいは…」というのがついていました。私はこれまでその「あるいは」の部分は意識的に私の頭の中から追い出し、考えないようにしていました。考えること自体が不吉だと思ったからです。「あるいは」を自分なりに否定し去っていたのです。でも、戦争から三カ月たっても夫は帰ってこない……これは現実です。その中には、二つの可能性があります。捕虜となっているか、あるいは……もう一つは最後の最後まで思いたくはない。

 さらにもう一つ、記憶喪失になってどこかへ行ってしまった……なんてどっかで聞いたことがあるような話ですけれど、そんな可能性もあります。その方が、最後の最後まで思いたくない理由よりはましではないでしょうか。

 こうして私は、臨月を迎えました。そして、それは暑い盛りの七月……生まれるのはまだだと思って油断していたところに、その日は突然訪れました。

 父は、村はずれの小川のほとりの小屋に住む産婆さんを呼びに行きました。私に付き添っているのは母だけでした。と、思っていたのですが、母の隣に男性がいます。心配そうにベッドの上の私を覗き込んでいます。私は波を打って一定間隔で襲ってくる激痛に意識がもうろうとして、その人が誰であるかまで分かりませんでした。

 でも、変です。女性が産気づいたら、もうその部屋にはたとえ夫であろうと父親であろうと、男は誰ひとり入ることはできないはずなのです。だから、母の隣に男性がいるはずはない……でも、心配そうなその顔は……ルキーノ! そう思った瞬間、次の激痛の波が襲ってきました。そしてそれが過ぎ去ると、もうその姿はありませんでした。

 ――本当にルキーノ? 

 私は母に、ルキーノがいたあたりを指差しました。母は不思議そうにその指差された場所を見ますが、首をかしげるばかりです。

「誰もいませんよ。さっきからずっとこの部屋の中は、私だけですよ」

 では、幻影? あんなにもはっきりとした幻影があるのでしょうか? その時、ドアがけたたましく開きました。三角の尖った帽子に、合わせの長い独特の服を着た老婆が入ってきました。お産婆さんの到着で、いよいよお産が始まります。

 それから数時間後、お屋敷に元気な産声が鳴り響きました。男の子でした。お産で命を落とす女性も多いのですが、私は何とか無事でした。

 生まれてきた我が子は思ったより小さくて、人間というよりも真っ赤な猿のような顔をしています。ほんの一握りすればつぶれてしまいうそうな、そんな泡のようなはかない存在です。でも激しく泣くその声が、自分の存在を精いっぱい主張しています。

 私は胸がいっぱいでした。なんだか変な気持ちです。我が子と初対面なのですが、でもその我が子はずっと私の体の中で私と一緒に生きてきたのです。私から切り離されて、これまで私の一部だったのとは違い、私とは別の存在になってはじめて我が子となったのです。

 顔は……私にそっくりでした。男の子だと母親似が多いとは聞いていましたが、母親に似てしまうと父親の面影は全くない場合もあります。むしろ私と、私の父を混ぜたような顔をしていました。

 いずれにせよ、今はこんなに小さな存在がものすごくいとしくて、愛しくて……今胸に抱かれているこの子は、私は全身全霊を振るって愛しています。私が何かの存在をこんなにも深く愛したというのは、初めてではないでしょうか。私は、初めて愛を知ったのです。

 そして、子供の名前を私と私の両親との三人で考えました。私にとって本当にこの子は神様からの贈り物――そこで、いくつかの案の中から最終的に決まったのは「ジュゼッペ」でした。


 それから、ジュゼッペとともに暮らす毎日……私のお腹の中にいた時は名もない存在でしたけれど、今はジュゼッペという名を持ち、私とは別の存在になってますます私との絆は深まった気がします。

 赤ちゃんには昼も夜もありません。基本的にずっと寝ていますが、一定時間ごとに起きては泣き、おっぱいを飲んでまた寝るという繰り返しです。その一定時間ごとというのが、昼も夜も関係ないのです。でも、私には何の苦痛もなく、むしろこの子と接していられるのが喜びでもありました。その愛する子の命をつなぐためには、私は夜も寝ている場合でないと思っていました。さすがにもともと病弱な私なので、母が私の部屋でともに寝てくれました。ルキーノとの結婚に当たって二人用にベッドを大きくしていましたので、母がともに寝ても十分の大きさでした。

 そして、教会でのジュゼッペの洗礼も終えたある日、お屋敷に馬車が着きました。降りてきたのはルキーノの両親、つまり私の義父おしゅうとさんと義母おしゅうとめさんです。

 私の母に案内されて私の部屋に来た二人ですが、義母は私へのあいさつもそこそこにすぐさまジュゼッペを抱き上げて頬ずりをしていました。

「おばあちゃんですよ。おお、よしよし」

 ジュゼッペは突然のことに泣くかと思いましたが、なんとか泣きもせずにきょとんとしています。

「いやあ、ご苦労様です」

 義父がニコニコと私に軽く頭を下げました。

「よくぞ立派な子を生んでくれた。大事なルッソ家の跡取り息子だからね」

 こうして初孫との初対面を終えた二人は、応接間で私の両親とお茶をすすっていました。私も呼ばれて同席しました。なんでも、大事な話があるとのことです。

「実は」

 まずは義父から話を始めました。

「これからどうするのかという話なんだがね」

 まずは私にそう言ってから、義父は私の両親を見ました。

「ルキーノとティツィアーナさんがこの村に住むというのはあくまでも戦争を避けるためで、戦争が落ち着くまで一時的にということだったはずです」

 私の両親の顔が少しこわばりました。

「王様は新国王に交代したけれど、もう戦争はすっかり終わりました。王都も以前のような安定と活気を取り戻しています。ルキーノはこんな感じでまだ帰ってこない状態ですけれど、私たちも孫とともに暮らしてルキーノの帰りを待ちたい。ティツィアーナさんも早く王都やルッソ家に慣れた方がいい」

 義母も優しそうにうなずき、言葉を受け継ぎました。

「それに、我が家では今でも多くのメイドや使用人がおります。あの子に守り役もつけてあげることもできます。たいへん失礼とは存じますので申し上げにくいのですけれど、このお家では孫の世話には手薄ではないでしょうか」

 申し上げにくいと言われてもそれが現実なので、そう言われても仕方がありません。私の父も母も目を伏せて、少し何かを考えているようでした。そして、父が意を決したように口を開きました。

「おっしゃることはごもっともで、異論をはさむ余地もありません。娘はすでにルッソ家に嫁に出した身。ルッソ家で暮らすのが筋ですし、生まれた子供もルッソ家の子です。ただ……」

 父は少し言葉を切って、息をつきました。

「娘は病弱ですし、慣れない土地に一人でやるのは親として心配なのです。せめてルキーノ君とともにでなければ、娘の心もまいってしまうでしょう。ですからそのお話は、ルキーノ君が帰って来てからということにしていただけませんか?」

「でも、戦争が終わってからもう半年……ルキーノは……」

 義母が鋭いところを突いてきました。かつて私はルキーノの身の上についてあれこれ考えた時、捕虜や記憶喪失、その他の事情などいろいろな状況を想定しましたけれど、最後の最後まで考えたくない可能性、頭の中に少しでも浮かんだら慌てて故意に拭い去ったその可能性も、最近ではあえて現実のものとして想定することを受け入れなければいけないのではないかと思っていたところでした。お義母かあさんはもうとっくにそれを受け入れているのかもしれません。でも私はやはり、帰ってくると信じたかったのです。いえ、帰ってこなければならないのです。だって彼は、今自分に子供がいることすら知らないはずなのです。

 私はペンをとりました。

 ――ルキーノが帰ってくるとしたら、王都ではなくこの村のこの家だと思います。だから私はこの家で彼を待ちたい。

 それを義父に見せました。義父も少しため息をつきました。

「私とて、息子が戦死したなどとは思いたくありません。帰ってくると信じたい。でも、ここで待つといってもいつまで待つのですか? それではきりがないでしょう」

 誰もが目を伏せています。そこで、義父が顔を挙げました。

「でも、ティツィアーナさんの気持ちも分かります。ですから、こうしましょう。期限を切りましょう。戦争から一年たっても帰ってこないということになれば、最悪の事態も考えなければなりません。つまり、戦争から一年目の来年の二月になったら、ルキーノがたとえ帰って来ていなくてもあなたはジュゼッペとともに王都に来ていただく、それでどうですか? それまでにルキーノが帰ってきたら、二月を待たずに王都に来ていただいてかまいませんけれど」

 それはもう仕方ないことだと私は思いました。そもそも私がずっとこの家にいること自体が私のわがままなのですから。

「いいでしょう」

 父も私と同意見のようで、代表してそう返事をしてくれました。

「でも、ねえ」

 義母が口を挟みます。

「ティツィアーナさんはまだお若いし、一生を未亡人後家さんとして過ごすのもかわいそうですし。そうなったときはジュゼッペだけをこちらに。あなたは自由な身として新しい人生を……」

 私ははっと目を挙げました。それは、私とジュゼッペが引き離されるということ? それだけは嫌、それだけはどんなことがあっても嫌と、私は首を横に振りました。でも、それとは別に義父はすぐに義母の言葉を手でさえぎりました。

「ルキーノがもう帰ってこないということを前提に話をするのはやめなさい」

 義母は口をつぐみました。こうしてまた、この家での生活は続くことになりました。

 その日の夜、あまりにも激しく泣くジュゼッペを抱いてあやしているうちに、私に抱かれたままジュゼッペはすやすやと寝息をたてました。そこで私は、そのまま窓際に椅子を持っていきました。窓を開け、眠っているジュゼッペを抱いたまま椅子に座って夜空を眺めていました。幸い月があったので、月明かりに照らされたジュゼッペの小さな寝顔を時折のぞき込みます。

 幸せでした。私は本当の意味での愛を感じていました。私のこれまでの人生でこれほどまでに幸せを感じたことがあったでしょうか。ルキーノと出会い、結婚ということになった時もなぜか実感がわかなかった。結婚式の後にこの部屋のこのベッドの上で彼の胸に身をうずめた時も、どこか冷めた部分がありました。でも今はそんな冷めた部分もなく、幸せを感じています。

 この子がいれば何もいらない……だいたいは本当です。でも、一つだけ足りないものがある……やはり短すぎる夫婦生活だけでいなくなってしまった夫には、帰って来てもらいたい。私とジュゼッペと、そしてもう一人、ここにルキーノもいれば何も言うことはない……。

 私はまた、夜空を見上げました。彼もこの同じ夜空の下のどこかにいて、同じ月の光を浴びているのでしょうか……そう信じたい。いえ、そうでなければいけないのです。


 季節は本格的な夏になり、ブドウ畑のブドウも青々とした葉を茂らせました。屋敷の窓からですと白ブドウは身が葉と似たような色なのでよく分かりませんが、もし黒ブドウなら実もふさふさと実っていることがよくわかったはずです。

 ジュゼッペは機嫌のいい時は仰向けに寝たまま手足を激しく動かして、まるでダンスをしているかのようなしぐさをするようになりました。生まれた時よりもよく太っています。

 そしていよいよそのブドウの収穫の時を迎え、年に一度のお祭りともいえるような収穫祭を迎えました。去年の収穫祭には、ルキーノがともにいました。

 今年もまた例年通り空はよく晴れています。あれから戦争があって王様も替わったなどという世の中の変化も嘘のように、去年と同じ村人たちの掛け声や歌、大騒ぎの声が響き、ブドウの果汁の匂いが村中に充満しました。

 抱っこされているジュゼッペも、その目がきょろきょろと動き、明らかに祭りの様子を見ていると分かるようになっています。私もその収穫祭の光景を、しっかりと目に焼き付けました。私には見納めかもしれないのです。

 来年の今頃は義父との約束で、私は王都にいるはずです。ルキーノが帰って来ようが来なかろうが、私は王都のルキーノの家で生活しているはずなのです。

 そのルキーノとの結婚式は、収穫祭のすぐ後でした。そして悲しい突然の別れ……あれからもう一年たつのかという思いと、まだ一年しかたっていないのかという思いが私の中で交差していました。

 あれは村の周りの小高い丘の木々も色づく秋でした。そして今年も、同じように秋が巡って来ています。同じ秋とはいっても、ルキーノはいません。でも、あの時はいなかったジュゼッペがいます。

 そのジュゼッペに、私にとっても私の両親にとってもうれしい変化がありました。生まれてから三カ月目にして、なんとジュゼッペが声をあげて笑ったのです。時間としてはほんの短い間ですけれど、それに一日一回あるかないかですけれど、大人たちがなんとか笑わそうと思っていろいろとあやすと笑ってくれます。その時は私たちはみんな大喜びで、一緒になって手を叩いたりして大人の方がはしゃいで笑ったりしていました。我が家に笑い声が上がるのも、久しぶりのことのように感じました。

 我が家は愛で満ちていると実感できました。父も母も、すっかりおじいちゃん、おばあちゃんぶりが板に付いてきています。ただ、そこに影を落とす事実……ルキーノはまだ帰ってきません。

 そして季節は冬……待降節アッヴェントからクリスマスナターレへ。

 去年はまだお腹の中にいたジュゼッペを抱いて、両親とともに私は教会の夜の御ミサにあずかりました。今ではもうすっかり首も座って、横抱きにしなくてもよくなっています。

 ベッドの上でも盛んに寝がえりを打って転がるので、落ちやしないかと気が気ではありません。なにしろベッドから落ちて大けがというのは私の専売特許のようなものですから、変なところで母親譲りだと困るのです。今ははいはいもしない頃ですからまだいいのですが、母の話だと来年の春ごろには這いだすとのこと。そうなると私の黒歴史でもある暖炉の中へという事故も心配しなければなりません。でも、ちょうどその頃は春になっていて暖炉も使わなくなるので、その点はよかったと思いました。

 顔つきは成長するにつれてどんどん私に似てきます。やはり男の子の典型的な母親似で、ルキーノの面影はほとんどありません。教会へ行っても近所の農夫の奥さんからも、「お母さんそっくり」とよく感嘆の声をあげられます。

 お義母かあさんは私に自由な人生をと言ってくれましたし、それは私のことを思ってのことだというのも分かります。でも、この子と離れ離れになんてことは絶対に考えられませんでした。

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