第7章

 ところが、いつもは忘れない頃にはやって来ていたルキーノが、しばらく来なくなったのです。

 彼はこの村に滞在中、どこに泊まっていたのかは謎です。以前に村を引き払った時は家族全員で王都に引っ越したとのことでしたから、もうこの村に彼の家族の家はないはずです。もちろんこんな田舎の村ですから、旅館なんかありません。おそらくはこの村に残っていた親戚か、あるいは彼のお父様の古いお友達の家とかに頼んで泊めてもらっているのでしょう。

 彼がしばらく顔を見せないのは、もしかしてその泊めてくれている人とトラブルでもあって王都に帰ってしまったからでしょうか? でも私は、ただ待つことしかできません。

 そんな彼がやっとまた来てくれたのは、もう本格的な夏になってからでした。しかも彼は、思いもかけない人物とともに来ました。

 いつもは私の部屋へ直行なのに、この日は鼻髭を蓄えたきちんとした身なりの中年紳士とともに、下の応接室で父や母と話しているのです。来訪はあらかじめ伝えられていたので、父は休みをとっていました。私はしばらく自分の部屋にいましたが、メイドのリーザが私を呼びに来ました。父が呼んでいるとのことでした。私は応接室に入るとルキーノに黙礼しました。もう一人の男性は、初めて見る顔です。

「しばらく来られなくてごめん。実は、都に戻っていたんだよ」

 やはり、思っていた通りに何かトラブルでもあったのでしょうか? でも、部屋で二人きりでいる時のような感じで、私が聞きたいことをさっと紙に書いて見せることもここではできません。

「王都に帰っていたのは、まず私の両親と話し合うため、そして話し合った結果を持って、この方に依頼するためなんだよ」

 ――はあ……、という顔をして私はルキーノが示したその紳士を見ました。なんだか話がよくわかりません。その紳士が、口を開きます。

「私はルキーノ君のお父さんの店の客なんだけど、ま、今回はどうしてもとルキーノ君からもそのお父さんからも熱心に頼まれましたし、私の趣味でもありますからして、こうしてやってまいりました」

 この人は王都からわざわざ来たようです。趣味って何だろう……? それが気になります。

「私の趣味は媒酌センサーレでして、今回も素晴らしきカップルが誕生するやもしれぬと喜んでいたのですが……」

 なんだか状況がまだよく分かりません。父を見ると、父はいつもの愛想を浮かべるでもなく、怖い顔をして座っています。

「実は……」

 少し太り気味のその紳士は、座っているソファーから少し身を乗り出しました。

「このルキーノ君があなたをずいぶん気に入っておられましてね。どうしてもお嫁さんにほしいということで、ルキーノ君とその父さんとで私のところに相談がありまして」

 今、何と言ったのでしょう? 本当はすぐにそう聞き返したかったのですが、私はただ小首をかしげるばかりです。

「あなたをお嫁さんにほしいと」

 私はちらりとルキーノを見ました。彼は真っ赤になって、うつむいたまま目をそらしています。私も、自分の顔が熱くほてってくるのが自分でも分かるくらいでした。しばらくは言葉をなくし……、って普段からなくしていますが、この時は頭の中からも思考が消え、私は目を見ひらいて両手で自分の口を押さえていました。

 ――こんな、こんなに突然、こんなに大事なお話……。

 だいぶたってから、私はちらりと父を見ました。父は相変わらず苦虫をかみつぶしたような顔をしています。そこで私は、母を見ました。

 ――お父さんは、なんですって?

 もう言葉を発せなくても、母にはアイコンタクトで通じます。そこで今度は母が、父に目で合図しました。

「お断り申し上げたところだ。おまえには悪いけれど」

 いつも優しい父がそう言うのです。悪意があるはずありません。私は黙ってうなずきました。そこで父はもう一度、ルキーナと媒酌センサーレの紳士の方を見ました。

「そういうわけで、娘は普通の人とは違う。ご覧のとおり口がきけない。そういう障害を持つ娘を請われても、お断りするしかない。ゆくゆくは必ずやご迷惑をおかけすることになる」

 私はゆっくりとうなずきました。父の言うことは妥当だと思います。これまでも私は、普通の女性のようにいつか幸せな結婚をして……などということはみじんも考えたことはありませんでした。これは、本当です。私のような体に欠陥のある女性を嫁にほしいなどという人がいるわけがないと……。

 でも、現実には現れてしまいました。それだけにその事実を受け入れるのにずいぶん時間がかかるはずなのに……、ましてや即答などできるわけがありません。私は前に進むことも後ろに退くこともできずに、何の支えもない荒野に一人たたずむしかなかったでしょう。でも、父が助けてくれた……この時、私はそう思いました。ルキーノはとてもいい人です。さわやかな人です。決して嫌いではありません。話していてとても楽しかったし、お話の内容もとてもためになりました。でも、それ以上のことなんて考えたこともありませんでした。だから、私はただひたすら驚くことしかできなかったのです。話があまりにも突然すぎて、今一つ彼を信じ切ることができないのです。

 幸い(?)すでに話は父が断ってくれたようなので、もうそれでいいのではないかと私は思っていました。なぜか心の中に残る虚しさをかみしめながら……

 その時突然、ルキーノは立ちあがりました。そして父と私の前に今度はひざまずいたのです。

「お願いします!」

 驚くほどの大きな声でした。

「お嬢さんは、とても賢い、頭の切れる方です。物事の道理もわきまえておられる。その賢さがあれば、言葉なんていらない! そうではありませんか?」

 この人は突然、何を言い出すのでしょうと、私は思いました。言っていることが理不尽のような気もしますけれど、あまりにも声が大きいのでそれに押し切られてしまいそうです。

「まあまあ、落ち着きなさい。まずは座って」

 父はルキーノを一度立たせてから、元のソファーに座り直させました。ソファーに座ってからも、ルキーノはしゃべり続けています。

「だいたい世の中の娘といえば、おしゃべりな女が多すぎます。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ何をしゃべり続けているのだろう? しゃべっているだけで楽しいのだろうか? そんなことを常々思います。でもお宅のお嬢さんは言葉はなくても実に賢い。中身のない無駄話ばかりしている世の女性どもに見習わせたいくらいです」

 このルキーノの言葉は全面的に受け入れることはできず、正直ちょっとカチンとくる部分もありました。でも、私を認めてくれているということは確かです。

「お願いします! やはり私はこれで引き下がるわけにはいかない! あらためて、お嬢さんをください!」

「そういうことですので、こうなったら私も引きさがれませんな」

 紳士もハンカチで額の汗をぬぐいながら、そう言いました。それに対して父は口を開いて、何か言おうとしていました。でも父が何かを言うその前に、私はふらふらと立ちあがりました。もうどうしたらいいか分かりません。父も見ると、父も立ちあがった私を見て固まっていました。私は黙って(当然ですが)、ふらっと部屋の外に出ました。

 そして、廊下を一目散に走り出しました。走れないはずなのに走りました。走らないといられない衝動が私を突き動かしたのです。走ればなんとかなると、私は思いました。とにかく私には時間が必要だったのです。突然訪れた衝撃を、頭の中で整理するだけの時間が必要でした。

 そして知らず知らずのうちに、涙がこぼれていました。ルキーノが最後に言った言葉はちょっとムカついたけれど、でも彼の真剣な思いも心にしみてきていたようです。私はそのまま走って、庭に出るつもりでした。少し外を走ってくれば、そうしたら……。

 でも、私の体がそんなことに耐えられるものではないことを、この時私は忘れていました。

 案の定、激しい動悸を覚え、立ち止まることを余儀なくされた私は激しく肩で息をしながら次第に意識が薄くなっていくのを感じていました。そして目の前に地面が現れるとものすごい衝撃でそれは私にぶつかり、そのあとのことは何がどうなったか分かりませんでした。


 果たして私は庭に倒れて、意識を失っていたようです。気がつくと、私はベッドで寝ていました。なんか、いつかと同じ状況です。大勢の人が心配そうに、私を取り囲んでいました。最初に私が目を開いたのを見たリーザは、すぐに母を呼びました。

「奥様! お嬢様が!」

 母も私のそばに駆け寄ってきます。そしてにっこり私に笑いかけるのです。気がつくと、のぞいているメイドたちや執事たちも、にこやかな顔をしています。そしてリーザが、最初に言いました。

「おめでとうございます!」

 それに合わせて、メイドたちも一斉に声を合わせます。

「「「「おめでとうございま~す!」」」」

 ――え? 

 私はきょとんとしていました。意識を失って、その意識を取り戻したことがこんなにおめでたい? でもみんな、心配していたけど気がついてよかったというふうな感じではありません。

 そしてリーザの次のひと言は、もっと衝撃的でした。

「ご婚約、おめでとうございます!」

 ――え? えええ? ええええーーーっっっ!!!

 ベッドのそばに父もいました。

「実はおまえが気絶してる間に、そういうことになったよ。すっかり押し切られてしまった」

 父はばつが悪そうに、そして照れたように笑っています。さらに、まるでトマトのような真っ赤な顔で照れまくっているのが、父の後ろに隠れるようにして立っていたルキーノでした。それを見て、私は思わず噴きだしてしまいました。ルキーノも笑い、連鎖して私のベッドの周りは笑いで包まれていました。私が気を失ってる間に勝手にことは進んで、話は出来上がっていました。

「事実、こうしてすぐに気を失うおまえの虚弱体質も目の当たりにご覧頂いて、それでこういうわけだからとさらにお断りしたのだけれど、それもすべて承知の上でお前の人生すべてを引き受けたいとおっしゃってね、そこまで言われてはね」

 私が結婚する?……今まであり得ないと思っていたことがあり得ることになって複雑な思い……だから、正直言って実感がわかないというのが本音でした。でも、嫌でも実感しなけえばいけない出来事も、いくつかありました。


 それから数日後、私は両親とともに馬車に揺られていました。馬車の後ろの席にはこれ以上積めないというくらいの野菜と果物が摘まれています。すべて私たちの村の畑で採れたブドウ以外の農作物です。

 目指すのは王都パピア。あの日以来、初めてあちらのご両親と私の両親が対面するのです。

 私は馬車の中にいる時からもう緊張のしっぱなしで、このままいつまでも都に着かなければいいと思ったくらいでした。ただでさえ真夏の太陽が照りつけて暑いのに、私はさらに緊張で汗だくでした。

 私は生まれて初めて村を出ます。一生出ることはないのと思っていたのに、です。村の外がこんなに広々と広がる大平原だったことを、私は初めて知りました。道の両脇はずっと畑です。平原といっても限りなく広がるわけではなく、遥か遠くを山に囲まれています。馬車の進む方向の右側、つまり北の方角の遠くに見えている山はかなり高い山のようです。遠いのでここからではそれほど高いとは感じませんが、近くに寄ればかなり高いような気がします。パピアはあの山の向こうではなく、手前だということでした。

 その遠くの山までは平原が広がっています。ところどころに牛が放牧されている牧草地があるほかは何かの畑のようですが、今は何も作物は植わっていません。ただ、平らな土だけの平原が広がっているだけのようにも見えます。それがものすごい広さです。遠くの山まで、遮るものは何もありません。

「あれはみんな小麦畑だよ」

 私が不思議そうな顔をしているのを見たからか、父が教えてくれました。

「ちょうど収穫を終えたばかりなのでね、それで今は畑に何もないんだ」

 私はこの後の父の話で初めて知ったのですが、私の村がブドウ栽培を生業なりわいとしているのは珍しい方で、この地方での主流は酪農と小麦栽培なのだそうです。ワインは上流貴族の生活には必需品で、そのためのブドウ栽培を指定される村が都の近くには点在し、そのひとつが私の村なのだということです。どの村でも農夫の方たちはブドウを栽培しているものと思い込んでいた私にとっては、驚きの事実でした。

 村の外には、こんなに広々と小麦畑が広がっているなんて予想外です。考えてみればブドウからできるワインはキリストの御血おんち、小麦からできるパンはキリストの御体おんからだともなり得るものですから、どちらも神聖なものです。そんなことを考えながら、ただ土だけの畑が広がる単調な景色を見ながら馬車に揺られていました。

 朝に村を出たのですが、夕方には都に着くと父は言っています。私のいる村は、意外と都には近い村だったのです。だから、ブドウ栽培を指定されたのでしょう。

 はたして日が高いうちに遠くに城壁が見え始めました。今は夏ですから、かなりの遅い時刻まで空は明るいのです。

 まるで大地の裂け目のような巨大な川が横たわり、城壁はその川向こうにあって近づいてきました。川沿いの道を進んでいた馬車は、対岸が巨大な城壁になったあたりで、川の方へ曲がりました。そのまま道は川を渡る石の橋になります。かなり長い橋でした。こんな長い橋も、生まれて初めてです。それが全部石を積んでできているなんて驚きです。その橋を渡りきったところから、城壁に囲まれた王都――パピアです。なんと巨大な、高い城壁でしょう。その城壁に丸く囲まれている形です。

「この王都は、大昔の帝国時代にアンニバレの侵攻に対する軍事拠点として築かれた町なんだ。だから城壁の門が今でも少々手ごわいぞ」

 父も少し緊張しているようです。

 橋の終点がすなわち門でした。そこに衛兵がいて、門を入ろうとするもの一人一人をチェックしています。

 私たちの番になりました。馬車には乗ったままです。衛兵が馬車の中を覗き込みましたが、父の顔を見て慌てて敬礼をしてそれでOKだったようです。私の父はすごい人だったんだなあって、この時初めて実感しました。

「帝国が滅んだあと、この地に侵攻してきたロンゴバルディ人による王国がこの土地に築かれて以来、それまでティチーノと呼ばれていたこのパピアが都となったのだよ。レニョディターリヤになってからも、ここが王都であることは引き継がれた」

 門をくぐりながら、父は言いました。城壁の向こうは、ただ畑が広がっていただけの大地とはうって変わって別世界でした。何しろぎっしりと建物が建っています。こんな光景は初めてです。しかもその建物はすべてが三階建てでした。三角の屋根もありますけれど、下から見ると箱が隙間なくぎっりしと並んでいるようです。壁は白亜か、黄土色の建物もありました。

 道はとても狭く、石畳のメインストリート以外は馬車も入れないような細かい路地が建物の間を走っていました。その路地は、ものすごい人の群れで埋め尽くされています。門を入ってすぐのあたりでいちばん目立つのは、ずんぐりとしたドームを持つ教会の聖堂でした。聖堂の前がちょっとした広場になっていましたけれど、それほど広くはありません。そして広場からは、多くの建物越しに威容を誇る王宮の屋根も遠くに見えます。

 ルキーノの家は、そこからすぐのところでした。やはり三階建ての、ぎっしり並んでいる箱の一つすべてがルキーノの家・ルッソ家でした。

 馬車が玄関に着くと、ルキーノのお父さんがにこにこして出迎えてくれました。一緒にいた使用人に、私の父は馬車の中の野菜や果物を運ぶように頼んでいました。

 早速中へ入ると、赤い絨毯じゅうたん螺旋らせん階段を上り、二階の日当たりのいい応接室に通されました。ルキーノとそのご両親、私と私の両親が向き合う形で、あいさつを交わした後にソファーに座りました。もう、私はこちこちに緊張しています。ルキーノもいつになく無口で、彼の場合は緊張しているというよりもどうも照れているようです。

 ルキーノのお父さんは、あの媒酌ほどではありませんがかなり恰幅のいい方で、でも頭は残念なことにかなり涼しいのです。そうなると、もしかしてルキーノも将来は……そこでハッと、彼とずっと一緒にいる前提の結婚生活を妄想している自分に気付いて慌て、照れてほかのことを考えることにした私でした。私の父もかなりの年ですがスマートで、そして頭髪はふさふさしています……って、こんなことを競っても仕方がないのですが、こんな妄想をしたお蔭で少しだけ私の緊張はほぐれました。

「いやあ、レッジェさん、久しぶりです」

 ルキーノのお父さんは、ずっと相好を崩しています。私の父はほんの少しだけ笑顔を見せているだけで、もしかしたら父も緊張しているのかもしれません。

「このたびはひょんなことでうちの娘を」

 父が座ったまま頭を下げるようにして言うと、すぐにルキーノのお父さんがそれを遮りました。

「まあ、堅苦しいのは抜きにしましょう、。私とあなたも幼なじみではありませんか。でも我われが村のガキ大将としてともに暗くなるまで土まみれになって遊んでいたあのころは、まさか我われの子供同士がこういうことになるなんて思いもしませんでしたな」

 ルキーノのお父さんは大声を挙げて笑います。私の父もつられて少し笑いました。でも、私は当然としても、さっきからルキーノまでもがひと言も声を発しません。それは自分の両親の前だからでしょうが、あの時すごい情熱で私との結婚の許しを私の父に懇願したルキーノとはまるで別人、子羊のようにおとなしくなっています。

「今日は村の野菜をたくさん運ばせました。あなたは今や大商人、だから高価なものを送り物にするよりもあなたにとって懐かしいと思うものを送ることにしました」

 父の説明に、ルキーノのお父さんはますますにこにこしました。

「それはありがたい。私の生まれ故郷の村からの便りです。どんな高価な宝石よりも、それは私にとって価値があるものでしょう。この屋敷はでかいけれども、なにしろ庭がない。だから本当にありがたいです」

 それから二人の父親は、それ以外の家人を放っておいて大人の会話にいそしんでいました。そのうち母親同士も、こちらは互いに初対面であるにもかかわらずあれこれと話し始め、こちらの方がむしろ取り留めもない話になっていました。

 私とルキーノのだけが取り残された形です。

 母親同士の会話は、もしそれが私とルキーノの結婚と将来についてならまだいいのですが、どうも全く関係のない方向へと話題はどんどんジャンプしていっているようです。

 私とルキーノは互いに顔を見合わせては苦笑を交わし、ひたすらこの時間に耐えていました。これが私の田舎の屋敷とかならば庭を散歩するといって抜け出せもできるのですが、このお屋敷はさっきのルキーノのお父さんのお話にもありましたように、庭が全くない建物だけの屋敷のようです。

 到着が遅かったので外はまだ明るいのですがもう、午後八時は過ぎていました。そろそろ暗くなり始めます。やがてメイドが食事の支度ができたことを告げに来ました。私たちはぞろぞろとダイニングに移動します。食事の間も大人たちは談笑を続け、私とルキーノはただもじもじとしてひたすら食事に専念していました。これでは結婚が決まった相手との食事というよりも、なんだか初めて会った二人のお見合いの席のようです。

 そして旅の疲れから、食事が終わるとすぐに、私は用意された寝室のベッドの上で眠りにつきました。でも、やはり慣れないベッドでは熟睡できていなかったようで、夜中に目を覚ましました。私はお手洗いをお借りすることにして、暗い廊下を歩いていました。すると、夕方の応接間の前を通った時、中から声がしました。

 私の父とルキーノのお父さんが、まだ休んでおらずに話を続けているようです。幼なじみの再会だけにつのる話があるんだろうと、私はそこを通り過ぎようとしました。でも、ふと中から声が聞こえてきて、私の耳にも入ってきてしまいます。しかも、夕方や食事の時のような談笑という雰囲気ではなく、声をひそめて真剣に話し合っているような気配を感じました。

 ――ブドウ畑の利権……買い取る……領主権……この結婚のお蔭……

 そんな単語が、とぎれとぎれに聞こえてきます。何のことを言っているのか、私にはよく分かりませんでした。でも、なんかすごく大事な話のような気がします。そして「この結婚」という言葉が出ていた以上、私とも無関係ではなさそうです。でも、それ以上聞き耳を立てるのも罪悪感を覚えるので、私は足音がしないようにそっとその場を離れました。


 翌朝はすぐに、パピアをあとにして帰途に着くことになっていました。

 皆に見送られて馬車に乗り込んで、私はもう一度箱のような屋敷を見ました。そして走りだした馬車から、町の様子にも目をやっていました。もうすぐこの町で暮らすことになる。あのお屋敷で生活することになる……そう思うのですが、どうしてもそれが実感となってこないのです。

 またまる一日の馬車の旅を終えて村に戻り、自分の屋敷に帰ったその翌日からも、もうすぐ結婚という一大イベントを控えているにしてはこれまでとなんら変わらない平凡な日常が続きました。その平凡さをぶち壊したのが、あの二人でした。――私にとってはあまり歓迎したくない二人――伯父と叔母がまたそろって屋敷にやってきたのです。

 ところが、今日は何かいつもと様子が違います。例によって父は不在ですが、叔母は下の部屋で母になんかすごい剣幕で突っかかっているのが私の部屋にまで聞こえてきます。私には敵意丸出しの叔母もこれまでは、母の前ではにこやかなふうを装っていました。少なくとも母に対しては穏やかに淑女的に接する人だったはずです。

 私はいつも叔母が来ると部屋に閉じこもり、呼ばれてしまったらしぶしぶ降りていくというパターンでした。でも今日ばかりは様子が気になったので、自分からそっと階段を下りていました。そして意を決して、叔母のいる応接間のドアのノブに手を掛けました。

 中では叔母と母は立ったまま向かい合っており、伯父だけがソファーに座っていました。私が呼ばれもしないのに来たので、母も叔母も、そして伯父も驚いた顔をしています。

 そして驚いたことに、母にはすごい勢いでかみついていた叔母が私の顔を見た途端、なんとにっこりと笑ったのです。私は首をかしげました。これではいつもと逆です。母は私の結婚を叔母に告げ、さすがに結婚ともなると祝福しようという心が叔母にもあったのでしょうか。

 でも、次の叔母の言葉はもっと意外でした。

「ああ、ティツィアーナ。おまえも不憫なだねえ」

 ――え?

 私の思考は停止してしまいました。叔母は目に涙さえ浮かべています。

「こうしていつの時代でも女は政治の道具にされる。おまえももっと下々の家に生まれていれば、こんな思いはしなかったのにねえ」

 この人は何を言っているのでしょう? 私はこの結婚がそんな悲惨なものだとは思っていません。たしかに実感はわかないけれど、ルキーノは優しいし、私を大切にしてくれるし、少なくとも嫌いな人ではありません。

「ヴィオレッタ! この子にそんなことを言うのはやめてもらえます?」

「いいえ、今回ばかりは許せません。お兄様も何か言ってくださいな」

 叔母はソファーの上の伯父にも詰め寄ります。

「まあ、俺はジャンが帰ってきたら直接言うつもりだがな」

「そうね。お義姉ねえさんに言ってもらちは開かないわね。お義姉ねえさんもどうせジャン兄貴の言いなりになっているだけでしょうから」

 母が父の言いなり? この結婚には父は最初は猛反対していたのだけれど、叔母はそれを知っているのかしら?

 私は首をかしげ、すぐに反対側にかしげ直し、また反対にという動作を繰り返しました。

 ――いったいどういうことですか? 何が何だかわからない。

 そう言いたいってことを、身振りで示したつもりです。

「あなたは知らなくていいのよ」

 母はそうたしなめますが、その母と私の間に叔母は割って入ります。

「いいえ、知っておいて貰った方がいいわ」

 叔母は一つ、咳払いをした。

「この間、レジェ家のブドウ畑はすべて私のガストーニ家が相続する、うちのカルロのものになるってそう決まったばかりなのに、そのあとで降って湧いたようにして持ち上がってきたあなたの結婚話によって総てが覆ったわ」

 どういうことか、まだよく分かりません。

「ヴィオレッタ!」

 母がまた叔母をたしなめますが、叔母は聞きません。

「ティツィアーナ。あなたが結婚しようとしているルッソ家が、ブドウ畑をすべて買い取る、そしてそこで働く小作ともどもこれまで通りレジェ家の管轄下に置くことにするって、そういう話になったっていうじゃないの」

 そんなことを私に言われても話自体が初耳ですし、どういう仕組みになっているのかよく分からない私にとっては、どんなリアクションを見せていいのかさえも分かりません。

「総てが何もかもおしまいだわ。私の婚家のガストーニ家をこんなにないがしろにした話なんてある? それであなたが嫁ぐルッソ家は見返りとして県令補佐官であるジャン兄貴が計らってパピアでの商売の独占権を与えられることになるそうじゃないの。まあ、これは確かに、双方にとって限りなくめでたし、めでたしの話だわ。それぞれが自分の欲望のために動いて、その欲望を満たすために知恵を絞る。そしてそのために、あなたは利用されたのよ」

 そうして叔母は、私に顔を近づけました。

「だからあなたがかわいそうでならないのよ」

 その目からは本当に涙があふれて、やがてこぼれて頬に筋を作りました。

 今日、この叔母は本気で私のことを心配してくれている、と思いました。でももしかしたら、自分の嫁ぎ先のガストーニ家の利権だけをただひたすら守りたいという、それもまた一つの欲望だけでこうして躍起になっている可能性も十分にあります。ただ、叔母の涙を見て、これまでの叔母に対する私の憎悪がほとんど消えていることに気がつきました。

 それでも、私の今の生活は目に見えない手にぐいぐい引っ張られて、結婚へとひたすらに引き寄せられています。もうその流れに乗るしかなく、私がどうこうできる状況ではないのです。

「あなたも大人になりなさいな」

 この叔母の言葉はの真意は、私には今一つ理解できませんでした。私の結婚の意義というものを大人としての意識でしっかりと見据えた上で、それに自分の意志であらがうのが大人なのでしょうか? それとも、世の中とはそういうものだということを理解して受け入れるのが大人なのでしょうか?……分かりません。いずれにせよ、もはや私にはどうすることもできません。

 そんなとき、伯父が立ち上がりました。

「ジャンはまだ当分帰ってきそうもないし、とにかく今日のところは出直そうか」

 そういってまだ不服そうにしている叔母をつれて、伯父は外に出て行きました。母はソファーに座り込み、両手で顔を隠してため息をついています。

 私はこの時初めて、結婚とは本人と本人の問題ではなく、家と家の問題、ひいてはそれそれの家の利権までもが絡む社会的なものであるということを認識したのです。そしてその社会とは欲望と欲望のぶつかり合いなのではないのかという気もしてきて、状況がよく分からないので何とも言えないながらも、なんだか嫌な気分になっていました。


「今日のところは出直す」と伯父は言いましたが、それから伯父と叔母が私の屋敷に姿を見せることもなく、季節は秋を迎えつつありました。

 その代わり、ルキーノはこれまで通り適宜な間隔で訪ねて来てくれます。その時はいろいろと将来のことなどを語り合ったり(もちろん、私は筆談です)するのですが、未来のことは何がどうなるのか全く分からないというのが正直な私の心でした。具体的には、今の世の中の情勢とも絡み合う形で決めざるを得ませんでした。

 来るたびに刻々と変わる深刻な状況を、ルキーノは私に語ってくれます。前から動きのあったスポレート公グイドが反乱を起こすであろうことはほとんど必至で、そうなると最悪の場合、王都パピアは戦場になるかもしれず、一般市民まで巻き添えになる危険性があるとのことです。

 そもそもそれが、本来この田舎にルキーノがやって来ていた理由でしたから、私と結婚した後も彼はこの村に留まりたいようなのです。

「それに、前と違って今の私には、守らなければならない人がいます」

 その言葉が彼の優しさだと、私は感じました。

 そういったこともあって婚礼はこの村で、そのあとの新婚生活もルキーノが私の屋敷に住むという形にするということで、私の両親とも話し合いがつきました。今の世の中の状況を考えると、父も母も反対のしようもありません。彼のご両親もすでに承知しているとのことです。

 さらに、秋のブドウの収穫が終わったら、私たちは結婚ということになりました。「私たち」という言葉を使うこと自体、なんか照れを感じ、くすぐったくなってしまいますが……。

 なぜブドウの収穫が終わってからなのかというと、私たちの村ではこのブドウの収穫が年間最大のイベントで、いわば一年に一度の村のお祭りといっても差し支えないほどだからです。ですから、それが終わってからでないと村全体が落ち着かないのです。

 私たちの村で収穫されるブドウはすべて白ブドウですけれど、別に白いわけではなく、薄い黄緑色です。紫や藍色のブドウを黒ブドウというのに対して白ブドウというのであって、白ワインの原料になります。当然、黒ブドウが赤ワインの原料です。

 当日、空は晴れ渡り、暑くもなく寒くもない過ごしやすい季節で、天候ばかりでなく景色も一年を通して一番美しい時期です。山や森の木々は色づきはじめ、空も透き通るような青さを見せます。 

 そんな中を村人たちは全員が早朝から総出で、一斉にブドウを刈り取っていきます。何しろ短い時間で相当量の仕事をこなさないといけないのです。

 重労働なだけにただひたすらブドウ狩りをしていたのでは、村人たちの心も滅入るし、体も余計に疲れます。そこで、力仕事をしている時でもそうでない時でも、人々は陽気に騒ぎながら仕事をし、時には働きながら歌いだす人も少なくありません。それに合わせて女子供が踊ったりもして、また歓声が上がります。

 そんなことで、この日は村に笑いと騒ぎ声が絶えない一日となるのです。男たちの力仕事だけではなく、女も子供もほぼ全員がブドウ狩りの祭りには参加します。働く男たちの食事を準備したり、雑用でせわしなく飛び回ります。でも、そこはやはり女性、若い娘であろうとお年を召した婦人であろうとかかわりなく、三人以上の女性が集まってしまったら最後ぺちゃくちゃぺちゃくちゃともう手よりも口の方が激しく動きます。でもまた、一年に一度のお祭りは、そんなことがまた楽しみなのです。

 大きな袋に詰められて、荷台に次々にブドウが乗せられていきます。それを運ぶのも一苦労で、苦労が大きい分だけ大騒ぎで歓声が上がります。

 やがて夕方になるころには、村中にブドウの甘い香りが漂います。ワインを作るためのブドウ踏みが始まっているからです。これは老いも若きも男も女も村全体が一つにになってかかわる行事で、村のあちこちで一段と笑い声も上がって大騒ぎです。

 私たち一家は毎年、この日のためにわざわざ庭に設けられた観覧席で、この秋のバカ騒ぎの一日の一部始終を見物することになっています。でも今年は、私の隣にはもうルキーノがいました。このお仕事さえ乗り越えたら、あとは農閑期に入ります。そうなったらいよいよ、私たちの結婚式です。


 そのいよいよの日がとうとうやってきてしまいました。ルキーノの両親も、王都から到着しました。でも、私たちの結婚式は、なんだか変でした。

 普通の結婚式では、新郎も新婦もそれぞれ自分の家から親に付き添われて結婚式の会場である教会に向かうものです。でも私たちは、私とルキーノがそろって私の屋敷から同じ馬車で教会に向かうという、不思議な状況で式の始まりとなりました。

 私の両親も、私が結婚してお嫁に行ってしまうとしても、実質上はこれまでと何ら変わりなく同じ家に住み続けるのだし、逆に家族がもう一人増えることになるので、寂しさを感じている様子などあるはずもありません。

 まずは教会の聖堂の入り口前で、結婚式は始まります。双方の両親をはじめ、親戚や友人などのいわゆる参列者は教会の入り口を囲みます。さらにそれを取り囲むように、村人たちがほとんで集まって来ていて、遠巻きに囲んでいます。式が最初には教会の入り口の外で行われるのは、こういった一般の多くの村人たちにも目撃してもらいたいということもあるようです。

 広場の一角に設けられた特別席には双方の両親、そしてさらに貴賓席には領主である伯父の姿がありました。また、参列者の中には叔母とその夫や子供たちの姿も見えます。伯父は領主ですし、ほかも私の親戚なのですからいて当然で、むしろいなかったりしたらおかしいのですが、これからどんなふうにこの人たちとの関係が展開されていくのか全くもって未知数でした。

 この日の私は赤を基調としたドレスに宝石のちりばめられた冠、ルキーノもやはり赤系統の衣装でした。私は髪をほどき、薄いベールでその髪を覆っています。さらには、別の一枚の大きなベールを二人で顔までかぶっていました。

 そんな私たち二人は教会の入り口の前の石段にひざまずいて神父様の祝福を受け、誓いの言葉、指輪の交換と続きます。誓いの言葉は私は口に出して唱えることはできませんので、事情を知っている神父様のご指導で、誓いの言葉が書かれた文面を指でなぞり、うなずくという形で許してもらいました。

 すると突然、参列者たちが殴り合いを始めました。周囲の見物の村人は別として、正規に参列している人たちが隣に立っていた人の頬を平手打ちしたり、頭を殴ったりしています。誰も止めません。そして、殴った方も殴られた方も笑っています。

 これは、この結婚式が間違いなく行われたということを人びとが殴り合って、その痛さによって記憶に刻んでおこうということらしく、この国だけでなく隣の、またその隣国でもどこの町や村でも結婚式では必ずやる儀式なのだそうです。

 それが終わると、いよいよ御聖堂おみどうの前の扉が開かれ、神父様を先頭にしてそのあとに私たちが続くという形で御聖堂おみどうに入ります。参列者全員が御聖堂おみどうに入りきるまで十分くらいかかりました、

 そして、結婚式のミサが始まりました。その間も、私たちは祭壇の前に跪いたままで、膝が痛くてたまりません。ミサの間中は、聖書朗読やお説教の時以外は神父様の背中しか見えません。厳かな儀式ですが、私はいつものミサと違う極度の緊張から時々気が遠くなりかけましたけれどなんとか持ちこたえ、こっそりとルキーノの横顔を盗み見たりしました。彼も緊張しているのでしょうか? どうも涼しげな顔をしているように感じられます。

 今日から、この人が私の夫なんだ……まるで自分に言い聞かせるように心の中で呟きます。そうしないと、まだ心のどこかに違和感があるというか、実感がわかないからです。その感じた違和感とは……夏の初め以来のあっという間にこんな流れの中、抗うこともできずに流されてきたけれど、そこに自分の意志が介在していたかどうかということによるみたいです。……でも、そんなことはいいんです。問題は将来これからです。

 ルキーノはこんな小さな私を見つけてくれた、そして選んでくれた。でも私はそれに応えることができるのか……はっきり言って、まだ分かりません。そんなことをぼーっと考えているうちにミサは終わり、膝の痛みからも解放されました。

 そのあと、私の屋敷で宴会です。多くの方が参加して祝福をしてくれました。

 でも、そんな華燭の典に一気に水を差す情報が、この会場にもたらされました。もちろん執事が父に耳打ちしたことが後でそれと分かったのであって、この祭典の席上では父は誰にもそれを公表しませんでした。宴が終わってから、父は私とルキーノをひそかに別室に呼んでそれを告げたのです。

 それは、私たちがちょうど教会で結婚のミサを挙げようとしていたその時刻に、スポレート公グイドがついに反乱の兵を挙げたのと知らせでした。


 結婚したといっても私はそのまま生まれ育ったこのお屋敷に住むのですが、その日を境に大きく変わることがありました。それは当然といえば当然のことなのですが、これまで私の部屋だったところは今後は夫婦の寝室になるのです。つまり、これまでたとえルキーノがこの屋敷に泊まっていくことがあったとしても、彼はいつも私とは別の客間で休んでいました。

 今日からはルキーノはずっとこの屋敷に住みますし、私と同じ部屋で過ごすのです。

 そして、最初の夜です。二人が結ばれる夜です。羞恥心で緊張する私に、彼は優しかった。これが結婚、これが夫婦……なんか納得したようなしていないような……。

 そして彼の裸の胸に顔をうずめている時も、気になって仕方がないことがありました。彼は私が全く別のことで何か怯えていると機敏に察してくれました。

「戦争が始まったということだけれど、この村は関係ないさ。前にも言ったけど、ここが戦場になることはないだろう」

 彼はそういってにっこりと笑いました。包み込むような笑顔で少しは安心しましたけれど、どうしてもぬぐいきれないような不安が私にはあったのです。

 そして私の不安は的中してしまいました。

 二、三日後の夕刻、村に都からの伝令を伝えるということで、多くの軍人さんが五人ほどやってきました。

 みんな甲冑かっちゅうを着けて、馬に乗ってきました。まずは私の伯父で、小領主であるサヴィーノの屋敷に軍人さんたちは向かったとのことです。情報は、ルキーノが聞いてきてくれます。伯父の屋敷は領主だけあってほとんどお城と呼んでも差し支えないような大きさでした。ちょっと小さめのお城です。そこに何時間かいた軍人さんたちは村に戻ると、村の中央にある私たちが結婚式を挙げた教会の前の広場に村人全員を集めるよう指示しました。

 我が家では父が行くべきところですが、父も県令のお屋敷で仕事中ですのでルキーノが代理で参加しました。私も一緒に出かけました。

 その時発表されたのは、今回の戦争で兵力が足りないので、王国内でも都から近い村の十五歳以上三十歳未満の男を全員、兵として徴収するということでした。

 突然に降って湧いたような災難に、村人たちはパニックとなっていました。でも、私の夫のルキーナはこの村の出身だけれども今はこの村の人ではないし、今もほんの一時的に私の屋敷に住んでいるだけなのだから、この話の対象外です。だから、戦争に行くことが決まった息子や夫の手をとったり抱きしめたりしている村人の母親や妻の姿に心を痛め、お気の毒にと思うしかできませんでした。

 そうこうしているうちに、都の方角から大量の馬車が砂ぼこりをあげて走ってきました。徴兵となると時間的猶予は与えられません。逃亡を防ぐためでしょう。軍隊から見たら、多くの兵隊は消耗品でしかないようです。

 広場に集められた村人たちのうち、該当者は帰宅すら許されません。先ほどの甲冑を着た軍人さんが剣を抜いて威嚇し、広場の真ん中に集めています。そこには約四、五十人の若者が集められていました。

 彼らの剣はルキーノにも向けられました。

「わ、私は違う」

 ルキーノは両手を挙げて慌てて説明しましたが、彼らにとってルキーノと村の若者と何の区別もつきません。

「黙れ! 早く集まれと言っているのだ!」

 私は思わず飛び出しました。でも、飛び出したところで、私は彼の身の上を軍人さんたちに大声で訴えることなどもできません。ただ黙って取り押さえられただけです。

 その時、我が屋敷の執事長が、息を切らせて走ってきました。

「お待ちください。そのかたは本当に違います」

 軍人も、県令補佐官の屋敷の執事長とあっては邪険にできないようで威儀を正しました。

「その方は領主様のサヴィーノ・レッジェ様の弟、県令補佐官のジャン・レッジェ様の娘婿ですぞ」

 ルキーノに剣先をつきつけていた軍人も、ハッとした顔をして慌ててその剣を引きました。

「いやあ、随分乱暴ですね」

 ルキーノは苦笑していました。

 その時です。ルキーノの騒ぎに乗じて、広場の中央に集められていた若者の中の一人が逃げ出しました。

「嫌だ、嫌だ! 戦争なんて嫌だ!」

 そう叫びながら若者は、自分の家の方角と思われる方に向かって走っていきます。でも、そう簡単に逃げられません。軍人の中の一人がひらりと馬に飛び乗り、逃げた若者を追いかけます。瞬間にして若者に追いつき、馬がその行く手を遮って軍人さんが抜いた剣で若者を元の広場に誘導しようとしました。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 若者がそれでも逃げようとするので、軍人さんの剣が振りおろされました。バサッと若者が倒れる音がしました。次の瞬間、切られた若者の体は一瞬にして消滅しました。

 人びとは静まりかえって、息をひそめていました。あまりにも生々しい残酷なシーンを目撃してしまった村人たちは、もう言葉もありません。広場の真ん中の若者たちの何人かは、寒くもないのに震えだしました。

 その若者の家族と思われる女たちが、狂乱状態で泣き崩れています。私も思わず両手で口を覆っていました。この時受けた心の傷は、ちょっとやそっとでは癒えそうもありません。それは、この軍人さんたちに逆らえるものは誰ひとりとしていないといううことをはっきりと物語っていました。

 沈黙の空間の中、軍人の中でもお年を召した方が取り繕うように咳払いをすると、紙を開きました。

「ご領主サヴィーノ・レッジェ様より、村の若者のリストを頂戴してきた。今から名前が読み上げられた者は今日この時刻からただちに国王ベレンガーリオ陛下の兵として存分に働く栄光を賜る。ありがたく頂戴いたせ!」

 そうして、次々に名前が読み上げられ、その場でどんどん馬車に乗せられます。半狂乱ですがりつこうとする母親や妻、その他の家族などは軍人さんの剣に阻まれて近づくこともできず、絶叫だけがこだましていました。

 そして最後に、私は世界が凍りついて止まるのをはっきりと感じました。

「ルキーノ・ルッソ!」

 なんと、ルキーノの名前もしっかりと呼ばれたのです。一度は釈放されたルキーノも驚きの表情を隠し得ません。当然のこと、広場の中央にはもう誰もいません。

「やれやれ、どういうことかご説明いただきましょうか」

 先ほどもその名前を聞いた途端に軍人さんたちは威儀を正したので、ルキーノも余裕です。

「あなたが、そうでありますか?」

 逆に、軍人さんの方がルキーノに確認を求めています。

「そうですが、なぜ私の名前がここに? その名簿は何かの間違いでしょう?」

 ルキーノは軍人さんが持つ徴兵者名簿を指差しました。

「間違いではないよ」

 そこに現れたは、領主で私の伯父のサヴィーノです。いつものように叔母の姿もありました。

「私がそこに名前を書き入れ、サインした」

「どういうことでしょうか」

 ルキーノはさすがに言葉を荒げて、伯父に食ってかかります。

「君もこの村で暮らす以上は、この村の若者。それ以上でもそれ以下でもない。今や王国は存亡の危機にある。領主の身内だからとて特別扱いするわけにはいかない」

 そう言われてしまえば、ルキーノは何も言えないのでしょう。でも変です。私はすぐに気付きました。伯父にとっては甥、つまり私にとっては従弟いとこのカルロは先月十五歳になったはずです。でも、カルロの名前はその名簿にはありませんでした。

 その時、激しい馬の蹄の音が響きました。

「ちょっと待って!」

 馬で駆けてきたて叫んだのは、私の父でした。父は馬から飛び降りると、領主であるその兄に詰め寄りました。

「様子を見に来たら、うちの執事が息を切らせて走って来るところだった。なぜ、ルキーノを戦場に送るんだ!?」

「だから今も言っていたのだがね、領主の身内だからといって特別扱いはできないのだよ」

「そんな、ルキーノはまだ新婚なんだよ。それは兄さんだって知っているだろ」

 父はさらにキリっとした形相で、自分の兄と妹をにらみつけました。

「ブドウ畑の利権の件での腹いせのつもりかっ!」

 伯父は何も答えません。そして冷たく大きな声で叫びました。

「領主は私だ! 私が領主なのだ!」

 そしてルキーノを連れていくように、軍人さんに目配せしました。

 今、夫は戦場へと連れて行かれようとしています。私はどうすればいいのでしょうか。どう振る舞えばいいのでしょうか。私は抵抗したところで、叫び声も上げられない私は取り押さえられて終わりです。

 一時は目の前が真っ暗になりました。これは比喩ではなく、本当にもう何も視界に入ってきません。周りの世界が真っ暗になって、この時何をどう思考したのかもよく覚えていません。ただ、今は気丈にお見送りするしかないと漠然と考えてわれに戻りました。

 私はルキーノの方を向いて、目にいっぱい涙をためながらも黙って深々とお辞儀をしました。ルキーノは私のそばまできて、私の手をとりました。他の村人では許されなかったことです。やはり領主の姪婿ということで、軍人さんも大目に見てくれているようです。

 私は、紙もペンもない今、何も彼に伝えることはできません。こんな時代に生まれなければ、もっと平和な時代に、平和な国に生まれていれば……ひしひしとそう感じます。

「きっと生きて帰ってくる。無事に帰ってきたら、うんと幸せな家庭を築こう」

 ――ちょっと、それやめて!

 私は叫びたかったのです。そんな不吉なことは言ってほしくない。そんなことを言って戦場に赴いた人が生きて帰って来ないのは、ある意味お約束だからです。でも、それを伝えることはできません。彼は馬車の荷台に詰め込まれるようにして乗りました。

 わすか数日間の新婚生活、それが突然こんな形で引き裂かれる……これも運命と受け入れるしかないのでしょうか……?

 戦争が始まったと聞いた時点で、やはり心の中には少し不安もありました。ルキーノはこの村への影響はないとは言っていましたけれど、全く何も影響がない訳はないと薄々感じていたのです。ただ、具体的なことまでは予想できませんでした。それが今、こんな形で現実のものになってしまったのです。すべてが想定外でした。

 馬車はすでに出発してどんどん村から離れていきます。あの人は私から離れていきます。

 折しも、かなり日没の時間も早くなっていて、夕陽があたりを赤く染めています。悲しいほどに真っ赤な世界の中で、私はとうとう泣き崩れました。

 その時です。そんな私の心を総て知り尽くしたような、不思議な声が心の中で響きました。

 ――Non piangere, Signora!……

 老人の声のようにも感じました。それでも私は、無言で泣き続けることしかできませんでした。

 ――今、目の前で起こっていることはすべて仮想現実レアルタ・ヴィルトゥアーレだ。真実ではない……

 なんだか懐かしいようなデジャヴを感じる言葉に、私は頭がくらっとしました。もちろん、そんな言葉をいつ、だれから聞いたのかなどとは思いだせません。私ははっとして、泣くのをやめていました。


 それからというもの、私は抜け殻のようになってしまいました。

 結婚しても同じ屋敷に住むのだから、これまでとあまり変わることはないと思っていました。事実、変わったのはルキーノが共に暮らすようになったことだけでしたけれど、それもたった三日で奪い去られ、本当に全く元の生活に戻ってしまったようです。ここ二、三日は、私は昼間は夢遊病者みたいにお屋敷の庭をふらふらを歩き、疲れたら腰を降ろして休んでぼーっとしているようになりました。本当に何も考えていないのです。

 そしてとうとう、、執事もメイドも私から目を離しているすきに、私はお屋敷の門から外に出て収穫の終わったブドウ畑の中を歩いていました。ルキーノとの思い出の教会、そしておぞましい村の広場……そこへは行きたくなかったので私は足を反対側に向けると、道は必然的に森の中へと入っていきました。

 森の中では小鳥のさえずりも聞こえます。でもその時の私には、なぜ小鳥たちはこんなにも歌い続けているのか理解できませんでした。そういえば森の中の風景は、これまでと何ら変わりありません。私が小さいころのままです。そもそもこの村の風景は、私が生まれてから十八年間変わっていません。

 しばらく歩きまわるつもりで来たけれど、どうにも足がふらふらします。そして走ったわけでもないのに、肩で息を始めました。とにかく、もうだめ。限界です。今日はここまでにしましょう……。私はお屋敷に帰ることにしました。

 でも、ここはどこなんでしょう? かなり遠くに来すぎたようです。仕方なく私はとりあえず向きをかえて、歩いてきた方向へと森の中を進むしかありませんでした。

 その時です。それは本当に突然でした。それまで、人の気配など全く感じていなかったのです。木々の間から私の目の前に現れたのは一瞬、クマ?…と思って私は息を呑みました。でも、それは人間だったので、ほんの少し安堵の息を吐きました。けれど、その安堵もまた一瞬だけでした。

「これはこれはご領主様の姪御さん、シニョーラ・唖女ドンナ・デル・ムート、ごきげんよう」

 私は返事のしようもありません。本当にクマのような大きな体格の男……。若者というよりも三十歳は超えているでしょう。当然です。三十歳未満の男性はすべて戦争にとられているのです。

 男は口調こそ丁寧でしたけれど今にもつかみかかりそうな様子で、目を血走らせて迫ってきます。服装からも、村のブドウ畑の農夫のようです。

「ひょんなところでお会いしますな。しかもタイミング悪く、ここなら誰も来ないと思って一人で楽しんでいたのに、いや、ちょうどいいタイミングというべきかな?」

 うすら笑いを浮かべます。それまで怖そうな顔にばかり気を取られていましたけれど、この人、下半身には何もつけていないのに気がつきました。しかも、なんとそびえたった……

 私は驚いて、慌てて眼をそらしました。

「邪魔をしてくれた責任は、取ってくれますよね」

 いったいこの人はこんな森の中で、こんな恰好で一人で何をしていたんでしょう……? でも、そんなことを考える余裕もなく、私は両肩を男につかまれました。そして、私の体は激しく木々の間の地面に押し倒されたのです。本当ならばここで悲鳴を上げるところでしょう。でも、私にはそれができないということも、大声で助けを呼ぶこともできないということも、この男にとっては計算くだったのかもしれません。背中も頭も木の枝などが転がる硬い地面に押しつけられているのですから、その痛さは尋常でありません。でもそんなことも感じないほどに、私は恐怖におびえていました。

 ――やめて! お願い! 放して!

 私は心の中で思い切り叫びましたけれど、それは音になって響くことはありません。力づくで抵抗しましたけれど、クマのような体格の男の力にかなうはずもありません。とにかく逃げたい! 怖い! 怖い!

 男の手が、私の体をまさぐります。服が引き裂かれる音がします。私は思いきり暴れましたけれど……無駄でした。

 それから後のことは思い出したくもありません。これ以上言いたくもありません。もっとも、思い出そうにも頭の中が真っ暗になっていたので、何も覚えていないのです。恐怖に身を固くし、そのうち意識が遠のいていきました。

 気がついたときは、すべてが終わっていました。男の姿はもうありませんでした。体中が痛い。あちこちすりむいて、血も出ています。でも体の傷よりも、私の心につけられた傷の方が何十倍も深刻でした。私は倒れたまま、とめどなく涙を流していました。

 私は汚された……悲しくて、悔しくて、そして恐ろしくて……あの恐怖の感覚がまだ残っています。そしてルキーノに対しても、申し訳ないという気持ちでいっぱいになりました。

 ――彼に合わせる顔がない……。

 ルキーノと離れ離れになってから、まだたった三日しかたっていないのに……。

 私を襲った男はおそらく私が口がきけないので、自分の特徴などを人に言えないから自分の身元も割れないと思ったのでしょうか……? あの男がいた所に私がたまたま通りかかったというのは本当でしょうか? もしかしたら待ち伏せしていた……あるいはずっと私を狙って後をつけていた……それは分かりませんし、そんなことはどうでもいいという気がしました。とにかく私は何をどう考えたらいいかも分からなかったのです。

 しばらくしてから私は近くに散在していた自分の服――それはもはや布の切れ端と化し、服とはいえなくなっていましたが――をなんとか体に巻きつけて力なく立ち上がりました。

 そのあと、どこをどうやって歩いて自分のお屋敷まで帰ったか、全く覚えていません。次に気がついたら、私はベッドの上でした。私が帰宅した時の姿を見れば、私の身の上に何が起こったのか、いちいち説明しなくても誰にでも分かります。ただ、母も急遽帰宅した父も、誰にやられたのかとその一点張りでしたけれど、口がきけない私がうまく説明できるはずもありません。それ以前に、いくらその時のことを聞かれても、もう私は思い出したくもないのです。

 父は私にペンと紙を渡そうとしますが私はそれを拒み、とにかく眠りたい旨を必死で身振りで伝えました。それでみんな部屋から出てくれて灯りが消されました。今の私ができる唯一の現実逃避、それは眠ることでした。


 翌日も浴室で体を洗った以外は、私はベッドの上で一日を過ごしました。食事ものどを通りません。父も母もそんな私を気遣って、あまり多くのことを私に語りかけることはしないでくれました。

 父が私に言ったたった一言、それは「忘れろ」ということでした。私も忘れたかった。

 そうして一日寝て過ごしてさらにその翌日もまだ私はベッドの上にいましたけれど、ようやく少しは冷静に考えることができるようになり始めました。

 あの男の顔は初めて見る顔でした。同じ村の住人なら、日曜日に教会でいつも見かけているはずです。でも、教会で見たことはありませんでした。それで私のことを、領主様の姪と言いました。おそらく、伯父の領有する領地の別の村の者でしょう。父の仕える県令が動けば、すぐにでもどの村の誰か特定できるかもしれませんが、私は知りたくありませんでした。知ったところでどうにもならず、むしろ思い出したくない忌まわしい出来事の記憶が生々しく戻るだけです。そんなの絶対に嫌です!

 あの男は、どうしてあんなひどいことを私にしたのか……私が恨みや怒りなど買っていたとは思えません……嫉妬される覚えもありません……そうなると理由はただ一つ……私はあの男の抑えきれない性欲のはけ口にされたにすぎないのです。つまりは、欲望です。

 私は、つい数日前までの、それでいてはるか遠い昔のことのように思えるルキーノとのたった三日の新婚生活を思い出しました。そのルキーノとの夫婦の交わり、そして今回の男の欲望に任せての仕打ち……どちらもその行為そのものは同じ行為なのです。でも何がこんなに全く違うものにしているのでしょう……? よく分かりません。片や欲望に動かされての行為……でも、結婚もまた欲望とは無縁ではないことを私は感づいてきたはずです。そのルキーノは、欲望と欲望の一番激しいぶつかり合い……すなわち戦争の真っただ中にいます。

 他にもブドウ畑の利権に対する欲望……いろんな欲望にがんじがらめになって、そんな中で叔母は「大人になれ」と私に言いました。その言葉の真意は、いまだに分かりません。ただ、私はこんな中にあっても、声を挙げることすらできなかったのです。

 そんなとき、また心の中で、あの声が響きました。

 ――今、目の前で起こっていることはすべて仮想現実レアルタ・ヴィルトゥアーレだ。真実ではない……

 だから私は声を発しなかったのです。え? 発せないのではなく、発しなかった? その時また、私の腰のあたりで例の小さな光る箱が現れて、浮かんでいました。そこには五枚のカードに、また新しくもう一枚のカードが加わりました。その六枚目の赤いカードには「LUST」と書かれていました。「ルーストゥ」? やはり意味が分かりません。

 ――カードはあと一枚……

 心の中で、またあの不思議な声が響きました。

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