第6章

 思えば物心ついたときから、私は不幸な子供でした。

 父はその地方の役人、県令に次ぐ地位の人なので、それなりの立派なお屋敷に住んでいます。母は父の言うことを何でも聞く優しい人で、子供の目から見て父と母は仲良しだと思います。

 私は一人っ子。兄弟姉妹はいません。

 いつも優しいばあやと、私を妹のように可愛がってくれる姉のようなメイドのリーザがいつも一緒で、私の身の回りの世話をしてくれています。

 ばあやはいつも私を美しく育ったとを、昔のことを引き合いに出しては目を細めて心から嬉しそうに言うのです。リーザも私の長いブロンズの髪をいつもうらやましがり、彼女自身かなりの美人だと私は思うのですが、そんな彼女が私を羨望の目で見るのです。

 おこがましくて自分の口からはとても言えませんけれど、でもそういうことなのです。鏡を見ても、そこに映った自分の姿を見て時々うっとりしていたりするのです。こんな絵に描いたような幸せに包まれている私のどこが不幸なのかって? こんな生活を不幸だなどと公言したら、父が治める領内の多くの民が謀反ののろしを上げるかもしれないですって?

 怖い! 私は争いが大嫌い、いえ、憎んでいます。徹底的に憎悪しています。でも、幸いこの屋敷の中には争いはありません。

 両親に恵まれ、財力に恵まれ、安定した生活に恵まれ、身の回りの環境に恵まれ、容姿にも恵まれている、そんな私……。そんな私がなぜ生まれてから十八年間も不幸だったのかというと……それは……。


 そもそも幸せってなんでしょうか?

 人が幸せである三つの要素、それは健康で、争いがなく、財的にも不自由のない生活だと思うのです。この三つがそろって崩れない……一つでも欠けていてはだめです。そう、私は、欠けているのです。何が欠けているのかというと、最初の一つ……「健康」が欠けています。あとの二つは有り余るほどあっても、最初の一つが欠けているのです。

 小さい頃から私は病弱でした。それに加え、いろいろな不幸な出来事が連続しました。お見せできませんが私の右腕から背中にかけての皮膚は、今も赤くただれています。その時のことを実は私は全く覚えていないのですが、まだ一歳にもなる前、私が歩きだすよりも前のことだったそうです。

 その時は冬で、外は雪がちらついていたそうです。たまたまその時、居間に入ってきた母が見たものは、火だるまになって燃えていた私の姿だったそうです。

 当時のり役は、名前は忘れましたがかなりのおばあさんで、私が眠っていると安心しきってベッドのそばの椅子に座って編み物をしているうちに、そのおばあさんも眠ってしまったのだそうです。普通の赤ちゃんなら大声で泣いて知らせるでしょうが、あとで言うように私にはそれができなかったのです。

 子供用のベッドですからそんなに高くはないのですが、まだ歩きだす前の私がどうやってベッドから降りたのかは今でも謎です。とにかく私は床を這って進み、赤ん坊特有の好奇心からか、盛んに燃えさかっている暖炉へと向かいました。

 赤ちゃんはたいてい火を怖がるものだと思います。中には極端に火を憎む赤ちゃんもいるとのことです。でも私は戦いは憎んでも、火を憎んだりはしませんでした。むしろその熱と光を求めていたようです。生まれて来る前は、よほど暗くて冷たい所にいたのでしょうか? もちろん、覚えているわけがありませんが、少なくとも火で焼かれるような世界にはいなかったようです。もしかしたらその時の私は、自分がいた世界を鮮明に覚えていたのかもしれません。

 不思議なことに、成長してから教会の神父様にそんなことを筆談で聞いてみました。

 教会は死んだあとの世界のことは教えてくれます。天国で主のみもとで楽しく暮らすか、地獄の業火に焼かれるか、煉獄で魂を浄めるか……でも、生まれて来る前の世界ということについては何も教えてくれませんし、聖書にも何も書かれていません。人はいずこより来たりていずこへ行くのか……つまり教会はその「いずこへ行くのか」は教えてくれますが「いずこより来たるか」については沈黙のままです。

「そういう世界は、ない。人は一人ひとり、母親の胎内に宿る時点で神の命の息が吹きかけられ、初めて霊魂が入るのだよ。生まれて来る前にどこかにいたなんてことはないと思うがね」

 それが、神父様の答えでした。でもそれは、あくまで神父様が「思う」という答えなのです。

 話がそれましたが、とにかく私は暖炉の火に興味を持ち、その中へまっしぐらと進んだのです。体が熱を感じて自分の行動が愚行であったと子供心にも感じたであろうときはすでに遅く、私の全身は火に包まれていたようです。

 私が燃えていることに気付いた母も守り役も、ただパニックになって悲鳴をあげるだけでした。けれど、幸い続いて飛び込んできた執事長が燃えている私を抱き上げ、すぐに布団でくるみ、ぱんぱん叩いて火を消してくれたそうです。

 大やけどを負った私ですが一命は取りとめ、それで今こうしてその時のことを語っていますが、その時は誰もが私の生存をあきらめていたそうです。お医者さんも首を横に振り、私自身三日ほど意識を失ったままだったとのことです。

 父は極めて温厚で声を荒げることなどない人ですが、その時ばかりはその守り役を激しく叱咤し、相手が老婆であるにもかかわらず何度も殴打したとのことです。母も、あんないかった父を見たのはあとにも先にもあの時だけだったと、あとで語ってくれました。

 そのことが作り話でなく事実であることは、悲しいことですが私の背中全面に残るやけどの跡が物語っています。


 私の体の傷跡はそれだけではありません。あちこちに打撲のあざがあるのです。外見的なあざばかりでなく、私はうまく歩行できません。つまり歩くとき、どうしてもびっこを引いてしまいます。速く歩くこともできませんし、走るなんてことはもっとできないのです。

 なぜか……もちろん誰かに打たれたとか、ましてや虐待を受けていたなんて事実は全くありません。その痣は私自身によるもの、でも決して故意ではないのです。

 小さいころの私は、夜中に何回もベッドから落ち、そのたびにできた痣なのだそうです。

 そのことは、おぼろけながら覚えています。私は決まって怖い夢を見ていました。私が怖いと感じること、憎んでいること……それは戦うことです。

 私は夢の中で、必死で戦っていました。相手は死体ゾンビです。蒼白い顔をしたゾンビが五百人か六百人はいるでしょうか、そんな集団で私を追い詰めます。そこは暗くて冷たい世界でした。

 ゾンビと闘い、逃げ、悲鳴を上げ、折り重なって襲ってくるゾンビをかわす。そんな怖ろしい夢を何度も見ていたようです。そしてそのたびに現実世界で眠っている私もベッドの上で暴れており、それでベッドから落ちて目を覚ますという繰り返しでした。

 両親に筆談で告げても、どうすることもできないようです。

「楽しいことだけ考えて、笑って暮らしていれば怖い夢も見なくなるよ」

 父は優しくそう言ってくれます。もう親と添い寝するとしではなくなっていても、母は時々一緒に眠ってくれました。そういった日に限っては、怖い夢を見ませんでした。

 神父様に相談したら、ひたすら神様に祈りなさいということで、信仰の力だけが自分を救うと教えてくれました。だから私は祈りました。お医者さんも、心の病かもしれないし、それは自分の専門ではないけれど、そのうちそういった状況はなくなるでしょうと言うだけでした。

 たしかにその後、ゾンビと戦う夢は次第に見なくなり、そんなことがあったことも忘れていきました。けれど、体の痣だけはいつまでも消えず、恐怖にさいなまれた過去は私の体に永遠に刻まれたままなのです。

 そのほかにも私は小さいころから病弱で、何度も熱を出しては寝込み、意識がもうろうとしたこともたびたびありました。原因は分かりません。ですから、私はずっとお医者さんの監視下で生活していたようなものです。

 でも、本当の意味で、私が「健康」から見はなされていた一番大きな要素は……。

 先ほど私は自分の容姿について、自分の口からはおこがましくて言えないと言いました。でも、実は容姿についてだけではないのです。そのほかのことも何もかもが一切、私の口からは何も言えないのです。それは、精神的に言えないのではなく、物理的に「言えない」のです。

 つまり……

 私は生まれつき、ひと言も口がきけないのです。言葉を発することはおろか、音としての声も出すことができません。これが私の、ほかの人とは違う最大の要素で、私が恵まれた幸せな生活をも不幸だと感じる最大の原因なのです。


 私が口がきけないということに関しては、父も母も、このお屋敷で働くすべての人たちも、その事実を温かく受け入れていました。一番苦しんでいるのは私だということを、みんなよく理解してくれているのです。当の私は何しろ生まれつきのことですから、幼いころは自分が他人とは違っているということを受け入れるのに時間がかかりました。でもだんだん物心がついてくるうちに、父も母も執事もメイドさんもみんな自分の思うことを口から出る「言葉」という音で表しています。でも、私の耳はみんなの言葉は聞こえてそれが理解できるのに、自分がその言葉を発することができないのです。

 やはり、もどかしくもありました。悔しくもありました。でも、どうすることもできません。

 お医者さんも原因は分からないと言います。

 でも実は……先ほど「物理的にものが言えない」と言いましたけれど、本当にそうなのでしょうか……時々、思うのです。何か私の心の奥底で、「絶対に声を発してはいけない。一言も声を発しないこと」という強迫めいた……いえ、脅迫というよりは使命感みたいなもの……うまく説明できませんが、何かそういう抑制力があって私が声を発するのを抑えているというような気もするのです。

 いずれにせよ考えても仕方がないので、私はこれに関してはあるがままに受け入れていました。こんなことで人と争うことの方がよっぽどごめんです。

 ところが、今日は一階の客間の方にあまり歓迎したくないお客さんが来ています。父の兄と妹、つまり伯父と叔母です。この二人はなぜか、いつも来る時はセットで来るのです。

「ティツィアーナ! 降りてらっしゃい。伯父さまと叔母さまにご挨拶して」

 母が私の名を呼びます。私はこの瞬間をいちばん恐れていたのです。だからといって無視することはできません。なぜなら母から見ればこの二人は、優しい私の伯父と叔母でしかないからです。

 私がドアをノックして客間に入ると、、小太りできれいな衣装の伯父のサヴィーノがにこにこして立ちあがりました。

「おお、ティツィアーナ、しばらく見ないうちにすっかりきれいな娘さんになったね」

「そうね。ついこの間まで小さな女の子だったのに、もう十八ですものね」

 伯父の背後の叔母ヴィオレッタもにこにこ笑いながらそんなことを言っています。私は立ったまま、無言で頭を下げました。

「まあまあ、お義兄にいさんもヴィオレッタもどうぞお座りになって」

 私の母に勧められるままに、伯父と叔母はまたソファーに座りました。仕方なく、私もそのそばの腰掛けに腰をおろします。

「今日はね伯父さんと叔母さんが、我が家のブドウ畑をどうするかについてお話に来てくださったのよ。今のままじゃあこれから誰が管理するのか困っていたところだったからね。叔母さんの家のガストーニ家で世話をしてくださるって。ありがたい話よね」

「そうだ。ティツィアーナ。君にも一応聞いておいてもらわないとな」

 伯父がそう言って、にっこりと笑いました。

「お茶のおかわり、お持ちしますね」

 母はテーブルの上の、まだ少し冷めた紅茶が残って板ガラス瓶を持って、部屋を出て行こうとしました。

 ――お母さん、お願い。行かないで!

 私は心の中でそう叫びましたが、母に聞こえるはずもありません。

 案の定、母が部屋を出てドアを閉めた途端、伯父と叔母の態度は一変しました。いつもこうなのです。だから私は母にいてほしかった。母がいるのといないのでは、この二人の態度はがらりと変わるのです。

 もはや伯父の顔からも叔母の顔からも、笑顔は一切消えていました。

「おい、いい気になるんじゃないよ、この唖女ドンナ・デル・ムート!」

 それは口がきけない者に対する最大の侮辱の言葉です。叔母は声を殺してはいましたが、鬼のような形相で私をにらんでそれを言ったのです。

「あんたの母親の言葉を真に受けるなよ」

 伯父も同じような顔つきです。

「あんたんとこ、レッジェ家では子供はあんた一人、それも口もきけない娘一人ときている。うちは子どももいないし、まあ、レッジェ家は俺の代で終わりだな」

 伯父はなんでこんな自虐的なことを言うのでしょう。私の家は分家で父は県令補佐官をしていますけれど、レッジェ家は代々小領主としてこの地方を治めてきました。伯父が当主です。でも、確かに伯父には後継者あととりがいません。そこで叔母が口を挟みました。

「いいかい。あんたんとこのブドウ畑は我がガストーニ家が譲り受ける。今日はそのことで話をまとめに来た。ゆくゆくはうちのカルロが継ぐんだ」

 ガストーニ家は叔母の婚家で、カルロとは叔母の息子、つまり私の年下の従弟いとこです。もうすぐ十五歳のにきび顔で、少年と青年の境目くらいの年ですけれど、私とは村の中や日曜日の教会で会っても口もきいてくれません。あいさつすらなしです。時にはすごい形相で私をにらみつけてきたりします。他に下に男の子が二人、女の子が一人いますけれど、その子たちも全く同じ態度です。

「あんたねえ」

 叔母は立ちあがって、私に顔を近づけて言います。私は思わず、身を引きました。

「婿とって、あんたがレジェ家を継ごう、レジェ家を再興しようなんて思ってないでしょうね」

 私はもちろんそんな大それたことは考えていません。だから、慌てて大げさに両手を左右に振りながら首をも横に振りました。

「ふん。もっとも、あんたみたいな唖女ドンナ・デル・ムートのところに婿に来る男なんていないでしょうけどね」

 婿なんてことではなく、やはり私も年頃の娘です。いつか素敵な人が現れて、みんなに祝福されて、お嫁に行きたいと願う心が全くないといえばウソになります。でもやはり、病弱で、おまけに生まれつき発話障害のある私が、婿を取るどころかお嫁に行くことさえ難しいのは私自身が一番よく分かっています。それなのに、そんなことをいちいち面と向かって言われたら、さすがの私も傷つきます。

 でも私は、何も言い返せません。ただひたすら、母が早く戻ってくるの待つだけです。

 すると、ドアが開いて、母が入ってきました。本当に人間って、こんなにもすぐに表情が変わるものでしょうか。伯父も叔母もにっこりと私に微笑みかけるのです。もう、思わずあきれてしまいます。

 私は立ちあがって、母に二階の部屋の方に顎を向けて見せました。部屋に戻りたいという合図です。軽く自分の胸をも叩きました。

「あら」

 母は伯父と叔母の方へ笑顔を向けます。

「娘はなんだか体調がすぐれないようなので、これで失礼させます」

 私は立ちあがって、伯父と叔母に向かって深々と頭を下げました。

「今度うちに遊びにいらっしゃいね。カルロたちも会いたがっているから」

 優しい笑顔で叔母は言います。嘘ばっかり……。私も作り笑いでもう一度会釈をしてから、部屋を出ました。

 そして、二階への階段を上がりながら、涙が噴き出て止まりませんでした。幸い(?)泣き声は出ませんので、涙を流している姿を見られさえしなければ、泣いていることは分かりません。私はベッドに顔をうずめて、ひとしきり泣きました。

 しばらくして、カーテンが開いたままであることに気づき、それを閉めようと思って窓のところまで行きました。

 外はとてもよく晴れています。屋敷の前は少し起伏のある土地に、一面にブドウ畑が広がっています。その中にいくつかの集落があって、ブドウ農家の人たちの村です。なだらかな丘陵が村を取り囲み、初夏の日差しを受けて木々が青々と茂っています。新緑の季節です。そんな明るくてのどかな農村の景色と、それを見ている私の心はなんと対照的なのでしょう。

 折しも、ちょうど伯父と叔母が帰るようで、二人を乗せているであろう馬車が、ブドウ畑の中の一本道を丘の方へ消えていこうとしています。

 あんな伯父や叔母ですが、私は絶対に争ったりはしたくありません。争うのは、戦うのは嫌です。戦いは憎い。でも、さすがに今日ばかりはあの伯父が憎い、あの叔母が憎い。

 伯父や叔母の私への仕打ちは今に始まったことではないけれど、とにかくあの二人が私はこの時憎くてなりませんでした。私の心の中に憎悪の炎が燃えていました。

 でも、やはり争いたくはない。そう思うと、私の憎悪の炎は自分へと向かってしまいます。憎くてしょうがない伯父と叔母なのに、争うことを憎んでしまう自分が憎い。そして、あんな目にあわされなければいけない原因である私の体が憎い。口がきけないこと、病弱なこと、体に広範囲に残る火傷やけどの跡、それらすべてが憎い……。

 本当なら憎しみと悲しみのあまり、私は大声をあげて泣きたかった。でも、声は出ません。もしここで声を挙げて叫びながら泣くことができたらもっとすっきりするかもしれないのに、私にはそれもできないのです。やはり心の奥底の何かが、私が声を発することを抑えこんでいるようです。

 しばらくひとしきり泣いた後、私はしばらく休むことにしました。体調がすぐれないというのは本当なのです。

 そして久しぶりに、あの悪夢を見たのです。五、六百人もの死体ゾンビに襲われる夢……。

 私はまた例によって、激しくベッドから落ちました。なんとかものにつかまって立ちあがると、動悸がします。足の膝に激痛を感じます。それでも私はここにいたくありませんでした。

 私は母や執事、メイドたちに気づかれないようにそっと屋敷の外に出ました。


 外に出たからとて、別に行くあてもありません。私は痛む足を引きずってブドウ畑の中の道を歩きました。

 あれほど雲ひとつないほど晴れていた空が、急に曇ってきました。ひんやりとした空気さえ感じます。それでも私はお構いなしに、村の方へと何気なく足を向けていました。

 村のはずれに小川があります。小さい頃、私はよくここで一人で遊んでいました。実際は同じ年頃の他の子供と遊んだことがないので一人と思っていたのですが、今から考えると守り役のおばあさんは常に付き添っていたような気がします。

 今でこそこうしてブドウ畑の中を平気で歩いていますし、農作業をしている方と出会いましたらみんな「これはこれはティツィアーナお嬢様」と挨拶もしてくれます。でももしあの叔母が言っていたことが本当ならばこのブドウ畑はガストーニ家の所有となってしまう。そうなるともしかして、こんなふうにブドウ畑の中を私が自由に歩くこともできなくなるのでしょうか。

 空模様はますます怪しくなってきています。だいたい夏はほとんど雨は降らないし、夕立も普通は八月の下旬くらいにならないとないので安心していました。でも、なんか今日は特別なようです。

 ついにぽつり、ぽつりと来ました。私はもちろん傘など持っていませんし、早く帰った方がいいと元来た方へ戻ろうとしましたが、雨脚よりも先に帰りつくには私は遠くに来すぎたようです。

 頭がくらくらします。まだ意識がはっきりしていないのです。やはり体調が悪いのに出かけてきてしまったせいだと思います。とうとう本降りになりました。遠くで雷鳴も聞こえます。でも今の私の体では、走って帰ることなどとてもできません。

 幸い小川のほとりに農作業のための小屋がありました。私はその軒下に入りました。小屋の中は誰もいないようですので、雨がやむまでその小屋の中で雨宿りをしようかと私は思いました。小屋は小川に向かって大きく壁が開かれて、ドアなどない状態です。そしてそこに多量の藁と、農具が散在していました。私はその小屋の中へ一歩足を踏み入れました。あの藁の上で少し横になりたい……そう考えるほど、正直言って体がきつかったのです。頭もくらくらして今にも倒れそうです。

 私はその藁の方へとたどたどしい足取りで近付きました。

 するとその時です。

 外から誰かが小屋へと駆けこんできました。この小屋で作業をしている農夫の方かとも思いましたが、それは若い男性でした。この田舎には場違いなほど清潔で上品そうな服は、かなり身分のある方のように思えました。そして私と同じ様なブロンズの髪の若者は、透き通るような青い目で私を見て驚いたような表情を見せました。

「おや、この小屋の……? まさかそんなことはないですよね」

 はっきり言って私も、この場所にいるには場違いな格好に見えたと思います。一応、領主の身内としてそれなりの格好でいましたから。

「あ、もしかしてあなたも雨宿り? つまり先客ですか?」

 かなり気さくな青年のようでした。だから私も笑顔でこたえようとしました。でも、私の精神力はそこまでが限界でした。私は頭がくらっとし、全身の力も失せて、藁の中へと倒れこみました。慌てているような若者の気配を感じながらも私の意識は消えて行きました。


 なんだかぐっすりと眠っていたようです。目を覚ますと、視界に入ってきたのはよく知っている天井でした。私は自分の部屋の自分のベッドで寝ていたのです。しばらくは普通の眠りから目覚めたような感覚でしたけれど、すぐにあの雨の中の小屋での出来事が頭の中に甦りました。

 ――あれは夢だったの?……

 一度はそう思いました。でも、そうではないという事実が、次の瞬間に私に突きつけられました。

 私のベッドの周りには大勢の人がいたからです。まずはずっと私を心配そうにのぞきこんでいたメイドのリーザが声を挙げました。

「あ、気づかれたようです。目を開けられました!」

 その声に母や執事などが一斉に私の顔を覗き込みます。

「ああ、気がついたのね! よかった!」

 母は私の顔を見た途端に、ベッドのふちに手を掛けたまま床に泣き崩れました。私だけがきょとんとしています。

 そしてその時私ははっきりと、心配そうに私のベッドを取り囲んでいるお屋敷の人たちの中に、なぜかあの小屋で出会ったブロンズ髪の若者がいるのが目にとまりました。

 その時です。父が血相を変えて部屋に飛び込んできました。

「ティツィアーナ! 大丈夫か?」

 いつも温和な父ですが、今日はかなり慌てているようです。父は本当ならまだ仕事中で、村から馬車で三十分ほどの県のお城にいるはずです。

 父はすぐに、ベッドの上ですでに意識を取り戻している私を見て安堵の胸をなでおろし、メイドに勧められた椅子に座っていました。椅子はベッドのそばにあって、私を見降ろす形です。私は父に、にっこりと笑って見せました。これが、私の無事を知らせる合図なのです。

「ああ、良かった。どうしたのかね?」

「なんでも一人で外出して、雨に降られて、小屋で雨宿りしている時に意識を失って倒れたんですって」

 母が父にそう説明しました。精神的にもまた呼吸も落ち着きを取り戻し始めた父は、メイド長を見ました。

「どうしてティツィアーナを一人で外出させたりしたんだ?」

「申し訳ありません」

 少し年を食ったメイド長が、父に頭を下げます。

 ――本当はこの人が悪いんじゃない。私が勝手にみんなの目を盗んでお屋敷を抜け出しただけ。

 私は弁明したかったのですが、言えません。ここには紙とペンもなさそうです。

「実はこの方がティツィアーナを介抱してくれて、それでこのお屋敷に知らせてくださったのですよ」

 母があのブロンズの青年を父に紹介しました。それを聞いて私も、そうだったのかと分かりました。だからこの人が今ここにいるんだ。でも、なんで私がこのお屋敷の娘だって分かったのかしら?

 若者は立ちあがって、父に頭を下げました。

「ジャン・レジェさん、お久しぶりです」

「あれ? 君は……」

 父も驚いたような顔で、席を立ちました。

「ルキーノ君じゃないかね? ルッソさんとこの」

「はい」

「おお、立派な若者になったな、見違えたよ」

 父は目を細めています。この青年と父は知り合いなのでしょうか。母は知らないようで、不思議そうな顔をしています。尋ねられる前に、父の方から母に説明を始めました。

「この方のお父さんは、昔この村に住んでいた方だよ。いろいろとわけがあって王都パピアへと移住して行かれた。その時そのルッソさんには男の子がいたんだけれど、あの時はまだほんの子供だった。それが……」

「はい。それが私です。ルキーノ・ルッソです」

 青年はさわやかに笑います。名前はルキーノというみたいです。

「それでこの屋敷のことも知っていたからすぐに知らせてくれたんだね。いやあ、ありがとう。礼を言うよ」

 父はあらためて、頭を下げます。

「いえ。こちらのお嬢さんの身なりから、レジェ家のジャンさんの娘さんに違いないと思いまして」

「そう。たしか君と君のお父さんが都に行かれたのは、このが生まれる前でしたな。で、今は?」

「パピアのウニベルシタスという学問のギルドに通っています。父は宮廷に出入りを許された御用商人として、まあ何とか暮らしています」

 なんとか暮らしているなんて、御用商人といえば相当のお金持ちのはずです。道理でもともとこの村の村人だったというわりには、このルキーノはまるで貴族のような格好をしていたわけです。

「学問の調査のためにこの近くまで来ましたので、懐かしくて村を見に来ていたのです」

「そうですか?」

 母が微笑みながら、親しみの目をルキーノに向けています。

「なにしろ田舎ですから、変わらないでしょう?」

「それが、私がこの村にいた時はまだ小さかったもので、よく覚えていないのですよ」

 それからルキーノは、ベッドの上の私を見ました。

「それにしても、気がつかれて、本当によかった」

「実は……」

 父は少し言いにくそうに、私を横眼で見ながらルキーノに言います。

「娘からもお礼を言わせたいところなんですが……実はこの子は、生まれつき言葉が不自由でして……」

 少し驚いた表情を一瞬だけ見せたルキーノでしたけれど、すぐに笑顔に戻りました。

「そうだったんですか。道理であの時私が話しかけても何も答えてくれなかったのですね。もしかしたら私は嫌われているのではないかと心配でしたけれど、そういうわけじゃなかったんだ。よかった」

 ルキーノはそう言って笑います。私が口がきけないことを「よかった」なんてちょっとだけムッとしましたけれど、顔には出しませんでした。どうも話の観点がずれているような気がします。

 ところがその日以来、ルキーノは時々お屋敷に来て、私の部屋へと私を訪ねて来るのです。母はどうも大歓迎をしているようで、私の命の恩人というふうにも言っているようです。

 私は何か意思を伝えるためには、紙に言葉を書いて会話するしかありません。でも、そんな会話を彼はちっともじれったくは思っていないようでした。

 まず私が彼に聞きたかったのは、彼が通っているというウニベルシタスというギルドについてです。そんな組織の名称すら私は聞くのは初めてで、とにかく若い人たちがたくさん集って学問を論じ合う場というだけに興味津々でした。

 私は紙の上にペンを走らせ、いろいろ質問しました。

 ――そもそもウニベルシタスって、どんな組織なのですか?

 ルキーノはさわやかな笑顔とともに、細かく説明してくれます。

「都にはいろんな仕事に就きながらも、学問をしてその研究を後世に残したいという人も多いのですよ。でも我われは学ぶ場というものを持っていなかった。そこで我われは、学問をしたい者たちが集う一種のギルドを形成したのです」

 ――ギルド…? 私は心の中で反芻はんすうしました。

「でも、ただ志がある者だけが集まっていても、仲間うちの研鑽しかできません。それだけでも意義のあることなんですけれど、やはりその道の権威の方々に教えを請いたい。そこで目をつけたのは、今度は専門的にそれぞれの分野を研究している学者さんたちのギルドです」

 私は、うなずいて聞いていました。

 ――そんなのがあるんですか?

「はい。かつてはあったと聞いています。私たちの先輩はそういった学者さんたちとのギルドと長い時間をかけて交渉を重ねた結果、学者さんたちのギルドと我われのような学問を志す者たちのギルドとが合体させました。そうして、学問を学び深める組織が出来上がったのです」

 ――それは、いつごろですか?

「もう五十年ほど前のことと聞いています。今ではもう組織として定着して、一つの目的をもった共同体という意味でUniversitasウニベルシタスと呼ばれているんです」

 ――それは、誰でも入れるのですか?

「いえいえ、今ではかなり難しい試験がありまして、それに合格しないと入ることは許されません」

 ――ではあなたは、その難しい試験に合格したってことなんですね?

「あ、これはなんだか自慢話のようになってしまって照れくさい。ま、私の場合はたまたまですよ」

 そう言って謙遜して笑うルキーノでしたが、その顔は本当に照れているようで真っ赤になっていました。私はそんな彼の姿に、だんだんと好感を持つようになりました。

「今ではお隣のフランコ王国でカルロ・マーニョ王が作ったスコラという組織に似てきました」

 何しろこの田舎の村から出たこともない私です。世界の情勢を聞いても最初はよく分かりませんでした。お隣にフランコという国があることや、そこにカルロ・マーニョという王様がいたことすら初めて知ったくらいです。でも、私が話についていっていない時は、ルキーノはそれこそ親切に根気良く、分かりやすく解説してくれました。

 でも考えてみたら私、隣の国の王様どころか自分の国の王様のお名前さえ知らないのです。

 ――皆さん、そのウニベルシタスでは、何の勉強をしているのですか?

「主に神学と天文学、法律などですね」

 なんだか気が遠くなるような話です。

 その日はさらにウルベニシタスの様子など、私に問われるままに答えてくれて、ルキーノは帰っていきました。


 それからもルキーノの来訪は続きました。それはしつこくならない程度に、それでいて存在を忘れてしまう前にはちゃんと来るという、まるで計算されたような絶妙のタイミングでした。

 二人が話した話題は私の体調のことと、昔話と、それから昨今の社会情勢……彼は問われるままに今世の中がどうなっているのかを私に教えてくれました。

 以前のお話で出てきたお隣の国のフランコ王国では、カルロ・マーニョ王という人はとっくの昔に亡くなっていて、そのあと王国は分割相続のためばらばらばらになってしまったそうです。王国のカロリンジ家の力は強くなくなって、異民族が侵入してくるようになると、我が国レニョディターリヤでも大変なことになっていったとのこと。

 その間、ルキーノの話にはいろいろな王様の名前が次々に出てきて、その王様たちがなんかわちゃわちゃとやったみたいですけれどよく分かりません。

 とにかく私の国もあちこちで王位を狙う者たちが戦争を繰り返し、それぞれの都市が独立して領主によって治められるようになったそうです。私の伯父のサヴィーノも、そんな領主なんですね。父も県令補佐官ですから、地方都市の中枢にいるといっても過言ではないでしょう。

 でも私の国は、お隣のカロリンジ朝フランコ王国が一度は統一されたもののまた分裂したりしているお蔭で今はなんとか独立を保っているけれど、実質上は独立国とはとてもいえないような無秩序アナルキアな状態にあるようです。

 一応この国を治めている王様はフリウーリ公ベレンガーリオといって、その母親はカルロ・マーニョ王の三男のルードヴィーコ王の娘だそうですけれど、かなり影が薄いですね。何しろ私が名前を知らなかったくらいですから。

「でも、血筋的にカロリンジ家の血をひくグイド公が自らの正統性を主張して、王様と対立しています。グイド公は間もなく反乱の兵を挙げるだろうというのが、私の周りの人たちの間でも共通した認識です。いつ戦争になってもおかしくない」

 そんな話を聞いて、私は背中がぞくっとしました。

 戦争……それは私が憎んでやまないもの。その言葉を聞くだけで体は震え、汗がにじみ出ます。

 決して戦争が起こるとたくさんの人が死に、たくさんの人が毎日の平和な日々と暮らしを奪われるからとか、そんな人道的な理由ではないのです。ただただ、生理的に受け付けないのです。

 でも、ふと私は不思議な事に気がつきました。今日の話では彼から何回も戦争という言葉を聞きました。その言葉を聞くと体は震え、汗がにじみ出ると言いましたけれど、あくまでそれは「本来なら」という感じではないかという気がしてきたのです。

 今日は、私は割と平然と「戦争」という言葉を聞き流していました。もちろん、戦争は嫌です。絶対に、死んでも嫌です。でも、身体的拒否反応が少なくなったのはなぜでしょうか?

「実は私も、今回この村へ戻ってきたのは学術調査のためというのは口実でなんです。本当は戦乱を避けてのことなんです」

 それは意外な話だった。

 ――そこまで事態は切迫しているのですか?

 私はペンを走らせました。

「ええ。グイド公が反乱を起こしたら、目指すは王都に決まっていますから」

 ――この村は安全なんですね?

「この村が戦争に巻き込まれるのは、可能性はゼロではないけれど限りなく低いと思いますよ」

 ――では、いつまでもこの村にいてください。ここはあなたの故郷なのでしょう?

「ええ、そうです」

 やっと少し微笑んで、ルキーノはうなずいた。

「いや、あなたは実に賢い人だ」

 突然、ルキーノは言います。

「ちょっと話しただけで状況をすぐに理解する。呑み込みの早い人だ」

 私はなぜ戦争に対する憎悪が薄らいできたのか、分かったとまではいえませんがうすうす感じ始めていたことがあります。戦争よりも、私の中ではもっと大きな、もっと重要なイベントがこれから起ころうとしているのではないでしょうか。

「私は、そういう賢い人が好きです」

 ――え?

 私は首をかしげました。でも、ルキーノはもうそれ以上のことは言いませんでした。

 そしてルキーノが帰ってから、さらに不思議な現象がありました。私の腰のあたりの空中に見たこともない小さな光る箱が現れて、浮かんでいるのです。驚いてその箱を見ると、そこにはカードが光って浮き出て見えます。すでに四枚のカードが並び、そこへ今日新しくもう一枚のカードが加わわったようです。

 その五枚目の赤いカードには「HATRED」と書かれていました。「ハトゥレードゥ」と読めることは読めますが、意味が分かりません。他の四枚のカードにも、一応読めるけれども意味が分からない言葉が書いてあります。どうもこの国の言葉ではなさそうです。

 今度ルキーノが来た時に聞いてみようと、私はそのすべての文字をメモしました。

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