第5章

 ヒリスの剣が、俺に向かって振りおろされた。

 胴体が切り裂かれ、血しぶきがあがる。体中に激痛が走り、頭がしびれたような感覚があった。だが激痛は、ほんの一瞬だった。次の瞬間には体中の力が抜けてふわっとした感覚となり、そのまま地面き倒れこんだ。倒れた時の痛みや感覚は全くなかった。

 そしてしばらく、深淵の闇の底で眠っていたような気もする。でも遥か、遥か遠くからかすかに、俺の名前を呼ぶ声がしたような気がした。それも、繰り返し、繰り返し……

 俺の意識は目覚めた。でも、すぐにその意識は収縮を始めた。足の方はもう感覚がなかった。自分全体が頭蓋骨の中に入るほどに小さくなってきている。それから狭くて細長い洞窟を通過しているかのような、ものすごい勢いでの上昇感があった。俺は思わず叫び声を挙げてしまいそうになったが、何とか抑えた。

 そしてふっと解放された。そこは、先ほどまで自分がミノタウルスと闘っていたあの場所の少し上空で、空中に浮遊する状態ですべてを見降ろしていた。

 俺が倒れている。

 すぐに駆け寄ったシャルロッテとフロリーナが、俺を抱き起こして介抱している。

 倒れてるのは俺……それを空中から見てるのも俺……なんか変だな……。

 本当は瞬間的に俺の体はぱっと蒸発したように消えてしまったのだろう。でも、なぜか落ち着いて、いろいろ考えながらまだ残っている俺の体を見ているなんて、時間が止まってしまったのか……いや、どうやら時間というそのものが存在しなくなったからのようだ。

 ほんの一瞬のことをじっくりと観察できる。でも、観察はしているのだけど、どうも思考が働かない。頭の中にもやがかかっているようで、意識がないわけではないけれどなんかうまく考えがまとまらない。きっとものを考える脳みそはあそこ倒れている俺にあって、今ここ浮かんでる俺にはないからか?

 どっちにしろ、瞬間的に消えてしまうはずの俺の体を、魂と心はそこから離脱して他人事のように眺めている。俺の体はシャルロッテの腕の中で、フロリーナがなんか騒いでいる。

 そして今の俺には、シャルロッテやフロリーナが考えていることまで声になってびんびんと響いてくる。ちょうどヨスの異能力と同じ能力に、俺も目覚めたのかとも思う。

 ――魔王を倒して勇者になるのではなかったのか……死んでしまうとは情けない。

 シャルロッテはそんなことを思っている。

 ごもっとも……ひと言もございません……ん? どっかで聞いたことのあるような……??? ま、いっか。

 フロリーナの方はパニックになっていて、その思考がまとまって入ってこない。

 ――なんでなんでなんでなんで!!!??? 兄さんはかっこいいと思ってたのに……兄さんは「俺TUEEE強えええ!」って感じの人だと思ってたのに……案外弱いじゃん

 取り乱している半面、冷静にそんなことを考えていたりもする。

 そしてヨス、アルヴィン、ブラム、カルラも俺の周りに駆け寄ってきた。今こうして俺が上の方から眺めていることすら彼らは知らない。

 ――そうか、これが「死」というものなのか……。

 今さらながら俺は思う。人間が誰もが通る道だということは知っていたけれど、何か今一つ実感がわかない。今日の朝、保養地の宿屋で目覚めたときは、まさか今日が俺の死ぬ日だなんて思わなかったから。どこにも死亡フラグなんか立っていなかったから。何の心の準備もなく、説明も傾向と対策も聞かされることなく、いきなりまる投げでこの状態……

 考えてみたら、甘かったなあと思う。俺は主役なんだから死ぬはずはないと思ってた……。

 これから俺はどうなっちゃう?……分からない。怖くないかというと、怖い。でも、受け入れるしかない。

 今まで俺はずっと一人で空中に浮いていると思っていたけれど、どうも一人じゃないという気配を感じる。そしてその気配とともに、どんどん空に引っ張りあげられる。いよいよみんなともこれでお別れのようだ。

 ――みんな、ありがとう。さよなら!

 その時になって、やっと見た。俺の体が光の粉になってぱっと拡散し、瞬時に消えていくのを……。せっかく優しい気持ちになっていたのに、それを見た途端にミノタウロスとかヒリスとかああいう連中への怒りがこみ上げてきた。

 ――畜生! もっと闘っていたかった。もっともっと闘いたかった! 闘いを続けたかった! 

 また幽かに、遥か遠くの方で、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。俺の心はすぐにそれに引っ張られるように上昇を続け、次第に意識もどんどん拡大していった。


 気がついたら、俺は草原の真ん中にいた。

 果てしなく広がる大草原……今までこんな広い世界など見たことがなかった。遠くには山も見える。そしてその山に向かって、多くの人の群れがまるで蟻の大軍のように黙々と続いている。

 俺は意外と落ち着いていた。でも、その群れに俺も入りたいのだけれどは入れない。人びとの行進は、果てしなく続く。なぜ俺は入れないのか……いぶかっているうちに次第に自分のの姿になっていくのを感じた。

 倒れている自分を介抱してくれていた仲間……名前、なんだっけ?……よく、思い出せない。

 でも、その姿になんか温かい心を感じたりしていたけれど、それはまだ肉体的感覚が残っていたからだろう。

 そしてその肉体的感覚が薄れてくると同時に、冷たいやいばが俺の体を切り裂いたあの時点で感じた怒りが俺の全身を貫いた。それが素になるということだ。

 すると、いつの間にか頭の上を次々と映像が流れていった。それは俺は生まれてからここに来るまでの総ての人生の総集編で、もうすっかり忘れていたことさえもそこで再現されていた。しかも、妄想までもが描かれているのだ。

 俺はいたたまれなくなった、自分とはそういうそ存在であったのか……何のために生まれて、何のために生活していたのか……。そんな気持ちのまま、仕方なくとぼとぼと歩いた。とにかく歩いた。歩いていかなければならないと思って歩いた。

 最初はなんだか体がすごく軽かった。軽いんだけれど、だんだんと周りの景色が暗くなっていく。そうなると、足はだんだんと重くなっていく。

 全身に怒りが満ち溢れ、憎しみが満ち溢れ、不満が満ち溢れ、それが鉛のように体の中に蓄積して、あんなに軽かった体がさらに重くなる。

 初めて俺は、ここはどこなんだろう?と思った。分からない……分からないだけにいらいらする。すると自分のそのいらいらの波動と呼応するかのように、大地も揺れ動く。立っていられなくなる。だから倒れる。でも、強制的に俺は立っている。

 俺が今までいた世界は、異世界だと思っていた。でも、全然異世界じゃあなかった、ここに比べたら……。

 じゃあ、ここは異世界よりも異世界、異異異異異異異異異異異異異世界なのか……?

 胸の鼓動が激しくなる、大地もさらに激しく揺れ動く。

 俺はいつここに来たのだろう。何しろ時間が存在しない。ついさっきここに来たような気もすれば、もう何十年もここにいるような気さえする。ここに来る前は、今までいた世界は……異世界? どこで生まれてどこで育った?……分からない。

 そしてここは、空間すら存在しない。遥か彼方の遠くにあったはずの山が、目の前にある。その山はいつの間にか、天にまで届くほど高くそびえた岩山となって、俺に覆いかぶさるように迫ってくる。恐怖のあまり、俺は声を出しそうになったが、かろうじてそれを抑えた。

 すると遥か遥か高い所の頂上から目の前の麓に至るまで、山に突然亀裂が走り、大音響とともに山が左右に割れていく。ぱっかりと開いたその裂け目はますます大きくなって、山は俺の目の前で真っ二つに割れた。その裂け目に俺は、ものすごい勢いで吸い込まれる。気がつけばその裂け目を通り越えて、山の向こうのものすごい広さの水面の上に俺は飛び出ていた。

 最初は海かとも思ったけど、左右を見ると遥か彼方の空から遥か彼方に流れていく悠久の流れ、つまり川であることが分かった。その川の水面の上を、俺は何かに引っ張られるように飛行する。ものすごい遠くに川の彼岸ひがんはあったのに、瞬間的に着く。彼岸ひがん……そこは霊眼ひがんの世界。

 俺が投げだされた世界は一面の砂漠のように赤茶けた世界。気を失いそうになるくらい遠くまで広がる世界。

 さらに俺は引っ張られる。何かに引き寄せられていく。それなのに、自分の意志でその方向に向かっているような気もする。

 また目の前にいくつかの岩山があって、その麓にぽっかりと地底に続く穴があいている。ダンジョンの入り口?……そんな感じだけど、ダンジョンってなんだかものすごく懐かしい響きの言葉のような気がする。

 穴の中は暗い。じめじめしている。でも俺はつまずくこともなく、壁にぶつかることもなく自然に歩いてその穴の下へ下へと向かっていく。ものすごい臭気だ。でも、嫌じゃあない。むしろ心地よい。総てが自分の構成要素、自分の仲間のような気さえする。これから故郷へ帰るのだという気さえしてくる。

 進むべき穴の下の下の奥底からは、うめき声が十も二十も重なって大合唱となって聞こえてくる。この世のものとは思えない……いや、この世のものじゃないんだけど、いや、ここはあの世で、だからここではこの世はあの世で……考えるのがめんどくさくなったし、考えようにも考えられない。脳みそがないんだから。

 ただ、怒りと憎しみだけが想念となって、それに相応の世界に引き寄せられていっているって感じだ。そうなると、あの絶叫ともいえる重なりあううめき声は、自分を歓迎する音楽のようにさえ聞こえてくる。

 やがて、明るい所に来た。でも、それは暖かい光ではなく、燃えさかる業火に照らされた熱く、痛く、暗い、冷たい炎だった。その中で何万もの亡者が焼かれ、うめき声を挙げていた。俺はそれを見て、快感を覚えた。だが、快感はそこまでだった。いつの間にか俺は、ある巨大な人影の前にた。


 それは、背の丈が普通の人間の五倍はあると思われるような巨大な存在で、頭から限りなく黒に近い紫のベールをすっぽりとかぶっていた。そのベールの陰で顔はよく見えないが、もともと暗くて冷たい世界なので、すべてのものがはっきりとは見えない。

「雲台峰の妖民とは、そなたか……」

 妖民とは、またずいぶんな言われようである。

 ――人を妖怪みたいに言うな。自分の方が十分に妖怪のくせに……。

 そう思っていると、その巨大な影は笑っているようであった。

「私はこの冥府を司る王、すなわち冥王タナトスである」

 冥府を司る王といえば、閻魔大王とか閻羅王とかいうやつではないか? でも、俺が知っている、というかイメージにある閻魔大王とは似ても似つかない。宮廷の官人のような道服でもなく、何の装飾もないベールのような衣装を着ている。シンボルともいえるようなあの冠もかぶっていない。名前も閻魔ではなくタナトス?

 しかもその声は耳に聞こえるのではなく、心の中に直接響いてくる。俺の知っている言語でだ。そういえば、ずっと頭についていたヘッドセットは、ここに来てからはもうついていなかった。

「地獄へようこそ。ここでの生活を堪能して行きたまえ」

 俺は体が爆発するのではないかと思われるような怒りを発していた。こいつ、何者なのだ……激しい憎悪で意識が遠のいてしまいそうになるくらいだ。

 こいつこそがラスボスなのか……こいつを倒してこそ真の勇者となり得るのか……それならばここで黙って言いなりになることなどできるわけがない。

 俺は背中の鞘から剣を抜いて、立ち向かおうと……立ち向か……え? 剣がない! そういえば、ずっとなかった。なんで今まで気がつかなかったんだろう……。そもそも、ここに来た時点で俺は剣など持ってきてはいなかった……剣? え? 剣って何だ?

 巨大な人影――冥王タナトスは両手をさっとあげた。ベールのような服なので、腕から袖のように服は垂れて巨大な暗黒の壁のようになった。

 次の瞬間、俺は恐怖の中にいた。薄暗い空の下、寒さに凍えながらも大勢の人の中でもまれていた。

 人びとの顔はつぶれ、全身血みどろで、男も女も老人も若者もいたが、、皆凶暴な顔つきで互いに取っ組み合いのけんかを繰り広げていた。

 どのくらいの広さの場所なのかもわからないけれど、あまりにも多くの人がひしめき合っているのでその向こう側は見えない。

 すし詰めの状態の人たちの巨大な群れは、近くにいる人たちと無差別に闘争を繰り広げている。秩序だっての「戦争」などではなく、とにかくがむしゃらな暴力のぶつかり合いだ。相手は誰でもいい。とにかく自分の憎悪と殺意をむき出しに、殴り、棒で突き刺し、蹴り、頭を割る。

 だいたい五~六百人のかたまりで闘争は繰り広げられ、そんな固まりが原野のあちこちに無数に展開されていた。

 戦闘のかたまりの中では血が噴き出し、それが足元に流れとなって滑りやすく、悪臭も半端ではない。だが、そんなに殴られようと首を折られようと、腹を裂かれて内臓が飛び出ようと誰ももう死なないのだ。

 もうだめだろうと思うくらい体はこなごなにされて骨だけになっても、しばらくすると元に戻る。それでも殴られれば痛いし、切られれば激痛が走る。

 聞こえる音が怒声とうめき声、悲鳴、それらが混ざり合ってものすごい騒ぎだ。人びとはぼろきれのような衣服をかろうじて着けてはいるが、すぐに破けてしまう。全員が全裸に近い。もちろん男も女もいる。でも、裸だからといってそれでエロを感じるような世界ではない。

 中にはほかの人を踏み台にして高い位置に立ち、巨大な鞭で周りの人を手当たりしだいに殴り散らしているすごい形相のものもいる。

 やつらはもはや人ではない。殭屍キョンシーというかゾンビというか……

 そして今や俺もその一人なのだ。

 時には戦いのかたまりから逃走しようとする人もいるが、すぐに他の亡者たちに追いかけられ、連れ戻されて体はずたずたに切り裂かれて血しぶきがあがる。

 そんな中で俺も、これまでの憎しみ、怒りを爆発すべく、とにかく近くにいた人と無差別に戦った。愛用していた剣はもうないけれど、その辺に落ちていた太く重い棒きれを拾って、それを剣に見立てて周りの人を殴り、斬りまくる。もう何人も殺した。死なないからいくらでも殺せる。でも、死なない。

 普通は殺せば死ぬけれど、不思議なもので死んだら殺せない。なのに、ここでは殺しても死なないのに、死んでも殺せる。

 そう、俺たちはもう……死んでいる。

 だから、闘争は延々と続く。途中で小休止などない。最初はあまりの快感に、我を忘れていた。怒りと憎しみを思う存分発散させることができた。

 でも、快感ばかりではなく、絶え間なき恐怖も襲いかかる。山ほどの巨大な岩が時折空から降って来て、大群衆の上に落ちる。その恐怖は、とても言葉で表せるものではない。ありったけのちぎれた心を振り絞って、腹の底からの恐怖に耐えかねたような悲鳴とうめき声の大合唱が暗い空まで突き昇る。そんな状態がずっとずっとずっとずっと続く。

 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと続く!

 なにしろ、「一日」というものがない。昼もなければ夜もない、同じ時間がずっと続く。だから、「時間が存在しない」といえるのだ。区切りがないから、どれくらいたったかは分からない。

 とにかく、何も考える必要はない。何も考えることなく、俺は、俺らは戦いに明け暮れて……いや、明けることも暮れることもなく延々と続けている。そんな状態がずっとずっとずっとずっと続く。

 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと続く!

 何かを考え、その考えに基づいて行動するというようなことはない。総てが本能だけで動いていた。何をしてもとがめる者もいないし、ストップもかからない。何でもありなのだ。

 食事も睡眠もない……いやそのような余裕もないし、そもそも食事や睡眠とは何だったかも思い出せない。思い出そうとも思わない。それでもお腹は減ってひもじいし、体中が疲れて立てなくなったりもする。

 これが地獄なのか……修羅道なのか……

 でも、獄卒がいて、亡者をさいなみ苦しめ続けるというような光景はない。獄卒も鬼もいない。亡者たちが自らの本能で互いを傷つけ、苦しめ、そして苦しめられ、自らも苦しみ、あがき、また他人を苦しめる。他人を苦しめることこそが唯一の営みなのだ。

 自分だけが中心で、自分以外の存在はことごとく憎しみをぶつけるためのモノ……。そんな状態がずっとずっとずっとずっと続く。

 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと続く!

 絶え間なき恐怖も続く。せめて蜘蛛の一匹くらい救っておけばよかった……それなのに俺は救うどころか、巨大なクモを何匹も焼き殺したような気もする。覚えていないけれど……。

 でもどんなに恐怖に見舞われようとも、ほかの人々が絞りあげるような悲鳴を発しようとも、俺だけはひと言も声を発しなかったし、悲鳴も心の中だけで実際に声に出しての悲鳴は出さなかった。

 なぜか……分からない。分からないけれど、絶対に声を出してはいけないというそれだけはなぜかここにいても俺を縛っていた。本来は何ににも縛られるはずのないこの世界で、俺はそのことにだけは縛られ続けていた。


 本当にもうどれくらいそこにいて、そうしていたか分からない。もしかしたら、何百年もそこにいて戦い続けていたかもしれない感覚はわずかながらもある。それが分かる唯一の手掛かりは、自分の想いのかすかな変化だった。

 初めはあれだけ快感を覚えていたこの殺し合いにも飽きがきて、うんざりするようにすらなってきた。それでも相手は離してくれない。戦う相手は次から次へと向かってくる。体が切り刻まれ、激痛に耐えながらも蘇生する。

 ある時、岩陰にこっそり隠れている男を見つけた。そいつは俺を見ると、顔じゅう口のように大声で叫び声を挙げた。

「もう、やめろ! もうこりごりだ。俺は戦場の英雄、国軍の将軍だった。俺の軍は負けを知らなかった。そうして戦の続く毎日で、ついに戦死した。それなのに戦いは続いている。将軍だった俺が、なんで一兵卒に交じって戦わなければならないのか! もう、こりごりだ!」

 その「こりごり」という言葉が、剣などの武器よりも鋭く俺の心に突き刺さった。そうだ、俺ももはや魂がもうこりごりしてきていたのだ!

 ――みんな、ありがとう。さよなら!……そんなふうに思っただろう? あの時は。

 え? 誰? あたりを見回すけれど、俺にそんなことを言うような人は周りにはいない。そもそも、何のことを言っているのかさえ、見当がつかない。

 ありがとう? それは遥か遠い昔に忘れてしまったような言葉だ。なぜ、そんな言葉が俺の心の中に残っている?

 ――なぜこんな生活をしなければならないのか。なぜこんなことを延々とさせららているのか……それをサトった時にその修行は終わりじゃ。

 なんだかすごく懐かしい声のような気がして、俺の目からは涙があふれてきた。でも、思い出せない。ただ、その声で心が温かくなったのは確かだ。不思議とその間は、周りの亡者で俺に襲いかかってくる者はいなかった。

 そして、俺は決定的な言葉を思い出す。いや、思い出したなどというはっきりしたものではなく、おぼろけに心の中に遠い記憶が浮かんだのだ。

 ――すべてが仮想現実バーチャル・リアリティーなのだ。真実リアルではない。

 次の瞬間、すべての恐怖が消え去った。体が急に軽くなり、スーッと上に引き上げられた。


 俺は冥王タナトスの前に立っていた。

 前にここにいたのはいつなのだろう。悠久の昔のような気がする。

 ――俺はどれくらい地獄にいたのですか?

 言葉は発せずに想念で語りかけてみた。通じた。

「人間界の時間とやらでいえば、もう三百年はいたな。そなたの罪穢カルマはある程度消えた。あとは再び人間界で、罪穢カルマ消しにいそしむことだ。おまえは水の気が強いので、男には生まれぬ方がよかろう」

 冥王タナトスはさっと右手を挙げた。その腕から垂れ下がったベールに、俺は吸い込まれていった。

 俺の意識は遠のいていった。

 本当に、久しぶりに、久しぶりに、久しぶりに感じる安らかな眠りだった。

 そんな遠のく意識の中で、俺は見覚えがあるようなないような、そんな装置が自分のそばにあるのを感じた。

 そこには四番目のカードが届いていた。カードには「FEAR」とこんな文字が書かれてあった。もちろん読めもしないし、意味も分からなかった。

 俺が意識を失っている間、それでも俺の魂はしっかりしていて、人間界をさまよっていた。多くの性交中の男女の波動を探していたのだ。そした、ある男女と俺の波調がピタッと合った時、その女の胎内に俺は吸い込まれていった。

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