第4話

 翌朝、まだ薄暗いうちに俺たちは再度抱擁をして、それから俺は自分の部屋に戻った。

 俺たちの関係が親には秘密にしておかなければならない以上、俺はこの部屋で寝ていたことを装わなければいけない。そして、日が昇るとすぐに大学寮に戻ることになっている。

 それから次の旬暇までの七日間の長かったことといえば、これまで経験したこともないほどだ。

 省試に合格して擬文章生から晴れて文章生になったわけで、環境もがらりと変わったわけだからそのせいもあるかもしれないけれど、それだけのわけががない。

 これからは物を学ぶというよりも、自ら研究する立場になるのだ。

 でも、何をしていても頭の中には朝桐…もとい、守子まもいこの笑顔が浮かぶ。この手がその肌触りを覚えている。守子の香りもいつまでも身を離れない。

 ついにたまりかねて、俺は歌を贈った。

「――会えなくて 夢で会えてもすぐ覚めて 満たされない心もて余すだけ」

 返事はすぐに来た。

「――寝なければ 夢でも会えない会えなくて 嘆き続けて夜明けを迎え」

 あの時の気持ちを守子も忘れてはいないということを確認して少しだけ安心しているうちに、なんとか七日間が過ぎ去ってくれた。

 旬暇の日、俺はあくまで守子の博士家庭教師を装って西大宮邸を訪れた。家庭教師であることは嘘ではないのだから装ってということにはならないだろうけれど、気持ち的にそんな感じだったのだ。

 だって、俺たちは二人だけの秘密ではあるけれど、夫婦なのだ。

 そうは言っても、守子と会うのはあの日以来だ。互いに意識してしまってどうも態度が硬い。

 普通の夫婦のように夜に大胆に通ってきて朝に帰っていくなんてことは、まだとてもできるような状況ではない。ただ、講義の合間合間に目を合わせて交わす微笑みだけが、互いの気持ちを通い合わせている証のようだった。

 結局俺は、その日は普通に帰るしかなかった。もちろん守子は不満そうだった。でも、大胆にもそのまま泊まっていくとか、夜にまた通ってくるなんてことを言いだすには、俺には度胸がなかったのかもしれない。俺がこの屋敷に泊まっていくには何かしらの大義名分と、父上の許可がいる。

 夜に通ってくるにしても大学寮を抜け出すのは至難の業だ。いや、不可能といってもいい。やはり一日も早く役人になって、自分の屋敷を構えてそこから通ってくるしかないようだ。それを思うと、気が遠くなる。

 そして次の旬暇を待つまでの間に、大いなる知らせが俺のもとに舞い込んだ。

 父上が何と参議になって、さらに大宰大弐だざいだいにに任じられたという。

 参議とは国の政治に参与する役職だ。ただし、人数は数十人で、そんなに多くはない。この参議になるといわば公卿くぎょうという身分になる。

 今は空席だけれど左大臣からこの参議までを公卿というのだから、貴族中の貴族だ。もう、下っ端貴族ではない。公卿は上達部かんだちめともいう。

 それと大宰大弐とは大宰府の次官。つまり遣唐使が出発する場所でもあり九州の朝廷ともいえる大宰府の偉い人を兼任するんだから、遣唐使がもたらした財宝はいち早く手に入ることになる。一度この役職に就いたら大金持ちになるともいわれているおいしい地位ポストだ。

 名目上は次官だけれど、長官である大宰帥だざいのそちは名誉職で、皇族の親王などがなる場合が多く、実際に大宰府には行かない場合が多い。だから次官の大宰大弐が実質上は長官なのだ。

 それにしても大宰府は遠い。我われの感覚だと大宰府も唐の国もそう大差はないと思われる。だいたい、奈良でもこの平安京でもとにかく都で生まれてその外へ出たこともない者には、大宰府など冥府よりも遠いと思えるかもしれない。

 だが父上は違う。俺もそうだが、大宰府とは方角が真逆でも同じような遠国に赴任した経験がある。つまり陸奥に、しかも戦争のために行っていたのだ。大宰府には戦争をしに行くのではなく財宝を手づかみに行くのだから、まあめでたいといっていい。

 任期が終わって帰ってきた暁には、小野家はもはや下っ端貴族ではないだけでなく、貧乏貴族でもなくなるのだ。

 父上はその大宰大弐と参議の二つを兼任だから、都で参議として国政に参加するか、九州の大宰府まで行って大金持ちになって帰ってくるか選択を迫られることになる。もちろんどっちを選んでももう一つの役職はそのままだし、その分の給与も出る。そうなったら、普通は大宰府の方を選ぶだろう。

 実は父上からも、近々き日をぼくして九州に下る旨の知らせが来た。

 そしてその父上の公卿就任の祝いと大宰府下りの送別の宴が西大宮邸で執り行われるので、俺にも参加するようにとの知らせも来た。

 それがちょうど次の旬暇に当たっていた。

 宴といってもそれほど大規模なものではなく、少量の縁者が集まって酒を酌み交わすだけのものだった。

 まずは皆がそれぞれに父上に祝辞を述べ、それから延々と父上の演説が続いた。

 これから自分が大宰府に赴くのも、遣隋使として名をはせたご先祖の妹子様のご加護だとか、小野家は代々陸奥の護りに当たってきた家系だとか、あまり話に一貫性はなかった。

 参列しているのは父の兄弟や従兄弟いとこなので、そのような話はみんな聞かずとも知っているはずなのだ。現に父上の兄弟、つまり俺の叔父もかつて征夷軍に加わっている。

 俺はこの席で、またもや驚くべき初対面があった。

 今度は妹ではなく弟である。

 千株ちかぶと名乗った十代前半の少年はちょっと見が男なのか女のか分からないくらいの美少年で、中性的要素が強い。なよっとした感じだけれど明るく人は良さそうで、すぐに俺になついていろいろと語りだした。

 当然、この時が初対面というだけに母親は違う。気をつけなければ母親の違う男兄弟は政治の世界では最大の政敵になったりするのだが、どうもこの少年はその心配はないような気がした。

 そもそも俺がそんな政敵を作るような政治の世界に進出するとは思えない。

 そして、宴も終わりの頃、父が俺を手招きして別室に連れて行った。父は酔いが進んでいるらしく足取りがおぼつかないが、隣の部屋で俺を見据えて座った。

「実は朝桐のことだが」

 父上は俺が守子の真名をすでに知っていることなど知らないので、まだその通称で呼ぶ。

 今日は娘が顔を出すような宴ではないので、守子は別室にいるはずだ。

「はい」

 俺は息をのんだ。父上が何を言い出すのか全く見当もつかなかった。

「どうもこのところ、体調がすぐれないということで寝込んでいるらしい」

「あ、じゃあ、今日、帰り際に見舞って帰ります」

「いや、それが……」

 父上は何か奥歯に物が挟まったような言い方をする。

「実は私も知らなかったのだけれど、あの子の母親がなぜか大騒ぎをしていてな、これはただのやまいではないと」

「ただの病ではない?」

 なんか、かなりやばい状況になっているのだろうか。

「具体的に、どういう症状なんです?」

「聞いた話だと、食欲もないし、無理して食べると吐き気がするし、実際に何回か吐いたという。それに、胸焼けがしたり、全身がだるくて熱っぽいそうだ。一日中起きられない日もあるそうだよ」

「物ののせいかもしれませんね。加持などは?」

「それは私も考えた。でもあの子の母親は、違うと言う。じゃあ何なのかと問い詰めたら、殿方には分からないでしょうとのことだ。そして極め付けに、月の障り《生 理》が十日も来ていないそうだ。いくら男でも、いくら鈍感でも、もうどういう状況なのか分かるはずだともいわれた」

 「あ」

 俺は自分の顔が青ざめていっているのが自分でもはっきりと分かった。血の気が引くとはこういうことだ。

 たしかに、状況は分かった……なんてのんきなことを言っている場合ではない。頭の中が真っ白になり、これからどうしたらいいのかなんてすぐには考えられる状況ではなかった。

「これがすでに夫がいる身なら実におめでたい話だ。でもあの子はまだ独り身なのだよ。だから、あってはならないことだろう? そこでおまえに聞きたいのだが」

 俺はもう全身が凍りついた。実際に震えていたかもしれない。そんな顔面蒼白な俺を見て父上が変に思わなかったのは、やはり酒がまわっていたせいかもしれない。

「おまえは時々博士として来ていたから、妹に通う男ができたとか、よばう男がいるとか、そういう色めいた話を耳にしていないか?」

 ああ、父上は俺を疑ってはいない……とりあえずは、よかった……俺が心配していたような詰問をしてくるのではなかった。でもことがことだけに、それはあくまで「とりあえずは」であって、胸をおなでおろして安心なんて訳にはいかない。事の重大性は何ら変わっていない。

「あ、い、いえ、存じません」

 俺は声を震わせながらもそう言った。

「ほら、前にふみを届けに来た男は?」

「大納言様の御子息ですね。彼は美濃介になりましたから、もう一月ひとつきも前に美濃に下ったと思います」

「そうか。まあ、母親はかんかんだけれど、おまえはそれとなく朝桐から事情を聞いてみてくれ」

 父上の話はそれだけだった。

 俺は疑われてはいない……でもそれは、現時点ではの話だ。それに、だからといってそれで済む話ではない。

 守子が妊娠……? 

 これは緊急事態である。そして間違いなく、俺は当事者なのだ……。もし俺が当事者でなかったりしたら……そんなことはあり得ないけれど……それはそれでまた困る。

 席に戻った俺は、もう何も飲み食いする気も話をする気もなく、とにかく守子のもとを訪ねた。父上公認である。

 部屋はすべて格子が降ろされていて、木の扉から入らねばならない。

 俺の姿を見た例の桶洗童ひすましわらわの童女が慌てて飛んでくる。

「姫様は、今日はお体が優れぬとのことで」

 たどたどしくそしておどおどとしておかっぱ頭の幼女は言う。

「だからこそ、見舞いに来たのだ。今日は兄として」

 俺はそう言って、遠慮なく妹の部屋に入っていった。

 やはり灯火は消されていて、簾も下りていた。

 俺は手に持った紙燭の明かりだけを頼りに、簾の外から声を押し殺して呼んでみた。

「守子!」

 すぐにざわざわという衣擦れの音がして、守子は上半身だけは起こしたようだ。

「ごめん、もう寝ていたのか」

「いいえ。だいじょうぶです」

 その返事の声は、弱々しかった。

「体の具合が悪いと聞いたけど」

「一日中眠かったり、だるかったり、でもすぐによくなるでしょう。どうかご心配なさらず」

 どうも妊娠のことは、母親はまだ守子に告げていないらしい。

「とりあえず、次の旬暇の時に来るからそれまでゆっくり休んで」

 そういう俺の声も震えていた。

 普通の夫婦ならここで手を取って、「よくやった!」とか言って喜ぶところだろう。だけれども、結婚の事実を親にさえ秘密にしておかなければならないない事情のある俺たちにとっては、最悪の事態といってもいい。ましてや今、そんな状況であることを守子に告げることなど断じてできない。

「あの、篁様」

 呼ばれて、我に返る。

「食べたい物の好みもいつもと違うのです。今、無性に食べたいのは酸っぱいもの。橘の実なんかが食べたくて……」

 そんなこと言われても、橘、つまり小さいミカンは秋から冬にかけて熟するもので、もう春たけなわの今頃に手に入れるのは難しいだろう。それに、橘は酸っぱすぎて、あまりそのまま食べる人はいない。

 ただ、今の守子のことを考えたら、そんなことを言って無下に断るのは忍びない。

「分かった。なんとかしよう」

 その日はとりあえず、それで守子の部屋を出た。


 それからというものの、地獄のような日々だった。

 何をどうしたらいいかも分からない。

 時間がたてば、守子の妊娠はどんどんと誰の目にも分かるようになってくる。そうなったとき、俺はどうふるまえばいいのか……。やはり父上には、早いうちに本当のことを言っておくべきか……。

 それにしても、たった一発やっただけで……ゴホン(咳払い)……たった一度の逢瀬で……。

 今さらそんなことを考えても始まらない。今度ばかりは母上や那木に相談できるようなことでもない。

 ただ、とりあえずは、これも難題だけど、守子がほしがっていた橘の実を手に入れることだ。

 でも、天の助けというものは本当にあるものだ。

 大学寮で俺を含む四人の省試合格を祝して、宴を開いてくれることになった。

 その膳に、なんと橘の実が出たのである。食べるためではなく、しぼって料理にかけて味をつけるためのものだけど、よくものこの季節まで保存しておいたものだと思う。

 俺は当然のこと、そのうちのいくつかをこっそりと官服の懐にと入れた。

 そして十日後の昼過ぎ……。

「朝桐! 橘だぞ!」

 他人の耳を憚ってこれまで通りの呼び方で妹妻を呼んだ。いつも通りに博士家庭教師として講義に赴いた俺を、いつもどおりに自分の部屋で守子は座って待っていた。ただ違うのはまだ少し体調がすぐれないのか、どこか暗い顔だったことだ。

「どうだ? 体の調子は? 少しは良くなったか?」

「はい。だいぶ楽になりました」

 そうは言うものの、まだ完全ではない様子だ。ただ、横にはなっておらず、部屋の真ん中の板敷の上に俺の分と自分の分と一畳ずつ敷いた畳の上の円座に座っているだけ、たしかに少しは楽になっているのかもしれない。

 守子が暗いのは、体の調子ではなくて精神的なことかとも思う。

「実はお兄様」

 守子も、これまで通りの呼び方で俺を呼ぶ。

「気になることがあるのです。私の体はただの病ではないのかも……だって、障りもの生理がもう二十日以上……」

「まあ、とにかく橘を」

 ついに守子も自分の体の異変に気がついてしまったのか……でも、本人の口からそれ以上を聞くのは俺は怖かった。だからあえて制して、話題を変えた。

「まあ、こんな季節によく……」

 少しだけ、守子はうれしそうな顔をした。

「花だったらそろそろ咲き始める季節だね。まだ春の盛りという感じだけど、暦の上ではもう夏だよ。橘の花が咲いてもおかしくはない」

「橘の花も、いい香りがしますね」

「でも……」

 少し俺は、言葉を切った。

「どんなにいい匂いでも、すぐに空に散って消えてしまう。でも、俺の緑の衣の香りの方が勝っているだろ」

 この日は唐風の官服で来ていた。私的な外出ではないことを大学寮の関係者にも誇示アピールするためだ。俺の位はまだ正六位上しょうろくいのじょうだから色は緑色だ。そして昨日の夜から、香を焚き込めておいた。

 そしてここで声をひそめた。

「おまえへの想いと同じで、空に散って消えたりしないで、いつまでも変わることのない香りだよ」

 守子の頬がぽっと赤くなった。

「たとえどんな状況になったとしてもだ」

 はっと驚いたように、守子は顔を挙げて俺を見た。その目は涙目だった。

「どうした? 橘の花の香りは消えてしまうけど、おまえは花よりも橘の実が食べたいと言うからもらってきたんだ。かなり酸っぱいかもしれないけどな」

 守子はその橘の実を手にとって、自分の鼻の所に持って行ったりしていた。

「お兄様がふところに入れてきた実にしては、緑の服と橘の葉の色は似ていますけれど、この実にはそのお召ものの香りは移っていませんね」

 それから少し黙って、守子は俺の顔を見ていたけれど、その頬がさらに赤くなった。

「あのう、先ほどのお話ですけれど、もしかして私のお腹の中にはやや赤ちゃんが……」

 ついに守子は切り出してしまった。だけど、俺にとっては「困った」という気持ちばかりあって焦っていたのに、何か守子はすごくうれしそうなのだ。

 そっと自分のお腹をさすってみたりしている。もちろん今は、これまでと全く変わらない普通のお腹だ。

「前に厩戸の皇子様のご両親がちょうど私たちと同じ立場だったって聞きましたけれど、それもありますし、それにこの子もお兄様の子なんですからもしかしたら厩戸の皇子様のようなものすごい賢い子になるかも」

 もう無邪気としかいいようがない。恥らって頬を赤めているあたりが、いつもの可愛らしさを倍増させている。

 そんな守子の様子を見ていると、ただ困った、困ったと焦っていた自分が恥ずかしくなった。なんで地獄のような日々なんて思ったのだろう。生まれてくるこの子供の将来のことなんか、考えていなかった。無限の可能性を秘めて、これからこの子はこの世に生まれ出ようとしている。

 俺もそっと、守子のお腹をさすってみた。

 ここから人間が一人育って、そして生まれてくるというのだから不思議な話だ。

「朝桐……いや、守子。これからいろんな苦難があるかもしれないけれど、この子のために二人で頑張って乗り越えような」

「はい、篁様!」

 俺たちはそうして、しばらく見つめ合っていた。

 だが、その時……。

 部屋の入り口で咳払いがした。

 驚いてパッと守子から離れ、恐る恐る見てみると……そこに人影が立っていた。

「鬼……!?」

 俺は思わず身構えてしまった。格子を上下とも外した入り口に仁王立ちになっているその人影は、その殺気や恐ろしげな波動から、俺がそう思ってしまったのも無理はない。

「お母様」

 守子が怯えたように俺の陰に身を隠す。

 まさしく鬼の形相のその女は、顔は初めて見るけれど、守子の母親のようだ。

 そのまましずしずと、守子の母親はその場の板の間に座った。

 俺がそっと円座を差し出すと、それは手で払いのけられた。

「お話を聞かせてもらいましょうか」

 少しも隙を見せないという感じの、指すような口調だった。顔は相変わらず鬼の形相である。最初にあいさつした時も簾越しだったのに、今や堂々とその顔を見せて目の前に座っているなど、よほどの事態である証拠だ。

「あなた、娘に手を出しましたね」

 何の申し開きも許さないような鋭い指摘に、俺はどう答えていいか分からなかった。目には見えない大汗が俺のこめかみを伝わって落ちているようにも感じる。

「手、手を出したなんて……」

 たとえ事実があったとしても、そういう言われた方は矜持が許さないというような気もしたけれど、反論なんてできる状況ではない。

「お母様、そういうことではありません」

 俺の後ろに身を隠しながらも、おずおずと守子が口を開く。

「あなたは黙っていなさい!」

 ぴしゃっと言われてしまった。

 でも、どう考えても変だ。父上は守子が妊娠したことは告げてきたけれど、俺には守子のお腹の子の父親たるべき男の心当たりはないか聞いてきただけだった。この守子の母親は、なぜもう俺と守子の関係を疑うのか……いや、それ以上に断定してくるのか……?

「娘は身籠っています。父親はあなたですね!」

 否定すれば嘘になる。否定なんかしたくない。だからと言って「はい、そうです」とも言えない。俺はただただ困惑するだけだった。だから、何も言わずにいた。

 その時、唯一の俺たちの逢瀬の目撃者というか、手引きした存在を思い出した。その存在はさっきからちょろちょろと柱の向こうから部屋の中をうかがっている。

 そちらに俺がぎょろっと目を向けると、一目散に逃げていった。

 もともと桶洗童ひすましわらわというのはこういう恋の手引きをすることも多いので、そういう面に関してはいちばん口が堅くなければいけない存在だ。それがしゃべってしまったということは、よほどきつい追及と折檻があったのだろう。

「待ってください、お母さん」

「お母さん? あなたにそんなふうに呼ばれる覚えはありません!」

 たしかに、この人は妹の母親で父上の妻はあっても俺の母親ではない。でも、そんなことにかまっている場合ではない。

「これには深い事情があるんです。俺と守子は…じゃ、ない…朝桐は…」

「なんですって!」

 しまったと思って言い直した時には遅かった。

「どうして、あなたなんかが娘の真名を……。やはり、やはりそういう関係だったのですね」

 守子の母親はすくっと立ち上がって、さしばという団扇うちわで俺の頭をしたたか打った。

 さすがにこの仕打ちには俺もムッと来た。

「あなたは今後、この屋敷には出入り禁止です」

「ちょっと待てよ!」

 俺も言葉を荒げて、立ち上がった。

「そりゃたしかにこの屋敷はあんたの親から伝領したのかもしれない。でも、今は俺の父上の屋敷だ。そして俺はその父上の長男だ。ここが父上の屋敷である以上、その長男である俺があんたに出入りを差し止められるいわれはない!」

「なんですと!」

 守子の母親は、これでもかというくらい歯ぎしりをして悔しがっていた。鬼の形相というよりも、もはや魔王の形相だった。

「守子はいずれ内侍ないしにして、あわよくば帝のお目にでも止まればと思っていたのに……。そうでなくても、しかるべき財と地位のある家から夫を迎えたいと思っていたのですよ。それにひきかえ、あなたは何ですか。いくらわが夫の長男とはいえ、あなたの母親の後見うしろみはないに等しく、ただ竹やぶの中の家で貧乏暮らしをしているっていうではありませんか」

「なんだとぉぉぉぉぉ!!!」

 ついに我慢の限界を超えた。俺への侮辱ならまだ許せる。俺の母上の悪口を言うやつなど、絶対に許せない! 俺はついに手に持っていたしゃくを振り上げた。

「篁様! やめて!」

 守子が俺の前に回って、振り上げた俺の手を必死で抑えた。でも、それがその母親をますます逆上させてしまったようだ。

「兄ではなく篁と呼びましたね! やはり、そういう関係なのですね。あなたをこんなはしたない娘に育てた覚えは……」

 母親の憤怒の相はそのままに、その顔は涙でぐしゃぐしゃになった。そして俺を突き飛ばすと、力いっぱい守子の腕をつかんだ。そして守子の部屋の隣にあった壁に囲まれた塗籠ぬりごめと呼ばれる部屋の扉を開け、そこに守子を投げるようにして入れた。

 守子は今大事な体なのにそんなに乱暴にしたらと俺はまた逆上したけれど、食ってかかったらまた肘ではねのけられた。

 そして扉は閉ざされた。

 だいたい屋敷は皆はめ込み式の上下に分かれた格子で外と仕切られているから、その格子を全部取ってしまったら柱と屋根しかない。でも、たいてい一部屋だけは塗籠といってちゃんとした壁に囲まれた部屋があって、扉を閉めてしまえば密室になる。窓もない。

 守子の母親はその塗籠に守子を閉じ込めてしまったのだ。

「おーい、今帰ったけれど、何の騒ぎだ?」

 のんきな声がした。父上の声だ。今まで宮中に出仕していたのだろう。

「どうしたもこうしたもありません」

 いきなりの自分の妻の剣幕に、父上はたじろいでいる。

「守子の妊娠の件、やはり犯人はあなたの息子の大学生でしたよ!」

 おいおい、犯人って言い方はないだろうと思ったけれど、割って入って文句を言えるような空気ではない。

「で、守子は?」

「塗籠に閉じ込めました」

「それは穏やかじゃあないなあ」

 そう言いながらも、父上は部屋の中の板の床に座った。仕方なく立っていた守子の母親も俺も、また座った。

 すると、微かに塗籠の中から守子の泣き声が聞こえてきた。

「息子も分別のある常識をわきまえた者だ。守子だってもう子供じゃあない。きっと深いいきさつがあるんだろう。許してやったらどうかね。腹違いの兄妹はらからの結婚は、これまでも前例がある」

「冗談じゃありません! あーたがそんなだから、若い人たちはつけあがるんです! 全く平安京生まれは何を考えているか分かったものじゃあない。とにかく、守子を塗籠に入れたのも、みんな守子のことを想ってのことなんです!」

 それから守子の母親は、下男の名前を呼んでいた。家司の下男はすぐに現れた。

「鍵を持って来てちょうだい。土も!」

 下男はすぐに言われたものを持ってきた。

 まずは大きな鍵で、塗り籠の扉を施錠した母親は、さらに持ってこさせた土で鍵穴を埋めてしまった。土といっても庭の適当な土を持ってきたわけではなく、築地塀や屋根に建材として使う粘土状の土で、乾けば固くなってしまう。

 もう守子を救出するためには、扉を壊すしかない。

「とにかく、その大学生をさっさとこの屋敷から追い出してちょうだい」

 それだけ言い残して、守子の母親は言ってしまった。

「さあ、困ったぞ」

 父上も考え込んでしまっている。なんでここは夫としての力であの女をはねのけて、守子を救わないのだろう? おそらくは普段から、こうして父上はあの女の尻の下に敷かれてるんじゃないか? たしかに財もあって高貴な家柄のでのようだから、仕方がないかもしれない。

「この様子じゃあ、今晩一晩くらい許しそうもないな。閉じ込めている以上、食事も与えないといけないだろう。でも、もはや扉を開けて食事を渡すことすらできない。私は吉凶を占った結果、間もなく大宰府に向け出発することになるというのに……」

 困り切っている様子の父上だけれど、ただ困っているだけだ。なんら打開策はないようだ。

「あいつのように何でもかんでも平安京生まれ、平安京生まれって言って若者を蔑む者も多いけれど、その最初の平安京生まれはあと二年もすれば三十歳に達して世の中を牛耳るようになる。私ら奈良長岡世代はもう出る幕はなくなっていくだろうし、そろそろ世代交代の時期だと思うんだがなあ」

 父上は何かそんなのんきなことを言っている。今の俺はそれどころではない。俺は泣きだしたい気分なのだ。


 そのまま、あの女には俺は帰ったということにしてもらって、いつも俺が泊まっていく時に寝ている部屋に隠れた。俺が帰ったということになったら守子も塗籠から出してもらえるかもしれないと思っていたけれど、それは希望的観測にすぎなかった。

 大声を出すと守子の母親に聞こえてしまう危険性があるので、とにかく俺は声をしのんで泣いていた。

 薄暗くなってから、例の桶洗童が食事を運んできた。

 いったいどこから食事の盆を入れるのだろうと思っていたけれど、あのガキの顔を見ると癪にさわるので知らん顔をしていた。

 そしてすっかり暗くなり、皆寝静まったと思われるころを見計らって、紙燭しそくを手に塗籠の所に行ってみた。

 塗籠とひさしの間が接するところの壁の一番下が、ちょうど食事の盆が入るくらい削られて穴が開いた状態になっていた。

 この屋敷は平安京ができてからすぐに建てられたっていうから、もう築三十年近くはなるはずだ。あちこちほころびもあるだろう。

 俺はその穴の所へ行き、さらに指でもう少し穴を大きくしようとしたけれど、ほんのちょっと削れただけでそれ以上は無理だと悟った。

 俺は穴の前に這いつくばる形になって、真っ暗な塗籠の中をのぞいた。

「守子、起きているか?」

 声を殺して呼び掛けてみた。すぐに弱々しい衣擦れの音がして、守子がこっちへ寄ってきたようだ。

「まだ、起きているのか?」

「とても眠れそうにもありません。畳もありません」

 これじゃあ虐待だろう。何が守子の身を想ってだ! 俺はますます腹が立ってきた。塗籠の中の床は板張りで、畳がなかったら眠るのも困難なはずだ。

 身重みおもな体でこんな虐待を受けたら、最悪の事態さえ起こりかねない。

「食事はしたのか?」

「食べたくないんです」

 紙燭の灯りでなんとか穴の中を照らしてみたら、確かにそこに差し入れられた食事の盆の上に手つかずの夕食がそのまま乗っているのが見えた。

「食べないと体に悪いぞ」

「ごめんなさい……」

 か細い声が、穴の向こうからやっと聞こえてきた。でも、こんな暗闇の中で食事をしろと言う方が無理なのかもしれない。

「ごめんなさい。私のお母様が、あなたにひどいことを……」

 こんな時にも、守子は自分のことよりも俺のことを気遣ってくれる。

「そんなことか。まあ、たしかに言われても仕方がないことだしなあ」

 大きな声では話せないので、穴のこっちと向こうでひそひそ話だ。

 俺は穴の近くまで身をかがめているけど、守子は塗りこめの中でどのような姿勢で話をしているのかは分からない。ただ、声がひどく小さいのを聞くと、座ってはいるがどうもそんなに身をかがめてはいないようだ。

「たしかにもっと俺の身分が高くて、俺の母親の家柄がもっと高貴で財があればよかったのに……。やはり、貧しいというのは悲しい」

「何を言いますの!」

 少しだけ、守子の声が大きくなった。

「そんなの関係ありません。たとえどんな身分でも篁様は篁様です。私が愛した人……。あなたが灯したほんの小さな恋の火が今や激しい炎となって私を噴きあげて、私は行方もしれない浮雲となってどこかへ消えていきそうです」

「そんな、どこへも行っちゃだめだ」

 あとは涙に詰まって言葉にならなかった。

 いつまでもそうしていたかったけれど守子の体のことを思うとそうもいかず、俺は一旦いつも泊まる部屋へと下がった。


 結局そのまま眠れず、朝に門が開くころに俺は一度大学寮の宿舎である直曹じきそうに帰った。

 月も変わって四月になり、更衣ころもがえの日を迎える。つまり、暦の上ではもう夏だ。本来ならいよいよ正規の文章生として新しい生活が始まるところだ。父上とて国政にかかわる参議として登庁し、また近々大宰大弐として大宰府に赴く。

 誰もが希望に燃えた新しい生活の出発スタートを切る……普通ならば。

 でも、俺も父上も普通じゃあない。

 新しい境遇といっても、俺は守子のことが気がかりでそれどころではないのだ。

 大学の講義も今までの面子メンツではなく、今回省試に合格した俺たち四人と、前からいる十六人の合わせて二十人で講義を受ける。

 前からいる人たちは、普通は「先輩」と考えるだろうけど、ここでは先に入っていた人たちが上ではない。あくまで年齢なのだ。

 ま、そんなことはどうでもよくて、とにかく守子のことが心配だ。

 こんな状況だから次の旬暇は漢文の講義などできるはずもなく、そうなると逆に旬暇まで待つ必要もないということになる。

 そして、四日ほどたった。

 その日は講義が午前中で終わったので、俺は昼過ぎに大学寮を抜け出して西大宮邸に向かった。

 そろそろほとぼりも冷めたころではないかと思ったのだ。

 あれからもう四日もたっているのだから、まさか守子も塗籠に入れられたままなんてことはないだろう。

 いきなり会えないのなら、とりあえず父上に様子を聞こうと思っていた。宮中の仕事も何か特別なことでもない限り午前中だけなので、父上も帰って来ているはずだ。

 いつものように、いつもの顔で、今日も守子の兄の顔のまま門を入った。

 ところがすぐに、雑色ぞうしきつまり下人たちが大勢出てきて、俺を取り囲んだ。

「お方様より、篁様はこのお屋敷にお入れしないよう言われておりますので」

 雑色のかしらが俺の前に立って、偉そうに生意気な口ぶりで言う。

 ――一丁前いっちょまえに、誰に向かって口を聞いているんだ?……と、俺は少しムッとした。

「よく聞け。ここは誰の屋敷だ?」

「小野の宰相様のお屋敷です」

「だよな」

 俺は苦笑いをして見せた。

「俺はその嫡男だ。息子が父上に会いに来て何が悪い! 通るぞ」

 反論も許さず、群がって立っている雑色たちを払いのけて、俺は母屋へと向かった。

 そこには父の姿とあの女、守子の母親の姿があったが、守子の母親は俺が庭の方から歩いてくるの見ると目をむいて立ち上がり、ぷいと奥の方へ入ってしまった。

「あがってもいいですか」

 一応、父上に聞いた。

「ああ、あがって来い」

 この父上の一言で、もうあの女がどんなに俺を阻止しようとも、俺の方に大義名分がついた。俺は母屋に上がり、父上の前に座った。

「守子はどうしてますか? まだ、横になることが多いですか?」

 俺は挨拶もそこそこに、そう切り出した。父上は返答に窮しているようで、しばらく首を横に振っていた。

「いやあ、横になっているか起きているか、何しろ分からん。塗籠の中では」

「え?」

 俺は耳を疑った。

「まさか?」

 父上はゆっくりうなずいた。

 もう四日もたっている。その間、守子はずっと塗籠に閉じ込められたままなのか……。

 信じられない。こんなことがあっていいはずがない。

 身重な体の守子にこんなにも精神的衝撃と肉体的苦痛を与えたらどうなるか……その結果は誰にでも分かりそうなものだろう……。

「どうして助けないんですかっ!」

「あの子の母親がおまえと二度と会わないと誓えとあの子に迫ってな、それを誓うまでは出さないと……。お互いに強情なのだ」

 そんな誓いを、かりそめにも口にするような守子ではないことは、俺がいちばんよく知っている。

「ちょっと見てくる」

 俺は立ちあがった。守子のいる対屋たいのやへの渡り廊下を行くと、予想通り雑色たちが立ち塞いだ。どうせまた、あの女に命じられたのだろう。

 俺は力づくでも通るつもりだった。

 やつらは命じられているとはいえ、物で雇われているだけの身だ。忠義心などない。俺が力を見せれば退散するはずだ。陸奥の山野で鍛えた俺の腕がうなるぜ……。

 と、思ったけれど、俺の背後の遠くから父上が顔を出して、雑色たちを顎でしゃくったようだ。雑色たちは一斉にいなくなった。

 俺は急いで、塗籠まで行った。鍵穴に詰め込まれていた土は堅くなって、もはや土壁と同様になっていた。

 そこで例の床に近い穴の所へ行き、身をかがめて中をのぞいた。今日は明るい時刻なので紙燭もいらず、のぞきやすかった。

「守子!」

 もう、遠慮もしないで大きな声で、穴の中に呼びかけた。

 返事はなかった。

 俺は焦った。

 そして三回くらい呼んでから、やっと衣擦れの音が聞こえた。

 でもそれは、かなりゆっくりとしたもので、近づいて来てはいるけれど時間がかかった。

 どうも守子は立ってこちらへ来ているのではなく、床を這って来ているようだ。もう立ちあがることもできないのか……。

「守子! 俺だ!」

「篁様……お帰りなさいまし……」

 ゆっくりとした、本当にやっと聞き取れるくらいのか細い声だった。でも俺は、その言葉にはっとした。

 かつて講義の時には俺が来ると――いらっしゃいませ、お兄様……と言って迎えてくれていた。

 それが――お帰りなさい……だったのだ。

 二人の間は塗り籠の厚い壁で隔てられてはいるけれど、俺たちはまぎれもなく夫婦なのだ。

 そして、穴のすぐのところに、食事の盆が置いてあるのにも気づいた。引き出して見ると、全く手がつけられていなかった。

「守子、まだ食べていないのか? 食べないと弱ってしまうぞ」

 まさか四日間、何も……そう思うとぞっとする。

「篁様が……やっと帰ってきた……。」

「頼むから食べてくれ。さもないと、死んでしまう」

 できれば手を取りたい。顔も見たい。でも、それはかなわない。

「だいじょうぶ……食べなくても死にません……。誰かのためにという心があれば……消え入りそうな身でも……なんとか持ちこたえられるのです。篁様のために……」

 それは本当に苦しそうだった。

「分かった! もうしゃべらないくれ、頼むから。今、もっと食べやすいものを作って来てやる」

 俺はそれだけ言うと、この対屋の厨房に向かった。

 そこでは料理人たちが食べてもらえるあてもない今夜の守子の食事を作っていた。

 俺が突然入ると皆驚いて手を止めたが、俺はその長に、守子の食事は俺が作ると宣言して無理矢理に場所をもらった。

 料理は陸奥にいる時に身につけた。

 手早く、病人が食べやすいような粥と汁を、俺は作り上げた。

 その盆を持って、再び守子のいる塗籠の方へ行こうとした。

 その時、突然意識が朦朧とした。

 危うく盆を落としそうになったので、近くにいた料理人の雑色にそれを渡した。

「これを、朝桐の所へ……。俺の手作りだと言って、ぜひ食べてもらってくれ」

 その言葉を最後に、俺の意識はなくなった。どうもドーンとその場に倒れたらしい。


 次に気付いた時は、俺はいつも泊まる部屋に寝かされていた。

 俺は情けなかった。

 守子のために腕を振るったはいいが、自分で運んであげることもできずに自分が倒れるなんて……情けない。

 畳の上で横になったまま、また涙が流れた。

 万事休すだ。

 そうだ……いつもはアホだとばかにしているけれど、こんな時何気に頼りになるやつがいた。

 俺は起き上がった。なんと外はもう薄暗くなり始めていた。俺はそのまま外に出て、とりあえずは門が閉まる直前に大学寮に戻った。

 

 翌朝、俺は皆の目を盗んで、大学寮を出た。

 初めての講義無断欠席だ。

 俺は大急ぎで、鴨東の実家へと向かっていた。

 実家に着くと、母上が庭に作った小さな畑というか菜園というか、そこで土いじりをしている。晴れて宰相となった貴族の妻が、ここで野菜作りとは痛ましい姿であった。

 でも、その母上に見つかると、大学に行っているはずの手前何かと面倒なので、俺は見つからないようにして裏手に回った。裏手は俺の乳母でもあった秋萩の住む小屋だ。そこにその娘である那木はいるはずだった。ただ、大人しく部屋に引きこもっていればの話だが……。

 でも、俺の足音で、縁側から那木はひょっと顔を出した。

「あ、篁!」

「シーっ!」

 俺は那木の声を制すると、顎でしゃくって出てくるように示した。那木はすぐに出てきた。

「省試、受かったんだってね。おめでとう」

 情報が早い。父上が母上に知らせたんだろう。でも、今はそれどころではない。

「それより、河原にでも行かないか」

「行く行く」

 いい意味でいえば天真爛漫な那木は、すぐについてきた。

 俺の実家から河原までは歩いてもすぐだ。

 林の中の小道をほんの少し歩けばぱっと視界が開けて、かなり広い河原に出る。その河川敷の中を、水は幾筋にも分かれたり合流したりして右から左へと流れていく。

 俺と那木は河原の、川の流れのうちの一本の支流のほとりに腰を下ろした。

「どうしたの? 突然」

 那木は隣に座りながらも俺の顔を覗き込むようにして言う。

「元気もなさそうだし」

 ちょっと間をおいてから、俺も那木の目を見た。

「実は……」

 それからまた視線を川の流れに戻して、俺は守子との結婚のこと、そして妊娠、それが相手の母親にばれて今や守子は監禁され、食事もとらずに大変なことになっているなどを洗いざらい那木に話した。

 いつもはへらへらしている那木だけれど、この時ばかりは真剣に、時には悲痛な表情で黙って聞いていた。

 話し終わってから那木を見ると、那木の目も潤んでいた。

「そっか」

 ぽつんと、那木は言った。そして大きくため息をついた。

「うまくいかないもんだね」

 そして、俺を見た。

「早くしないと、妹さん、本当に死んじゃうよ」

「早くしないとって、何を?」

「決まってるでしょ! 強引に奪取してここに連れてくるのよ!」

「だって塗籠に…」

「そんなの扉でも壁でもぶち壊せばいいじゃない!」

 俺も、那木の目を見る。その目は切羽詰まっていた。

「奥方様にはうちの親から話しておいてもらうから、とにかくこの家に連れて来て、ここで養生してもらうしかない」

 そう言って、那木は立ちあがった。

 俺も立ちあがった。二人は向かい合う形になった。

「なぜおまえは、朝桐のことになるとそこまで親身になってくれるんだ……?」

 しばらく返事はなかった。その間に那木の目にはさらに大粒の涙があふれ出していた。

「ばか! 鈍感!」

 那木はそれだけを言った。

「え?」

 俺はなぜそんなことを言われないといけないのか、すぐには分からなかった。

「前にも言ったよね。自分の好きな人が恋に悩んでいても、幼馴染みだともうその心を知り尽くしているから逆に応援してしまうって。早く行ってあげなよ!」

 それでも俺がためらっていると、那木はついに怒鳴った。

「早く行けってんだよ!」

 その大きな目からは、かなりの量の涙があふれていた。

 どうしてそこまでして那木は俺に……。

 その時俺は、ハッとした。たしかに前にもこんなことがあった。でもその時は、そこまで深刻に考えていなかった。最後はいつもの冗談のやりとりで終わってしまったんだった。

 突然俺の胸の中に、カーッと熱いものが噴き出してあふれそうになった。守子の心を知った時の暖かさとはまるで質が違う、炎のような熱さだった。

 今の俺は、それに応えてやることはできない。でも、応えてやれないことは口に出して言う必要はない。さっき、那木が自分で言ったとおり、那木はもうそんな俺の心の状態を知り尽くしているはずだから……。

 ――鈍感!……

 そんな那木の言葉が胸に刺さる。

 幼馴染みだから俺の心を知り尽くしていると言った那木……でも俺は、逆に距離が近すぎて那木の気持ちに気付かなかった。

 まさか……そうだったのか……。

 恋の真っただ中にいるやつは、恋の相手に対しては敏感で鋭利な神経を研ぎ澄ますけれど……それが客観的で冷静な判断に基づくものかどうかは別としてだが……、でもそれ以外の周りの世界に関してはすごく鈍感になってしまうんだなと思う。

 ま、今さらそんな那木の気持ちを知ったところでどうなることでもないし、どうすることもできないし、那木もそれは十分承知しているはずだ。

「太刀を持ってけ。でも、人は殺すな! それと大槌も! あと、馬で行けよ!」

 だから、それだけ叫ぶと那木は踵を返して家の方に走っていった。俺もそれを追うようにして一度実家に戻ると、うまやから馬を引いた。俺のいない間は、那木が世話をしていてくれたみたいだ。この馬に乗るのも久しぶりだ。

 俺は太刀をき、大槌は馬にくくりつけて鞍に飛び乗った。

 すぐに馬は鴨川を水しぶきを挙げて駆け渡り、四条大路を西に向けて一目散に駆けた。


 西大宮邸の門まで、全速力で走る馬だとあっという間だった。

 俺が馬から降りると、庭では思った通り雑色たちが俺が来るのを警戒して見張っていたけれど、ただ言われたから仕方なくという感じで、どうにもまじめに警備しているようには見えなかった。

 だって、みんな庭の思い思いの所に腰をおろして、中にはあくびしている者すらいる。

 でも、さすがに俺の馬の蹄の音を聞いたら慌てて一斉に立ち上がって、さっとっ人の壁を作った。二十人くらいはいるだろうか。

 しかも手には太刀とか槍とか、何か一応武器を持っている。

 武器を持ってはいても、彼らは戦闘要員ではない。ただの下人だ。そんなのに無理やり武器を持たせたって、陸奥の山野で鍛え上げ、父上とともに俘囚異民族相手に大暴れした俺の敵ではない。

 そんなのを蹴散らすのは朝飯前だけど、父上が雇っている雑色たちだけに傷つけるのには忍びない。

「通してもらおう」

 俺は馬から飛び降りて、腰の太刀の鞘に手をかけてそう叫んだ。

「そうはいきません。大学生はこの屋敷に一歩も入れないようにと、奥方様から申し付かっております」

 彼らもまだ抜いてはいないものの、太刀に手をかけている。

「では聞く」

 俺は大声で叫んだ。

「おまえたちは父上の雑色か、奥方の雑色か!?」

 前にも一度同じようなやりとりをした。でもあの時よりも今ははるかに人数が多い。

 雑色たちは、口ごもっているようだ。堂々と父上の雑色だと答えたら、俺と闘う大義名分がなくなる。たとえそれでいいと思ったとしても、彼らは奥方、すなわち守子の母親が怖いのだろう。

「おまえたちは、まぎれもなく私の雑色だ」

 騒ぎを聞いて奥から父上が顔を出してきた。そして庭の近くの建物の簀子縁側に立ったまま、はっきりとそう言い放った。

「そこにいるのは私の長男だ。私の嫡男にやいばを向けるものは、私に刃を向けるに等しい!」

 さすが父上、よく言ってくれた。でも、来たよ来たよ、例の鬼女。

「何を言っているのです! あーたまでそんな!」

 すごい顔で父上をにらみつけている。

「篁も守子も大事な私の子だ。おまえに好きにはさせない!」

 今日の父上、かっこいい! だったらもっと早く守子を助けてくれよ……と思うけど、父上なりの事情があったに違いない。

「何を言っているのかしら。あーたが参議にも、大宰大弐にもなれたのは誰のお蔭? 私の実家の後ろ盾があったからではなくて?」

 ほら、やはりこうきた。ここが一番父上にとって痛いところなんだろう……って、今ここで夫婦げんか始められても困るんだけど……。

「もういい、おまえたちは下がれ!」

 守子の母親は簀子すのこの上から庭の下人たちに叫ぶと、奥に向かって大きく指笛を鳴らした。

 すぐにすごい足音が響いて、甲冑をつけた兵たち数十人以上もが手に武器を持って走ってでてきた。

 今度は立派な兵士だ。武器はもちろん、武装している。

「い、いつのまに」

 父上も慌てているところ見ると、父上も知らない連中らしい。

「こんなこともあろうかと、私の実家の軍団を一団、借りておきました」

 俺一人のためになんと大げさなと思うけれど、俺の力を知るのならば大げさではないかもしれない。この女の実家って、こんな軍団を常駐させている相当でかい家柄なんだなと驚いてしまう。父上にとってはこの女の方が、あの陸奥の俘囚異民族よりも恐ろしい存在だってことも分からなくもない。だから父上は、守子を救うこともできなかったんだ。

「守子は我が里の後ろ盾で宮中に尚侍として仕えさせる予定だったのに、この男がみんなそれをだめにした。構わぬ。殺しておしまい」

「おいおいおいおい」

 そのそばで、父上が慌てている。だが、あの女の、いや鬼の目には父上の姿など映っていないらしい。

 兵士たちは一斉に太刀を抜き、またある者は槍を構えた。

 俺も太刀を抜く。でも、那木が殺すなよと言っていたのを思い出して、太刀を峰打ちの形に持ち替えた。俺が太刀を軽々と持っているように見えるかもしれないけれど、ものすごく重いんだぜ。何しろ鉄の棒だから……。例え峰打ちでも、それでぶんなぐられたら鎧の上からでも応えるだろう。

 でも、相手が持っている太刀も同じだ。しかも俺は鎧など着ていない。打たれたら本当に終わりだ。

 だからといってここでひるんでいたら、過去の栄光が台無しになる。そうだ、ここは都ではなく、陸奥の山野だと思おう。兵士たちは俘囚異民族の軍勢だと思おう。そう心に決めると、あの五年前の感覚が甦った。二十一になってあのころのようにはいかないなんて言っていられない。命がかかっているのだ。

 真ん中の兵が最初に俺に太刀を振りおろした。金属同士が激しくぶつかり合う音を響かせて、俺はまずそれを防いだ。でも、太刀は次々に俺に襲いかかる。もう俺は踊るように身を回転させながら、その一太刀一太刀を防ぎ、相手の肩や胴に太刀の峰討ちの打撃をくらわせた。

 軍団の兵士とはいっても、どうせ近所の農民が駆り出されて編成されたものだろう。ろくな訓練も受けていないに違いない。ましてや実戦の経験などないはずだ。

 俺や父上のように陸奥で俘囚相手に戦ったものとかでない限り、今の平安京生まれの世代で実戦の経験がある者などいるはずはない。

 今は出家なされている上皇様が帝と対立なさった時も、兵は出されたけれど戦闘には及んでいない。

 だから、こんな軍団の兵士など陸奥で戦いに明け暮れた俺の敵ではない……と言いたいところだが、やはり何といっても数で圧倒されていた。俺一人で数十人を相手にしているのだ。

 さっき、一度は俺を阻もうとした父上の雑色たちを今度は味方として戦わせるという手もあったけれど、どうせ役に立たないに決まっている。

 事実、この騒ぎでやつらは怯えてどこかに逃げて行ってしまっている。

「待ってろ!」

 父上が俺に叫んで、一度奥に入った。すぐに出てきた父上は、手に太刀を持っていた。あの陸奥の陣中で愛用していた太刀だ。それをさっと抜いて、庭に飛び降りようとした。

 父上の中で、あの陸奥の山野での戦闘の記憶がよみがえったらしい。

 ――あれだけの戦功を挙げた自分なのだ。ここでたった一人の女に臆していてどうする……父上はそんなことを考えたのだろうか……。

 俺にとっても、父上一人でも援軍となればありがたい……

 と、思ったが、父上の動きが止まった。

 父上の服の袖を引っ張って庭に行かせまいと、あの女がものすごい力で止めているのである。

「ええい、放せ!」

 父上は力任せに、自分の妻を蹴った。女は簀子の上に転がった。

 でも、父上が飛び込んでくる前に俺は十人近くの兵士にその場に押さえ込まれていた。

 庭に飛び降りた父上の前にも兵士は数人立ち憚っている。

 父上は見事な手さばきで太刀を振りまわしたが、やはりここは数の問題だ。

 しかも、俺の首に兵士たちの太刀の刃が当たっている。

「あーたが動くと、この大学生の首はこの場で飛ぶのよ!」

 簀子の上で立ち上がりながらも、意地悪く例の女は叫ぶ。

「太刀を捨てなさい」

 女は父上に言う。それは、もはや自分の夫に対する言葉つきではなかった。完全に鬼にとり憑かれているとしか思えない。

 父上は仕方なく太刀を捨てた。

「さあ、大学生の首をはねておしまい!」

「なんだと! 話が違う!」

 父上が叫んでまた太刀を拾おうとしたけれど、兵士たちはそうはさせまいと父上をも取り押さえようとした。だけれども、俘囚相手に戦った軍の大将だった父上だ。簡単に取り押さえられるはずもない。

「じれったい! 早く大学生の首を!」

 父上が自分を取り押さえていた兵士をなぎ払って俺のもとに駆け付けたとしても、その時には俺の首はもう胴につながっていないだろう。

 もう終わりだ。

 俺は目をつぶった。

 心の中で「守子!」と叫んだ。守子を置いていかねばならない。守子を取り戻しに来たのにこのざまで、ここで死んでしまうとは情けない。

「ほーっほっほっほっ!」

 あの女が高らかに笑う。

 でもすぐにその笑い声は途絶えた。

「なにッ!?」

 女が驚きの声を挙げたのは、何か目にもとまらぬほどの速さで飛来した二つの物体が、俺を取り押さえていた十数人の兵士を一斉になぎ払ったからであった。

 倒れている兵士は血は流していないから、殺されてはいないようだ。

 その黒い物体は、さっと俺のそばに着地した。

 それは茶色の戦いの装束を身につけた同じ色の手ぬぐいで顔を覆った二人の人間だった。

 兵士だろうか……? 分からない。手には短剣を持っている。ただ、二人ともだいぶ小柄なのが気になった。

 俺は父上の方を見て、目で尋ねたけれど、父上も首をかしげるばかりだった。

 敵か、味方か……敵を倒してくれたのだからまずは味方だろうと思うけれど、必ずしもそうはいえない場合もある。

 俺のそんな思考はお構いなしに、明らかに敵の兵士たちは懲りずに俺と新参の二人の兵士めがけて突進してくる。やはり数にものを言わせてという感じだ。

 ところが、新参の敵味方不明の二人の茶色い兵士は、目にも止まらない速さで飛び上がっては右へ左へと移動し、迫ってくる兵士たちをどんどん殴り倒している。手に短剣は持ってはいるけれど、刺したり、刃の方で斬ったりはしていないようだ。

 敵もかなりひるんでいるようで、みんな肩で息をしているのが見える。体中が逃げ腰だ。

 その前を二人の兵士=二つの物体は、攪乱するように瞬間的に背後に回ったり、頭上を飛んだりで、実は二人ではなくて何十人もいるのではないかと錯覚させるほどの早さだった。

 時には二人が空中で交差したり、さらには兵士たちの頭上で前回りにぐるぐると回転したりで、まさしく目にもとまらないとはこのことだと思う。

 とにかくそのお蔭で、俺も父上も解放された。父は地面の太刀を拾った。

 俺も同様に太刀を拾うと父上や突然現れた茶色い兵士とともに、まだ次から次へと押し寄せてくる敵の攻撃を防ぎ、太刀の峰で衝撃を与え続けた。

 もはや五年前の感覚が戻ったなどという次元ではなく、ここはあの時の陸奥の戦場と化していた。俺は跳ねた、太刀をふるった。そして戦場を駆けた。どんどんどんどん敵を倒していく。

 見ると庭の向こうから、敵の兵士のうち太刀でも槍でもなく、弓を持ったもの数名が矢をつがえ、もうこっちに向かって矢を放っている。矢は唸りながら飛んでくる。間違いなく俺へ命中する飛び筋だ。

 その時、例の茶色い兵士二人が矢に向かって手をかざした。たちまちその手からは青い光が放たれ、それが俺の前でなんか複雑な幾何学模様が入った円形の光の楯となって空中に浮かび、矢をすべて弾き返した。

 一切が一瞬の何百分の一の時間の出来事だった。

 妖術も使うのか……。

 敵の兵士たちはすっかり戦意を失って、逃げ腰になって地面にはいつくばっている。

 俺と父はどんどん相手を押していき、その矢を放った敵までをもなぎ倒した。

 もう、大方の敵は倒した。

「篁! 今のうち! 馬にくくりつけて大槌を持ってきてるでしょ! 早く! 朝桐ちゃんを救って!」

 女の声だ。その声は明らかに茶色い兵士の一人から発せられていた。二人は女だったのか……、だからこんなに小柄なのか……。

 でもそれ以上に、俺は耳を疑っていた。その声は実によく聞き覚えのある声だったし、しかもはっきりと俺の名を呼んだのだ。

「何ぼーっとしてるの!? 早く!」

 俺は門の近くにいた馬から大槌を外し、一目散に守子が閉じ込められている塗籠に土足のまま上がった。

 そしてその扉を大鎚で思いきり叩きはじめた。あっという間に扉は砕かれ、俺は急いで中に飛び込んだ。

 塗籠は周りが壁で窓がないとはいっても、昼間なら屋根裏の方から光はさすし、今扉を壊したのだからさっと光が差し込んで真っ暗ではなかった。

 俺が見たのは、その部屋の中央の板張りの上に倒れている守子だった。

 俺を入れまいとあの女がすぐ後ろに来て、俺の服の袖をすごい力で引っ張る。でも、それを引きはがしてくれたのは父上だった。そして父は、その女の鼻面に太刀を突きつけた。

 俺は急いで守子のそばに座って、その体を抱き上げた。

 守子はうっすらと目を開いて、俺を見た。でもその顔は真っ青で、息もかすかにしているという程度だった。

「守子! 守子!」

 俺は必死で呼び掛けた。

 守子の唇が動いた。

「守子! しっかりしろ!」

 守子の体を揺さぶる。

 その時気付いたのだけど、守子の下半身はわずかながら血で染まっていた。それもつい最近出血したという感じではなく、血に染まった衣はもう茶色っぽく変色して、乾いて固まっていた。

 お腹の子はもう流れてしまった……その出血がそれを物語っていた。

 守子の目は、ぼんやりと俺を見た。

「お帰りなさい……篁……さま……」

 こんな時にまで、守子はそう言ってくれる。

 もう愛おしくて、悲しくて、切なくて、座ったまま抱き起こした守子の体を抱きしめて、俺はどうやって涙を止めていいか分からなかった。

 お腹に子を宿した身で、いちばん安静にしていなければいけない時期にこんな所に閉じ込められ、精神的な衝撃と苦痛は計り知れず、板敷の上で掛けるものもなく何日も横たわり、食事も全く手に付けずに四~五日、まだ息があったことが不思議でさえある。

 とにかく守子を畳の上に寝かせ、何かを食べさせ、そして何よりも俺がそばについていてあげる、それが急務だと思った。

 ところが、守子の唇がさらに動いた。

「もう私の……私の体はもちません……でも……、夢の中でも……私の魂は……私の魂はあなたのそばに……そばに……」

「何を言ってるんだ! そんな魂になってしまったら、見えやしないじゃないか。そばに寄り添うことなんてできない。魂なんてかすかなものだから……。そんな頼りない魂がほかにまぎれてしまったら、何にもならない……。そんなこと言わないで、気をしっかり持って! 頼む! 持ち直してくれ!」

 そういう俺の言葉も涙交じりに、ちゃんとした言葉にならないくらいだった。たぶん俺の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていたことだろう。

「お腹の赤ちゃんも……ごめんなさい……」

「そんなこと、いいから、今は自分がしっかりして!……」

 守子の呼吸が乱れてきた。そっと手を伸ばしてくる。その手を俺は必死でつかんだ。その手は微かに震えていた。

 でもすぐに、その震えは泊まった。俺の手を握っていた力も抜けた。

 同時に、守子の全身の力も抜けたようで、俺の腕の中の体はふっと軽くなった気がした。

「守子ぉぉぉ! 守子が死んでしまう!」

 俺はありったけの声を挙げて叫んだ。

 その声を聞いてか、それまで守子の母親を必死で押さえていた父上が部屋に飛び込んできた。当然、その手から解放された守子の母親も一緒だ。

 二人は座り込み、母親は俺の手から守子を奪うようにして抱きかかえた。

「守子! 守子! 守子! 守子!」

 もうひとの耳をもはばからず、その真名を呼び続けている。父上もその妻の腕の中の娘の顔をのぞきこんで、同じくその真名を呼んでいた。

 俺は一度、部屋の外に出た。

 そこには先ほどの女兵士が二人並んで、俺に向かって畏まっていた。

 そして、顔の手ぬぐいを取った。

 やはり、一人は那木だった。

 那木がいつのまにあのような武術というか妖術というか身につけたのか……。

 そしてもう一人は……那木に関しては先ほどの声を聞いて予想はついていたけれど、このもう一人に関してはただ唖然……あのしぶき姫と名乗っていた守子の箏の師匠ではないか!

 そういえば二人が知り合いであることは、前に那木が言っていた気がする。

 ――しぶきちゃんにはもうひとつ別の顔もあるのよ……

 箏の師匠が武術……那木が言っていたのはこのことなのか……でも今は、そんなことを追及してる場合ではない。

 守子が……守子が……。

 その時、守子の母親が完全に狂乱状態になって、泣き叫びながらまるで踊るかのようにして部屋から飛び出してきた。

「守子が死んじゃった! 守子が!……」

 そしてひさしの間で一度転び、またなんとか立ち上がって、それでも転がるようにして叫びながら駆けて行った。

 おそらくその守子の母親の真名であろう名を呼びながら、慌てて父上もそれを追っている。

 俺は背中がぞくっとした。

 すぐに塗籠の中へ入ると板間に転がっていた守子に慌てて駆け寄り、かがんで守子の頬に両手を当ててみた。

 冷たかった。目を固く閉じて、息もしていない。

 守子はすでに息を引き取っていた。

 俺は座ったまま、すでに亡骸となっていた頼子の上半身を抱き上げた。まだぬくもりと香の匂いが残っている。でももう守子は動くこともなく、閉じられて目が開くこともない。

「守子……」

 俺は守子の冷たい頬に、自分の頬をすり寄せて泣いた。

「守子、ごめんな。辛かっただろう?」

 そのあとは涙につまって、言葉にならなかった。俺はただ守子をしっかりと抱きしめ、目を閉じて涙を流した。

 そしてしばらくそうしてから、俺は守子に語りかけた。

「俺の家に行こう。俺が連れて行ってやる。そこでゆっくりと休むがいい」

 俺は亡骸を抱き上げて立ち上がった。

 もう、涙も枯れてしまっている。それでも、目の前はよく見えない。

 守子の亡骸を抱いたまま庭に下り、馬の方に向かった。

 そして守子の亡骸とともに馬に乗った。そのまま、鴨東に向かって馬を走らせる。

 かなりの速さで走っているのに、那木としぶき姫も同じ速さでずっと馬から離れずに駆け通してついてきた。


 その日の夜に、父上が鴨東の屋敷に来た。

 いや、ここも父上の屋敷なのだから、帰ってきたというべきか。

 母上は突然の出来事にただただおろおろしていたけれど、秋萩がしっかりと支えて、事態を受け入れてくれたようだった。しかもだいたいのいきさつは、すでに那木がその母親の秋萩経由で俺の母上の耳には入れてくれていた。本当ならばいらないおせっかいといいたいところだけど、今回はそれで一から説明せずに済んだのでとても助かった。

 父上の話だと、守子の母親はほとんど錯乱状態になって手がつけられず、そのまま実家に帰したという。

「もう、あいつとは会うこともあるまい」

 父上はため息交じりにそんなことを言っていた。すぐに実家の家柄と財力を鼻にかけてひけらかし、それを楯に父上を尻の下に敷いてきた女から解放され、父上ものびのびとしているようだ。

 でも、まずは守子の葬儀をしなければならない。

 本当ならばこういう時、葬儀を取り仕切るのは故人の母親の実家だ。でも、今はそんな状況ではない。

 だから、葬儀はこの屋敷ですることにした。

 実はこの鴨東の屋敷の近辺は、下々しもじもで亡くなった人の遺体を運んで来て風葬にする地域からも近い。風葬というと聞こえはいいけれど、早い話が山野に遺体を放置して遺族は帰っていく、それだけの話だ。

 その放置場所に定められた山が、ここからすぐの所である。

 でも、仮にも父上は今年から参議、すなわち公卿になった。右大臣や大納言と同列とまではいかなくてもその範疇なのだ。庶民ではなく貴族だ。貴族としての体裁もある。下々のように風葬というわけにはいかないし、そんなこと言い出したら俺が許さない。

 結局、守子の葬儀は一切を俺が取り仕切ることになった。

 屋敷の隣は珍皇寺ちんのうじという寺だし、荼毘所火葬場のある鳥辺野も近い。父上が公卿になったおかげで、火葬なんて高級な葬儀ができる条件が備わったのだ。

 そう、火葬は最近増えてきたとはいっても、まだまだ高級な葬儀なんだ。そうして送り出してやれることが、守子にとってせめてものことだと思う。

 そんな俺を訪ねて来てくれたのが、大学でともに省試に受かった多治比の息子だった。彼とはこれまでそれほど親しくはなかったけれど、ともに省試に受かったのが四人だけで、まだ元からの文章生とは打ち解けていなかったので、自然と行動を共にするようになりはじめていた。

 そんな多治比の息子と父上が引きつれてきた西大宮邸の家司たちとともに、俺が中心となって守子の葬儀を執り行った。まずは守子の亡骸を牛の車に乗せて鳥辺野に運ぶ。

 それには遺族は立ち会わないことになっているので、代わりに那木に行ってもらった。火葬場で遺骨を拾ってくるのは乳母子めのとごであることが多いけれど、守子の乳母子は誰なのか分からない。そこで俺の乳母子である那木に、箏の師匠であるしぶき姫とともに行ってもらうことにしたのだ。

 車の出発の時も、俺は部屋の中にいた。

 出発に立ち会うとどんなに取り乱してしまうか、俺自身分からなかったからだ。

 那木としぶき姫はやはり俺が陸奥に行っている間にひょんなことから知り合い、ともに修験武術の修行をして武術を身につけたとのことだった。

 那木のことをを何でも知っているつもりでいたのは、俺の思いあがりだった。こんな友達がいたことも、那木がこんなにも武術を修得していたことも全く知らず、ただのアホだと思っていた。でも、アホは俺の方だった。

 鳥辺野の荼毘所はさっき言った下々の死体の捨て場所……もとい、風葬の場のほぼ真ん中にある。

 道端には白骨や髑髏が無数に転がっているし、最近葬られた遺体は腐敗途中で強烈な死臭が漂っているとのこと……やはり、あまり行きたくはない。

 那木としぶき姫が遺骨とともに戻ってくると、珍皇寺で簡単な供養が始まった。

 貴族の間でも皇族でも、葬儀は年々簡素になっていっているのが最近の流行はやりだ。

 守子とのお別れの儀式だけれど、もう守子はいない。

 守子は鳥辺野の煙となって空に昇り、残ったのはこの骨壷の中の遺骨だけだった。

 葬儀には前に父上の参議就任の宴で初めて会った、父上のさらに別の妻の子である異腹の弟の千株ちかぶも参列してくれた。守子とは一度も会ったことはないはずなのに、である。

 それなのに結局、葬儀の間も守子の母親は全く姿を見せなかった。

 父上は本当ならすぐに大宰府に向け出発する予定だったが、一ヵ月延期になった。守子は父上にとって庶子、つまり長男以外の子ということになるので、服喪期間が一ヵ月だからだ。その間は宮中への出仕もできない。

 そこで、一カ月の間はこの鴨東の屋敷で暮らすことになった。

 ここに連れてきた数人の家司のほかの家司や雑色に、西大宮邸は留守番をさせているということだ。

「あの屋敷はすべての建物を取り壊して更地にした上で、新しい屋敷を建てておまえに譲るよ。大宰府から帰ってきたらな。それまでに新しい妻を見つけておくことだ」

 俺は首を横に振った。新しい屋敷はありがたく頂戴するにしても、新しい妻など探す気は全くない。今でも俺にとっては守子がすべてなのだ。

 そんな俺も、父上よりも長い三カ月の服喪期間に入って、その間大学には戻れない。兄弟姉妹の服喪は三カ月だからだ。でも、同じく妻も三ヵ月ということになっている。そちらの意味で、俺は三ヵ月間、喪に服そうと思った。

 父上も俺も濃いねずみ色の喪服を着たまま、ひたすら守子の供養をしてここで過ごすのである。

 二度と会えない、二度と声を聞くこともできない、二度と触れることもできない、二度と抱きしめることもできない……そんな守子の供養を……深い悲しみとともに……。

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