第3話

 あの朝桐の涙は何だったのか……そんなことを考えながら悶々としているうちに、春はどんどんやってくる。

 もう二月も下旬で、本当は悶々としているわけにもいかないのだ。

 俺の省試の日も近付いている。もう当日まで、半月を切った。

 だが、詰め込みでガリ勉しても、式部省試は受からない。擬文章生になるための大学寮の寮試が『史記』や『漢書』の白文での素読のほか、それぞれから五題出題される問題を解けばよかったのだが、省試はそのような暗記ものとはわけが違う。

 題と韻字が与えられての、その場での詩作が試験なのだ。

 実は省試がそのような形式になったのはつい二年前のことで、従って過去問なんてほとんどないし、傾向と対策も立てられようもない。

 題も韻字もその場で公開されるので、前もって作っておくわけにはいかない。ヤマはって予想しても、題と韻字の両方が的中するなどまずあり得ない確立だ。

 だから、省試当日までは毎日が詩作の練習となる。作って作って作りまくるしかない。こうなると、技術ももちろんだが、感性も大いにものを言う。

 その感性でもって、時々思う。

 繰り返すが、朝桐の涙の訳は何だったのか……

 その前に、自分自身の朝桐に対する心の整理がついていない。

 妹は可愛い。しかし、妹だ。それ以上でもそれ以下でもない……と思いたいが……もしかして、それ以上……???

 でも前にそんなことをほのめかした時の……実際はほのめかしたのではなく朝桐の方が勝手に誤解しただけなのだったけど……あの時の朝桐のかたくななまでの拒絶……妹だったら当たり前だろうけど……。

 でも今のあいつは、怒って拒絶するのではなく涙を見せた……訳が分からん。

 とにかくこんな気持ちであいつと面と向かって講義をするなんで、もはや尋常な精神でできる技ではないし、ちょうどいい口実として俺の省試が近いので、とりあえず省試が済むまで家庭教師の講義は休むことにしよう。

 そう思って、俺は大学から使いの少年を西大宮邸の父上のもとへ送った。

 返事はすぐに来た。

 実は朝桐の方も次の俺の旬暇の直後にこと競楽くらべがくがあるのだという。

 朝桐が師事しているおことの師匠のもと、お弟子が一堂に会してその演奏技術を競う会のようだ。その準備で忙しそうだというので、次の旬暇の講義はお休みということになった。

 でも、父上の話はそこで終わりではなかった。

 競楽くらべがくでは、それぞれが演奏する一角の背後の花などの飾り付けを、演奏者の親族が担当するとのことだった。でも、朝桐の実の母親の関係者を含めても、そのような心得がある者はほとんどいないとのことで、それを俺にやってくれという。

 父上ももういよいよ老化が始まったのだろうか……俺にそんな心得があるはずがないことは、父上とて知っていように……。

 父上に言わせれば、朝桐には同母兄弟はなく、他に母が違う兄と姉が一人ずついるけれど、それぞれの母親のもとで育っているので一度も顔を合わせたことがないから頼めないという。俺だってもう一人の妹と弟には一度も会ったことがないし、朝桐とだってつい去年に初対面だったのだ。

 困った……本当に困った……でも、困ってばかりもいられないので、次の旬暇は西大宮邸での朝桐相手の講義もないだけに、久しぶりに鴨東の自宅に帰ってみようと思った。

 母の顔も見たいし、また今回の依頼についても母なら何かいい知恵を持っていそうな気がしたからだ。


 旬暇の前の日の試験である旬試も突破して……しなければ旬暇が消える……その日の夜に俺は鴨川を東に越えて、東山のふもとの竹やぶの中の実家に戻った。

 着いたときは、もううっすら暗かった。

 旬暇といってもここ数カ月は前のように旬暇のたびに俺が帰らなくなったので、母上は今回も俺は帰ってこないと思っていなかったようだ。だから、俺の顔を見てかなりびっくりしていた。

 そして慌てて秋萩に俺の食事の準備をさせている。

「長いこと家にも帰らず、申し訳ない」

 俺は畏まって無沙汰を詫びた。母上はそんなことはどうでもいいことかのように目を細めて、笑顔を作ってうなずいていた。

「活躍しているようだね。元気そうで何より」

 父上にとっては数人いる妻の一人かもしれないが、俺にとってはたった一人の大事な母親なのだ。

「あちらの妹さんの学問もどうかえ?」

「は、はあ」

 朝桐の話題が出たら、どうしてか心に曇りがかかってしまう。

「まあ、学問だけでなく、父上からはまた難題を頼まれて、それがことに関することと来た日には、もう母上の知恵を借りるしかないと思って……」

 そこへ秋萩が、食事を運んできてくれた。ありあわせで何とかしてくれたみたいだ。

 食事をとりながら、俺は朝桐の琴の競楽会くらべがくのえと、その飾り付けを自分が任されたという話をした。

「そういうことならば私よりも」

 母上はにっこり笑うと、秋萩と顔を見合わせて笑っている。

「ま、とにかく今日はよく休んで、明日にでもまたその話はゆっくりと」

 秋萩がなんか含み笑いをしているのがどうも気になった。

 でも、明日になったらゆっくりできるはずもない。

 あの、アホが襲来するに決まっている。その実の母親のいる前でなんだが、秋萩が俺の帰宅を自分の娘に話さないはずがない。

 下手したら、今夜にでも来そうだ。俺がそう思って眉間にしわを寄せたのを秋萩は目ざとく見つけたようで、笑って言った。

「あの子は、今夜はもう寝てますよ」

 寝んのはや! やっぱ自然児は日没とともに寝て朝日とともに起きるのか……まるで年寄りだな……俺はそんなことを考えて苦笑していた。


 そして翌朝、まだ朝食もできない頃に筋書き通りの展開となった。

「篁! 遊ぼ!」

 来た来た来た来た。

「あのなー……ガキかよ」

 この俺の幼馴染みにして乳母子めのとごの女は、前にも二回ほど言ったけど大事なことだから三回言う。もう、結婚して子供がいてもおかしくない年頃なのだ。

 それがいつまでたってもガキだ……いや、アホだ。

 そのことを言うと、那木はまた目を輝かせる。

「じゃあ、子供を生めばいいんでしょ。生むから、篁、タネちょうだい!」

 まともに相手にしているのがあほらしくなる。

「って、どうしたの? 篁。いつもらしくないじゃん。そういえば、美人の妹ちゃんは?」

 そりゃ、明るくもなれない原因の一つが、その朝桐なのだ。

「ははあ、うまくいっていないな。振られたとか」

 いつの間にか那木は、俺のいる部屋に上がり込んで、近くに座っている。

「あのな、振られたって、相手は妹だぞ」

「その妹ちゃんが御簾から出てきてくれないって、口説きの歌を考えてたのは誰でしたっけ?」

「殴るぞ」

 よく、究極の幼馴染みは妹だなんていうけれどそれは同母の妹の話で、母親が違えばほとんど他人。むしろ幼馴染みの那木の方が血はつながらないまでも究極の妹といえる。

「確かに、今ちょっと気まずい状況ではあるけどな」

「そんで、こと競楽会くらべがくのえがあるんでしょ? そん飾り付けを任されたんでしょ」

 耳が早い。って、情報源は母親の秋萩にきまっているけど。

「妹ちゃんと仲直りするいい機会じゃない。その飾り付けがお師匠に気にいられたら、妹ちゃんの機嫌も治るかもよ」

「そんなこと、分かってる」

「じゃあ、それ、私に任せて」

「は?」

 俺は一瞬耳を疑った。

「お、おまえに?」

「そ、私に」

 那木はそれが何でもないことでるかのように、にこにこ笑っている。いい加減俺はムッとしてきた。

「これは遊びじゃないんだぞ。おまえなんかがどうやって?」

「大丈夫だって。競楽は三日後に神泉苑の庭ででしょ」

「え? 神泉苑だって?」

 俺、秋萩にそこまで言ったっけ? いや、言ってない。そもそも場所が神泉苑でだってことは、俺だって今これが初耳だ。

 しかも、神泉苑といえば大内裏の外ではあるけれど、ほとんど宮中の一部といっていい高貴な庭園だ。そんな所で筝の競楽なんてよくぞ朝廷おおやけが許したものだと驚いた。

「なんで、おまえ、それを」

 那木はやけにニコニコ笑っている。

「だ・か・ら、私に任せなさいって!」

 そこに、母親の秋萩も顔を出した。

「若様、今度ばかりはふつつかな娘ですけれど、任せてやってはくれませんか?」

 俺の乳母だった秋萩に言われたら、そうするしかない。

「分かりました」

 俺はそれだけをしぶしぶと言った。那木はまだ笑っていた。どうもこいつはただのアホではなく、紙一重なのかもしれない。


 神泉苑とは、俺のいる大学寮の一つ東隣の八町の広大な敷地を占める庭園だ。大学寮とて四町なのでその倍の広さはある。

 飾り付けは母上から父上に連絡がいって、父上の屋敷の家司がまずは西大宮邸に運んで行ったという。もちろん、俺は見ていない。

 競楽当日、実際の行事の開始は夕方からということだった。そこで、大学の講義は午前中で終わるので、特別許可をもらって俺は出かけた。出かけたといっても、さっき言ったように神泉苑は大学寮の隣だ。

 でも、一度西大宮邸に行って父上たちと合流して行かないといけない。俺のようなみすぼらしい貧乏学生が一人でのこのこと行っても、門前払いを食わされるのが関の山だからだ。

 当日はよく晴れていた。

 桜にはまだ少し早いけれど、かつてこの神泉苑で帝が何度か花見の宴を催されたことがあると聞いている。つまり、それだけ高貴な場所なだけに、こんな機会でもなければ俺なんかが本来入れるような所ではない。

 とにかくだだっ広い。

 入るとすぐに威容を誇っているのが、大極殿もこんななのかと思うような巨大な建物で、造りは見慣れている朱雀門や羅城門と同じだ。

 つまり、赤い柱の上に緑色の瓦屋根が乗っている漢風建築で、二階建てである。屋根の上の左右にある金色の鴟尾しびが陽光を受けて光っていた。正殿からは左右に回廊が伸び、その先に同じような作りの脇楼もあった。

 とにかくだだっ広い敷地に建物はそれだけで、どんなに巨大な楼閣であっても、敷地の広さからすれば小ぢんまりと感じてしまう。

 建物の前は巨大な池。

 花見の宴とかではこの池にさまざまな船が浮かべられて、みんな楽しむのだろう。この池には、龍神が住むという。この庭園のためにわざわざ掘った池じゃあなくって、平安京ができる前からあった大池をうまく使ってこの庭園を作ったそうな。

 あ、全部、俺の耳元でごちゃごちゃと勝手に解説してくる父上の言葉によると、だけどね。建物が代ごく伝に似ていると至って、俺は大御供田の実物なんか見たこともない。一介の大学生が朱雀門の中に入ることなんて今はまだ夢のまた夢だ。いつか堂々と大手振って朱雀門をくぐって、朝堂院に出仕する日のために大学で勉学に励んでいる。

 それはいいにして、この神泉苑の巨大な池の向こうにはちょっとした森があったり小山が造られていたりで、とにかく巨大な庭園なのだ。

 今までこの神泉苑の外側の塀沿いの大路は何度も通ってきたけれど、その塀の中がこんなふうになっているなんて初めて知った。

 その池のほとりに、臨時の楽所が設けられていた。

 臨時とはいってもこれは和風の白木の柱にちゃんとした屋根の乗った立派な建物だった。

 南側は壁もなく大きく開かれていて、そこで琴の演奏が行われるのだろう。

 それが舞台ステージのようになっていて、それを取り囲むように観覧席である桟敷さじきがいくつか用意されていた。ちょっとした台で、上は畳が敷いてあって、くつを脱いで上がる。

 もう多くの人が次から次へと入場してきていて、桟敷の上にどんどんと上がっていく。中にはかなり高貴そうな人の姿も見える。

「右大臣左大将様だよ」

 隣で父上が耳打ちしてくるので、俺は驚いてその顔をまじまじと見てしまった。年の頃は俺の父上と変わらないが、やはり醸し出す雰囲気が全然違う。

 ほかにも権中納言右兵衛督様とか他にも何人かの貴人の姿が見えた。

 父上と俺はいちばん隅の桟敷に上がった。

 妹と共演するのは、皆同じお師匠の弟子だそうだけれど、右大臣の中の君も権中納言の三の君もいるのだという。

 そういう人たちと、妹は共演するのだ。

 すげえ……思わず俺は舌を巻いてしまう。

 楽所の舞台の上はまだ誰もいないけれど、それぞれの親類によって飾り付けられた座がすでにあって、さすがに桜はまだ固いつぼみだから、梅やそのほかさまざまな春の花でその座は飾られていた。その座も趣向が凝らされて、まさしく花盛りである。

 今からその花盛りの席に、花ざかりの姫たちが座って琴を奏でるのだ……そう思っただけで、思わず息をのんでしまう。

 そして、那木に頼んで作らせておいいた俺の妹の座は……まだどれがそうなのかは分からない……分からないけれど……ひときわ異彩を放つ席がいちばん向かって左にある。

 まさかな……と思うのだけれど、なんだか悪い予感しかしない。

 そこは自然の草花ではなく紙の袋が積み上げられていて、その袋のの一つ一つに鮮やかな色で菊の葉と花が描かれていた。

 袋は一つ一つはそれほど大きくはない。でも、こんなにもたくさんの貴重な紙で袋を作るなど、そちらの方に気を取られてしまう。

 また、描かれた菊の花がまるで生花のように生き生きと鮮やかな色を映えさせていた。

 でも、どんなに鮮やかに描かれていたとしてもそれは自然の花ではなく絵に描いた花なのだ。しかも、今は春……なぜ菊なのか……当然他の桟敷の人たちにもそれが奇異に感じられるようで、皆その座を指差してざわざわとざわついている。

「あれは?」

 俺も小声で父上に聞いてみた。父上は何も言わず、ただにこにこと含み笑いをしている……あやしい……。

 座のさらに左にはそこだけ御簾が降ろされた席があって、そこがお師匠の席なんだろう。その御簾の向こうに人影が見えたので、お師匠がお出ましになったようだ。

 他の姫たちの席には御簾はない。

 神泉苑に入れるということだけではなく、こんな機会でないと高貴な姫君の御尊顔を御簾越しでなく直接に拝することなんて、一生に一度あるかないかのことかもしれない。

 なにしろ右大臣の姫君も間もなく登場するのだ。

 だからこそ、こんな神泉苑という場所を会場に借りられたのだなと、今さらながら納得した。

 やがて、人びとの歓声の中を箏の奏者たちが登場した。

 向かって右端、ものすごい梅の花が紅と白に分けられて山のごとく盛り上げられた枝の中、赤い衣装に身を包んだ輝くような美しい姫は、右大臣家の中の君のようだ。年の頃は朝桐よりも少し若いかもしれない。十三歳くらうだろうか。

 今、左大臣は空席となっているので、この父親の右大臣が帝に次ぐ最高権力者なのだ。

 続く一面の桃李の花で飾られた席に着いた黄色の衣装の、やはり同じくらいの年の愛くるしい姫は権中納言の三の君だという。さらにもう一人、残念ながらかぶってしまったが、別の趣向で美しく飾られた梅の花の下に座った緑の衣装の姫に続いて、やはり菊の花が描かれた袋の山の中の席に着いたのは俺の妹、今日は桃色系統の衣装の朝桐だった。

 こう色とりどりの衣装の姫たちが並ぶと、御簾の向こうのお師匠はどんな衣装なのだろうかと思ってしまうが、いくらなんでも紫はあり得ない。紫は禁色で、最高に高貴な色であって、普通の貴族の女性が身にまとえる色ではないからだ。

 そしてまずは、四人で琴の合奏から始まった。

 始まってすぐに人びとの間からどよめきが漏れた。

 曲は今の季節とは合わない秋の風情を歌った「秋風草」だったのだ。

 俺は筝曲については門外漢で題名とかどんな楽曲があるのか全然知らないが、さすがに俺でさえれ今演奏されている曲が秋の曲だというくらいは知っていた。

 ましてや箏曲に詳しい人々にとっては、まさしく意表を突かれたって感じなんだろうなと思う。俺の隣で父上までもがうーんと唸っていた。

 そして驚くべきことに、右端の右大臣家の姫からの独奏に入っていったが、みんなが総て秋の曲を奏でたのである。おそらくはお師匠の指示なんだろうけれど、そうなるとこのお師匠もかなりのただ者ではないのかもしれない。

 そして最後は朝桐の番だ。曲は題名だけは知っていたけれど、「菊香楽」だ。

 俺は背筋が寒くなりさえした。

 那木はこの曲を朝桐が演奏することなんか知らなかったはずなのに、なんで菊の花を描いた袋を積み上げたのか……偶然にしては話ができすぎてる。

 朝桐の奏でる箏の音色が背後にうず高く積まれている無数の菊の花の絵と重なって、幻想的な空間を作り出していた。

 少し離れた所にある右大臣家の桟敷の上でさえ、みんな圧倒されて言葉を呑み込んで聞きいっている。

 そんなとき、風が吹いた。

 それは春風なんかじゃあなく、まぎれもなく秋の風だった。俺がそう思ったんだから、そうなのだ。俺の中では……。

 それも、ただの秋風じゃあなかった。隣にいる父上の横顔が横目に入ってくる。風はそっちから吹いてくる。

 ふと、俺の中をよぎったのはもう五、六年くらい前になるけど、その時陸奥守だった父上とともに陸奥にまで下った時の光景だった。

 しかもあの時、父上は異民族との戦争に明け暮れて、それを討伐した。すごくかっこいい思った。ま、あっちからすれば俺たちの方が侵略者だったかもしれないけど……。

 そんなこんなで陸奥の国の秋風を思い出しているうちに、俺の頭の中をものすごい勢いである詩が流れ始めた。既存の詩ではない。この時即興で俺の頭の中を、秋の風を主題とした詩の字句が次から次へと浮かんできたのだ。

 あの異民族との戦争、それを唐土の辺境での戦いに置き換えての創作だ。


 反覆するは単于ぜんうさが 辺城の兵未だ安からず

 戌夫は朝に蓐食じょくしょくし 戎馬はあかつき寒にいなな

 ~~(略)


 俺はそれを慌てて懐に入れていた布に書きとめた。

 ま、正直に言うと、本当に正直に言うと、実は父上もその陸奥での戦争を主題にした詩を書いていて、今の帝に称賛されたって聞いてる。それで、この時俺の頭の中に浮かんだのは既存の詩ではなく即興だって言ったけど、実は最初の二句はさっき言った父の詩の冒頭の「反覆するは天驕の性 元戎げんじゅうぎょ未だ安からず」から頂戴したのだ、本当は。。九句目の「色は満つ都護の道」も父上の詩の「我は行く都護の道」から……ま、いいにしよう。

 とにかく今は春なのに、ここの空間だけはすっかり秋一色だった。

 省試のための詩作、詩作の毎日なのだ。それなのに、こんなにすらすらと詩の字句が浮かんできたことなんて、これまでなかった。

 演奏が終わった。ものすごい喝采だった。

 その朝桐の箏の音に合わせて俺の頭の中にどんどん詩作の発想がわいたのだから、この詩は朝桐との共作と言ってもいい。

 続いて、御簾の向こうのお師匠から背後の飾り付けについての寸評があった。

 右大臣家にはもう何も言うことはないし、時の最高権力者相手に言えることなど何もないはずだ。次の権中納言家の桃李の花も絶賛ものだった。だけれどもその次の、右大臣家と梅という点でかぶってしまった次の演者の飾り付けについては、やはりどうしてもから口になってしまう。

 最後が朝桐だ。

 御簾の向こうからはしばらく沈黙があった。

「袋の中は何かしら」

 そんなお師匠の厳かな声が響いた。

 すぐに御簾の中ら五、六人の幼女が躍り出てきた。お師匠のそばに仕える童女のようだ。皆、十歳にも満たないと思われ、髪はおかっぱに借り上げている。

 その童女たちが無遠慮に、朝桐の背後の菊の絵の袋を片っ端から開け始めた。中は緑の葉が詰まっていた。

 しかも、袋の封を切った瞬間に、その中身の葉からはものすごい臭気が立ち込め始めたのである。

 俺はしばらく、状況がつかめなかった。

 だから、ただぽかんと口を開けてみていた。隣の父上もそうだ。

 そしてほかの桟敷の、朝桐以外の演奏者の家族、親類縁者の人々もまた同じだった。右大臣様とて例外ではない。

 俺は、むらむらと怒りが込み上げてきた。拳をぎゅっと握った。

 あんなアホに任せたのが間違いだった。那木のやつ、自分の幼馴染みの地位を妹に取られると嫉妬してこんな嫌がらせを仕組んだにきまっている。

 見ると朝桐も、顔を真っ赤にしてうつむいていた。

 朝桐もこれが嫌がらせだと気付いたのだろう……まずい!

 朝桐は、これが俺の朝桐に対する嫌がらせだと思ってるに違いない。絶対にそうだ。

 顔を伏せたまま身動きひとつせずにいる朝桐のそばに今すぐにでも飛んで行って、弁解したい衝動に駆られた。でも、俺の体も動かない。

 どうしたらいいんだ、この空気!!!!!!

 その時、会場中に鳴りわたるような大きな声が響いた。

「すばらしいわ!!!!!」

 お師匠の声だった。

 しかも興奮のあまり、御簾から飛び出してきている。その顔は満面の笑顔だった。

 俺は驚いた。お師匠っていうからどうせおばさんだろうと思っていた。それが、朝桐ほどではないにしろ、思っていたよりもずっと若い姫だった。

「どうしてあなた、こんなにもたくさんのしぶきの葉を。しかもその薬草のにおいに囲まれて箏を掻き鳴らすのは、演奏の腕を上げるための私の秘伝中の秘伝。今のお弟子にはまだ伝授していないのに、それをあなたは自分で考えてするなんてすごいわ!」

 もう、朝桐の手を取らんばかりだ。よほどの興奮か、御簾から出て自分の顔を衆目にさらしていることなど忘れている。

「皆さん!」

 お師匠は、今度は桟敷の上の人々に向かって大声で語りかけた。

「この袋の中の草は十の効き目のある薬草で、しぶき草といいます。ちなみに私の通り名もしぶき姫……あ、名前なんてどうでもいいんです」

 人びとの間に少し笑いが漏れた。これで、張り詰めていた場の空気が少しは和んだ。

「この薬草の効果は飲むだけでなく、そのにおいにもあるんです。その中での箏の演奏は秘伝中の秘伝、それを身につけていた小野の姫様はさすがです。今日の競楽の勝者は、この小野の姫様です」

 それを聞いて、俺も思い当たった。しぶきどくだみという薬草は、確かにこんな臭気が漂うけど、それだけに効き目がある。

 とにかくお師匠は朝桐をべた褒めで、今度はさっきの怒りとは別の意味で、照れて朝桐は真っ赤になってうつむいている。でも、その顔には笑顔がさしていた。

 ところが右大臣は渋い顔をしているかと思いきや、なんと右大臣や権中納言の桟敷の上の人ったちまで一斉に手に持つしゃくで桟敷を淵を何度も敲き、「おおーっ」と声を挙げ続けている。満場の喝采といったところだ。

 朝桐は今や、今日の競楽の相手での家族である右大臣家や権中納言家からも称賛を浴びているのだ。

 さっきまで那木を恨んでいたことを、俺は恥じた。


 競楽会くらべがくのえも終わり、皆三々五々に帰途に就いた。もう空はすっかり暗くなり始めていた。何しろ月がない時分である。早く帰らないと真っ暗になってしまう。

 右大臣家や権中納言家は例の牛が引く車を並べて、行列をなしてゆっくりと神泉苑の門の方に向かっている。

 俺と父上をはじめ小野家のものたちは、当然皆徒歩だ。

 そして、朝桐たちが箏の演奏を行った臨時の楽所の脇を通った時である。お師匠のそばに仕えていた童女の一人が息を切らせて走って着て俺をつかまえ、そのまま肩で息をしながら立って俺を見上げた。

「お師匠様がお話がしたいとのことでございます」

 何だろうと思いながらも、俺と父上は楽所の正面に戻り、御簾の前で膝をついて畏まろうとした。

「どうぞそのまま、お立ちになってください」

 御簾の中から声がした。お師匠の声だ。

「お呼び立てをして申し訳ありません。どうしても気になるがございまして」

 何だろうと思って聞いていると、さらにお師匠は話を続けた。

「小野の姫の箏の座のお誂えは、お兄様がされたと姫から伺いましたが」

「はい」

「あの菊の花の袋と中のしぶき草ですが、あれもお兄様がお考えになったのでしょうか?」

 俺が返答に困って、しばらく黙ってしまった。

「ありのままを申し上げたらいい」

 隣で父上が、俺の耳元に囁いた。そこでまた、御簾を見据えた。

「実は私の乳母子で幼馴染みの娘が考えたことでございます」

「その方はどちらにお住まいで?」

「私の実家におります。鴨川の東、東山のふもとの竹やぶの中の屋敷です」

「やはり」

 微かに聞き取れるくらいの小さな声が、御簾の中からした。声はすぐに元の調子に戻った。

「そうですか。なるほど、納得しました」

 俺は、首をかしげた。まさか朝桐の箏のお師匠が那木のことを知っているわけもない。でも、那木が考えたことがお師匠をびっくりさせるには十分だったことは、先ほどの袋を開けた時に驚いて御簾から飛び出してきたくらいのお師匠の様子からも察せられる。

「そうですか。お呼び止め致しまして申しわけありませんでした」

 なんだかよく訳が分からないまま、俺と父上はその場を後にした。


 三月になった。

 次の旬暇こそ省試の直前だったので、やはり朝桐への講義は中止の旨を申し入れてあった。

 俺は朝のうちに、早速鴨東の実家へと飛んで帰った。

 那木をつかまえて、いや、つかまえなくても向こうから飛んで来るだろうけど、まずはお礼と、それからことの次第を聞きたかった。あのお師匠は何か知っているようで何かを隠している。

 ところが意外にも、俺が帰ると那木は珍しく神妙な顔をして部屋の中に座っていた。

 でも……そこは俺の部屋なんですけど……

 とにかく俺は部屋に上がると那木の前にどっしりと座り、両手を突いた。

「まずは礼を言うぞ。おまえのお蔭で万事うまくいった」

 那木は少し安心したような顔を見せた。そして、次の俺の言葉を待っているかのようだった。

「礼は以上として、とにかくおまえに聞きたいことが三つある」

 那木は息をのんでいた。

「あれ、今帰ったのかい?」

 奥で母上の声がした。そういえば、まだ母上にあいさつもしていない。俺はとりあえず母上のいる部屋に行き、今日の夕方には戻らなければならない旨を添えてあいさつをし、少し世間話のような雑談をしていた。

 気候も暖かくなりすっかり春めいてきたことや、桜のつぼみもかなり膨らんで開花も間近であることなどそんな他愛もない話ばかりだった。

 ようやく頃合いを見て自分の部屋に戻ると、那木はまだそのままの様子で座っていた。

「まずは朝桐の箏のお師匠のことなんだけど、おまえ、知り合いなのか?」

「へ?」

 とぼけた顔をして、明らかに愛想笑いを那木は見せた。

「知ーらない、そんな人」

「どうも向こうはおまえのことを知っていたようだぞ」

「え? しぶきちゃんがそう言ったの?」

「なんで、名前を知ってるんだ?」

 ほらほら、もう墓穴を掘ったぞ。今さら「しまった」という顔をしても遅い。

「知らないってば」

 たしかに、どう考えても鴨東の竹やぶの中の屋敷で毎日ゴロゴロしている女と、右大臣家の姫をもお弟子に持っているような箏のお師匠とでは接点が見つからない。

 だからこそ、俺は必死に追及したくなった。

「まあ、しぶきちゃんにはもうひとつ別の顔もあるのよ」

「いつ、知り合いになったんだ?」

 これも不思議である。俺が大学に入るまで、すなわち俺はこの屋敷で本当に物心ついた時からずっと那木と一緒に成長してきたのだから、俺の知らない那木の交友関係など存在するはずがないのである。

 あ! あった!……そう、ある一時期だけ、俺と那木の間に距離があった時期がある。無論それは、物理的な距離だ。

 俺が陸奥守となった父上と一緒に陸奥国に行っていた間……その間だけ那木とは離れ離れだったのだ。

 ……その間に知り合ったのか……

 これ以上追及しても何も言いそうになかったので、俺は次の質問に移った。

「おまえは袋に菊の花の絵を書いたけれど、箏の競楽の課題曲がこの季節としては意表を突いた秋の曲、しかも菊の花の曲だってことをお師匠から聞いていたのか?」

「知ーらないってば。そんなこと、全く聞いていない。聞いていないけど、でも……」

 那木は口ごもった。

「でも、なんだ?」

「聞いていなくても、あの子の考えそうなことならだいたい分かる」

 それほど親しいのかよと、俺はあきれた。口を割らないわりには、どんどん自分から暴露してってる。やはりこいつはアホだ。

「じゃあ、次の質問、行くぞ」

 また那木の顔がこわばる。顔がこわばればこわばるほど、こいつの場合は滑稽に見えて噴き出しそうになる。

「さっき言ってたお師匠のもう一つの別の顔とは……」

 また、那木はしまったという顔をした。

「知らない方がいいと思う」

 そんなこと言ったって、俺はあの人個人に興味があるわけではないし、それともかなりやばい過去を持っているってことか……? ま、いずれにせよそれを詮索する気はない。

「じゃあ、それはいいにして次の質問」

「え? もう三つ答えたよ」

 まともに答えたとは思えないけれど、こいつ、ちゃんと数えてやがった。

「今のは急に思いついたことだから、さっきの三つには入っていない」

 那木は何か言いかけたけれど、俺は強引に話を進めた。

「しぶき草の香りというかにおいというか、その中で箏を演奏するのは秘伝中の秘伝とあのお師匠は言っていたけれど、おまえはその秘伝を聞かされて知っていたのか?」

「へへへ」

 気持ち悪く那木は笑う。

「教えな~い。それよか、朝桐ちゃんだっけ? 妹ちゃんのこと、放っておいていいの?」

 たしかによくない。

「でも、気まずくなってからずっと会ってないし」

「それってよくないよ。ここまでお膳立てしたのに。機嫌、直したんでしょ? 一応」

「どういう意味でお膳立てしたんだよ?」

 那木の顔は笑っていた。でも確かに、その目が涙目になってくるをの俺は気づいて焦った。

「あのね。普通の女の子ならばね」

「誰が?」

「私! 私が幼馴染みとかじゃなくって普通の恋する女の子ならばね」

 女の子って……もう二十一の女なんて、女の子とはいわないだろ。でも俺にとってはそこを突っ込むよりも、「恋する」というのがもっと気になった。

 でも、ますます那木の目が涙目になってくるので、それについては触れてはいけない気がした。でも、気になる。那木が恋してる? 誰に?

 ……あえて考えたくなかった。

「普通の女の子なら、恋する人がその恋の相手、つまり自分にとっては恋仇こいがたきとの間が気まずくなったら、今がいい機会とか言って喜ぶんでしょうね。でも、だめなの。幼馴染みだと、それができない。もう気持ちが分かり切っているから、知り尽くしているから……逆に応援してしまう……それがさがなのよね」

 最後の方は目を伏せて、ほとんどやっと聞き取れるくらいの小さな声で言った。なんだかいつもの那木とは、まるで別人だ。

 その那木は、ぱっと眼を挙げた。さっきよりもかなり状況が進んだ涙目だった。

「早く行ってあげなさいよ、篁! 朝桐ちゃんの所に行ってあげなさいよ」

 涙目ながらも無理に微笑んでのその言葉は、ほとんど叫びに近かった。

 俺は戸惑った。この期に及んでもまだ、俺は自分に嘘をついていた。

「だからあ、朝桐は……妹なんだよ」

「だから何? つい昨日今日、初めて知り合ったくせに。そんなの健全よ。幼馴染みってだけじゃなくって、赤ちゃんの時からずっと一緒で、実の兄妹のようにして育てられた乳母子の私のこんな気持ちの方が十分気持ち悪い!」

 そんなことをいわれても、何をどうすることもできない。ただできるのは、こいつの気持ちを汲んで、こいつの言うとおりにしてやる……もとい、させてもらうだけか……?

「前にも言ったでしょ! こういうときは歌よ! 歌に限るのよ! 歌を送って、返し歌が来たら、その時は忍んで行くのよ、夜に!」

「それじゃあ……」

 まるで本当の恋人同士みたいじゃないか……でも、那木はそれを真剣に言っているようだ。

 そこで、ちょっと鎌をかけてみた。

「じゃあ、俺がもし那木にそうしたら?」

「アホかぁぁぁぁぁぁ!」

 アホにアホと言われたくないんですけど。

「そんなことしたら、ぶっ飛ばすから!」

 そう言いながらも、那木はついに泣きじゃくり始めた。

「分かった。行くよ」

 俺は来たばかりだけど、きびすを返すしかなさそうだった。

 母上には、急用ができたとだけ言っておいた。

 だからと言って西大宮邸に直行できるわけもない。まだ昼間だ。那木にはああ言ったけれど、とりあえずは大学寮に戻るしかない。

 そう、三日後には省試が控えている、俺はそんな受験生なのだ。


 その三日後、省試はなんとまた、ついこの間行ったばかりの神泉苑が会場だった。

 この前と違うことは、今や苑内の池のほとりや南側の築山も、見事なほどに桜が満開であった。

 その苑内を三々五々と自由に散策しながら、受験生たちは詩作にふける。受験生は二十人いる擬文章生全員、今回の欠員は四名なので合格も四人となり、競争率は五倍だ。

 まずは、前回は入れなかった巨大な二層の漢風建築の楼閣の一階に、受験生は集められた。

 ここで題と韻字の発表がある。

 その題を聞いた時、受験生たちは皆どよめいた。驚きのあまり声を挙げたもの、信じられないと愚痴るものさえいた。

 でも俺は、涙がせるくらいに胸が熱くなった。

 お題は「朧頭ろうとう秋月しゅうげつあきらかなり」。字数は六十字。つまり五言なら十二句の古体詩になる。

 この題は唐の楊師道という人の「朧頭水」という詩の冒頭部分であることは、擬文章生なら誰でも分かる。でも、この桜の花が満開の春爛漫の庭園で、秋の詩を詠まされるなんて誰も思ってなかったようだ。

 韻字は題の最後の字の「明」だった。

 ただ、実は今の帝もこの同じ題で、かつて詩をお詠みなったことがある。皆のどよめきは、そのことをも思い合わせてのことだろう。

 でも俺にとっては題が季節的に意表を突く秋のものだったという点に加え、この場所が場所だけにこの間の競楽会とついつい重ねてしまう。

 こんな偶然はあるだろうか?

 まさかあの時のお師匠がこの省試にも絡んでいる……??? いやいやいや、いくらなんでもそれはないだろう。

 でも、もう一つ偶然にしては不思議すぎることがある。

 実は俺がこの間ここで詩を作った時に一部を拝借した父の詩は、今の帝の「朧頭秋月明」の御製に合わせて、つまり奉和する形で父上が作ったものだったのだ。

 そうなると、その御製と同じお題で父上の詩を元ネタに……いやいや、あくまで俺の創作だけれど、詩を作ったのも奇遇。それがあるから、今新しく作らなくても、あの時の詩をそのまま流用できる。

 ただ、いくらなんでも今はじめて課題の韻字を聞いたのだから、前もって作っておいた詩の韻字が課題と一致するなんて奇跡はさすがに起こりようがない。だから、韻字だけは今日示された「明」と同じ韻の字に取り換えなければならない。それでも俺はそれをうまく構成し直した。

 それと、ついでに父上の詩だけでなく楊師道の「朧頭水」からも少し拝借しておいた。そんなことは詩作や和歌で、先人の詩や歌から拝借するのは誰でもやっていることだし、それほど悪いことではないん。さすがに一句まるごとまる写しはまずいが。

 さて、他の受験生は春たけなわの中で秋の月の詩を読めと言われても、ただ悪戦苦闘しているだけのようだ。

 そして半日、苑内を自由に逍遥した後、再び中央の建物に集められ、それぞれの詩を発表させられた。正面には偉い学者や式部省の役人とかが並んで座っている。

 いちばん中央は式部卿宮しきぶきょうのみやと橘式部大輔だ。どちらもまだ四十歳にはなっていないように見える。式部卿宮は平安京に都を遷した柏原の帝の皇子、つまり、今の帝の弟君だけれど異母弟なので帝と同じ年齢だそうだ。

 つまりは、俺の父上よりも少し若い。

 他に文章博士など錚々そうそうたる顔ぶれメンバーだ。

 そんな人たちを前にして緊張するなという方が無理だけれど、俺は持って生まれた神経の図太さに、自分の番が来るまで堂々と待機していた。

 皆、それぞれ自分の詩を歌いあげる。

 ここでは読み下さずに唐音で、節をつけて歌うのである。誰もがその声は震えていた。

 また、その節が唐語の平仄ひょうそくに合っていないといけない。詩はただ字の数をそろえて、韻を踏めばいいってものじゃあない。途中にめんどくさい平仄の決まりがある。

 そしてとうとう、来るべくして俺の番が来た。ここはもう、反骨精神でいくしかない!

パェンジェンヒュシャン ペンチャンピェン~(略)」

 二句目の最後は「兵未だ安からず」だったけれど、最後のの字を「明」の韻字にするために「未だ兵を解かず」に変えた。

 他の人の詩ではだいたいここにすぐに「明」の字を使いたがるけれど、俺はここは「明」の韻字の「兵」にして、「明」という韻字そのものはいちばん最後に使った。これも反骨精神だ。

 俺の詩は分かりやすく言うと、こんな感じだった。


 時を定めぬ夷狄えびすの襲   おちおち兵備も解けはせぬ

 朝の食事も藁の中    軍馬の声鳴く寒空さむぞら

 水上城門冷ややかに   風吹きすさび笛響く

 朧頭の空に月明かり   すべてのものを照らしだす

 その色染めるは都護の道 光は流れる軍営に

 敵の侵攻に備えつつ   驚くべきその月明かり


 その最後に持ってきた韻字の「明」まで「イョンコンツィェヤェミェン!」と高らかに読み上げた俺は、ほっと息をついた。

 我ながら堂々とできたと思う。でも実際は、足はがくがく震えていた。そして席に戻ると、どっと疲れた。

 見ると、もう次の人が自分の詩の朗読を始めている。

 ああ、あいつか……って感じだ。

 一応皇家おうけの方だからあいつなんて言ってはいけないのかもしれないけれど、俺より二つ若い十八歳。

 でも、自分の学問を鼻にかけて周りの人を見下し、常に人をばかにしたような態度だから大学でもみんなから嫌われていたし、さすがの俺も少し距離を置いていた。

 それが、顔もいいから余計にムカつく。ま、男しかいない大学でのいい顔なんてあまり意味ないけどな。

 それに、大学寮の規則なんて眼中にないような傍若無人な振る舞いで、博士たちも手を焼いていた。俺も反骨精神をもって性格を固めているけれど、俺のそれとはなんか微妙に違うんだよな。

 今は身分は王ながら、先祖は天武の帝の皇子の舎人皇子とねりのみこ。あ、王っていうのは皇族なんだけれど親王ではない人ね。つまり、皇位継承権はない。

 その王の詩は普通に月明かりの光景を歌ったものだが、最後の二句「誓将天子剣 怒髪独橫行」が、俺の父上の詩の最後の二句「独提勅賜剣 怒髮縷衝冠」を明らかに拝借してるなって気がついた。まあ、俺も人このことは言えないんだけれど、こいつ……もとい、この方に拝借されるとなんかいやだ。しかもひとの父上の詩を……。

 さらには緊張のかけらもないようなすました顔で詩を吟じているから、全く……


 ということでその翌日、大学寮で詩の講評と合否の発表があった。

 毎日講義を受けている場所でだけれど、昨日の詩作本番よりももっと緊張する。

 まずは講評。

 みんな、ぼろくそに言われている。

 いちばんの眼目は字の数と、韻字の使い方と、平仄の法則に合っているか、字の重複はないか……などだった。

 内容はあまり問題にされていない。

 みんなただ秋の月の美しさとか、景色についての平凡な発想ばかりなのに、俺のは陸奥での異民族との戦いを踏まえ、それを唐の辺境の異民族との戦いになぞらえている点、他と違うだろう、すごいだろうと内心思っていた。でもそれって、父上の詩の拝借なんだけど……

 そんなことを考えていると、俺の詩の番だ。

 早速やられた。

 平仄が法則と違う箇所があるとか、二句目の「辺城」という語が十一句でもう一度使われ、重複しているなどと指摘された。

 内容は特にほめられなかった半面、父上の詩の拝借であることは不問だった。

 そして、合格者はまずあの鼻もちならない王、多治比の息子、藤原北家肥後守の息子、そしてあと一人は……俺だった。

 合格!

 やったと飛び上がりたい衝動を、何とか抑えた。あとの十六人は不合格。

 その夜、俺は早速西大宮邸に向かった。まずは父上に報告だ。母上にも知らせたいけれど、それは距離的に後日になろう。

 そして、父上に報告となれば、その同じ邸内に妹の朝桐もいる……。

 西大宮邸についたのは、かなりの深夜になってしまった。

 この屋敷は高級貴族の屋敷のような造りになっているわけではないが、一応いくつかの建物が分かれ、それぞれ渡り廊下で結ばれている。

 俺はその中央の建物、つまり母屋で父上に会った。

 いつもはここで朝桐の母親とともに暮らしているはずだが、その母親は奥に引っ込んでしまって出てきそうな気配もなかった。

「そうか、そうか、それはよかった」

 俺の省試合格の報告を聞いて、父上は目を細めて本当にうれしそうだった。出題された題や韻字についても報告した。

「陸奥より戻ってからは武芸ばかりたしなんで学問をしないから、それが帝のお耳にも入って私が帝からお叱りを受けたけれど、やはりおまえには私の血が流れているな」

「その、実は」

 俺は少し言いにくそうに、目を伏せた。

「その詩作だけど実は……少し父上の詩を拝借……」

 父上は声を挙げて笑った。

「そうしないで何とする。そもそもその『朧頭秋月明』って題を聞いて、帝の御製と私の奉和詩を思い出さなかったとしたら、むしろそっちの方が救い難い」

 父上は上機嫌だった。

 それから少し今回の省試について少し話をした後、父上は言った。

「今日はもう遅いから泊まっていけ」

 俺は明るく返事をした。たしかに、伏見稲荷の祭りに行ってきた帰りの時もここに泊まったけれど、その時と同じでもうこの時刻に大学寮に戻っても門は閉ざされている。また、省試合格者の四人は、明日は特別に休みが与えられていた。

 前に泊まった時の部屋は、部屋こそ違うけれど朝桐の部屋と同じ建物の、いわば同じ屋根の下だった。今度もそこへ案内された。

 朝桐はもう寝ているかもしれない。

 だから朝桐の部屋を訪ねて行くのははばかられる。その時、那木の言葉を思い出した。

 ――こういうときは歌よ! 歌に限るのよ!

 そうだ、歌だ。

 ――こういう時……省試も終わり、見事合格した今……その今こそが「こういうとき」なんじゃないのか……?

 俺の胸は急に熱くなり、鼓動も速くなった。息苦しくさえもある。

 ――今だ!

 そうは思ったものの、どんな歌を送ればいいのだろう……。でも、その答えは俺の中でとっくに出ていたはずだ。

 去年の秋に妹と初めて会った。それまでもずっと妹だったし、その存在は知ってはいたけど、一度も会ったこともなかったから妹といえるような存在ではなかった。でも、去年の秋に初めて会って、俺には世界一可愛い妹ができた。その状況だけに満足して、これまで過ごしてきたような気がする。

 そして、その妹と気まずくなって会わなくなり、初めて気づいたこともある。これくらいのケンカや仲違いなど、もし生まれた時からともに育ったいわゆる同腹の妹だったらいつの間にか修復されているはずだ。

 でも、俺は朝桐と、そんな感じの兄と妹になりたいわけじゃあなかったんだ。関係を修復するには、いや、もっと強いきずなを築くためには……俺は兄貴でいちゃだめなんだ。

 俺はハッとした。なんだかすごく大それたことを考えているような気もした。

 でもやはり、想いは告げなければならないと思う。

 朝桐は、妹でいてほしくない。

 決意したら行動だ。もう迷っている場合ではない。

桶洗ひすまし、参れ」

 俺は桶洗童ひすましわらわを呼んだ。高貴な人の屋敷で排泄物の世話をする子供だ。俺たちの時代の貴族の屋敷には、どんな高級貴族でも、また宮中でさえも君たち未来人の家にあるような便所トイレはない。部屋の片隅で箱に用を足して、それを桶洗童ひすましわらわという子供が処理する。男性には男の子だが、この建物は朝桐のためのものなので、言われてやってきたのはあどけない少女だった。

 俺はその童女に、紙を渡した。朝桐への歌を書いた紙だ。実は桶洗童ひすましわらわは下の世話専門でなく身の回りの世話もするし、姫付きの場合はふみが男から届けられたらその取り次ぎもし、男が忍んで通ってくるようになったらその手引きをするのもその役目だ。

 でも、このふみは変な話だ。同じ屋根の下の別の部屋への手紙、しかも実の兄から妹への手紙だ。そんなのを取り次ぐごとになろうなんて、この童女自身思ってもみなかっただろうな。

「俺の心も知らないで、おまえは俺を見ようともしない……

 ――こんなにも 近くで君を想っても 君の心はほかを見ている――」

 自分でももったいぶった内容でありながら、ちょっと露骨だったかなと思う。

 そう。これこそ男が女を恋うる懸想文けそうぶみ以外の何ものでもないじゃないか。

 ……お兄様、まだそんなことを!

 って、かつて妹にびしゃっと拒絶された時のことがまだ心のトラウマになって残っている。でも、もう後戻りはできない。さっき――今しかない!……と思ったとおりだ。どんなに拒絶されようとも、嫌われようとも、想いは伝えなきゃならない。

 ところが、返事はすぐに来た。

「ひとの心も知らないで……

 ――恋しいと 想う相手がほかなんて この想いもう止められないのに――

 ばか!……」

 ……え? え? え? え? え? え! まさかまさかまさか!

 本当に自分自身をバカヤローだと思う。

 ものすごく意味深な歌だけれどもそれを見て、今までなんでこんなにも悩んでいたのか……と思った。朝桐はずっと待っていてくれたんだ。朝桐も俺とは兄妹でいたくないんだ!

 そんなこと、思ってもみなかった。まさか、まさか、まさか……本当にまさかの展開だ。

「――こんなにも 思い焦がれて燃え上がる 恋の炎も嫉妬の炎も――

 同じ屋敷の同じ棟にいるのにふみのやり取りなんかもどかしい。今から行くから」

 その手紙を童女に持たせてから、しばらく間をおいて俺は寝所を出た。もちろん、俺の手には照明のための紙燭とともに、省試の合格通知が握られていた。

 なんかすごく緊張してくる。

 俺は兄なんだし、相手は妹だし、それにその妹の博士家庭教師でもあるし、何の遠慮もする必要はないはずなのにこの胸の鼓動は何だ……???

 まるでいとしい女のもとに通う男……いや……もう先ほどの歌のやりとりで、十分にそういう関係になってしまっているんじゃないか……。

 そんなことをゆっくり考える暇なんかない。

 なぜなら、そんなに大きくない屋敷だ。俺が寝ている部屋と朝桐の部屋は同じ屋根の下で、ひさしの間をちょっと歩いただけですぐに妹の部屋には着いてしまう。

 昼間なら簾がかかっているだけの壁も、夜なのではね上げ式の壁である格子が降ろされている。その脇の扉を先ほどの童女が開けて、俺を手招きする。

 これなんて、通ってきた男を案内する童女以外の何ものでもないじゃないか……もはや俺は兄でも博士先生でもないのか……。

 部屋に入ると、簾が降ろされていた。かつて簾越しでないと会ってくれなかったあの時と同じ簾だ。もう時間も遅いし、やはり朝桐はもう寝ていたのか。

「朝桐」

 俺は簾の中へ声をかけてみた。

「お兄様。お入りになって」

 簾から出てくるでも、簾を上げさせて姿を見せてくれるでもなく、そのまま俺に簾の中へ入れと言う。こんなことって、今までは……。

 しかも、やはりその中には朝桐が掛けて寝ていた上着が敷かれていて、ついさっきまでその中で朝桐は眠っていた形跡がある。そして当の朝桐は、その板張りに二枚だけ置かれた畳の上に敷かれたその上着の上に座っていた。

 俺は持っていた紙燭から燭台に火を移した。

 白い寝着で髪を下ろした朝桐の姿に、俺は思わず息をのんだ。淡い光に照らされたその容貌は、実に神々しかった。神だ! まさしく妹神だ!

 しかも、座っていたということは、俺を待っていたのだ。

「朝桐、これ」

 まず何から切り出していいか分からなった俺は、とにかくも合格通知を見せた。

 朝桐の顔がぱっと輝いた。

「おめでとうございます。私も、うれしい」

「そうだ。この間の箏の競楽会くらべがくのえ、おまえが勝ちだったんだよな。おめでとう」

「ありがとうございます」

 そう言いながらも、朝桐は十分に照れていた。

「それで、おれの試験は詩作だったんだよ。それが、実はこの間の競楽会の時のおまえの演奏を聞きながら、頭に浮かんだ詩が元になってるんだ」

 俺は競楽会の時の意表を突いた秋の曲に頭の中に秋の詩が浮かんだこと、そして今回の試験の詩の題も秋の月の明るさだったことを伝えた。

「どんな詩ですの?」

 試験当日の発表は唐音での素読だったけれど、ここでは読み下して朝桐に聞かせた。


 反覆するは単于ぜんうさが 辺城未だ兵を解かず

 戌夫は朝に蓐食じょくしょくし 戎馬はあかつき寒鳴かんめい

 水を帯びて城門冷ややかに 風を添へて角韻清し

 朧頭一孤の月 万物の影ここに生ず

 色は満つ都護の道 光は流る佽飛しひの営

 辺機侵攻に備ふるも まさに驚くべし此の夜の明るきを


「すばらしいわ。李白か杜甫の詩かと思いましたわ。やはりお兄様は天才」

「いや、それは言いすぎだろ」

 俺は大学寮の博士からはこてんぱんに言われたことを思い出して苦笑した。

 そして朝桐の目を見た。それは間近にあった。

「おまえの箏の演奏とともに浮かんだ詩なのだから、俺が作ったというよりもおまえとの共作だ」

 見る見る朝桐の目がうるんできたので、俺は想定外のことに少し焦った。だけど、朝桐はすぐにその涙をぬぐって、俺を見た。

「こんな素晴らしい詩が私との共作? 二人の共同作業?」

 そこで俺は思いきって、さっき考えていたことを言おうとした。でも、いま一つ思いきれなくて口ごもっていると、朝桐は少しだけ目を伏せた。

「私、もうお兄様のことをお兄様と呼びたくない……」

 やっと聞き取れるような小さな声だった。でもそれは、俺が言おうとしたことと同じようだけど果たしてその意味するところまで同じなのかどうかまでは咄嗟には分からなかった。

「俺、好きなひとがいる」

 俺の口を突いて出た言葉は、俺の意図とは全く関係ないそんな言葉だったのだ。俺はしまったと思った。その言葉に嘘はない。でも、果たして朝桐が誤解しないかどうか……。

 ところが、朝桐も即答だった。

「私も! 私にも好きな殿方がいます!」

 朝桐は、じっと俺の目を見ている。その朝桐の言葉を曲解して関係を壊してしまうような、そんなばかな失敗は二度としたくない。

 俺も朝桐を、目をそらさずにじっと見た。また朝桐の目に涙が浮かんできた。

「よし、それぞれ好きな人がいると言ったその相手の名前そ、同時に言おうぜ」

 朝桐はうなずいた。俺が合図した。

「せーの」

「朝桐!」「お兄様です!」

 二人同時にくすっと笑って、それからまた真剣な目で互いを見つめた。

「俺も、おまえのことをもう妹と思いたくないんだ」

「私もです。でも……」

 朝桐の顔が一瞬曇った。

「母親こそ違うけれど、私たちが兄妹なのはまぎれもない事実……」

 そうなのだ。朝桐は俺なんかよりはるかに常識的で、利口で、冷静なんだ。だから最初の時のように、朝桐が簾の中から出てきてくれなかった時のように、ここでバッサリ拒絶されても不思議でも何でもなかった。

「ああ、確かに。こんな俺たちはやはりはたから見たらかなり気持ち悪いんだろうな。でも……」

 もう、引き返せないところまで来てしまっている。どんな状況であろうとも、もう元の兄妹にも、博士と教え子にも戻れない。


「結婚しよう……」


 言ってしまった。

 だけど、やはりその後の朝桐の反応は少しだけ怖かった。勢いで言ってしまったけれど、俺の胸は言ってしまってから急に高鳴りだした。

 後から考えたら、朝桐が返事をするまでの間はそんな長い時間ではなかったと思う。でも、その時の俺にはもう朝が来てしまうのではないかと思われるくらいに長く感じた。

 そんな長くて実は短い時間の後、朝桐は涙目になってこっくりとうなずいた。


「はい」


 それは、まるで最初から予定されていたような、朝桐はとっくにそのつもりでいたかのような返事だった。もしかして、実際は即答だったのかもしれない。でも、俺にとって勝手に返事までが長い時間感じられたのかもしれない。

 二人の間に、沈黙が漂った。

 その間、俺の胸の中に熱いものがこみ上げてきて、それが全身を包んでいった。

 何だか筋書きというよりも、大きな運命の流れが一気に動き、俺たち二人はその中にただもまれるように流されているだけかのような感覚もあった。

 その時、俺ははっと、俺たちはついさっきまで朝桐が上に掛けて寝ていた朝桐の上着の上に対座して座っている事実に気がついた。朝桐も同時にそれに気付いたようで、顔が真っ赤になった。

 そう、まるで、まるでなんか……掛けていた上着は朝桐が跳ね起きた時の形状のまま……。

「結婚っていっても……」

 ぽつんと朝桐はつぶやく。

「やはり表向きは兄妹ですから、普通のように親に認めてもらってみんなに祝福されて、なんていう結婚はできない……」

「じゃあ、やはり結婚は無理か?」

「いえ、無理ではありませんわ。私たちが結婚していることは二人だけの秘密……」

「でも、いつまでも隠してはおけないだろう」

「それはまあ、時が来たら……」

 何ともあやふやな答えだ。でもそれが、今の俺たちにとっては精いっぱいだった。

「まあ、何かと世間の風当たりは強いと思うけれど、俺たちのご先祖の小野妹子様を隋に遣わした厩戸うまやど皇子みこ様、つまり聖徳太子様のご両親も腹違いのご兄妹であったという先例もある」

 他にも数例あるのを知っている。俺たちの世界は、とにかく先例が物をいう。でも、みんなはるか昔のことだし、また皇家おうけに限られているけどな。

 それに、小野妹子様のことを俺のご先祖じゃなくって「俺たちのご先祖」と言えてしまうところが、俺たちやっぱ兄妹なんだなと再認識してしまう……。

「あの、お兄様」

 少し間をおいてから、あえて朝桐は話題を変えたかのように俺を見て言った。

「もうお兄様と呼べない。何とお呼びしたらいいか」

「篁でいいぞ。俺はこの通り名を、今後は真名まなにしてしまおうと思っている。真名は別にあったけれど、それは捨てる。今回の省試でも『野篁』で通した。みんな姓はだいたい唐風に一字のみにするけどな」

「では、私も真名でお呼びください。真名は……守子まもいこ

「じゃあ、守子まもいこ

「はい、篁様」

 何だか芝居じみていて、滑稽にもなってくる。でも、確かに媒酌人を立てて妻問物つまどいのものを贈ることもできないし、もともとは庶民の習慣だったけれど最近では貴族の間でも行われるようになった結婚式に餅を食べるなんてことも俺たちはできない。

 でも、今、俺たちは真名で呼び合った。これで十分かというと、子供じゃあるまいし、それで結婚したことにはならない。

 俺たち二人だけの結婚式は、これからだ。朝桐もそのことは十分承知で、顔を赤らめている。いや、これからは守子と呼ぼう。そして俺は守子が寝ていた布団をちらりと見ると、余計に顔を赤くしてうつむいてしまう。

 でも次の瞬間、守子は童女を呼んだ。

桶洗ひすまし!」

 どこに控えていたのか、ものすごい速さで童女は顔を出した。

御簾みすを!」

 守子がそう言っただけで童女は簾を下ろし、さっと木の扉から部屋の外に出て行った。

 簾の中の俺たちは、敷かれた上着の上に座ったままだったけれど、俺は守子に近づき、その上半身を抱擁した。

 そしてそのまま畳の上へ倒れ込んだ。最初は俺の腕の中で身を固くしていた守子だったけれど、すぐに自ら寝着の紐を解いていった。

 女性の服装は寝着を含め、複雑な着つけになっている。自分が自分の意志でひもを解かない限り、他人が無理矢理ってのは絶対不可能なんだ。つまり互いに合意の上で、俺たちは名実ともにもはや兄妹ではなくなった。

 じかに触れ合う肌と肌、そして直接に感じる守子のぬくもりが、いつか恍惚こうこつの世界へと俺を、いや俺たちをいざなっていた。

 そして俺たちは、一つになった

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