ロザンナ・トバイアス1

 その日、陽一はトバイアス公爵邸内にある、ロザンナの私室を訪れていた。

 久々に彼女が休みをとれたので、ともに過ごすためだ。


「ロザンナさん、俺だけど」

「うむ、入りたまえ」


 許可を得て、ドアを開ける。

 すると、ワンピースに身を包んだ小さな女の子が、濃緑の髪を振り乱しながら駆け寄ってきた。


「とーちゃっ!!」


 その子はそう言い、陽一の脚にしがみつく。


「おう、エリザベス。元気だったか?」


 陽一は嬉しそうに言いながらかがみ、まとわりついてきた子供を抱き上げた。


 陽一とロザンナの娘、エリザベスである。


「うん! エリー、げんきっ!」


 父親に抱きかかえられたエリザベスは、力こぶを見せつけるようなポーズを取り、自身の健康状態をアピールした。


 エリザベスの愛称がリズでもベスでもなくエリーになるのは、日本人ならではの感覚だろう。

 シャーロットは苦い顔をしていたが、ロザンナはむしろ好ましく思っているようだった。


 ちなみにエリザベスの名づけ親は陽一である。


 できれば高貴に思える名を、とロザンナに請われ、三日三晩寝ずに考えて絞り出した名前だった。


『ベタすぎ』


 とは花梨の感想である。


 そもそも陽一にネーミングセンスを期待するほうが間違っているのだ。


 ただロザンナやほかの王族からは好評なので、問題はないだろう。


「ヨーイチ、おかえり」

「ロザンナさん、ただいま」


 陽一にとってロザンナの私室であるこの部屋は、愛しい家族の待つ場所だった。


 黒を基調としたシックなドレスに身を包み、淡緑の豊かな頭髪をひとつにまとめた彼女は、背筋をピンと伸ばした姿勢でソファに腰掛けていた。

 穏やかな光をたたえた緑の瞳が、陽一を優しく出迎えてくれる。


 彼女とのつきあいの長さもあり、言葉遣いなどは気安いものになっているが、さんづけだけはそのままだった。

 そうしたほうがお互いに心地いいので、無理に直そうとは思っていない。


「あっ、おかえり、とーちゃっ!」


 母の言葉に迎えの挨拶を忘れたことを思い出したのか、エリザベスが慌てて告げる。


「ああ、ただいまエリザベス」


 陽一はそう返しながら、抱きかかえた我が子の頭を撫でてやった。


「むふー」


 エリザベスが、嬉しそうに目を細める。


「やあ、ヨーイチ殿、お邪魔しとるよ」

「悪いね、家族水入らずを邪魔しちゃって」


 室内には先客がいた。


 ひとりはロザンナより少し年上と思しき恰幅のいい中年男性、もうひとりは陽一と同世代の、壮年の男性だった。


「これは、陛下、殿下、よくいらっしゃいました」


 ふたりに対して陽一が軽く頭を下げる。


 国王マティアスと王太子アンドリューだった。


「あいかわらず他人行儀だのう。わしのことは義兄あにと呼んでくれてもええのだぞ?」


 王は亡くなった実兄の元妻であるロザンナをいまなお義姉と慕っているので、その伴侶とも言うべき存在となった陽一のほうがむしろ彼の義兄に当たるのだが、そこは年齢もあるので本人としてはこれでも配慮しているつもりだったりする。


「僕のことも、せめてさんづけになりませんかねぇ?」


 王太子は甥に近い存在になるだろうか。


「あはは……いくらなんでも一介の冒険者がそんな……」

「マットおっちゃ! アンディにいちゃ!」


 陽一が愛想笑いでごまかそうとしたところ、エリザベスが王と王太子を順番に指さして言った。


「あっ、こらエリザベス。おふたりに失礼だぞ」


 そう言って陽一は娘をなだめたが、呼ばれた当人たちはだらしない笑顔を浮かべている。


「おうおう、エリーはかわいいのぅ。ほーら、マットおじさんでしゅよー」

「アンディお兄さんだよー」


 そう言いながら、王と王太子のふたりはエリザベスのほっぺたをつんつんとつつく。


「やぁー、きゃはは」


 エリザベスはそれを避けるように身をよじるが、楽しそうに笑っていた。


 このところよく見られる光景だ。


「かーちゃっ! かーちゃっ!」

「おっ、かあちゃんのほうがいいのか? しょうがないなぁ」


 しばらくするとエリザベスがロザンナのほうへ手を伸ばしてバタバタし始めたので、陽一はソファに座ってくつろいでいる彼女のほうへと歩み寄る。


「ロザンナさん、おねがい」

「ああ」


 エリザベスを抱えたまま彼女の前にしゃがむと、娘は母の膝に乗り、抱きついた。


「むふー……」


 母の豊満な胸に顔をうずめた娘は、ご満悦のようだ。


「子供というのは、かわいいもんだのぅ」

「ええ、本当に」


 王と王太子はロザンナに抱かれるエリザベスへ、尊いものを見るような視線を向けた。


「しかしまぁ、義姉上あねうえが自分で乳をやり、子育てをやると言ったときは、驚いたもんだよ」

「そうですねぇ」


 王侯貴族は本来子育てを乳母に任せるので、ふたりにはたくさんの子がいるものの、子育ての経験はほとんどなかった。

 彼らにとってはそれが当たり前だったので、ロザンナの考えにはかなり驚かされたのだ。


「そうは言っても、乳母の手を借りねば子育てなどままなりませんよ」


 ロザンナが、王の言葉に応える。


「それはそうだろう。宰相としての務めを果たしながらたったひとりで子育てなど、できようはずがない」

「ご自身で乳を与えるだけでも、すごいことなのですからね」

「それだけは、譲れませんでしたから」


 そう言って、ロザンナは自身に抱きつく愛娘に視線を落とした。


 乳児のころに【健康体θ】を持つロザンナの母乳を飲むかどうかは、エリザベスの今後の健康状態に大きくかかわってくることなのだ。


「さて、おふたりともそろそろ時間ですよ」


 ロザンナがそう告げると、王と王太子のふたりは露骨に残念そうな顔をした。


「あともうちょっと、だめかのぅ?」

「本当に、あと少しだけでいいですから……」

「それで何回目ですか? 本当ならヨーイチが来る前に帰るというお話だったはずですが」


 ふたりの態度に、ロザンナが呆れてため息を漏らす。

 だが次の瞬間には、少しばかり意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「陛下、殿下。義姉として、あるいは叔母としての申し出と、宰相としての諫言かんげん、どちらがお好みですか?」

「むぅ……」

「はぁ……しかたありませんねぇ……」


 ふたりは諦めたらしく、がっくりと肩を落とした。


「あぁ……さっさと国王なんぞ辞めて、エリーとゆっくり遊びたいのぅ」

「エリーもマットおっちゃといっぱいあそびたい!」


 王の言葉に、エリザベスがくるりと振り返ってそう言った。

 母の膝の上で軽く背を預けるような格好となったエリザベスは、王を見てにっこりと笑った。


「そうじゃろうそうじゃろう? これは一刻も早く退位せねばのぅ」

「なにを言っているのですか。父上には少なくともあと20年は玉座に就いたままでいていただきますからね」


 王太子は国王に対して呆れた様子でそう言った。


 王はまだ50代なので、あと20年というのはかなり現実的な数字である。


「バカなことを! 20年もしたら、エリーが大人になってしまうではないか!」

「ええ。ですから私は継承権をエリーに譲り、のんびり過ごさせていただきますよ」

「なに言ってんのアンタら!?」


 ふたりの言葉に、陽一が思わず声を上げる。


「アンタらウチのエリザベスを女王にでもするつもりですか!?」

「まぁ、可能性はあるだろうなぁ」


 意外と真顔で答える王の姿に、陽一は目を見開いた。


「えっ、本気なんですか?」

「公爵家の令嬢ですから、王位継承権はありますよ」


 陽一の問いに、王太子が答える。


「いや、でも、男系だんけいとかそう言う問題は……」

「男系って、なんだったかの?」

「王の父親が王族であることですね」


 王の疑問に王太子が短く答えた。


「ああ、帝国はたしかそうだったのう。我が国はそもそも初代が平民であるからして、そういうのは気にせんのだわ」

「えっ!?」


 センソリヴェル王国自体が、そもそも帝国貴族の叛乱から始まっている。

 反乱軍のリーダーだった初代国王は元帝国貴族ということになっているが、実際は平民だった。


 停戦の条件に帝国皇室の女性を妻にめとったので、子孫に貴族の血は混じっているが、そこで男系女系にこだわることもなく、

 なんとなく緩い感じで現在に至っている。


「いや、でも、父親はただの冒険者ですし……」

「なにを言っておる。SSランク冒険者なんぞ、王族みたいなもんではないか」

「うっ……それは……」


 以前、サマンサに指摘されたことだった。


「それにヨーイチ殿は女神の寵愛を受けていますからね。王や皇帝よりもむしろ貴いんじゃないですか?」

「あ、いや、うーん……」


 王太子の言う女神の寵愛とは、特別に目をかけられている、程度の認識である。

 さすがに陽一と女神――管理者――とが肉体関係にあるとは、だれも思うまい。


 知っているのは、トコロテンのメンバーくらいである。


「うむ、アンドリューの言うとおりだわい。ヨーイチ殿が望むなら、いつだろうと玉座を空けようぞ」

「勘弁してくださいよ……」


 王の言葉に、陽一は額に手を当て、うなだれる。


「おふたりとも、帰ると言ってから随分経ちますよ」


 そこへロザンナの冷たい声が響いた。


「おおっと、うっかりしておったわい」

「さーて、仕事仕事」


 ロザンナの軽い叱責に肩をすくめたふたりは、部屋の出口に向かって歩き始めた。


 やれやれと思いながらも、陽一は王と王太子を見送る。


「ヨーイチ殿」


 侍従が出入り口のドアを開いたところで、王が振り返った。

 王太子もそれに続く。


「これからも義姉上のこと、くれぐれも頼んだぞ」

「そうですね。伯母上を任せられるのは、ヨーイチ殿しかいませんから」


 王には、若く美しい公爵令嬢に歳の離れた病弱な兄を任せてしまったという負い目があった。


 幸いふたりの関係は良好だったが、それがいつまでも続かないということも、わかっていた。


 やがてロザンナは夫に先立たれ、寡婦かふとなった。


 ならばそれからは自身の幸福を求めてほしいと、マティアス個人は心底そう思っていた。


 だが、国王という立場にあって、優秀な彼女を手放すわけにはいかなかった。

 王国運営における重要事項については、彼女に頼るしかなかった。


 それは王太子アンドリューも同じだった。


 自分が、自分たちがもう少し優秀なら、もっとロザンナに楽をさせてやれたのに。

 せめてあらたな伴侶と家庭を築くくらいのことは、してほしい。

 常々そう思いながらも、実現は難しいだろうと彼らは諦めてもいた。


 そんなある日、ロザンナが子を宿したと聞いて、ふたりは大いに驚いた。


 相手のことを伏せられた際は不安にも思ったが、ロザンナは比較的早い段階でふたりには陽一の存在を明かしていた。


 優秀な冒険者だと聞いたとき、ふたりは驚きもしたが、彼女をどうにかできるのは、自分たちが持つ常識の外にいる者だけなのだろうと、納得もした。


 陽一と出会ってからのロザンナは、イキイキとしていた。


 部屋の奥で娘をあやす彼女の姿は、ひと目見て幸福だとわかるものだった。


 不甲斐ない自分たちにはできなかったことを、目の前の男は成し遂げたのだ。


 今度こそ彼女の幸福が、ずっと続けばいいとふたりは思っていた。


「ええ、おまかせください」


 王と王太子の言葉に、陽一が力強くうなずく。


 その姿を頼もしく思い、ふたりは安堵の笑みを残して部屋をあとにするのだった。

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