朱詩涵(シュウ・シーハン)1

 『グランコート2503』の玄関ドアが開き、中からひとりの男性が現われた。

薄く色の入ったメガネをかけた、白髪の老紳士だった。


 上はベージュのカットソーにブラウンのジャケットを羽織り、下はグレーのスラックスにスエードの靴という格好だ。

四捨五入すれば90になろうかという年齢のわりに頭髪は豊かで、背筋も伸びている。


「おお……」


 外の景色を目にした男性は感嘆の声を上げ、目を細めた。


「どないや、じいちゃん。久々の日本は?」


 続けて部屋から出てきたシーハンが、尋ねる。


「不思議なものだな。はじめて見る町のはずだが、なんだか懐かしい気がするよ」


 シーハンにじいちゃんと呼ばれた男性、黄老フゥアンラォこと田中たなか昭吉しょうきちは、高層マンションから見える街並みに視線を向けたまま、穏やかな表情で答えた。


 魔王戦ののち、ようやくまとまった休みが取れたシーハンは、黄老の里帰りを望んだ。


 残留孤児だった黄老は、戦後のどさくさでうまく立ち回って成り上がり、いまなお大陸に強い影響力を持っていた。

そのため、あちらでは自由かつ安全に暮らせるのだが、日本に帰るとなると話は変わってくる。


 戦後数十年にわたり、中央に近い位置で数々の政変を生き残った黄老は、政府中央の裏も表も知り尽くしていると言っていい。

そんな人物が日本や西側諸国についてしまうと、冗談抜きで世界のパワーバランスが崩れてしまう恐れがあるのだ。


 主要都市においてはほぼ完全な監視態勢が整っているかの国にあっては、拠点を一歩出るなり一挙手いっきょしゅ一投足いっとうそくを把握される。


 省をひとつ越えるだけでも大騒ぎになるような人物がもし国を出ようものなら大騒動になり、その行き先が日本と知られれば冗談抜きで政変に発展するほど、かの国における黄老の影響力は大きい。


 また、受け入れる側も来られては困る人物だった。正直に言って持てあますのだ。


 そんな事情もあって、黄老は帰郷を諦めていた。


「喜んでいただけたならなによりですよ」


 最後に玄関を出た陽一が、黄老に声をかけた。


「まさか、この歳で日本へ来られるとはなぁ」


 陽一のスキル【帰還Ω】のおかげで、実現した帰郷だった。


 現在黄老は体調を崩し、拠点に引きこもっている、ということになっている。

拠点内はプライバシーが確保されており、優秀な部下たちのおかげで数日なら不在をごまかせるのだ。


 事が終われば、直接拠点に【帰還】すればいい。

ホームポイントの設定は、すでに済んでいる。


「陽一、本当にありがとう」


 振り返った黄老は神妙な表情を浮かべ、深々と頭を下げる。


「どういたしまして。それと、礼ならシーハンにも」


 今回の帰郷を実行したのは陽一だが、シーハンが望んだからこそ実現したものだった。

もちろんその程度のことを察せない黄老ではない。


 頭を上げたあと、黄老はシーハンに微笑みかける。


「シーハン、ありがとう」


 そして黄老はそう言うと、シーハンの頭に手を置く。


「えへへ……よかった、喜んでくれて」


 祖父とも呼べる、敬愛してやまない人に頭を撫でられ、シーハンは嬉しそうに目を細めた。


 普段は見せないような穏やかな表情を浮かべるその姿に、彼女の新たな一面を見られたようで、陽一も少し嬉しくなった。


○●○●


 少し日本の街並みを見たいという黄老の希望により、3人は最寄り駅までをのんびりと歩いた。


「黄老、これを」


 駅に着いたところで、黄老にチャージ済みの交通系ICカードを渡す。


 大陸でも同じようなものが広く使われているので、使い方の説明は不要だった。

それどころか『爆買い』などで大陸からの観光客が爆発的に増えた時期に、その受け入れも兼ねてあちらのカードをそのまま使える態勢を整えた交通機関が増えたこともあって、黄老の手持ちのカードもそのまま使えるのだが、さすがに足がつくような真似はしない。


 在来線で移動し、新幹線の駅に到着したところで、陽一が3人分のチケットを購入した。


「これでそのまま乗れないのかね?」


 黄老が、ICカードを掲げて尋ねる。


「自由席ならそのまま乗れるんですがね、どうせならグリーン車にしようと思って」

「そうか」


 黄老は陽一の答えに頷くと、ICカードをふところにしまった。


 ほどなく、3人の乗った新幹線が発車した。


「どうですか、新幹線は?」


 車窓を流れる景色と駅弁を楽しむ黄老に、陽一が尋ねる。


「なに、高速鉄道なら我が国も負けてないさ」


 誇らしげな表情でそう告げた黄老は、駅弁から焼売しゅうまいをひとつつまみ上げ、目の前に掲げた。


「だがこれほど美味い焼売を弁当で出す店は、ないかもしれんな」


 彼はそう言うと、焼売をパクリと口に放り込んだ。



 数時間後、3人はタクシーと電車を乗り継ぎ、北陸のとある町を訪れていた。


 陽一、黄老、シーハンの3人は、タクシーを降りてかれこれ10分ほど小高い丘のみちを歩いている。


 陽一が先頭を歩き、黄老がそれに続く。最後尾はシーハンが務めた。


 陽一とシーハンが息ひとつ切らせていないのは当たり前だが、真ん中を歩く黄老にも疲れた様子はない。

頬が少し上気し、額に汗を滲ませているが、息が上がっているということはなかった。


「じいちゃん、大丈夫か?」

「ああ。おかげさまで問題ないよ」


 うしろからかけられた声に、黄老は歩きながら軽く振り返って答える。


「うん、元気そうでなによりやわ」


 そんな黄老の姿に、シーハンも嬉しそうに微笑んだ。


「ふふふ……元気、か。そうだな、随分と健康になったものだ」


 黄老が自嘲気味に呟く。


「なんやじいちゃん、調子悪かったんか?」

「いや、病気ひとつせず、健康そのものというつもりだったのだがね。いさ万全の状態になってみると、歳のせいでいろいろとガタがきていたことに気づかされたのだよ」

「でもいまは調子ええんやろ?」


 シーハンが問いかけると、黄老は歩きながら元気よく腕を上げ下げする。


「ああ、このとおりだ」


 そう言うと黄老は前を向き、陽一の背中を見る。


「これもまた、陽一のおかげだな」


 その言葉に陽一は軽く振り返ると、口の端を軽く上げた。


「なんの。女神さまの思し召しですよ」


 黄老は先の異世界での戦争に直接参加はしていない。


 だが彼の提供した食料によって、人類軍は大いに救われた。

軍にとって飢えに悩まされずに済むというのは、なによりも重要なことなのだ。


 潤沢じゅんたくに用意された食料によって軍の士気は高いまま維持され、そのおかげで戦線は安定していた。

短期間ではあったが広範囲に渡って多くの兵士が参加した戦争である。

黄老の援助がなく、わずかでも兵站へいたんに不安があれば、犠牲者の数は数十万単位で変わっていただろう。


 たとえ異世界にいなくともその功績を無視はできないと判断した管理者は、黄老にもスキル付与を約束した。

そして彼はシーハンの願いもあり、【健康体】を習得したのである。


「ああ、もちろんわかっているとも。だから私はあの日以来、女神像への感謝の祈りを欠かしたことはないよ」

「はい? 女神像……?」


 黄老の言葉に、陽一は思わず足を止める。


「あの日、私の前に降臨なさった女神さまの姿を、こうして形にしたのだよ」


 黄老はそういうと、懐から出したスマートフォンのモニターを陽一に見せた。

そこには藤色の着物を着た黒髪の女性が映し出されている。


「……いや、女神像っていうかフィギュアじゃないですか」


 モニターに表示されたそれは綺麗に彩色され、ホビーショップにならんでいてもよさそうな造形だ。


「ふふ、我が国の造型師も、なかなかやるだろう?」

「はは……」


 自慢げに言ってウィンクをする黄老に対して、陽一は愛想笑いを浮かべる。


 だが、完成度が高いことに変わりはない。


 慈愛に満ちた笑みをうっすらと浮かべた表情には少しばかり違和感があるが、どうせ彼女のことだから格好をつけたのだろうと予想はつく。


「ふふっ」


 そう考えると、思わず笑みがこぼれた。


『わーわー! 見ちゃダメですぅー!!』


 ふと、そうやって慌てふためく管理者の姿が思い浮かぶ。

今度会ったとき、からかってみよう。


「ほぉん、ようできとるなぁ」


 画面をのぞき込んだシーハンが呟く。


 トコロテンのメンバーは、報酬としてのスキルを与えられてはいないが、管理者は終戦後に一度彼女たちの前に姿を現わし、直接礼を述べていた。


 そのため、シーハンも管理者の姿を知っていたのだ。


「でもあれやな。せっかくフィギュアにするんやったら、もうちょい巨乳にしてやったら――っ!?」


 突然、あたりの気温が数度下がったように、シーハンは感じた。


「……ふたりともなんなん? どないしたん?」


 顔を上げると、黄老と陽一がひどく冷たい視線を自分に送っており、シーハンは背筋に寒いものを感じていた。


 人生の大半をともに過ごしてきた黄老が、かつてこれほど冷たい表情を自分に向けたことがあっただろうか。


 そして陽一からも、最初に敵対していたときですらこんな視線を突きつけられたことはなかった。


「シーハン、それは違う。あるがままの姿こそ美しいのだ」

「そうそう、盛ればいいってもんじゃないんだぞ」


 どうやら、自分はとんでもない失言をしてしまったらしい。


「えっと、ごめん……なんちゅうかその……軽率やったわ……」


 彼女がそう言うと、張り詰めていた空気が弛緩しかんした。

ふたりの男性も、ふっと表情を緩める。


「大丈夫、誰にでも間違いはあるからね」

「ああ、わかればいいんだよ、わかれば」


 先ほどとは一転して、ふたりはひどく穏やかな様子だった。


「それにしても……」


 黄老は懐にスマートフォンをしまうと、陽一に向き直った。


「陽一が話のわかる男でよかったよ」


 そして黄老は、そう言って手を差し出す。


「いえ、こちらこそ」


 そう返しながら、陽一が手を握り返す。


(……なに見せられとんのや?)


 がっちりと固い握手を交わすふたりを前に、シーハンは思わずため息をついた。

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