本宮花梨3

「このあたりの景色は、あんまり変わらないわね」


 窓の外を見ながら、花梨がしみじみと呟く。


 ふたりはあえて、当時と同じ各駅停車の列車に乗った。


 車内に乗客の姿はあまりなく、ときおり人の乗り降りはあるものの、ほとんど貸しきり状態である。


 駅周辺は多少開発が進んでいたり、逆に寂れていたりするが、車窓から見える山間や海岸線の風景は、10年以上経ったいまもほとんど変化が見られなかった。


 花梨は車窓からの景色にぼんやりと目を向けながら、口元に小さく笑みを浮かべていた。


「ああ、そうだな」


 そんな横顔を見ながら、陽一は彼女の呟きにそう答えた。


 ふたりが電車にゆられ、目的地に着くころには日も暮れ始めていた。


「久しぶりだな、ここ」

「そうね」


 そこはふたりが大学を卒業してまだつき合っていたころ、一緒に訪れた温泉旅館だった。


「もっといいところに泊まれるけどな」

「いいのよ、ここが」


 花梨が陽一の腕を取り、門をくぐる。


「いらっしゃいませ! 藤堂さま!!」


 旅館の前に従業員一同が整列し、ふたりに深々と頭を下げた。


「あはは、いや、その、まぁ、気楽に」


 その様子を見て陽一は顔を引きつらせ、そんな彼の姿に花梨は少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「あら、従業員のねぎらいがヘタなんじゃない、オーナー様?」

「よしてくれよ」


 今回長期の休みが取れると知った花梨は、思い出の地であるこの温泉旅館を訪れたいと願った。

 そこで陽一は日程を調整し、予約を取ろうとしたところ、不況のあおりですでに閉館していたことを知る。


『そっか、残念ね……。もう一度、あそこに泊まりたかったんだけど』

『再建してみる?』

『できるの?』

『まぁ、金ならいくらでもあるからな』

『よっ、お大尽だいじん!』

『うむ、よきにはからえ』

『でも、お金だけでなんとかなるものなのかしら?』

『なぁに、いまや強力なコネだってあるんだ。なんとかなるさ』

『よっ、救世主!』

『おう、まかせろ』


 そんなわけで陽一は、ありあまる資産を投入してこの旅館を再建することにした。

 幸い経営者や元の従業員は転職しながらも健在だったので、以前よりも高い報酬を提示し、戻ってもらった。


「藤堂さま、このたびは本当にありがとうございます」


 ふたりを迎え入れながら、女将があらためて礼を言う。


「ああ、いえ、お気になさらず」

「ですが、当館だけでなく、この町全体を蘇らせていただけるなんて……」


 この旅館が経営難に陥った背景には、ここら一帯の衰退というものがあった。

 仮にこの旅館だけを再建したところで、放っておけばまた状況は悪化するだろう。


 もちろん陽一には、たとえ赤字続きでも旅館ひとつの運営を維持できるだけの資産はあるのだが、それはあまり健全じゃないだろうということで、温泉街自体の復活を試みたのだった。


「いや、それは俺じゃないんで」


 文也にまる投げするというかたちで。


「ですが、星川開発の社長さまは、藤堂さまへの恩を末代まで語り継ぐようにとおっしゃいましたし」

「文也のヤツめ……」


 星川開発とは星川グループ内の建設会社である。文也が社長を務める会社のひとつだ。


「まぁ、社長さんの言葉がなくても、このご恩は本当に末代まで忘れませんけれどね」

「よしてくださいよ……」


 そうやって女将に案内されたふたりは、当時と同じ部屋に通される。


「それでは、本日は貸しきりとなっておりますので、ごゆっくりとおくつろぎくださいませ」


 女将が去ったあと、ふたりは部屋に上がった。


「ああ、懐かしいわね」

「そうだな」


 畳敷きの部屋に陽一は座り込み、花梨はうつ伏せに寝転がる。


「んー……畳のいい匂い。張り替えたばかりかしら」

「わざわざ申し訳ないな」

「ふふ、しょうがないわよ、しばらく閉めてたんだもの。取り壊されてなかっただけ、よかったんじゃない?」

「それもそうか」

「ふぅ……いい気持ち。このまま寝ちゃいそう」

「おいおい、その前に風呂に入ろうぜ。せっかく温泉に来たんだし」

「それもそうね」

「ふっ……」


 そう言って身体を起こした花梨を見て、陽一が笑みをこぼす。


「なによ?」

「いや、なんでもない。それじゃ露天風呂にいこうぜ」

「ちょっと、なにがおかしいのよ?」

「だから、なんでもないって」


 うつ伏せに寝転がっていた花梨の頬には、畳のあとがくっきりと残っていたのだった。


○●○●


 この旅館の露天風呂は男湯と女湯に分かれており、時間によって入れ替えるタイプだった。


 今日は貸しきりということでどちらの入り口にもれんはかかっておらず、ふたりは景色のいいほうを選んで脱衣所に入った。


「んー……」


 服を脱いだあと、花梨は脱衣所の鏡に顔を映し、首を傾げていた。

 先ほど陽一に笑われたことが気になり、確認してみたのだが、特に気になる部分はない。

 彼女の顔についていた畳のあとは、【健康体θ】のおかげかここへくるまでのあいだに消えていたのだった。


「おーい、なにやってんの?」

「あ、うん。すぐいくー」


 先に脱衣所を出ていた陽一から声をかけられ、花梨は浴場へ向かった。



 掛かり湯を終えたふたりは、並んで岩風呂に身を沈めた。

 少し熱めの湯が、ほどよく肌を刺激する。


「んんー、気持ちいい……」


 胸のあたりまでを湯に沈めた花梨が、そう言ってほっと息をつく。


「ふぅ……」


 陽一も湯に浸かり、岩風呂の壁に背を預けて大きく息を吐き出した。


 日は沈みかけていたがまだうっすらと明るく、少し高台にあるこの温泉から、灯りのつき始めた街並みが一望できた。


「ねね、陽一、あれ出してよ」

「まったく、好きだな、ほんとに」


 花梨にねだられて出したのは、盆に載った日本酒だった。

 透明な瓶に入れられた冷酒と、お猪口ちょこがふたつ盆に載せられ、温泉に浮かぶ。


「熱めの温泉に浸かってキンキンに冷えた日本酒を飲む! これこそ贅沢ってもんでしょ? ささ、陽一もどうぞ」


 冷酒の瓶を手にした花梨は、ふたつのお猪口にそれぞれ中身を注ぎ込んだ。


「それじゃ」

「はいよ、乾杯」


 ふたりはそれぞれの手に持ったお猪口を軽く掲げたあと、一気にあおった。


「んふぅーっ……最っ高ぉ……!」


 心底幸せそうな花梨を見て、陽一は少し呆れ気味に苦笑を漏らす。


「しかし、俺たちが酒飲んでも、あんまり意味なくない?」

「あら、気づいてないの? ほろ酔いくらいにならなれるのよ?」

「えっ、そうなのか?」


 【健康体】が『+』や『α』『β』のころは、酒酔いはバッドステータスとして処理されていた。

 なので陽一は、自分はもう酒に酔えないものだと思い込んでいたし、そもそも飲酒自体にそれほど興味もなかったのでそれでもいいと思っていた。


「本当に?」

「ほんとよー。ささ、もう1杯」

「お、おう」


 花梨の言葉を訝しみながら、陽一はおかわりの冷酒を飲み、なんとなく酒に酔うことを意識してみた。


「あ、たしかに」


 風呂に浸かったのとは別の意味で身体が温かくなり、なんとなく頭がぼんやりとしてきそうな気配だった。

 しばらくすれば、ほろ酔い程度にはなれそうだ。


 どうやら【健康体】が『Ω』『θ』に変わったことで、いろいろと融通がきくようになったらしい。


「しかし、よくこんなことに気づいたな」

「そりゃね、飲まなきゃやってられない日だってあるんだから」


 終戦からしばらくは、本当に目が回るような忙しさだった。

 中でも宰相府に勤めていた花梨の負担は、かなりのものだっただろう。出産前後のロザンナのカバーも、彼女がほとんどひとりでこなしていたのだ。


 いくら【健康体θ】で疲れ知らずだからといって、少しくらいはハメを外したいときがあったに違いない。


「そっか、おつかれ」

「ん……」


 陽一がそう言って彼女の肩を抱くと、花梨は抵抗せず彼に身を預けた。


「それにしても陽一、いい身体になったわねぇ」


 陽一の身体にもたれかかりながら、花梨は彼の胸に手を這わせた。つき合っていたころからは信じられないくらいに、たくましくなっている。


「それを言うなら花梨だって、昔より肌の張りがよくなったんじゃないか?」


 抱き寄せ、触れた花梨の腕を、優しく撫でる。

 温泉の湯で濡れてしっとりとした肌は瑞々しく、なめらかだった。


「うふふ、そのことは本当に感謝しないとね」


 もう40に近い年齢の彼女が、これほどまでに瑞々しい肌を保てるのは、【健康体θ】のおかげである。


「その気になれば、胸ももっと大きくできるのかな?」

「あんっ……ちょっとぉ」


 言いながら陽一が触れると、花梨は短く喘いだあと、軽く口を尖らせる。

 しかしすぐに表情を緩め、口元に小さな笑みを浮かべた。


「それじゃアンタは……」


 艶やかに微笑みながら、花梨は軽く上体を起こして身をよじり、さらに彼の腰のあたりにまたがって、陽一と向かい合った。


「あたしの胸がもっと大きいほうがいいの?」

「いや、このままがいいな」


 即答だった。その答えに、花梨も満足げである。


「陽一って好きよね、あたしの身体?」

「ああ、出会ったときからずっと好きだ」


 陽一はそう告げながら、花梨との出会いを思い出していた。


 大学生のころ、人数あわせで呼ばれた合コンに、花梨は遅れてやってきた。

 サークルでアーチェリーをやっていた彼女は、赤いジャージのまま慌てて会場を訪れたことで、参加者から変にいじられていたのだが、ひょんなことから陽一と意気投合し、ふたりの関係は始まったのだ。


 出会いから20年近くが経過し、途中一度は距離を置いてしまった時期もあったものの、こうしてふたたび同じ時間を過ごせることには、感慨深いものがあった。


「あたしも好きよ、自分の身体……」


 酒によってほんのりと頬を染めた花梨は、囁くように声を漏らしながら、陽一に身を寄せていた。


○●○●


「お湯、汚しちゃったわね……」


 花梨は困ったように眉を下げ、苦笑交じりにそう言った。


「源泉掛け流しだし、そこまで気にしなくていいんじゃないか?」

「そうかもしれないけど」


 彼女はそう言うと、もう一度温泉を見回すように視線を巡らせる。


「そんなに気になるなら、これでどうだ?」


 次の瞬間、温泉が空になった。


「えっ、なに!?」


 そして驚く花梨が状況を把握することなく、湯が元に戻る。


「……なにしたの?」

「いや、温泉の湯を全部収納して、を取り除いて戻しただけだよ」

「ほんとむちゃくちゃね、アンタって」

「ははは、いまさらだな」


 それから互いに、呆れたように笑い合ったあと、ふたりは軽く汗を流し、浴衣ゆかたに着替えて部屋に戻った。

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