第10話 噂の女怪盗

(なんなの、あいつ……!?)


 背筋に寒いものを感じながら、シーハンは身をひるがえして駆けだした。

 だが、数歩進んだところで、ふわりと両腕をつかまれた。


「そう慌てて逃げることはないじゃないか」

「――っ!?」


 いくら視界を奪ったところで、【鑑定+】によって居場所を特定できる陽一からは逃げられないのだが、それを知るよしもない彼女は、さらに恐怖を覚え、悲鳴を上げそうになった。


(なんなの!? 全然動けない……!!)


 外側から身体を挟むように両腕をつかまれたが、強く握られているわけでもないのに、まったく動けなかった。

 まるでサイズの大きな鋼鉄の拘束具で固められたように、びくともしない。


(くっ……!)


 そこでシーハンは、つま先に仕込んだ刃で反撃しようとした。

 しかしそう思った瞬間、彼女は足の甲を軽く踏まれ、動作を制される。


(――なんでっ!?)


 【鑑定+】で考えを読まれていたのだが、もちろんそんなことがわかるはずもない。


「そろそろ電気も回復しそうだし、できれば場所を変えたいんだけどなぁ」


 のんきな口調でのたまいながらも、自分の動きを完全に封じる目の前の男に、改めて恐怖を覚える。


「はぁー……」


 いくら考えても逃げ出せるイメージが思い浮かばないシーハンは、諦めたようにため息をつき、こわばらせていた身体から力を抜いた。

 それを感じ取ったのか、シーハンへの拘束が解かれた。


○●○●


「奥の部屋ならいってもいいわ。それ以外の場所はいや」

「……わかった。じゃあそれで」


 もう逃げる気はないのか、シーハンは悠然と歩き出し、陽一はあとに続いた。

 支配人と少し揉めたが、陽一が多めに金を払って解決し、奥の部屋とやらに入る。


「へぇ、なかなか」


 スイートルームというほどではないが、そこそこ広い部屋には大きなベッドと、ローテーブルを囲むように設置されたソファ、ちょっとしたキッチンに、バスルームなどがあった。

 さしずめセミスイートといったところか。


「せっかくだからいちばんいい部屋を、ね」


 シーハンはそう言いながら、キッチンへ向かう。


「なにか飲む?」

「なんでもいいよ」

「あらそう? じゃあ座ってて」


 冷蔵庫を開けたシーハンは、小さなボトルを2本取り出した。

 そしてソファに座る陽一に歩み寄り、片方を差し出す。


「はい、なんでもいい人にはお水」


 シーハン自身は小瓶に入ったシードルを手にしていた。

 顔には少し意地の悪い笑みが浮かんでいるので、小さな意趣返しだろうか。


「はいはい、ありがとさん」

「どういたしまして」


 慇懃いんぎんにそう言って頭を下げたシーハンは、陽一に向かい合うかたちでソファに座った。


「さて、それじゃあ君への用件なんだけど――」

「んく……はぁ……ちょっと待って」


 シードルをひと口飲んだシーハンに、陽一は言葉を遮られた。


「その前に、あなたの名前を聞かせてもらえるかしら」

「俺の名前?」

「そう。私だけ名前を知られてるなんて、フェアじゃないわ」

「あー、うん。そうか」


 少し考えたが、本名を名乗ることにした。


「陽一、だ」


 ただし、姓は名乗らない。


「……それって本名? ま、偽名でも確認する手段はないのだけれど」

「本名だよ」

「日本でもそう名乗ってるの?」

「もちろん」

「ふぅん」


 不思議そうな表情で相づちを打つと、シーハンはボトルに口をつけた。そしてゴクリと喉を鳴らし、陽一に笑顔を向けた。


「日本人なのに変わってるのね、ヤンイーだなんて」

「あっ……!」


 彼女との会話の流れで、どうやらこの国の言葉のまま発音してしまったらしい。


「違う、陽一だ、よ、う、い、ち!」


 日本語を意識しながら、慌てて訂正する。


「よういち? んー、それはチョットむつかしいねー。ヤンイーのほうが呼びやすいアル」


 おどけた様子でそう返したシーハンに、訂正を受け入れるつもりはないようだった。


「……好きに呼んでくれ」


 陽一は諦め、ため息をついた。偽名を名乗ったと考えればいいだろう。


「それで、ヤンイーはワタシになんの用事アルか?」


 余裕が戻ってきたのか、シーハンは日本語で話し続ける。


「君が盗んだ太刀を返して欲しい」

「太刀? なんのことあるか? ワタシただのウェイトレスね」

「ただのウェイトレスが煙幕なんか使うかよ」

「護身術ね。この国、まだまだ物騒アル。老若男女みなカンフーマスターね」

「嘘つけ」

「嘘じゃないヨー。そもそもワタシ、パスポート持ってないアル。ニポンに行きたくてもいけないねー」

「それこそ嘘だね。俺は少し前に君に会ってる」

「はい?」


 そこで陽一は、展示会でのことを思い出していた。


『アイヤー、さすがニポンのカタナはお見事アルなー』


 自分たちの近くでそう言っていた外国人観光客こそ、シーハンその人だったのだ。


「刀の展示会。観光客のふりして下見に来てただろ?」

「アイヤー! 見られてたアルかー」

「その"アイヤー"ってのにも聞き覚えがあるな」


 思わず苦笑が漏れる。


「もしかしてヤンイーは、そのときからワタシに目をつけてたアルか?」

「知ってれば阻止したさ。恥ずかしながら気づいたのは盗まれたあとだよ」

「なんでワタシが犯人だと思うか?」

「有名だからな。女怪盗ジャン・チェンシーは」


 ジャン・チェンシー、日本ではきょう晨曦しんぎの名で、警察、公安などの各機関からマークされている女怪盗だ。


ジャン晨曦チェンシーなんてありふれた名前アルよ」

「でも本名がしゅ詩涵しかんの姜晨曦さんはそんなにいないんじゃない?」

「どうアルかなー? シュウ詩涵シーハンもありふれた名前アル。どこにでもいる女がどこにでもある名前を源氏名にしただけアルよ」

「そうかな。じゃあ田中たなか昭吉しょうきちさんに育てられたシュウ――」

「お前ぇっ!!」


 突然大声を上げたシーハンは、持っていたシードルの瓶を陽一に投げつけた。


「おおっと」


 陽一はそれを、軽く首を傾けてかわす。


 背後でガシャンと、瓶の割れる音がした。


「ごめんごめん。黄老フゥァンラオって言ったほうがよかった?」

「――っ!? なんで……!」


 おどける陽一に向けられたシーハンの目が、カッと開かれる。


「お前なんでそのこと知っとんねん!!」


 シーハンの言葉が、また変わった。

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