第2話 魔人襲来、その後
北の辺境で魔人を討伐してから、半月ほどが経った。
「おかしいな……。異世界では自由気ままに冒険するはずだったのに……」
冒険者ギルドマスターのセレスタンに請われて書類作業をしながら、陽一は
もともとフリーターで、接客業や軽作業、肉体労働がメインだった陽一にとって、事務仕事自体は新鮮だったが、だからといってそれは彼の求める異世界生活とは、大きく離れたものである。
「口を動かす前に手を動かせ。仕事はまだ山ほどあるぞ」
うずたかく積み上げられた書類の山に、思わずため息が漏れる。
いくら文句を言ったところで、この厳しい上司――もとい師匠は、不肖の弟子をいいようにこき使うのだ。
日の出から働き始めた陽一は、日付が変わる頃になってようやく解放された。
「明日、また日の出の頃にこい」
「とんだブラック企業だ……」
終電で帰って始発で出勤というのに近いいまの実態は、まさにそれだった。
まぁ世の中にはもっとひどい労働環境もあるようだが、少なくとも時給いくらで働くことが多かった陽一には縁遠いものだ。
「なんだ、そのブラックキギョウというのは」
「低賃金で長時間重労働を強いる職場のことですよ」
「ほう……。たしかに俺からお前に賃金は与えていないが……」
目を細めてそう言ったあと、セレスタンは口角をクイッと上げて人の悪い笑みを浮かべた。
「冒険者ギルドからはそれなりの報酬を受け取っているだろう?」
「まぁ、それはそうなんですけどねぇ」
前回の
魔人襲来を無事に切り抜けた北の辺境では、いま復興が急速に進んでいた。
特にアレクらのいるコルーソの町では、魔人ウィツィリ戦のときに陣を張ったあたりに新たな砦が建造され始めている。
そのため人が多く集まっているのだが、その労働力を支える物資の多くは、陽一が提供したものだった。
あの戦い以降も何度か物資の運搬を行なっており、帝国はそれに対する多額の報酬を、冒険者ギルドへ支払っている。
「帝国からの報酬の一部を支払っているのだから、文句を言うな」
「いや、まぁ一部っちゃあ一部なんですけど……」
今回の物資提供には国家予算とまではいかなくとも、地方自治体予算並みの金が動いている。
その一部ともなれば、もはや個人レベルの収入をはるかに上回る額になるのだ。
「一生遊んで暮らしても使いきれないですよ」
「だったら黙って働くがいい」
たしかに報酬という意味での不満はないが、それはあくまであの時点での陽一の働きに対して支払われた正当な額である。
なので、その後も無報酬で労働を強いられるいわれはないのだが。
「なんだ、俺の下で働くのはいやか?」
(これってパワハラじゃねぇのかなぁ?)
そんなことを考えた陽一だったが、残念ながらこの世界には厚労省も労基もないので、どこに訴えるわけにもいかないのである。
「いえいえ、師匠のお役に立てるなら弟子
「いい心がけだ」
そもそもこの生ける伝説とでもいうべき人物から、稽古をつけてもらえるだけでもありがたいことなのだ。
多少こき使われることなど、許容したほうがいいのだろう。
「ま、事務作業が一段落したら、ジャナの森で羽を伸ばすがいい」
「それって討伐と調査に行けってことですよね?」
「そうともいうな。トコロテンで都合が合うときに頼むぞ」
「弟子使いが荒くないですか?」
「結局赤い閃光が帰ってこなかったからな」
魔人の討伐を終えたあと、グラーフだけでなくミーナ、ジェシカ、グレタの3人も、ペリニジの村に残ることになった。
魔人ウィツィリにとどめを刺したのはアラーナだが、それまで善戦した赤い閃光にも討伐報酬が支払われることとなり、グラーフはメリルの助言を聞いてその報酬を村へ投資することにした。
そう遠くない未来に何人も生まれるであろう、勇者の子供を受け入れる保育施設や学校などが建てられる予定だ。
それを聞きつけた耳の早い商人などは、さっそく村に商店などを構え始めたようで、あそこがペリニジの町と呼ばれるようになるのは時間の問題だという。
「そのうちあの村にも、ギルド支部ができそうだな」
グラーフとミーナら3人は近くの町と村とを行き来しながら依頼をこなしているが、ほどなく出張所ができるとのことだった。それが支部に格上げされるのも、そう遠くないだろう。
「ではまた明日、な」
「ええ」
セレスタンの執務室を出て1階に下りる。深夜だというのに、ギルドに併設された酒場の席は半分以上が埋まっていた。
このうちの何割かは、朝まで飲み明かすのだろう。いつもの風景である。
「よぉ色男! 今日も帰ったら姫騎士と一発やんのかぁ?」
「うらやましいなこんちくしょうめっ!」
「あれか、てめー魔術士の嬢ちゃんも入れて3Pとしけ込むんだろ? そうなんだろ!?」
「おねーさんにも生ヨーイチくん味わわせなさいよー!!」
この時間にここを通ると、できあがった酔客からこうやって絡まれることが多いのだが、それにももう慣れてしまった。
本気で嫉妬しての言葉ではなく、軽くからかってやろうという程度のものなので、陽一のほうも愛想笑いを浮かべ、客のほうへは目もくれずに軽く手を上げて受け流した。
「おう、弓士のねーちゃん最近見ねぇが、元気にしてるか?」
ガヤガヤとした声の中にあって、ふとその言葉が妙に耳に残った。
そういえばここしばらく向こうに帰っていないため、花梨と連絡を取っていないこと思い出す。
「おいこらヨーイチ! 1杯くらいつき合えやー」
「また今度な」
酔客たちに背を向けたまま、陽一はひらひらと手を振り、冒険者ギルドを出た。
いざ外に出れば中の喧噪が嘘のように、町は暗く静まりかえっている。
「久々に、あっちに帰るか」
幸いに周りに誰もいないことを確認した陽一は、【帰還+】で『グランコート2503』へと転移した。
○●○●
玄関には花梨の靴があった。リビングの灯りはついたままで、テレビのものと思われる音が漏れ聞こえていた。
「ただいまー」
リビングのドアを開けると、つけっぱなしのテレビの前でソファにもたれかかって眠る花梨の姿があった。
ブラウスにショーツのみという格好で、テーブルにはフタの開いた缶ビールと、食べさしの乾き物があった。
「ん……ふぁ……」
陽一が入ってきた物音で目を覚ましたのか、花梨はその場で大きく伸びをしたあと、眠そうな目をこすりながら彼を見て、にっこり微笑んだ。
「陽一、おかえりなさい」
「おう、ただいま」
あらためて帰宅の挨拶をする。
ふと、カーペットの上に脱ぎ散らかされたスカートとブラジャーが目に入った。
帰宅後すぐにスカートを脱ぎ、ブラジャーを外して酒を飲み始めたのだろう。
ふたつほどボタンをはずされたブラウスの胸元から、谷間が覗いていた。
「あ、陽一もなにか飲む?」
深くは眠っていなかったのか、花梨の意識はしっかりとしているようだった。
「いいよ、自分で取るから」
立ち上がろうとする花梨を制し、キッチンに入った陽一は、冷蔵庫から缶入りのレモンサワーと缶ビールを1本ずつ取り出し、リビングに戻った。
「はいよ」
花梨に缶ビールを渡しながら、隣に座る。
「ん、ありがと」
プシッとレモンサワーの缶を開ける陽一の横で、花梨はテーブルに置いてあったビールの缶を振って空になっていることを確認したあと、受け取ったビールのフタを開けた。
「「おつかれ」」
ほとんど同時にそう言ったあと、ふたりは缶をコツンと当て、それぞれ口をつけた。
強めの炭酸と柑橘系の苦みが喉を刺激し、爽やかな酸味が鼻を抜けていく。
「以前の陽一なら、それ半分くらいでぐでんぐでんに酔ってたわよね」
度数の高いレモンサワーの缶を見ながら、花梨は少し人の悪い笑みを浮かべてそう言った。
「そういえば、陽一って最初に会った合コンのときもウーロン茶だったわよね」
「どうだったかな。ああいうところでは乾杯だけつき合って、あとはソフトドリンクってことが多かったから」
「隅のほうで陽一がウーロン茶片手にちびちび食べてたのは覚えてるんだけど……あー、あの日あたし遅刻したんだったわ」
「数合わせで呼ばれただけだったからな。でも俺はよく覚えてるぞ、遅刻してきた赤いジャージの女の子のことは」
「もう、あの日は着替えるヒマがなかったんだからしょうがないじゃない」
「んで、アーチェリーやってるとかでいじられて」
「そうだったそうだった! 絡みがうざくて静かなところに逃げたら、あんたがいたのよ。で、あたしのこと赤アーチャーとか言い出して」
「それで花梨が"身体は剣でできてないけどねー"とか言ってな」
「あはは、懐かしっ!」
昔を思い出して軽く笑ったあと、花梨は缶ビールを口に当て、こくこくと喉を鳴らした。
そこから少し遅れてレモンサワーを飲み始めた陽一を見て、花梨は軽く首を傾げた。
「あのさぁ、酔えもしないのにわざわざお酒飲む意味ある?」
酒酔い状態をバッドステータスと判断する【健康体α】を持つ陽一は、いくら酒を飲んでも酔うということがない。
「そりゃお互い様だよ」
陽一を経由して【健康体β】を付与された花梨にも同じことがいえるのだ。
「あたしはお酒の味がすきだからね。お茶代わりにノンアルとか飲んでたし」
「お茶代わりって……。でもまぁ、そういう意味なら、俺も似たようなもんかもな」
酒に酔わないと知ってからのほうが、陽一はアルコール類を好んで飲むようになった。
高級なワインやシャンパン、ウィスキーなども好きだし、缶のレモンサワーなどに混じっている安いウォッカの味も嫌いではない。
「最近あんま連絡とれなかったけど、忙しかったの?」
「師匠の手伝いやらなんやらでな」
そこから陽一は、魔人襲来から最近の状況などを説明した。
「あはは、なにそのブラック企業」
「だよな。そっちはどう? 出張やらなんやらで忙しかったみたいだけど」
「辞めたわよ、今日」
「はい?」
突然のカミングアウトに驚く陽一に、花梨はいたずらっぽい笑みを向ける。
「なんでまた急に」
「急にじゃないわ。前から決めてたのよ」
「理由を聞いても?」
「あんたが工場の仕事辞めたのとおんなじじゃないかしら?」
「そっか」
それから今度は花梨の話を聞くことになった。
ほとんどは仕事の愚痴だった。
陽一の肩にもたれかかって不平不満を述べる花梨だったが、口調や表情はすっきりとしていた。
「それでね、言ってやったのよ、"弓矢でワイバーンを撃ち落とすよりすごい経験できる?"って」
花梨の口から本郷宗一という知らない男の名前が出たときは、少しもやっとしたが、いまも昔も彼女がまったく相手にしていないことがわかり、陽一は胸を撫で下ろした。
「それにしても、花梨ってモテるんだな」
「いや、あんたに言われたくないわよ」
陽一の肩に頭を乗せていた花梨は、顔を上げた。そしてジトリとした視線を陽一に向ける。
「い、いや、俺は全然モテないだろ」
「本気で言ってんの?」
言いながら花梨は、陽一の首に腕を回した。
「アラーナに実里、サマンサ……みんなあんたのことが好きよ」
首に回した腕を支点に、花梨は身体を起こし、そのまま陽一に向かい合うようなかたちで彼の膝にまたがった。
「もちろん、あたしだって……」
花梨のほうから顔を近づけ、そのままふたりの唇が重なる。
顔にかかる熱い吐息から、かすかにアルコールの匂いがした。
ついばむようなキスのあと、花梨はすぐに顔を離した。
陽一を軽く見下ろすかたちとなった花梨の口元には、艶やかな笑みが浮かんでいる。
「彼ね、たぶん向こうですごく成功してると思う」
彼、というのは宗一のことだ。
昼間会った彼の服装はハイブランドで固められていたし、まとう雰囲気も尋常のものではなかった。
ただの社会人なら気づけなかったかもしれないが、異世界でそれなりの修羅場をくぐり抜けた花梨には、なんとなく感じ取ることができたのだ。
「望めば大抵のことは実現できるんだと思う。それでも、陽一にはかなわない」
宗一がどれほどの成功を収め、どれほどの財を成し、どれほどの力を得たところで、花梨の望みを叶えることはできないのだ。
「俺なんて、スキルがなければただの貧乏なおっさんだぜ?」
「そうかもね。でもいいのよ」
20代前半のころ、陽一と過ごした日々はそれほど刺激もなかったけど、それでも幸せだった。
彼と離れて過ごした日々も仕事で充実してはいたが、どこか物足りなかったように思う。
そして再会したとき、やっぱり嬉しかった。
そのときはスキルや異世界のことも知らなかったのだ。
それでも、陽一と会うのは楽しかった。
「あなたがもし貧乏なままだったら」
「愛想つかされたかな?」
「ううん、あたしが養ってたわよ」
「それはそれで情けないなぁ」
「ふふふ……」
軽く笑い合ったあと、ふたりは再び唇を重ねた。
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