第九章
第1話 花梨の後輩
近くのカフェでランチを済ませた
「んー……」
鏡に映る不機嫌そうな自分の顔を見ながら、軽く化粧を直していく。
このところ、化粧のノリが悪いのはストレスのせいか、加齢のせいか。
「ま、私たちもそろそろアラサーって呼ばれる
隣で同じように化粧を直す同僚の言葉に、花梨は無言で肩をすくめた。
「そういや今度アンタの下につく、えっと、
「ふーん」
「私らの5つ下だったかな」
「はぁ……5つも年下の子が社会人になる歳になっちゃったのね、あたしたち……」
会社に入社してそれなりの年数が経ち、花梨も部下を持つようになっていた。
「本郷
年度が替わるタイミングで花梨の部下となった宗一は、同僚が言うようにそこそこの美青年だった。
20代前半で180センチを超える高身長。
きれいにカラーリングされたライトブラウンの髪に、きっちり整えられた眉。
くっきりとした
学歴もかなり高いらしく、将来有望とのことで目をつけている女性社員は多いようだ。
「
宗一が部下になってひと月ほど経ったある日、花梨は彼から相談を持ちかけられた。
「相談? いいわよ」
「あの、よかったらどこか外で食事をしながらとか、どうですかね?」
「なんで? うち、ちゃんと残業代出るよ?」
「へ? あ、いや、その……そう、ですか……」
結局その日の宗一の相談はまったく中身のないもので、どうやら食事に誘うことが目的だったのだと、花梨はあとになって気づいた。
「こういう仕事は僕に任せてもらってもいいと思うんだけどな」
「そういうわけにはいかないわよ」
「でも、僕ならもっといい結果出しますよ?」
「はいはい。もう少し経験を積んでからね」
半年ほど同じ部署で仕事をしているうちに、宗一は随分と気安い態度をとるようになった。
同じ部署の女性社員からはいい評判を得られているようだが、花梨は少しやりにくいと感じることが多かった。
学歴のせいか、あるいは性別のせいか、宗一はどこか花梨を侮っている部分が感じられたからだ。
ただ、1年以上同じ部署で働いていると、その態度も徐々にあらたまってきた。
近くで仕事をしているうちに、花梨の能力を認めざるを得なくなったのだろう。
「おつかれさまでした! かんぱーい!」
少し大きなプロジェクトが成功のうちに終わったある日、花梨は部下を引き連れて打ち上げを行なった。
わいわいとにぎやかな雰囲気の宴会も2次会、3次会と続くうちに人は減り、気がつけば花梨は薄暗いバーで宗一とふたりきりになっていた。
「本宮さんは、彼氏とかいるんですか?」
ふと
最後にメールを送って、どれくらいの時間が流れただろうか。
「その質問、セクハラだよ?」
普通に考えれば自然消滅といっていいのだろうが、彼氏がいない、とは言いたくなくて花梨はなんとなくそう答えた。
「そんなおおげさな……」
いまほどハラスメントにうるさくない時代ではあったが、彼らの会社は海外にも展開しており、欧米では……と考えるとあり得なくもないと思ったのか、宗一は言葉を濁す。
「じゃ、来週からまたよろしくね」
花梨は笑顔を引きつらせる宗一を尻目に、1万円札をカウンターに置いて店を出た。
そのあたりから、宗一がやたらと食事に誘ってくるようになった。
食事だけならと、何度か誘いには乗ったが、自信満々に自分語りをする宗一とは、とことん合わないと花梨は感じていた。
「いやー、本宮さんといると、時間があっという間に過ぎるなぁ」
ただ、宗一のほうは話を聞いてくれる花梨と"いい時間を過ごせている"と思っているようだったが。
○●○●
「どうして僕が関西に……」
「あら、栄転よ? がんばってらっしゃい」
宗一が花梨の部下になってまる2年が過ぎたころ、配置換えがあった。
関西支社への異動が決まった宗一はなにやら不満げだったが、昇進にともなうものだったので異議を唱えることはなかった。
それからさらに1年が経ったころ、ほとんど連絡をとることがなくなっていた宗一から食事に誘われた。
あの自分語りを聞くのも面倒だと思ったが、わざわざ遠くからきて誘ってくれたのを断るのも悪いと思い、応じることにした。
「本宮さん、僕と一緒にこないか?」
「はい?」
聞けば宗一は、関西の健康食品会社からヘッドハンティングを受けたとのことだった。
なんとなくネットで名前を見かけたことはあったが、正直うさんくさいという印象しかなかった。
「僕だって最初に話を受けたときはうさんくさいと思ったよ」
どうやら表情に出てしまったのか、宗一はそう言って肩をすくめた。
少し申し訳ないと思ったが、花梨は苦笑を漏らしながらも無言で続きを
「でもね、ちゃんと話を聞けば、これが大きなチャンスだってことは、本宮さんならわかってもらえると思うんだ」
その会社が今度美容部門を新設し、かつ大陸に進出することが決まった。
向こうにもしっかりとした
かの国の人口やらGDP成長率やらを交えながら、宗一は熱心に説明したが、いつもの自分語り同様、花梨の胸には響かなかった。
「残念だよ。でもまぁ、気が向いたらいつでも連絡して」
「ええ、気が向いたらね」
結局、宗一とのこの会話は、半年もしないうちに忘れてしまった。
――そして現在。
「退職って、本気だったの? いま本宮くんに辞められると困るんだけどなぁ……」
「ちゃんと手続きは踏んでますし、引き継ぎも終わってますから」
「向こうから帰ってきた途端にこれって……もしかして、本郷くん絡み? そういや以前つき合ってたなんて噂もあったし……」
「……すみませんけど、本郷くんってだれでしたっけ?」
「もう5年以上前になるけど、君の部下で、そのあと向こうの会社に転職しちゃった子なんだけど……」
「あー、そういやいたような……」
「あれ、関係ないの? タイミング的に怪しいと思ってたんだけど」
「タイミングもなにも、退職の話は随分前に通してますよね? こないだの出張だって本当は行きたくなかったんですから!」
先の出張が、異世界で魔人が現われたタイミングと重なってしまったことに、花梨は強い不満を覚えていた。一度は陽一を死の淵に追い詰めた魔人という存在への、リベンジの機会だったのだ。
かなり大規模な戦いになったようだし、自分も役に立ちたかった。
結果的には大勝利を収めたが、赤い閃光とともに戦った対ウィツィリ戦では危ういところもあったようだ。
もしその場に自分がいれば、アラーナの救援なく魔人を倒せていた可能性もあったと、花梨は
「とにかく、今日が最後の出社日ですからね! 文句があるならクビでもなんでも結構です!!」
同じトコロテンのメンバーでありながら、これ以上仲間はずれのような思いをするのはいやだった。
上司や同僚から頼み込まれ、予定を延ばして会社に尽くしたのだ。もう義理はない。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、または――』
会社を出るなり陽一に電話をかけてみたがつながらなかった。おそらくいまは異世界にいるのだろう。
「どうしようかしら……」
自分の部屋と陽一の部屋のどちらに帰ろうか、あるいはどこかで食事でも……と思っていたところに、着信があった。
「陽一――じゃ、ないわね……」
ポーチに戻そうとしたスマートフォンのモニターには知らない番号が表示されていた。
出るのも面倒だと思い、無視しているとやがて着信は止まる。
再びポーチにしまおうとしたところで、スマートフォンが短く震えた。
どうやらショートメッセージが届いたようだ。
『ご無沙汰しております。以前同じ会社に勤めていた本郷です。こちら本宮さんの番号でお間違いないでしょうか?』
「……なんてタイムリーな」
すっかり忘れていたものの、ついさっき聞いて数年ぶりに思い出した名前である。
とはいえ、さきほど名前を聞かなければおそらくこの先一生思い出さなかった相手でもあるし、無視して問題ないだろうと、今度こそポーチへスマートフォンをしまおうとしたときだった。
「既読スルーとは傷つくなぁ」
声のほうへ目をやると、見覚えのある男が悠然とこちらへ歩いてくるのが見えた。
名前はすっかり忘れていたが、顔を見ればすぐに思い出した。本郷宗一その人である。
「あら本郷くん、ごぶさたね」
さきほど聞いていなければ、名前を思い出すのにもうしばらくかかっていただろうか。
顔かたちはあまり変わっていないが、服装は随分立派になっている。
「ああ、久しぶりだね」
いちばんの変化は彼自身がまとう雰囲気だろうか。
数年ぶりに会う彼は、当たり前かもしれないが貫禄が増しているようだった。
いや、貫禄というより凄みといったほうがいいだろうか。
「いまも向こうで働いてるの?」
「ああ」
大陸での経験が、容姿の変化につながっているのだろう。
「本宮さん、出張で来てたんだよね? 声かけてくれたらよかったのに」
「ごめんなさいね。早く帰りたかったから」
これまで何度も大陸へは出張に行っているが、一度として宗一に連絡はしていない。
いまさらという気はするが、これはまぁ社交辞令といったところか。
「それにしてもこんなところで会うなんて、奇遇ね」
「奇遇なもんか。辞めると聞いて会いにきたんだよ」
おそらく会社の誰かといまも連絡を取り合っているのだろう。
その誰かから、花梨が辞める日を聞いてわざわざ待ち伏せていたというわけだ。
「で、わざわざなんの用かしら?」
「言わなくてもわかっているだろう? あなたをスカウトに来たんだよ」
「スカウト?」
「いままでの倍……いや3倍は出すよ?」
あれから数年、花梨はさらにキャリアを伸ばしている。特にあちらの言葉を使いこなせることは、宗一にとってプラスの材料になるのだろう。
彼の提示した報酬は、30半ばの女性が普通に働いて得られる額ではなかった。
「光栄ね。でも遠慮しておくわ。しばらくゆっくりしたいのよ」
「だったらさ、僕とつき合わない?」
宗一の突然の申し出に、花梨は眉をひそめて首を傾げる。
「つき合うって、これから食事にでも行こうっていうの?」
「あはは、違う違う。男女の仲になろうよって言ってるんだよ。いわゆる告白ってやつかな」
「はぁ? あなた、いきなりなにを……」
「いやぁ久々に会って驚いたけど、本宮さんすごくきれいになってない? 最後に会ったときから何年も経つけど、あのころより若く見えるからびっくりしたよ。正直ビジネスパートナーとして勧誘にきたけど、いまの本宮さんなら公私をともにするパートナーになってもいいかな」
「はぁ……」
以前よりも自信に満ちた宗一の姿に、花梨は思わずため息をついた。
「ビジネスのことはゆっくり考えてくれていいからね。とりあえず一緒に来てくれたら家の心配もお金の心配もしなくていい。もちろん働きたくなったらいつでも仕事を――」
「ごめんなさい、間に合ってるわ」
これ以上つき合っていられないと、彼に背を向ける。
「元カレとよりを戻したんだって?」
「は?」
歩き出そうとしたところへそう言われて振り返ると、宗一は
「フリーター崩れのダメ人間。たまたま宝くじが当たったからってカジノに行くようなやつのどこがいいの?」
宗一の言葉を聞いて、花梨は反射的に彼を
「おっと、そんなに怖い顔しないでよ」
「なんであなたが彼のことを知ってるのかしら?」
「このご時世、調べようと思えばなんでも調べられるだろう? 調査会社なんていくらでもあるわけだしね。ま、僕は部下に命じただけでそんなものは使ってないけど」
「……わざわざ調べたわけ?」
「ヘッドハントする相手のことをくわしく知ろうとするのは当たり前だろ? 元カレのことはついでにわかったんだけど、つき合う相手は選んだほうがいいと思うよ」
「余計なお世話よ……」
「本宮さんのような優秀な人が、つき合う相手を間違えて価値を下げるのなんて、黙って見ていられないね。もう一度聞くけど、あんなどうしようもないヤツとなんで一緒にいるの?」
「むぅ……」
宗一の言い方は腹立たしいが、詳しい事情を知らずに陽一の
しかし多くの人が彼に救われたことを、花梨は知っている。
カジノの町では犯罪組織を一網打尽にしたし、東堂家の悪事を暴いてアレクの妻子を守った。
そして暴漢に襲われていたアラーナを救出し、
花梨自身、仕事や生活に疲れ果てていたときに陽一と再会したことで、救われたという思いがある。
――アナタが彼のなにを知っているの?
そう言いかけた花梨だったが、口をつぐんでふっと表情を和らげた。
人材調査の名目でプライベートまで覗き見するような男に、陽一のことを理解される必要はないだろうと思い至ったからだ。
「一緒にいると楽しいのよ、彼」
わざわざ腹を立てる価値もない、と断じた花梨は、宗一の話を適当に聞き流すことにした。
「僕のほうが楽しませてあげられると思うよ? 一緒にカジノへ行ったってことは、刺激がほしかったってところかな?」
「そうかもね」
「だったらなおのこと、そんなダメ人間はさっさと見限って、僕とつき合うべきだよ。普通の人が味わえないような、刺激的な日々を楽しめるはずさ」
得意げに語る宗一がなんだか滑稽で、花梨は思わず人の悪い笑みを浮かべてしまう。
「それって異世界で冒険者になるより刺激的なのかしら?」
「え……いせか……なに?」
「弓矢でワイバーンを撃ち落とすより、すごい経験、できる?」
「ワイバーン? なんの話? ゲーム?」
「ふふ、ごめんなさい。なんでもないわ」
自嘲気味に苦笑を漏らした花梨は、あらためて
「本宮さん、待っ――」
「わざわざ来てくれてありがと。でもこの先私たちが会うことはないでしょうね」
宗一にそう告げた花梨は、今度こそ彼に背を向けて歩き始めた。
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