第16話 破水

 東堂夫妻の乱心報道が少し落ち着いてきたころ、陽一は靖枝の家を訪ねていた。


 靖枝と母の冴子は外出しており、リビングに通された陽一は昭三が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、雑談していた。

 BGM代わりに流れていたテレビの音声から、ふと東堂弘次の名が聞こえてくる。


「なぁこれ、君がなにかしたんじゃないよな?」

「まさか」


 ちょっとした雑談から靖枝らに大きな問題が発生していないことを確認した陽一が、そろそろ帰ろうかと腰を上げようとしたとき、外出していたふたりが帰ってきた。


「あら、藤堂さんいらっしゃい」

「あ……」


 陽一の姿を認めた冴子は気軽に挨拶をしたが、靖枝は気まずそうな表情を浮かべて固まってしまった。


「おじゃましてます。でもそろそろおいとましようかと……」

「あらそう? もう少しゆっくりしていってくださいよ」


 冴子とそんなとりとめのないやりとりをしていた陽一のもとへ、靖枝がすたすたと歩み寄ってきた。


「先日は、申し訳ありませんでした」


 そして靖枝はそう言って頭を下げた。


「取り乱していたとはいえ、私、あなたにひどいことを……」


 初対面のとき、夫の遺言を聞かされた靖枝は、陽一に詰め寄った。


 なぜ陽一ではなく自分の夫が死んでしまったのか、と。


 そのことを、彼女は悔いていたのだろう。


「気にしなくていいですよ。俺も、ちょっとタイミングが悪かったっていうか、もう少し空気を読むべきだったというか……」

「いえ、あなたは悪くないです……。あと、あの人の言葉を伝えてくれたこと、あらためてお礼を言いたいです」


 そう言って頭を上げた靖枝は、口元に笑みを浮かべた。


「ありが――うぅっ……!」


 しかし、言い終える前に靖枝の顔が苦痛に歪む。


「ちょ、靖枝さん?」

「おい、靖枝!?」

「どうしたの?」

「ん、大丈夫……うぅっ……ぁああっ!」


 心配する両親を安心させようと口角を上げようとした靖枝だったが、それはかなわず、短い悲鳴とともに膝をついた。

 両親は慌てて娘に駆け寄り、彼女の身体を支えてやる。


「ああああぁ……!」


 その場にへたり込んだ靖枝は、大きな腹を押さえて悲鳴を上げた。

 そしてほどなく、彼女の衣服が股間の辺りからじわじわと濡れていく。


「まさか……破水したのか?」

「あなた! とりえあずタオルをっ!」


 苦しむ娘と慌てふためく両親の様子を、陽一はじっと見つめていた。


「……ヤバいかも」


 そして陽一の口から漏れたそのつぶやきは、幸いというべきかその場にいる誰にも届かなかった。


「あなた、タクシーを」

「俺が車取ってきます。そのほうがたぶん早い!」


 そう言って飛び出した陽一は、人目につかない場所で国産のSUVを取り出し、家の前に乗りつけた。


「すまん、助かる!」


 靖枝は両親に支えられ、すでに玄関を出ていた。

 もちろん着替える余裕などなく、感染症の恐れもあるためシャワーを浴びるなど論外なので、靖枝は大きめのバスタオルを何重にも腰に巻いていた。


「汚れとか気にしなくていいんで、早く乗せてください!」


 陽一の車が汚れるのを気にしてか、余分に用意していたタオルを座席に敷こうとした冴子にそう告げる。


「ごめんなさい……ありがとう……!」


 後部座席の真ん中に靖枝を座らせ、両側に昭三と冴子が座ったのを確認した陽一は、行き先を確認したうえで陽一はSUVを発進させた。


「お、おい藤堂くん……なんでこんな道を……?」

「大丈夫、俺を信じて」


 いつもとは違う道を走ることに戸惑いの声を上げる昭三を制して、陽一は車を走らせ続けた。


「あなた、ここ……」

「ええっ! あの道がこんなところに?」


 陽一は【鑑定+】を駆使して、靖枝にできるだけ負担をかけずに最短で病院へと到着できるルートを検索し、いつもなら15分はかかるところを5分少々に短縮できたのだった。


○●○●


 靖枝の子はもともと2週ほど早く生まれそうだったが、夫の死やそれに関わるいろいろなことが重なったせいか、予想された日を越えても生まれてくる様子はなく、母子ともどもとくに異常のない状態で妊娠40週という一般的な分娩予定日を迎えるに至った。


 しかしその後も生まれる様子がないため、分娩の誘発を試みるもあまり効果がなく、いよいよ帝王切開というところで折悪しく東堂親子が現われた。


 そんななか『全身麻酔で眠っているうちに出産が終わる』という医師の説明に、靖枝は恐怖を覚えた。

 眠っているあいだに生まれた子を、東堂家の者が連れ去ってしまうのではないかと。


 もちろん医師は腰椎ようつい麻酔や硬膜外こうまくがい麻酔など、意識を保ったうえでの手術についても説明をしたが、出産への不安に加えて東堂家の妨害もあって精神的に不安定になっていた靖枝は、医師を信頼できなくなっていた。


 そんな状態でさらに時間は経過し、ここにいたって母子ともにかなり状態が悪化していることが判明した。

 おそらくはストレスによる精神的な疲労と、食事や睡眠不足による肉体的な衰弱が原因と思われる。


『もしものときは……この子を、助けて……!』


 病院に到着し、診察が始まる直前、靖枝はそう言って意識を失った。

 それからしばらく経ち、医師が難しい顔で両親の前に現われる。


「なぁ、先生……。どうなんだ?」

「とても、難しい状況です」

「まさか、靖枝が言うように、どちらかあきらめねばならんのか?」


 昭三の問いかけに、医師は険しい表情で首を横に振った。


「母親か子供かを選べるような状況じゃありません。どちらも助からない可能性が高い……」

「そんな……」

「せめてあと1週間早く手術できていれば……! なぜ10日以上も診察を受けにこなかったんですか!?」

「お前らのせいだろうがっ!!」


 医師の詰問に対して昭三はほぼ反射的に言葉を返し、さらに詰め寄って襟首をつかんだ。


「ぐぇ……なにを……?」

「お前、もし1週間前に子供が生まれとったら、どうなった? あのろくでなしどもに教えていたんじゃないのか? 東堂のバカ夫婦に子供が渡っていたら、どうなっていたと思うんだ!?」

「ぐぅ……そ、それは……」


 痛いところを突かれた医師は言葉を詰まらせた。


 たしかに1週間前に子供が生まれていれば、彼は東堂夫妻にそれを知らせていただろう。

 そして善意から赤ん坊の顔を見せ、請われれば抱かせてやったに違いない。

 そうしてそのまま連れて帰ると言われても、そのことをあとで靖枝らに伝えて迎えにいかせれば問題ないと、そう考えていただろう。


 まさか現職の議員夫妻があのような常識外れだとは、思いもしなかったのだ。


「いいか、靖枝とお腹の子になにかあったらお前を殺す」

「そ、そんな……」

「死ぬ気で助けろ」

「む、無理ですぅ……」


 自分を見据える昭三の目が、脅しではないと告げている。

 なにかあればこの男は躊躇ちゅうちょなく実行するだろう。

 助けを求めるように冴子のほうを見たが、彼女もまた、鋭い視線を返すだけだった。


「あのー、ちょっといいですか」


 そんななか、もうひとりの同行者である陽一の、少し間の抜けた声が、張り詰めた空気をぬぐい去った。


「俺ならなんとかできます」


 全員の視線が一気に陽一に集まった。


「そのかわり、ここから先はすべて俺の言うとおりにしてください。そしてこれから起こることは、絶対に口外しないこと」


 医師はすがるような目を陽一に向けて何度も頷き、靖枝の両親は疑うような視線を向けつつも、陽一の言葉を待った。


「ここからは時間との勝負です。ご両親は靖枝さんのそばにいてあげてください。先生はカルテの用意を」

「カルテ……?」

「ええ、腕のいい医者を連れてきますから、引き継ぎをお願いします。英語はしゃべれますか?」

「あ、ああ。大丈夫です」

「では」


 矢継ぎ早に指示を伝えたあと、陽一はその場を離れ、すぐにシャーロットへ電話をかけた。


「シャーロット、悪いけど腕のいい医者を用意してくれ……外科医と、婦人科医、それから助手を数名……。ああ、そうだ、出産を行なう。……ただし、異世界でだ」

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