第10話 見知らぬ森

 トウドウヨウイチなる不審者に襲われた弘次が目覚めたのは、深い森だった。


 どうやら明るい時間帯ではあるらしいが、生い茂った木々のせいで陽光は淡く、夜とは異なる薄暗さが不気味な雰囲気をかもし出している。


「ぅぅ……」


 うめき声が聞こえ、そちらに目を向けると、そこには妻の姿があった。


「洋子? おい、洋子、大丈夫か?」

「あなた……? ここは?」


 いつもどおりの着物姿の洋子だが、着衣に乱れはなく、怪我をした様子もなさそうだった。


「その格好……どうされたのです?」

「こ、これは……」


 弘次は、気絶したときと同じく裸の上にガウンを羽織っているだけの格好だった。


「わからん……。不審者に襲われて、気がつけばこんな格好にされて、ここに……」


 とりあえずガウン姿でいることについてはごまかしながら、弘次は自分の状況を説明した。


「あぁ、わたくしのところにも、変な男が……。洋一と同じ名前の……」

「そいつだ! 私のところに来たのもっ!!」


 どうやら夫婦揃って同じ男に襲われたらしい。

 いったい何者なのだろうかと弘次が考えを巡らせようとしたとき、近くの茂みが揺れた。


「ひっ……」

「くっ……!」


 洋子が悲鳴を上げて身を縮めたので、弘次はとっさに駆け寄って妻を抱き寄せた。


「父さん? 母さん?」


 茂みから現われたのは次男の直弘だった。


「直弘か。お前まで……?」

「よくわからないんだけど、兄さんと同じ名前の男に……」


 どうやら直弘も同じ男に襲われたらしい。

 しかし律儀に名前まで告げるとは、いったいどういうつもりなのだろうか。


「ここは、いったいどこなんだろうねぇ?」


 茂みを抜けて両親の近くに寄った直弘は、不安げな表情のままあたりを見回した。


「ゲギャ」


 突如聞こえてきた音に3人は息を呑み、身を寄せ合った。

 それは獣の鳴き声のような、あるいは人のわめき声のような、なんともいえず不快な音だった。


「……なんだ、あれは?」


 音のほうを見た弘次が、小さく呟いた。


 そこにはどぶ色の肌を持つ、人型のなにかがいた。

 背丈は人の子供くらいだが、小さな身体のわりに筋肉質で、醜悪で大きな頭を持つそれは、人型ではあるが決して人間ではないことが一見して理解できた。


「ゴブリン……? いや、そんな、まさか」

「おい直弘、あれがなにか知っているのか?」


 父親の問いかけに、直弘は顔をこわばらせて頭を何度も振った。


「でもお前、なにか知ってるふうじゃないか!」

「だって、あれは、ゲームとか、映画の――って、父さんっ!!」

「え?」


 息子の悲鳴と視線を受けて振り返ると、直弘がゴブリンと呼んだそれがすぐ近くに迫り、腕を振り上げていた。


「ゲギャァっ!」


 ゴブリンの細い腕が振り下ろされ、弘次は咄嗟に左腕でそれを防いだ。


 ――ゴキリ、と嫌な音がした。


「ぐあぁーっ!!」


 薄暗い森に弘次の悲鳴が響く。

 ゴブリンの手刀を受けた彼の前腕は、傍目に見てもわかるほどポッキリと折れていた。


「ちょ……ザコじゃないのかよっ!」


 一撃で成人男性の腕を軽々と折ってしまうゴブリンの膂力りょりょくに直弘は怯え、おそらくは標的となっているであろう父親から離れるようにあとずさった。


「ゲギギ」


 口角を上げ笑っているように見えるゴブリンは、さらなる一撃を加えるべく踏み込もうとした。


 ――パンッ!!


 かんしゃく玉がはじけるような乾いた音が響いた。


「ゲ……ギ……」


 その直後、ゴブリンは短くうめいてうしろに倒れた。

 眼窩からドロリと血を流し、何度か痙攣したあと、ゴブリンの動きが止まった。


「はぁ……はぁ……」

「洋子……お前、それ……」


 弘次が視線を動かすと、そこには肩で息をしながら拳銃を構える妻の姿があった。


「なんで、そんなものを……?」

「ごめんなさい……わたくし、直弘を止めようと……」

「え?」


 母親の思わぬ言葉に、直弘は間の抜けた声を漏らした。


「僕を、止める……? なんで、銃を……」

「あ、ちがうの、直弘、これは――」


 ――パンッ!


 銃の扱いに慣れていない洋子は、引き金から指を外し忘れていた。

 そんな状態のまま慌てて動いたせいで、銃は暴発する。


「ひっ!?」


 そして放たれた銃弾は、運悪く直弘の頬をかすめた。


「ああっ! ごめんなさ――」

「か、貸しなさい!!」


 いまだ状況は飲み込めていないが、弘次は無事な右手で妻から拳銃を奪い取った。

 洋子はとくに抵抗しなかったため、弘次は問題なく銃を手にすることはできたが、このとき暴発しなかったのは幸運だったというべきだろう。


「あ、安全装置は……くそ、ないのか?」


 弘次は折れた左腕の痛みに耐えながら、拳銃の安全装置を探したが、残念ながら見つからなかった。

 銃把に星マークのあるその拳銃には、そもそも安全装置が存在しないのだから仕方がない。


「う……あぁ……」


 直弘はその場に硬直し、頬に走る熱のような痛みを感じながら、母親とゴブリンの死体とのあいだで視線を行き来させていた。


 突然現われた不審な男。

 目覚めればそこは見知らぬ森。

 フィクションにしか存在しないはずの異形の魔物。

 襲われる父親。

 拳銃を持つ母親。

 自分を止めるという言葉。

 頬をかすめる銃弾。


 いろいろなことが一気に重なったせいで、直弘の混乱は限界値を超えた。


「うわああああああああーーっ!!!!」


 大声を上げたことで硬直が解けた直弘は、その場から離れるように駆け出し、森の奥に消えていった。


「な、直弘ぉっ!」

「待て――ぎぃやああああっ!!」


 息子を追いかけようと身を乗り出した妻を、弘次は止めようとした。

 しかしそのとき咄嗟に伸ばしてしまったのは折れた左腕だった。

 勢いよく立ち上がり、駆け出そうとした妻の身体に押された腕から、激痛がほとばしった。


「ああっ! あなた……ごめんなさい」


 弘次の絶叫ともいえる悲鳴のおかげで我に返った洋子は、激しい痛みにふらつく夫の身体を支えた。


「あぁ直弘……」


 だが走り去っていた息子が気になるのか、洋子はそちらに目を向けた。


「放って、おけ……」


 弘次が痛みに歯を食いしばりながら、なんとか言葉を絞り出した。


「でも……」


 どうせ殺す気だったのだろう、という言葉を飲み込み、弘次は拳銃を妻に差し出した。


「私たちも、危険だ……。いまは、逃げることを……考えろ……!」


 苦痛に歪む表情で必死に訴えてくる夫の姿に戸惑いながらも、洋子は小さく頷いた。



 それから東堂夫妻はできるだけ物音を立てないように気をつけながら、森を歩いた。


 ガウン1枚で放り出された弘次は、いうまでもなく裸足だったが、幸い洋子が厚手の足袋と草履を履いていたので、草履を夫に履かせてやった。

 小さな草履で歩きにくくはあったが、小石や枯れ枝がゴロゴロと転がる地面を裸足で歩き回るよりはましだった。


 逃げるといってもどこへ向かえばいいかわからないが、ゴブリンの死骸があるあの場所からは一刻も早く離れたかった。


「あなた、大丈夫ですか?」

「ああ。薬のおかげで、少しはな」


 あのあとすぐに、少し移動したところの木陰で休んだ際に、弘次は妻が常備している頭痛薬をもらって飲んだ。

 医者から処方されたそれなりに強力なものなので、飲んでしばらく経つと胃がキリキリと痛み始めたが、代わりに腕の痛みが和らいだので、よしとすることにした。


 実際に薬が効いているのか、異常事態でアドレナリンが分泌されて痛みが和らいでいるのか、判断は難しいところではあるが。


「しかし……なんなんだ、ここは……?」


 あれから随分森を歩いたが、そのあいだにゴブリンのような異形の存在を何度も見かけた。


 犬や豚が人と混じったようなものや、角の生えた巨大なウサギなど、現実には存在しそうにないものばかりだった。

 途中何度か襲われそうになったが、なんとか拳銃で撃退することができた。


 不思議なことに、それらの存在はなにやら拳銃を恐れているようだったので、多くの場合は銃口を向けただけで逃げていったのだが。


「ん、ここは……」


 闇雲に歩いていると、少し開けた場所に出た。

 そこはたまたま木が生えていないというより、人工的に作られた広場のようだった。


 不審に思いながら進んでいくと、簡素なほこらが現われた。


「どうして……」


 祠を目にした洋子は息を呑み、目を見開いて驚いているようだった。


「洋子、これを知っているのか? ここはどこなんだ?」

「ええ……いえ、でも……ありえない……」


 祠を凝視したまま返事をした洋子は、やがて小刻みに震え始めた。


「そんな……本当に、バチが……?」

「バチ? バチってなんだ?」


 だがその問いかけに洋子は答えず、ただ祠を前にカタカタと震えるだけだった。


「あら、ここまでたどり着けたのですね」


 そのとき、ふいに女性の声がした。

 驚いてそちらに目を向けると、そこには3人の女性が立っていた。


「人……なのか?」


 3人のうちふたりは少し派手な装飾が施された装束に、ひとりは巫女服に身を包んでいた。


 派手な姿のふたりのうち、ひとりは穏やかな表情を浮かべた大柄な女性だったが、頭に犬のような耳が生えていて、身体のうしろにフサフサの尻尾が見え隠れしていた。


 もうひとりは気だるそうな表情を浮かべた小柄な女性で、こちらは猫のような耳が生えており、細い尻尾が不機嫌そうに揺れている。


「ようこそ、鎮守の森へ。それとも、おかえりなさいと言うべきかしら、ヨーコ?」


 そう言ったのは巫女服に身を包んだ細身の女性だった。


 くすんだ金色の長い髪をひとつに束ねた、驚くほど白い肌の美女だった。

 彼女だけは普通の人間かと思われたが、よく見れば耳が不自然に尖っていた。

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