第7話 つまらん男


 とあるホテルの一室。

 

 バスルームから出てきた女が、テキパキと身支度を整えていくなか、男は備えつけのティッシュで股間を拭いただけで、ガウンを羽織ってベッドに腰かけたまま、どこかぐったりとしていた。


「いつもの、そこに置いてあるから」


 男が顎をしゃくった先にはテーブルがあり、そこには少しぶ厚めの包みが無造作に置かれていた。


「んふっ! いつもプレゼントありがとね、東堂先生っ!」

 女はそう言って、それを手に取りバッグに入れた。


「こちらこそいつも悪いな、長くつき合わせてしまって。この歳になるとなかなか終われなくてね」


 東堂先生こと弘次は、そう言いながら苦笑した。


「えー、でも先生いつもカッチカチじゃない! アタシ好きよ、先生のアレ」

「ふふ、それだって薬がなけりゃピクリともしないさ」


 弘次は自嘲気味に呟く。

 薬なしに硬直しなくなって、もう何年になるだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていると、女が突然抱きついてきた。


「えへへ、アタシとエッチするために、お薬まで飲んでくれてるのね。うれしー!」

「おいおい」


 社交辞令とわかっていても、こういう態度にはついついにやけてしまう。

 だが、彼女がいつまで経っても離れないので、ふと顔を見てみると、なぜか真剣な表情で自分を見ていた。


「ねぇ、奧さんと別れて、アタシと一緒になる気、ない?」


 しばらく無言で見つめ合ったあと、弘次は思わず吹き出してしまった。


「はっはっは! 私が妻と別れる? ありえんよ、そんなことは」


 そういいながら、弘次は抱きついていた女を押しのけて立ち上がった。


「へー、奧さんのこと、そんなに好きなんだ」


 少し不機嫌そうに口を尖らせながらも、どこか感心した様子の女に、弘次はわざとらしく肩をすくめて見せた。


「好き? アレを? あり得ないな!!」


 首を傾げる女に対して、弘次はさらに続けた。


「だがな、妻と別れれば私はおしまいなんだよ。なにもないんだ」


 衆議院議員、東堂弘次。


 しかしその実態は東堂家の娘婿でしかない。

 もし洋子と別れてしまえば、政治家としての地盤を失ってしまう。

 そうなれば選挙での当選など夢のまた夢だ。


 これまで積み上げてきたキャリアも、人脈も、なにも残らないただの抜け殻。


 それが東堂洋子を失った弘次の行き着く先なのだ。


「ふーん、つまんないの」

「ああそうさ、つまらん。じつにつまらん男なんだよ、私は! 金と薬がなければ若い女も抱けないような、情けない男なんだ!!」


 急にこんなことを言い出したのは、落選が現実的になってきて、ヤケを起こし始めているからだろう。

 妙に熱くなりながらも、どこか醒めた部分で弘次は自分をそう分析していた。


「なんか、かわいそ……」


 静かにそう呟きながら、女は弘次をふわりと抱きしめた。

 弘次はなぜか、されるがままなんの抵抗もしなかった。

 ほどなく女は抱擁を解き、ベッドの上に置いていたバッグを拾い上げてドアへと向かった。

 そしてノブに手をかけたところで振り返ると、彼女は柔らかい笑みを浮かべた。


「アタシでよければさ、いつでも呼んで。先生とのエッチ、嫌いじゃないよ?」


 そう言って軽くほほ笑んだあと、女はドアを開けて出ていった。


 しばらく立ち尽くしていた弘次は、よろよろとベッドの傍らまで歩き、深々とため息をつきながら腰を下ろした。


「どうしてこうなった……」


 力のないつぶやきが弘次の口から漏れる。


「あのとき、あいつが私の言うとおりにしていれば……!」


 思い出されるのは、洋一出奔しゅっぽんの原因となった喧嘩沙汰である。


 若い男同士の殴り合いなど、喧嘩両成敗でよかったのだ。

 双方とも厳重注意程度で問題はなく、実際東堂家が口出ししなければそうなっていただろう。


『東堂家の名を貶めるようなことを認めてはなりません!』


 だが妻の洋子はそう言って、相手の処分と洋一の無処分を断固要求した。


 弘次はなんとか説得したかったが、しょせん自分は東堂家の娘婿。

 実質的な当主は洋子なのだ。


 結局、ことは彼女の思惑どおりに運んでしまったが、そのせいで洋一は弘次に暴力を振るい、家を出ていった。


 正直に言えば、洋一の心情を弘次は理解できなくもなかった。

 彼自身思春期には人並みに反抗期もあり、親と衝突したことも一度や二度ではない。


 だが良家のひとり娘である洋子は息子の暴挙に心底驚き、深く傷ついたようだ。

 そして自らの行ないを反省したのだが、残念ながらそれは斜め上の方向に向かってしまった。


『洋一がああなったのはアナタの教育が悪かったのです。そしてわたくしたちの愛情が足りなかったのです! なので直弘にはしっかりと愛情を注ぎ、わたくしが責任をもって育てます!!』


 そう言って直弘の教育に熱を入れ始めた洋子だったが、それは単に甘やかすだけのものだった。


 なにをやっても洋子が許すものだから、直弘の素行はどんどん悪くなっていった。


『ごめんなさいアナタ、わたくしの愛情が足りないばかりに……。でももう大丈夫です。直弘はちゃんと反省していると言ってくれましたから!』


 いったい何度そのセリフを聞いたことだろう。


 弘次自身でも直弘を叱ったことはあったが、そうすれば息子は母親に泣きつき、結果洋子が夫に理不尽な怒りをぶつけて終わるだけだった。


 だが、と弘次は先日のことを思い出した。


 洋一の妻の腹を割けばいい、そんなことを平然と言う我が子の姿を。


 あのあと弘次は慌てて洋子のもとを訪れた。

 そして直弘の様子がおかしいことと、一刻も早く息子を止めなければならないことを訴えたのだが、洋子は力なくうなだれ、頭を振った。


『ごめんなさい、アナタ。私の愛情がたりないばかりに……』

『そのセリフはもう聞き飽きた! 一刻も早く直弘を止めないと!』

『ごめんなさい……ごめんなさい……』


 あとで東堂家の使用人に聞いたところ、洋子が直弘から日常的に暴力を振るわれるようになって、もう随分になることがわかった。

 そして自分の知らないところで、洋子が直弘の悪行を隠蔽していることも判明した。


 弘次自身が知っているだけでもかなりのものだったが、洋子が秘密裏に処理した案件には洒落にならないものが多数あった。


「くそっ! あいつが……洋子がちゃんとアレの手綱たづなを握っていれば」


 ガウン姿の弘次は、ベッドに腰かけたまま頭を抱えていた。


 直弘さえまともなら、自分はいまこうやって悩む必要はなかった。

 党の公認を得られさえすれば、当選できる地盤はあるのだ。

 だが、公認を得られず、次男の悪名が広まってしまえば、野党は協力して弘次を落としにかかるだろう。

 あるいは与党が強力な後任を立てるかも知れない。


 なんにせよこのままでは落選してしまう。


「私はなにもしていないのに……」


 直弘が問題を起こさなければ。

 洋子が直弘の教育を間違わなければ。

 そもそも洋子が洋一の問題に口を出さなければ。

 それ以前に、洋一が問題を起こさなければ。

 自分はなにもしていないのに、なぜこうも苦しまなければならないのか……!


「まぁ、やるべきことをなにもしなかったからでしょうねぇ」


 突然、背後から男の声が聞こえた。


 弘次が慌てて身体を起こし、声のほうに目を向けると、作業服姿の男が蔑むような表情で自分を見ていた。

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