第5話 靖枝と陽一

「でさぁ! こいつも律儀な奴で、校長と親父さんぶん殴って学校辞めちゃったの!!」


 新しい職場で、洋一の武勇伝はよくネタにされた。


 話すのは洋一と決闘騒ぎを起こして退学になった同級生なのだが、彼との仲は変わらず良好で、相手に悪気がないこともわかっている。

 実際その話をされること自体は嫌ではなかった。


「でもさぁ、結局高卒扱いにはなれたんでしょ? いい親父さんじゃない」


 しかし話の流れが大抵東堂父を擁護する方向にいくのが、正直に言って面倒だった。


「いやいや、俺こいつの両親知ってっけど、ちょーっとアレな感じだよ?」


 洋一が両親を嫌っているのを知っている同級生はこうやってフォローしてくれるのだが、それが相手に伝わることはまずない。


「おい、人の家族を悪く言うんじゃない。いくら親しいからって、それはないぞ?」


 とこんな具合に同級生がいさめられるのがオチだった。

 なら最初からその話をしなければいいのだが、職場に知れ渡ってから、なぜかその話を求められることが多くなった。


 おそらくは、権力者を殴り飛ばすところに爽快感があり、にもかかわらず殴られた父親は息子を思って転校扱いにし、高卒の肩書きを持たせてやるというエンディングに心温まる、というわかりやすい展開が受けるのだろう。


「まぁ東堂君も若いからさ、いまはわからないかも知れないけど、いつか親父さんの愛情に気づく日がくるよ。そのときは、恥ずかしがらずに仲直りするんだよ?」


 息子として十数年両親を見ていた彼は、東堂弘次という人間に名声欲しかなく、東堂洋子という人間に先祖の栄光へのプライドしかないことをよく知っている。


「そッスね。そのときはうまい酒でも飲めるといいッスね」


 しかしここで反論してもどうせ理解されず、変に言いくるめられるのはわかりきっていた。

 だから洋一は、職場の先輩たちが望むように物語を完結させるのだった。



 洋一が新しい職場で働くようになって、2年近く経ったある日のこと。

 忘年会でいつものように、洋一の武勇伝がネタにされた。


「そッスね。そのときはうまい酒でも飲めるといいッスね」


 そしていつものように流して終わらせ、いつものように宴会は続くと思われたが、その日はいつもと違っていた。


「あんまり人のご家族のことを悪く言いたくはないけど、東堂君のご両親、ちょっとおかしいと思う」


 ひとりの女性社員が発したつぶやきは、決して大きな声ではなかったが、ちょうど場が静まったタイミングだったので、妙に響いてしまった。

 微妙な空気のなか、その場にいたほぼ全員の視線を受けたその女性は、あたふたと身を縮めて頭を下げた。


「ご、ごめんなさい……私ったら変なことを……。あの、忘れてください」


 すぐに宴会の席はにぎやかになり、彼女の発言はほどなく忘れ去られた。


 洋一には強烈な印象を残したまま。


「あの!」

 宴会も終わり、二次会へ行く者とそのまま帰る者とが別れ、洋一はいつものように二次会へと誘われていた。

 しかし先ほどの女性社員が帰るようだったので、彼は参加を辞退し、彼女を追いかけて声をかけたのだった。


「あ……。さっきは、その、ごめんなさい……」


 呼ばれて振り返った女性社員は、洋一の顔を見るなり申し訳なさそうに頭を下げる。


「あー、いいんすよ。むしろ嬉しかったッス」

「え?」

「はは……。正直親父とは一生わかり合えると思ってないんで。あ、駅ッスか? 送るッスよ」


 そう言うと、洋一は女性の前を歩き始め、彼女は少し戸惑とまどいながらも彼のあとについて歩いた。


「あの、だったらなんでご両親と仲直りしたいなんて……?」

「なんつーか親は子を想って当たり前って感じで、普通の人は理解してくれないッスからねー。むしろ不思議なのは……えーっと……」

「あ、渕上ふちがみ……渕上靖枝です」

「どもッス。渕上さんがああ言ったことッスねぇ。なんでウチの両親がおかしいって?」

「えっと、じつは私……子供のころに友達を亡くしてるんです」


 虐待死だった。


 仲のいい友達が親に殺されたと知って、彼女も一時期両親をおそれたことがあった。

 いつか自分もひどい目に遭うんじゃないかと。


 そんな娘の様子に戸惑いながらも、彼女の両親はいろいろなところへ相談にいって問題の解決を図り、時間をかけて娘の恐怖を取り除いた。


 いまではあのときなぜああも両親を怖れたのか、彼女自身理解できない思いがある。

 だがそれと同時に、親が必ずしも無条件に子を愛することがない、ということを知ってしまったがゆえに、自分に向けられる愛情をありがたく思えるのだった。


「ごめんなさい、変な話して……あの、大丈夫ですか?」

「へ? なにがッスか?」

「だって……」


 そこまで言うと、彼女は困ったように苦笑し、肩にかけたポーチからハンカチを取り出すと、洋一の目尻をぬぐった。


 そのとき初めて、洋一は自分が泣いていることに気づいた。


「え? あれ? なんで……?」


 なぜ自分が涙を流しているのか、洋一にはわからなかった。

 彼女の話に感動したせいなのか、いままでほとんど理解されなかった両親との確執をわかってもらえたことへの安堵からか、あるいは別の理由があるのか……。


「うぐ……すんませっ……ひっく……お、れぇっ……なん……うぅ……」


 涙だけでなく嗚咽おえつまで込み上げてきて言葉が紡げなくなる。

 彼女はそんな洋一の手を引いて歩き始めた。

 洋一は彼女から受け取ったハンカチで目元をぬぐいながら、導かれるまま歩く。

 そして街灯があまり届かず、人通りの少ない物陰でふたりは立ち止まった。


「……?」


 洋一はふわりと温かいものに包まれるような感触を得た。


「いやじゃなければ、このまま……」


 彼女の胸に抱かれていると気づいた洋一は、しばらくのあいだくぐもった嗚咽を漏らしながら、泣き続けたのだった。



 洋一と靖枝の距離はそれから自然に近づき、つき合うようになった。


 義父とは何度かじゃれ合いのような殴り合いを演じることになったが、すぐに気に入られ、ふたりだけで飲むようなことも多々あった。


 そしてほどなく、ふたりは結婚することとなった。


「すまん、洋一! なんとか止めたかったんだが、俺じゃうまく説得できなくて……」

「はぁ……。ま、しょうがない。事前に教えてくれただけでも助かるわ」


 結婚式当日の新郎控え室では、職場の同僚であり同級生でもある友人が、洋一に頭を下げていた。


「せっかくのふたりの門出なのに……」

「気にすんなって。披露宴なんざ形式みたいなもんだから。新婚旅行で巻き返しゃいいんだよ」


 結婚式が終わり、披露宴がある程度進んだところで、洋一の両親、東堂弘次と洋子が呼び込まれた。


「本来予定にはないことでしたが、サプライズとして、新郎洋一さんのご両親にお越しいただきましたー!!」


 事前に同僚からこのことを聞いた洋一と、彼から事情を説明されていた靖枝やその両親は、なんとか笑顔を取りつくろうことができた。


 さすが国会議員というべきか、自分をよく見せる術を弘次は熟知しており、彼のスピーチによれば、ちょっとした考えの違いから親子はすれ違ったが、いまもちゃんと家族として想い合っているという美談となった。


「いやーなんといういきなはからい!! 職場のみなさまの善意で成し遂げられた感動の再会です!! これから、東堂家もふくめて家族団らんとなること間違いなしでしょう!」


 スピーチを終えた弘次と洋子は、すぐに帰ることになった。


 洋一は無視するつもりだったが、弘次のスピーチにほだされた招待客の多くから勧められ――というより半ば強制され――見送ることになった。


「子供ができたら連絡しろ」

「は……?」

「今度はお前のように失敗せず、立派な東堂家の跡取りとして育ててやる」

「てめぇ……!!」

「やめて洋一っ!」


 父親に殴りかかろうとする洋一を、靖枝が抱きついて止めた。

 過去の出来事を思い出したのか、弘次の顔は恐怖に引きつっていたが、なんとか口元に笑みを浮かべることに成功する。


「ふ、ふん……また暴力か? 進歩のないやつめ」

「ぐっ……」

「殴る価値もないでしょう? こんなどうしようもない人」

「なんだと……?」


 洋一にかけられた靖枝の言葉に、弘次は顔を歪めた。

 そして靖枝に鋭い視線を向けたが、彼女はそれを真っ向から受け止めた。


「帰ってください。そして二度と私たちの前に現われないで」

「まぁ! なんてことを……!!」


 靖枝の言葉に反応したのは妻の洋子だった。


「あなた、嫁の分際で東堂家の当主になんて口のききかた――」


 ――パシン! と乾いた音が響き、洋子の言葉は遮られた。


「――え?」


 突然のことになにが起こったのか理解できない洋子が慌てて視線を戻すと、ビンタを振り抜いた姿勢でにこやかな笑みを浮かべる、靖枝の母、渕上冴子さえこの姿があり、頬の痛みから自分がぶたれたのだと気づいた。


「お、お前なにを――ぐぶぅっ……!!」


 冴子の蛮行をとがめようとした弘次が、今度はうめき声を上げる。

 洋一とのあいだに割って入った靖枝の父、渕上昭三しょうぞうが、低い姿勢からアッパー気味の右フックを、弘次のみぞおちに食らわせたのだった。


「な……なんなの……?」

「げほぉっ……くふっ……なにを、するかぁ……」

「あらごめんなさいな、これが渕上流の挨拶でして。最上のおもてなしのつもりだったのですが、お気に召しませんでしたか?」

「そうそう。肉体言語こそ最高のコミュニケーション! さぁさぁ、今度は東堂先生からどうぞ!!」


 そう言って昭三は弘次に向かって、殴り返せといわんばかりに背広の前を開き、腹を誇示した。


「は……? あなたたち、いったいなにを……」

「ごほっ……まったくだ。これは立派は傷害だぞ……?」


 いきなり殴られたことに対する怒りよりも、相手を理解できない困惑や恐怖のこもった視線を、東堂夫妻は渕上夫妻に向けた。


「あら、ウチでは当たり前のことなんですけどねぇ」

「まったくだ。洋一くんとだって、何回も殴り合いをしとる。なぁ?」

「え? あ、はい」


 いきなり話を振られた洋一はぎこちなく返事をし、それを見て弘次は、信じられないものを見た、とでもいわんばかりに大きく目を見開いた。


「そういうわけで、ウチと親族になるっちゅうことはそういうことなんですわ。いやなら二度と顔は見せんでくださいや、東堂先生」


 ここにきてようやく渕上夫妻の意図を知った弘次は、苦々しげな表情を浮かべた。


「お前……議員を殴ってただですむとでも――」

「あんたこそ、ウチの息子と娘を不幸にしようってんなら容赦はせんぞ?」


 すごむ昭三に対し、弘次は嘲るような笑みを浮かべた。


「ふん……ただの一般人になにができる?」

「なんなりとできるだろう? どこかの思想団体に入るとか、な」

「ぐ……」


 弘次の笑顔が凍りつく。


「先生ならわかると思うが、俺ら世代にゃいまだに学生やってるようなのがいるからなぁ」

「ば、馬鹿な真似はよせ……!」


 いくら縁を切ったと口で言っても、親子関係を解消することは、少なくともいまの日本の制度では不可能だ。

 息子の義父が反体制的な思想団体に加入したとなれば、弘次の議員生命も危ういものとなるだろう。


「相互不干渉。それがお互いのためじゃないか? 先生よぉ」


 もともと洋一に子供をよこせと言ったのも、言葉だけの嫌がらせのような意味合いが強かったこともあり、東堂夫妻は息子夫婦と嫁の両親から距離を置くようになった。

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