第3話 虫の知らせ

 翌日、昼過ぎに起きた陽一と花梨は、リビングのソファに並んで座ってテレビを眺めていた。

 

「あら、そういえばそろそろ選挙があるのね」


 昼のワイドショーで取り上げられている、衆議院総選挙のニュースをぼんやりと見る陽一の隣で、花梨は半ば独り言のようにそう呟いた。


 政治に興味のない陽一であっても、さすがにいまの首相が誰かということくらいは知っているが、といって今回の選挙が首相の任期満了に伴うものか、解散総選挙なのかというところまでは把握していないし、正直に言って興味もない。


「はぁ……こっちは選挙どころじゃないけど、白票くらいは投じておこうかしらね」


 生活の軸をほとんど異世界に置いている陽一だが、日本に国籍を有している以上、参政権を放棄するのもどうかと思われる。

 といっていまの政治の状況をほとんど知らないので、花梨の言うとおり白票を投じておけばいいだろうと、陽一はテレビに目を向けたまま無言で頷いた。


「政治家さんも大変ですなぁ」


 県内や首都にくわえ、関東一円の選挙区に立候補した人たちが、視聴者にわかりやすい説明つきで紹介されていく。


「あ、そういや靖枝やすえさん元気かなぁ……」

「どうしたのよ、急に」

「んー、虫の知らせってやつ?」


 本当になんの関心も持たず、ただ垂れ流されるテレビの映像をぼんやりと見ていた陽一の脳裏に、ふとひとりの女性が思い浮かんだ


 ――東堂とうどう靖枝。


 同じ日にトラック事故に遭遇し、異世界へと転生した東堂洋一よういちの妻である。 


「そういえば、子供が生まれるって話だったわよね」

「そうだな。元気に生まれたのかな」


 気になり出すとそればかりが頭を占めるようになる。

 といって、【鑑定+】で調べるのもなにやら申し訳ない気がした。


「ヒマだし、様子見がてら挨拶でもしとくか」


 そう思い至った陽一は、テレビを消して立ち上がり、身支度をととのえた。


「じゃあ留守番しとくね」

「おう、たのむ」

「あん……なに? ……んむ」


 玄関まで見送ってくれた花梨を抱き寄せ、陽一は唇を重ねた。

 突然のことに面食らった花梨は大きく目を見開いたが、すぐに目尻をとろんと下げ、陽一の行為を受け入れた。


「んはぁ……もう、いきなりなによ」

「たまにはこういうのもいいだろ? じゃあいってくる」

「……はい、いってらっしゃい」


 嬉しそうに顔を赤らめる花梨に微笑みかけながら、陽一は家を出た。

 

○●○●

 

「帰ってください!! もう二度と来ないでっ!!」


 靖枝の住む家に到着するや女性のヒステリックな声が耳に飛び込んできた。

 その声を頼りに玄関口へ目をやると、3人の男女となにやら言い争いをしている、靖枝の姿があった。


 ひとりは一見して上等なスーツを着込んだ中年の男性、ひとりは控えめなデザインながらもやはり高そうな着物に身を包んだ中年の女性、そしていまひとりはいまどきのブランドものっぽいスーツを着崩している青年だった。


「あちゃー、いきなり揉めごとかよ……」


 さてどうしたものかと思案している陽一のそばを、何者かが駆け抜けていく。


「おのれら、性懲りもなしにまた来よったんかぁっ!!」


 それは初対面のおり、陽一に助走つき右フックをぶちかました靖枝の父親だった。

 さらに人の気配を感じた陽一が振り返ると、少ししんどそうな様子で小走りに駆け寄ってくる靖枝の母の姿も確認できた。


 母親のほうは陽一に気づくと、愛想よく微笑んで会釈をし、歩くペースを落とした。


(もしかしてまた助走つき右フックを……?)


 陽一は半ば期待するような心持ちで父親へと視線を戻したが、彼は靖枝と中年男性とのあいだに割って入るだけで、拳を振るうことはなかった。


「次来たらぶん殴ると言うたよな?」

「ほほう、私に手を出してただですむとでも?」


 靖枝の父に対して、中年男が挑発するような口調で言い返す。

 その声はまるで舞台俳優のように、滑舌も声の通りもよかった。


「ふん、事件にするか? この時期にわしが傷害事件を起こしたとして、困るんはだれかのう?」

「そんなもの――」

「――もみ消すか? だが儂ならおのれら3人ぶちのめすのは造作もないぞ? しかし善良な市民であるこの儂は罪の重さに耐えかねて自首するだろうな」

「ぐぬ……」


 中年男の短いうめき声が聞こえる。


 父親のほうは獰猛どうもうな笑みを浮かべて拳を構え、表面を温めるように握り込んだ手に息を吐きかけていた。


「……帰る」


 中年男が踵を返して歩き始めた。


「靖枝さん、あなたも母親ならその子にとってなにが幸せなのか――ひぃっ!!」


 続けて着物の中年女性が嫌みったらしくなにかを言い始めたが、その言葉に靖枝が眉を上げ、父親が拳を振り上げると悲鳴を上げてあとずさり、そのまま小走りに中年男のあとに続いた。


「じゃ、また来るねー」

「次は警告なしでぶん殴る」

「おー怖い怖い」


 最後にスーツを着崩した青年がおどけた様子で父親をからかい、中年男女についていく。

 そして家の敷地を出たところで、作業服姿の陽一に気づいた中年男は、どこか見下すような目を一瞬向けただけですぐに視線を動かした。


 その先には、陽一の傍らに控えるように立って中の様子を一緒に見ていた靖枝の母親がいた。


「また来ます。次はいいお返事をお待ちしています」

「答えは変わりません。二度とこないでください」


 答えを予想していたのか、母親の毅然とした対応に怯むことなく中年男は会釈をし、その場を去っていった。


 あとに続く中年女性は少しきつめの視線を母親に向けながらも、会釈をして通り過ぎ、青年は完全にふたりを無視して去っていった。


「ふんっ……二度と来るなっ!!」


 そのとき、不意に靖枝の母親が一歩前に踏み出すと、どこから用意したのか塩をひとつかみ取り出し、去っていく3人に投げつけた。


 それは見事なウィンドミルで。


「あっ! てめぇクソババァなにすんだよっ!?」


 塩は結構な勢いで飛散し、最後方を歩いていた青年にいちばん多くかかった。


「放っておけ、いくぞ」


 自分にかかった塩を軽く手ではらいながら、中年男性が青年をたしなめる。


「ぐぅ……覚えとけよ」


 そしてなんとも情けないセリフを残した青年は、先行するふたりのあとを追ってこの場を去っていった。


「ごめんなさいね、お見苦しいところを見せてしまって」


 手についた塩を払いながら母親はお辞儀をしたあと、少し照れたように微笑んだ。


「ふふ、昔ソフトボールをやっていたので」

「あ、ああ、そうですか……」


 正直どうでもいい情報を知った陽一は、どうリアクションしていいかわからず、とりあえず愛想笑いを浮かべた。


藤堂とうどうさん、でしたよね? ご無沙汰しております」

「いえ、どうも」

「よろしければ上がってお茶でもいかが――」

「おい、靖枝っ!?」


 母親の言葉に父親の叫び声が重なる。

 咄嗟に振り返った母親は、一瞬陽一に向き直って軽くお辞儀をすると、玄関へと駆け寄っていく。


「ごめんなさい、大丈夫だから……」


 どうやら靖枝が少しよろめいたことを、父親が大げさに心配しただけのようだった。


(いや、大げさでもないか……)


 自然、陽一の視線も玄関先に向けられる。

 そこで父親に支えられながら立つ靖枝は、大きなお腹を抱えていた。

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