第8話 星川姉弟の攻防
「姉さん!!」
スマートフォンを忘れた花梨といったん別れたあと、マンションの外に出るや突然かけられた若い男の声に、実里はビクッ! と身体を震わせて立ち止まった。
そしてゆっくりと振り返る。
「あ……あ……なん、で……?」
若い男を視界に捉えた実里は、目を見開き、わずかに開いた震える口から、蚊の鳴くような声をしぼり出した。
「ふみ……や……」
二度と会いたくないと思っていた、そしてここしばらくの幸福な時間のおかげですっかりその存在を思い出さなくなっていた義弟の
「――っ!!」
突然のことで驚きはしたが、魔物の群れや魔人に比べればどうということもない。
一瞬恐怖にすくみあがりかけた実里だったが、すぐに我を取り戻し、まずは逃げるべく文也と反対側へ足を踏み出す。
「
「はっ!」
瀬場と呼ばれた中年の男が、素早く回り込んで実里の退路を断つ。
実里は立ちはだかる男をかわして逃げようとしたが、なにやら武術のたしなみでもあるのか瀬場をかわすことはできず、文也ともうひとりの若い男に囲まれてしまった。
「姉さんどうしたんだい? すぐに帰ろうよ」
文也が自信たっぷりの笑顔で実里に詰め寄る。
「部屋に姿が見えなくて、すごく心配したんだよ? なんでこんなところにいるのさ?」
「あなたには関係ない」
「なっ……?」
いままで聞いたことのない、強い意志のこもった、それでいて冷めきった義姉の口調に文也は絶句した。
「関係ないってなんだよ!? 僕と姉さんはいつも一緒にいなきゃいけないだろう?」
「知らない。消えて」
「姉さんっ!?」
再び浴びせられた予想外の言葉に文也は驚きの声を上げ、そして実里の腕をつかんた。
「とにかく帰ろうか。こんなところにいちゃだめだよ」
「やだっ! 離してっ!! 花梨っ……!!」
――パシン! と乾いた音が響く。
文也に頬をぶたれ、実里のメガネが宙を舞った。
「あぅっ……!!」
「あ……あ……、ご、ごめん姉さん!!」
思わず手を出してしまったことに文也は謝りながらも、実里の腕を乱暴に引っぱり、そのまま抱きしめた。
「でも、姉さんが悪いんだよ? 姉さんが……実里が変なこと言うから――」
「……名前で呼ばないで」
再び発せられた義姉の冷たい言葉に顔を引きつらせながら、文也は実里の身体に回した腕に力を込めた。
「ぐぅ……」
「ねぇ…………、カリンって誰さ?」
「あ、あなたには、関係ない……」
「ふふん、もしかして一緒に買い物を楽しんでた人かなぁ?」
「――っ!?」
義弟の言葉に花梨は絶句して顔を上げた。
「じゃあそのカリンさんにも一緒に来てもらおうかな」
「やめてっ!! 彼女は――」
「だったら……わかるよね?」
その言葉に実里は一瞬顔を上げて文也を睨みつけたが、すぐに肩を落としてうなだれてしまった。
「じゃあ、帰ろうか、実里」
「……」
実里は無言でうなだれたまま、文也らが乗ってきた自動車に乗せられた。
(これって拉致ってんじゃね? ってか、シスコンキモいんだけど……)
一部始終を見ていた誠は、一瞬この場を去ろうかと考えた。
(でも文也さんに頼めばあの銀髪のねーちゃんのこともなにかわかるのかな? あと、この実里って人と一緒にいた茶髪のねーちゃんもまぁまぁよかったよなぁ。あんな冴えねぇおっさんと一緒にいるより、俺といたほうが絶対にいいと思うしな、うん)
陽一、実里と同じ写真に写っていたアラーナと花梨の姿を思い出した誠は、ニタリと口元を歪める。
「あの!」
「ん、なんだい?」
「俺も一緒に行っていいっすか?」
「もちろんだとも! さ、乗って乗って」
誠を助手席に座らせた文也は、後部座席に乗せた実里の隣に座った。
「ジェットを用意しておりますので、すぐ空港に向かいます」
「ジェットって、プライベートジェットっすか!? すっげー!!」
瀬場の言葉を聞いて無邪気にはしゃぐ誠にクスリと笑いを漏らしながら、文也は隣に座る実里の肩に手を回した。
「実里、これからはずっと一緒だよ」
「…………」
実里はただ黙ってうなだれていた。
○●○●
社長室から直通のエレベーターでなければ来ることのできない、文也のプライベートスペースである。
グループ内複数企業の社長を兼任する文也は、第2ビル建設の際、父親に内緒でここを作らせた。
「姉さんにはこれからここに住んでもらう。ここなら日本にいるあいだはいつでも会いにこれるからね」
その部屋はちょっとしたパーティーができそうなほど広く、天井は高い。
調度品なども豪華で、家具家電はもちろん、キッチンやバスルームなど、高級ホテルのスイートルーム並みの設備が整えられていた。
そんな豪華な部屋のいかにも高価そうなソファに、実里は座らされていた。
特に拘束などはされていないが、彼女ひとりの力でここから逃げ出すことは不可能だろう。
「ん、電話か?」
部屋に入ってほどなく、文也のスマートフォンが鳴動した。
「知らない番号だな……」
できれば無視したいところだが、彼の持つスマートフォンの番号を知っている人物は限られている。
基本的には電話帳に登録していない番号からかかってくることはほとんどないのだが、未登録の番号からかかってくることがないわけではない。
そういった場合は緊急であることが多いので、未登録の番号だからといって無視するわけにはいかない、というより未登録の番号だからこそ無視できないというべきか。
もし知っている番号からで、その相手と緊急に話す必要がないのであれば、文也はこの着信を無視していただろう。
「もしも――」
『実里っ! そこにいるかっ!!』
「――なっ!?」
突然耳元で叫ばれた男の声に文也驚き、顔をしかめる。
「います! 陽一さん! 助けてっ!!」
『すぐ行く! 待ってろっ!!』
「はいっ!」
「く……! なんなだお前っ!?」
気を取り直した文也は、ようやく電話口へと問い返すことができた。
『星川文也だな?』
静かな声で問われて、文也も少しだけ落ち着く。
「……ああ、どうやら僕が誰かわかっているみたいだね?」
『ああ知ってるさ。星川グループの次期総裁で……
「な、お前っ……!!」
『すぐにいく、覚悟しとけ。逃げたきゃ逃げてもいいぞ。どこにいたって必ず追い詰めてやるからな。実里! ちょっと時間かかるけど、待っててくれっ!!』
「はい。待ってます」
そこで電話はプツリと切れた。
「くそっ! 瀬場ぁ!!」
「かしこまりました」
文也が乱暴に投げたスマートフォンを華麗にキャッチした瀬場は、着信履歴に残った番号を調べ始めた。
「くっ……ヨウイチって、だれだよ……」
「
1分とかからずに調べ上げた情報を、瀬場が文也に淡々と伝えた。
「そいつ、なんで僕の番号を……!」
文也はその場で地団駄を踏んだが、そうしているうちに少し落ち着いたのだろう。
少し息を切らせながらも、いつものように自信ありげな笑みを浮かべ、実里を見下ろしながら口を開いた。
「ふふん。そいつがどう頑張ったところで、ここにはたどり着けないよ、絶対に」
「ううん、来るよ。陽一さんはここに来る、絶対に」
すぐさま実里に反論され、文也は顔をしかめたが、多少頬を引きつらせながらもすぐ笑顔に戻る。
「いいのかよ、巻き込んでも。これは僕と実里の問題だろ? そこに首を突っ込むってことは、僕を……ひいては星川グループを敵に回すってことなんだよ?」
「ふふ……だから?」
「え?」
彼女にとって大切な人――文也にしてみれば絶対に認めたくないことだが――が星川グループを敵に回す。
そう言えば、実里は屈すると思った。
しかし、義姉の顔にはこれまで見たことのない、自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「私にとっていちばんいやなのは陽一さんに会えなくなること。そして私がいなくなったことに陽一さんが気づかないこと」
あのとき、花梨が部屋に忘れ物をしてくれてよかったと、実里は心底そう思った。
彼女ならすぐ異常に気づくはずだし、そうすれば帰ってきた陽一にすぐ知らせるはずだ。
まぁ彼のことなので、仮にふたり一緒にさらわれていたとしても、自分たちの姿が見えなければすぐに【鑑定+】で確認するだろうが、それまでの時間は短ければ短いほうがいい。
「ふふふ……。いつまでもあなたの思いどおりにはなる私じゃないんだよ、文也?」
「だ、だまれぇっ!!」
文也は怒りに震えながら、握り込んだ拳を躊躇なく実里の頬にたたき込んだ。
「…………ふふ。そうやって気に入らないことがあるとすぐに暴力に訴えるんだから。でも陽一さんはそんなこと絶対しない。あなたとは器が違うの」
「ぐぬ……実里っ……!!」
文也は拳を振り上げたが、なんとか踏みとどまった。
そんな義弟の姿に、実里はわざとらしく嘲笑するような笑顔を向けた。
我ながら芝居がかったことをする、と実里は内心呆れ気味である。
しかし先ほどから自分の言葉にうろたえる義弟の姿を見るのは、なんともいえず楽しかった。
「は、はは……。そうだ、実里、愛し合おう! そうすればアイツのことなんて一発で忘れられるさ」
言いながら、文也はベルトを外し始めた。
「では、私どもはこれで」
「あ、俺も失礼するっす」
「いいじゃないか。見ていけよ」
この場を去ろうとした瀬場と誠を文也は呼び止めた。
「僕たちが愛し合ってる姿をみんなに見せつけてやりたいんだ! とりあえずいまは君たちだけで我慢するからさ」
「かしこまりました」
「は、はぁ……」
瀬場は冷静に頭を下げて応答するが、誠は顔を引きつらせて返事をしながらも、少し及び腰になっていた。
ベルトを外し、ズボンを下ろしながら、文也は実里に微笑みかける。
「実里だって、そう思うだろ? 大丈夫、僕と愛し合えばすぐにあんな奴のこと忘れるさ!」
「忘れる? 陽一さんを? あなたの下手くそなセックスで?」
「へ、下手くそ……!?」
文也の表情が崩れ、誠は思わず吹き出しそうになるのをこらえた。
瀬場は無表情のままだったが、わずかに口元が引きつっているように見えなくもない。
「なにを言ってるんだ姉さん!? 姉さんはいつも僕に抱かれて気持ちよさそうにしてたじゃないか!!」
よほど驚いたのだろう。
文也は実里の呼び方が"姉さん"に戻っていることに気づいていない。
「あれは身体が反応してただけ。気持ちいいのとは違う」
そう言ったあと、実里は胸に手を当て、妖艶な笑みを浮かべた。
初めて見る義姉の表情に、文也は思わずつばを飲み込んだ。
「私ね、陽一さんに抱かれて初めてイッたの」
「え……?」
「セックスって本当は気持ちいいってことを、彼が気づかせてくれたの」
「そんな……姉さん、あいつと、寝たのか……?」
文也の言葉は耳に届いていたが、実里は無視して話し続ける。
「たくさんの男の人に抱かれたけど、本当に気持ちよかったのは……心が震えるほど感じることができたのは陽一さんだけ」
「たくさんの……男……? ちょ、姉さ――」
「だから、あなたになにをされようと、陽一さんを忘れるなんてない。絶対にあり得ない」
「――ちょっと待てよ姉さんっ!!」
いつまでも自分の言葉を無視して
「たくさんの男ってなんだよ? 僕以外の男を姉さんが知ってるなんて……」
青ざめる義弟の姿に、実里は口の両端をニタリと上げる。
「あの部屋に住まわされてから陽一さんと出会うまで、私がなにをしていたか教えてあげようか?」
そして実里は、デリバリーヘルス嬢として働いていたときのことを淡々と話し始めるのだった。
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