第8話 本宮花梨 3

 30代半ばに差しかかった花梨だったが、生活は充実していると自覚していた。

 同期の出世頭として順調にキャリアを重ね、それに伴い収入も増えた。

 本社への栄転が決まった勢いで買った都内のマンションのローンも、繰り上げ返済を繰り返した結果、完済目前となっていた。

 蓄えもそれなりにあるので、将来の憂いもほとんどないといっていいだろう。

 それでもときどき、寿退社する同僚や後輩の姿に、言いようのない虚しさを覚えることはあった。


「ふぅ……」


 女性がひとりで住むには少し広いマンションのリビングで、特に理由もなくため息をついた花梨は、空になったビール缶を軽く振ったあと、空き缶で半分ほどが埋まったゴミ箱に投げ入れた。

 本社に勤めだして少し経ったあたりから、花梨は酒の力なしに眠れなくなっていた。


「さてと……、今日も行くか」


 その日、いつもどおりに仕事を終えた花梨は、ほぼ毎日通っている小料理屋に足を運んだ。

 ひとり暮らしで自分のためだけに料理をするのも虚しいし、毎日外食しても問題ない程度には稼いでいるので、朝食以外ほぼ外食だった。

 朝食に関しては、食後に歯を磨けないのが嫌なので家で食べているだけで、トーストやハムエッグ、でき合いのサラダなどの簡単なものか、グラノーラだけを食べるというのが常だった。


「あら、いらっしゃい。今日もおすすめでいいの?」


 小料理屋のドアをガラリと開けると、女将が声をかけてきた。

 おすすめというのは『今日のおすすめ』という日替わりの1品メニューだ。


「うん、おねがい。あと、とりあえずビールね」

「はいはい」


 特に好き嫌いのない花梨にとって、この店のメニューであればなにを食べても満足できるので、とりあえず最初はおすすめを出してもらい、それをアテにビールを飲むというのがいつものパターンだった。

 あとはその日の気分で食べたいものを注文し、日本酒とともに食事をすすめていく。


(ん……?)


 いつも座る席が埋まっていたことを少しだけ残念に思った花梨だったが、それを表情に出すようなことはせず、隣の席に座ることにした。


「失礼」


 いつもの席に座る男性客にひと言だけ断りを入れ、椅子を引く。

 その男性客がこちらを見ていたのが少し気になったが、そのまま椅子に座った。


「ふぅ……」


 温かいおしぼりで手を拭いていると、ふと隣の男性に見覚えがあることに思い至る。


「……陽一?」


 それが誰だったかを思い出す前にトクンと胸が高鳴る。

 隣の客を再び見た花梨の口から、自然とその名前がこぼれ出た。


「ん?」


 少し間の抜けた返事とともに、隣の客はあらためて花梨へと顔を向けた。


「やっぱり……、陽一だよねぇ!?」

「あ、おう」


 陽一の薄いリアクションに多少不満を感じながらも、花梨は当たり前のように彼と話ができることを嬉しく思い、近況を語り合った。

 最近陽一が事故にあったことを聞いたときには、胸が締めつけられ、背筋に寒気が走るのを感じた。


(ああ、あたし、まだ陽一のこと……)


「ねぇ、このあとなんか予定ある?」

「いや、べつに」

「じゃあさ、ウチで飲み直そうよ」


 なんとなく酔いが醒めたような気がしたので、部屋に誘った。

 断られればすぐに諦めるつもりだったが、多少戸惑いはしたものの陽一は応じてくれた。

 ふたりはその夜、十数年ぶりに同じ部屋で過ごし、ともに朝を迎えた。


○●○●


「本宮さん、最近調子いいよね?」

「そう?」

「化粧品変えた? あ、もしかしてエステ?」

「あはは。そんなんじゃないわよー」


 陽一とおよそ10年ぶりの再会をした日から、花梨は体調がよくなったのを自覚していた。

 こうやって他人から指摘されることもままあった。

 それまで自分が不調だったという自覚はなかったが、いざ振り返ってみると相当無理がたたっていたのだろうなということがわかる。


(陽一のおかげ……? ふふ、まさかね……)


 南の町へ出張に訪れた際、頼まれたものや得意先へのお土産を買い込むと、明太子がひとつ余ってしまった。


(陽一にあげればいっか。あれ、あいつ辛いの大丈夫だったっけ?)


 花梨はスマートフォンを手に取り、アドレス帳から陽一の連絡先を引っぱり出す。


(しまった! こないだ会ったときに番号聞いとくんだった……)


 一応彼の連絡先は残しているものの、いまもかわらず使っているとは限らない。

 いまや機種変更のタイミングで他社に乗り換える人は多い。

 SNSで連絡が取り合える昨今、NMPを面倒臭がって電話番号ごと変えてしまうという例も少なくない。


(どうか、変わっていませんように……!!)


 そう祈りながら、花梨は陽一に電話をかけた。


『あー、もしもし?』


 電話越しの声だけでは、相手が陽一かどうかの判断はつかなかった。


「あの、恐れ入りますが、そちら藤堂陽一さんの携帯電話でしょうか?」

『……なにかしこまってんの?』

「あー、陽一!? よかった、番号変わってなかったんだねぇ」


 花梨はほっと胸をなでおろした。


『うん、まあね』

「しっかし、このご時世、10年以上も電話番号変えないなんて珍しくない?」

『そりゃお互い様だ』


 お互い様。そう言われて花梨が思ったのは、“お互い電話番号を変えずにいた”ということだけではなかった。

 電話をかけたとき、明らかに陽一は、相手が花梨であることに気づいていた様子だった。


「え? じゃ、アンタも……」


 つまり、陽一もまたアドレス帳に花梨の連絡先を残していたのだということがわかり、彼女はつい嬉しくなってしまったのだった。


『で、なに?』

「あー、うん。あのさぁ、陽一って辛いの大丈夫だったよね?」

『いけるよ。どしたの?』

「いや、いま出張で南のほうに来ててさ。お土産に明太子でも買って帰ろうかと思って」


 本当は間違って買ったものが余ったので、陽一にどうかとおもったのだが、それはあえて言う必要もないだろう。


『明太子……? いまどこにいんの?』


 陽一がいままさに自分と同じ町にいると知って、花梨は飛び上がりそうなほど嬉しくなった。


○●○●


「ねぇ、本宮さん。なんかいいことあった?」

「へ? なんで?」

「さっきからニヤニヤしてるからさ」

「し、してないわよ!」


 とはいうものの、花梨は南の町での情事を思い出しており、知らず口元が緩んでいたのだろうなという自覚はあった。

 あの日、あの町で偶然出会えたことに喜びを感じた花梨は、陽一をホテルの部屋に誘った。

 そのことを時々思い出していたのだった。


「ってか、ほんと本宮さんどうしたの? 最近若返ってない?」

「そ、そう?」


 とぼけてはみたものの、その自覚はあった。

 最初に陽一と再会したときは、「体調がよくなったかな?」程度の変化だったが、南の町で出会って以降、肌の張りや艶はよくなり、疲れにくくなったうえに、食欲が増進した。

 しかしいくら食べても太る気配はなく、なにより酒なしで熟睡できるようになっていた。


「いいエステとか見つけたんなら、マジで教えてほしいんだけど……?」

「そ、そんなんじゃないわよ」

「じゃあなによ? なんもないのにそんな調子よくなるなんておかしいでしょうが」

「べつに、その……、元カレに、再会しただけで……」

「んだよリア充かよ爆発しとけとチクショウ!!」

「な、なに? 急に……」

「うっさい! 爆発しろっ裏切り者っ!!」

「えー、素敵じゃないですかぁ」


 そこに後輩女子社員が割り込んでくる。


「私、最近の先輩好きですよー? なんかまるくなったっていうかぁ、柔らかくなったっていうか?」

「そう、かな?」

「あー、たしかにね」

「元カレさんに会ったのって、出張のちょっと前ですよねー?」

「え、ええっ!?(鋭いわね、この娘……)」

「はあぁぁ……。本宮さんだけは同志だと思ってたのに、鉄壁のおつぼね様もついに結婚か……」

「ですねぇ」

「いやいや、結婚てそんな…………ん?」


 そこで花梨の眉がピクリと上がる。


「ねぇ、“鉄壁のお局様”って、なに?」

「「あ……」」

「あんたら……。あたしのこと陰でそんなふうに呼んでたのっ!?」

「きゃーごめーん!!」

「あっ私、急ぎの仕事がありましたぁ!!」

「こらー! あんたたちー!!」


 脱兎のごとく逃げ去っていく女子社員たちを見送ったあと、花梨はぐったりと椅子に身を預けた。


「結婚……かぁ……」


 いままで満たされていた胸の中が、一気に空っぽになるような気がした。


 その日、陽一に会いたくなった花梨は、南の町で渡し忘れた明太子を持って、仕事明けに『エスポワール305』を訪れた。

 探せば合鍵は出てくるのだろうが、さすがにそれを使って部屋に上がり込むほど図々しくはなれない。

 ドアホンを押すと、疲れた様子の陽一が出迎えてくれた。

 部屋はほとんど空っぽで、どうやら近々引っ越すとのことだった。

 部屋に入ったあと、少し話をしたが、陽一は抜け殻のようにぼんやりとしていた。


「あのさ、陽一。なにかあった? あたしでよかったら話ぐらい聞くよ?」

「あー、じつはさ……」


 そして陽一は、南の町で花梨と別れたあと出会った、実里という女性とのことをつらつらと話し始めた。

 ホテルに呼んだところから、一緒にこの部屋を訪れ、買い物をし、新しい部屋を借り、そしていなくなったことまで。


(それをあたしに話すかねぇ……)


 花梨は少々呆れながらも、なにを隠すこともなく淡々と実里との関係を語る陽一を眺めていた。


(本気で好きになっちゃったんだね、その娘のこと……)


 不思議と嫉妬はなかった。

 その実里という女性に向けられる好意と、自分に向けられている想いにそれほど差がないと感じられたからだろうか。

 いまは目の前から実里がいなくなったことで、喪失感を覚え、心の比重はそちらに傾いているが、だからといって自分に対する想いが薄れたわけではないと、花梨はそう思い、陽一の唇を奪った。


「嫌なら言って……。すぐ帰るから」


 それは自意識過剰からくる勘違いかもしれないが、いまはとにかく目の前で落ち込んでいる陽一を慰めたかった。


「引越し先、よかったら教えてね」


 陽一を慰めたあと、最後にそう言い残して、花梨は部屋を出ていった。

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