第7話 本宮花梨 2

 翌朝、病院へ迎えにきた陽一とともに、花梨は一度自宅に帰った。

 その日は家でゆっくりと過ごし、体調に問題がないことを確認したうえで、翌日旅行に出かけた。

 旅行といっても近くの温泉で一泊するだけなのだが、ふたりにとってはそれで充分だった。


「ねぇ、結局バイトは休めたの?」

「おう。しぶられたけど“じゃあ辞めます”って言ったら認めてくれたよ」

「いっそ勢いで辞めちゃえばよかったのに……」

「はは、そういうわけにはいかんだろ。まぁでもこれ見よがしにバイト募集のポスター張り出したから、そのうちクビになるかもな」

「いいんじゃない? いつまでもフリーターってわけにもいかないでしょ」

「だな」


 電車とバスに揺られ、ふたりは目的地の温泉旅館に到着した。

 温泉と食事を堪能し、客室でまったりと過ごした陽一と花梨は、いま薄暗い部屋の中、和室に敷かれた布団の上で、浴衣をはだけて向かい合った。

 そうして温泉宿での夜をふたりは過ごした。


 その夜、花梨は1ミリの十分の一にすら遠く及ばない距離を、とても分厚い壁のようだと思った。


○●○●


 ことさら結婚を意識していたわけではないが、自分に子供ができないと知った花梨は、それ以降、陽一との関係にどこか虚しさを覚えるようになっていた。

 そしてその感情をなんとなく察したのか、陽一からも求めてくることが少なくなってくる。

 やがて、陽一と花梨がともに過ごす時間は徐々に減っていった。


 子供ができないと知ったせいか、花梨が以前より仕事に力を入れ始めたこと、そして陽一が相変わらず例のコンビニバイトを辞めようともせず、元の木阿弥もくあみに戻ってしまったこともふたりがすれ違い始めた原因なのかもしれない。

 多忙を極めた仕事が一段落着いたある日、花梨は半年近く陽一に会っていないことに思い至ったのだった。


『……はい』

「あの、あたしだけど」

『うん、どうした?』

「今日、行ってもいいかな?」

『いいよ。ってか、べつにわざわざ連絡しなくてもいいけど』

「あ、うん。そう、だね……。じゃあもう少ししたら出るから。あ、ご飯食べた?」

『いや、まだだけど』

「だったら外で食べない?」

『わかった。とりあえず駅に行くわ』

「はーい」


 およそ半年ぶりの連絡だったので、携帯電話の電話帳を見ながら15分ほど悩んだすえにかけたのだが、いざつながってみると思いのほかあっさりと話が進んだので、花梨はほっと胸をなでおろした。

 駅で合流したふたりは、道中のファミリーレストランで食事を終え、そのまま陽一の部屋に行った。


「なにこれ!? ちょっと散らかりすぎじゃない……?」


 部屋に入り、室内灯をつけるなり花梨はそう言って、呆れたような視線を向ける。


「あ、ああ……面目めんぼくない……。最近週5とか週6でバイトに入ってるから、片づける暇もなくてな……」


 その言葉で花梨の表情が、陽一を気遣うようなものに変わる。


「……まだ、続けてるんだ、あのコンビニバイト」

「ん? ああ、しんどいけどな」

「そろそろ考えどきじゃない?」

「んー、でも、俺が辞めたらあの店まわらなくなるからなぁ」


 学生時代にも何度か聞いたセリフである。

 確かに陽一が占める労働力の割合は大きいのかもしれないし、当時は“そんなものか”と思っていた花梨だったが、自分が社会人になってみてわかったとことがあった。

 どんな職場であれ、従業員がひとりいなくなったくらいで崩壊するようなことはない、と。

 彼女の会社でも、大きなプロジェクトの中心人物が倒れ、危うく大きな損失が出そうになったことはあったのだが、結局周りがいろいろとサポートしあって乗り切った、という出来事があった。

 聞けばそういうことは過去にも何度かあったし、交流のある他社でもまれにあるのだとか。


 仮に陽一がいまのバイトを突然辞めたとしても、オーナーが少し無理をするとか、ほかのバイトに少し頑張ってもらうとか、最近では多めに人件費を払えば派遣を呼ぶこともできるので、新しいバイトが見つかるまでそうやって乗り切ることは可能だろう。

 つまり、陽一が辞めたところで“店がまわらなくなる”などということは、おそらくない。


「そっか……」


 しかし、花梨の口からは、どこか諦めたような返事が漏れるだけだった。

“自分のおかげで職場が成り立っている”というのは、いまの陽一にとってのであるように思えたので、“陽一が辞めても大丈夫だよ”とはどうしても言えなかった。

 とりあえず散らかり具合の目立つ部分を重点的に片づけ、ゴミをまとめるとそれなりに見られる状態になった。


 シャワーを浴び、置きっぱなしにしてあったジャージに着替えた花梨は、陽一とマットレスに並んで座り、テレビを流しながら雑談を始めた。

 ほとんどが花梨の仕事に対する愚痴だったが、陽一はちゃんと聞いてくれた。

 久々に穏やかな気分になった花梨だったが、仕事の疲れに部屋を片づけたことが追い打ちとなり、いつの間にか眠ってしまっていた。


○●○●


「陽一、おはよう」

「くぁ……、ん……おはよう……」


 翌朝――といってもほとんど昼に近い時間だったが――ふたりは簡単な食事を用意した。

 冷蔵庫にはほとんど食材がなかったので、近くのコンビニでサンドイッチと1リットルパックのコーヒー牛乳を買い、陽一が起きるのに合わせ、サンドイッチはトースターで、コーヒー牛乳は電子レンジで温めて並べた。


「ん……悪ぃ、わざわざ」

「ふふ……死んだように眠ってたからね。疲れてるんでしょ?」

「ん、まぁ……。でも花梨は?」

「あたしもまぁまぁしんどかったけど、昼間の仕事だからね。夜しっかり寝れたら元気になるよ」

「そっか……。じゃ、いただきます」


 食事を終えたふたりは、そのまままったりと部屋で過ごしていたが、夕方が近づくにつれ陽一のあくびが増え始めた。


「陽一、今夜も仕事?」

「ふぁ……うん、まぁ」

「そっか。じゃあそろそろ寝といたほうがいいね」

「まぁ眠いっちゃぁ、眠いかな……」

「あはは、さっきからあくびばっかしてるじゃない」

「そっか、悪ぃ」

「ふふ、夜勤はしょうがないよ。じゃ、あたしそろそろ帰るね」

「ごめんな、あんま相手できなくて」

「ううん、楽しかったよ」


 身支度を終えた花梨を陽一は玄関まで送った。


「駅まで送るけど?」

「いいよ。寝ときな」

「悪ぃ」

「ふふ。陽一、さっきから謝ってばかり」

「わり……あー……」

「あはは。じゃ、またね」

「おう」


 ふと振り返った花梨の視線と、玄関のドアの隙間から覗く、眠そうな陽一の少し虚ろな視線とが一瞬まじわり、間もなく無骨な金属音とともにドアが閉まった。


 それ以来、ながらくふたりが会うことはなかった。

 突然の音信不通ではない。

 お互いに連絡を取り合ったりはしていたが、徐々にその頻度も減っていき、やがて途絶えた。



「本宮さん、悪いんだけどスマートフォンに変えてくれない?」

「あ、やっぱガラケーだと不便?」

「だね。本宮さんだけいちいちメール送らなきゃダメだから」

「はぁ……時代の流れには逆らえないわね」


 スマートフォンが急速に普及し、プライベートな連絡はSNSで行なわれるのが主流になりつつある。

 花梨も同僚から携帯電話の機種変更をするよう言われた。


 新規契約したほうが安くなるらしいが、電話番号やメールアドレスが変わるのを嫌った花梨は、機種変更に留めることにした。


「アドレス帳、ちょっと整理しようかな」


 アドレス帳のデータはそのままスマートフォンに移せると言われたが、せっかくの機会なので少し整理することにした。

 大学時代に知り合ったものの、卒業以降一切連絡を取っていない相手も多く、そういうのは削除してしまっても問題ないだろう。

 そうやってサクサクと連絡先を削除していると、あるところで手が止まった。


 ――藤堂陽一。


 最後に会ったときから、かなりの月日が流れていた。


(……元気にしてるかな?)


 どちらかが別れを告げるでもなく、いつしか連絡をしなくなった相手だった。

 いちど連絡してみようか、あるいはこのまま削除してしまおうか。

 しばらく迷った結果、連絡はせず、そのまま残すことにした。

 その後何度かスマートフォンの機種変更を行なうたびにアドレス帳の整理をする花梨だったが、結局陽一の連絡先に触れることはなかった。

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