第6話 本宮花梨 1

 陽一と花梨が出会ったのは、大学に入って半年ほど経ったころの合コンだった。

 それぞれ人数合わせで呼ばれ、ふたりとも遅刻したために場の雰囲気からあぶれたせいか、変に意気投合してしまい、そこからなんとなくつき合い始めたのだった。


 学生時代はほぼ同棲状態で、花梨が陽一の部屋に入り浸っていた。

 花梨は卒業とともに就職したが、陽一は当時のバイト先に人手が足りないとかであまり就活に力を入れることができず、卒業後もずるずると深夜のコンビニバイトを続けていた。


 さすがに就職後、陽一の部屋から出勤するのははばかられる。

 花梨は職場と彼の部屋とを行き来するうえでそれなりに交通の便がいいところに部屋を借りた。

 それでも週末は陽一の部屋で過ごすことが多く、金曜の仕事明けに陽一の部屋を訪れ、土曜をまる1日ともに過ごしたあと、日曜にバイトへ出かける陽一と一緒に彼の部屋を出て自分の部屋に帰る、というのが卒業後しばらく続いた行動パターンだった。

 学生からフリーターになってしまった陽一は、ますますバイト先にうまく使われるようになり、一緒に過ごすはずの週末に臨時でシフトを入れられることが多くなった。

 夕方出勤や早朝の残業も増え、部屋で一緒に過ごしているときも花梨をほったらかして眠っていることもよくあった。

 

 大学卒業からおよそ1年が経ったある週末のこと。

 いつものように仕事を終えた花梨は、合鍵を使って『エスポワール305』のドアを開けた。

 室内灯をつけたままの明るい部屋の大半を占めるマットレスの上で、デニム姿のままの陽一が眠っている。


「ったく……。せめて服ぐらい脱ぎなさいよ」


 呆れたように呟きながら、部屋の中へと入っていく花梨。

 先週の土曜から今日まで6連勤で、しかも最終日の今日は昼前まで入っていると言っていたのを思い出した。


「来ないほうがよかった……?」


 陽一のかたわらにしゃがみ込み、泣きそうな顔で問いかけた花梨だったが、寝息が返ってくるだけだった。

 明るい部屋でデニムのままでは休まるものも休まらないだろうと、せめて楽な格好にして帰ろうと思った花梨は、まず室内灯を消した。

 玄関灯をつけたままにしているので、部屋が真っ暗になるということはない。薄暗い部屋の中を危なげなく歩き、花梨はふたたび陽一のそばにしゃがみ込む。


 デニムのボタンに手をかけ、そっと脱がそうとしたが、起きたら起きたでシャワーでも浴びさせればいいと思い直し、思いっきりズボンを引き下げた。


 それからいろいろと陽一の世話をしたあと、ふと、ずいぶん長いあいだ生理がきていないことに花梨は思い至った。

 仕事が忙しいせいで生理不順になっているのだろう。

 そう判断し、花梨はシャワーを浴び部屋着に着替えると、下着姿のまま寝息を立てる陽一のとなりに潜り込むのだった。


○●○●


「いったぁ……うぐぅ……」


 それからふた月ほどが経ったある日、花梨は立っていられないほどの腹痛に襲われた。


「本宮さん、大丈夫!?」


 腹を押さえてうずくまる花梨に、何事かと同僚の女性社員が駆け寄る。


「ちょ……、だ、だれか、救急車ぁ!!」


 青ざめた表情の花梨を見てただごとではないと判断した彼女は、ほかの社員にそう指示を出した。


「だ、だいじょぶ……だから……んぅ……」


 なんとか返事した花梨の意識は、そこで途切れた。


「はぁ……」


 病院のベッドで身体を起こした花梨は、大きなため息をついた。

 いつもはピンと伸びている背中が、力なくまるまっている。

 会社で意識を失った花梨だったが、病院に到着後ほどなく目を覚ました。

 せっかくだからという上司の提案により、そこでいろいろと検査を受けることになった。

 そして検査結果を告げられている途中から、花梨は上の空になっていた。

 この日は大事を取って入院することになり、いま花梨はひとり病室のベッドで背中をまるめて座っているという状況だった。


「赤ちゃん……、できないってことだよね……」


 腹をさすりながら、特に感情の乗っていない声で花梨が呟く。

 医者はなにやら細かいことを言っていたが、結局はそういうことらしい。

 それが先天的な体質なのか、幼少期のやまいなどが原因の後天的なものかは判断は難しいとのことだが、花梨が自然に妊娠する可能性は非常に低いとのことだった。


(このところ生理がこないからもしかするとって思ってたけど……、とんだ取り越し苦労だったってわけね)

「ふふ……あはは……」


 知らず、乾いた笑いが漏れる。


「ん……?」


 そのとき、廊下を走る足音が聞こえた。

 それは徐々に近づいてきて、花梨の病室の前で止まった。扉が開き、陽一が現われる。


「花梨……! 大丈夫か?」

「え、陽一? なんで……?」

「いや、会社の人から連絡もらって……」

「あー……」


 花梨は入社時の緊急連絡先に、陽一の携帯電話番号を登録していたのを思い出した。


「ごめん、バイト明けで寝てて着信に気づかなくて……」


 花梨が倒れたのは午前中だったが、いまはもう日が暮れかかる時間である。


「ふふ、おそーい」

「あぅ……ほんと、ごめん」


 責めるようなセリフを放った花梨だったが、声色は嬉しそうだった。

 しかし、気が動転していたのか、いつもならわかるだろう彼女の本心に気づけず、陽一は思わず謝ってしまう。

 そんな陽一の様子がかわいらしくて、もう少しいじめてみようかとも思ったが、心底心配してくれている彼をこれ以上からかうのはよしたほうがいいだろう。

 そう思い直し、素直にお礼を言うことにした。


「冗談だよ。ありがと、きてくれて」

「お、おう。で、大丈夫なのか?」

「うん。ただの疲労だよ」


 胸がチクリと痛む。

 しかし、花梨は陽一に本当のことを伝えて、さらに心配させるよりはいいだろうと、平静を装った。


「そっか……」


 ただの疲労と聞いて、陽一は安堵したように大きく息を吐いた。

 その姿に、彼が本当に自分の身を案じてくれていることがわかり、花梨は胸の奥がポカポカと温かくなるのを感じていた。

 自分の症状について、すべてを伝えないことへの罪悪感のようなものが消え去ったわけではないが。


「えっと、じゃあすぐに退院?」

「うん。明日には」

「じゃあ明日から仕事……?」


 恋人の気遣うような視線を申し訳なく思う反面、心地よさを覚えた。


「ううん。今週いっぱい休みくれるって」

「おお! じゃ、じゃあさ……、旅行とか行かない?」

「へ?」


 陽一の意外な提案に、花梨は目を見開く。


「めずらしー! 陽一から旅行って!!」


 ふたりはこれまで何度か旅行に出かけたことはあるが、毎回花梨から提案し、陽一のほうは面倒くさがりながらも了承するという具合だったため、大いに驚いたのだ。


「わ、わるいかよ……」


 陽一がふてくされたように口を尖らせる。


「ううん。嬉しい!! でも、バイトは……?」

「休む」

「……そんな急に休めるの?」

「休めないんなら辞めるさ」

「辞めるってアンタ……あー、それもいいかもね」


 彼女との旅行に行きたいから休む。

 休めないなら辞める。

 なんとも身勝手な言い分ではあるが、花梨は陽一のバイト先に対して、彼をいいようにこき使っているという悪い印象しかなく、辞めたいなら辞めてもらったほうがいいと考えたのだった。


「今夜はごめん……、さすがに休めないけど、明日朝イチで迎えにくるわ」

「うん、待ってるね」


 それから陽一は、出勤ギリギリまで病室にとどまり、ふたりは久々に長話をするのだった。

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