第10話

 翌日からもぐずついた天気が続いたけれど、残暑はぶり返していた。夏日に逆戻りだ。ただ、曇っていて日が照っていない分だけしのぎやすかった。

 その翌日の夜、優子から電話があった。本当は俺の方からかけようと思っていたのだけど、あんな感じで昨日別れたので、なんとなくかけづらかったのだ。

「ごめんなさい」

 最初、優子はそればかりだった。

「うん、いや、ちょっとびっくりしたけど」

 ここでまた「大丈夫だよ」なんて言って、いい人だなんて感動されて泣かれても困るので、正直な気持ちを言うことにした。

「なんか取り乱しちゃって」

「で、どう? 彼氏とはうまくいってる?」

「え、まだ彼氏じゃないよ。今度進学教室で会った時に返事することになってるけど、でも今度の日曜日はうちんとこ文化祭だから進学教室は私休むことになるし、だからその次の週」

「そうそう、文化祭」

「そう、文化祭。券渡しそびれちゃったね。せっかく持ってったのに、持って帰ってくるなんて。で、いつ渡そうか?」

「いつでもいいけど」

「当日は私、軽音部の手伝いすることになってて、いっしょに回ってあげることはできないけど」

 なんだか何事もなかったような、いつもの明るい優子の声に戻っていた。

「じゃあ、明日」

と、優子は言った。

「あ。でも明日は水曜日でこっちは半日だから、できればあさって」

「もう、本当に竹高はずるいんだから」

 口ではそう言いながらも、優子は笑っていた。

「いい?」

「仕方ない。じゃあ、あさっての木曜日ね。三時でいい?」

「うん、OK。船橋?」

「船橋でわざわざ降りて京成の方に来るの大変でしょ。京成の八幡は? そっちの方がお互い通り道じゃない?」

「でも君が途中下車することになるじゃんか?」

「定期だから別にいいし、改札で渡せば歩かなくて済む」

「じゃあ、そうしよう」

「ところで、私、ちょっと気になってることがあって……」

 急に優子の声尾のトーンが低くなった。

 その時である。

 目には見えない靄のような黒い波動が部屋の中で湧いて、俺を襲うように包みこんできた。これはそんな気分になったとかいうような比喩でも文学的表現でもなく、はっきりと目視したわけではないけれど本当に黒い靄が俺に向かってきたのだ。

「この間船橋の公園で会った時、内藤君、途中でお手洗いに行ったでしょ。その時、沖田君って私が昔つき合ってた人と同じクラスだって聞いちゃってね」

 そのことは今朝、登校時の電車の中で裕一郎から聞いていた。俺がトイレに行って三人を待たせている間に、優子は裕一郎にクラスを聞くので答えたら、「え? 山木君といっしょじゃない! 山木君、元気?」と急にハイテンションになって聞いてきたということだった。

「それでね、沖田君があの人のこと知ってるなら、内藤君も知ってるのかなあってふと思ったんだけど」

 俺はなんと答えていいか分からなくなって、言葉もしどろもどろになっていたと思う。

「いや、山木とはそんな親しくないし、ましてや君とのことなんて」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って! 今、山木って言ったよね。私、その人の名前まだ言ってないと思うんだけど」

 しまった!……頭の中が真っ白になった。俺は山木隆夫のことは、知らないことになっていたのだ。

 そう、優子の弟の俊正経由で渡されたあの手紙、かつて昔にもらった記憶の中にある手紙は確かに「俺と会えば会うほど山木のことが忘れられなくてつらいので、俺とはもう会いたくない」というような内容だったと覚えている。でも今は俺と山木のつながりを今の優子は知らないはずだからそのような内容になるはずもなく、もっとソフトなものになっていたし、絶交状なんかでもなくなっていた。だから俺は過去を変えることに成功したと喜んでいたのだ。

「実はね」

 低い声で、ゆっくりと優子は言う。

「さっき、大村君に電話して確認しちゃった。君は大村君と同じクラスで、結構仲がいいってこと。そして去年の私と山木君とのことを大村君を通してあなたは全部知っていて、その上で私に電話して来たんだってこと、おまけにその電話をかける時に、山木君が君に『がんばれよ』とか言ったってこと、全部聞いちゃった」

 最後は涙声になっていた。俺はもうどう答えていいか分からなかった。

「あ、いや別に、あの、その騙していたわけじゃ……」

 いや、騙していたことになるのかな? 言葉が続かない。

「とにかく君は私の過去を全部知っていて、それで全く知らないふりして近づいてきて、卑怯よ。いったい何を考えてるの? 私を君の彼女にでもしようと思ってたの?」

 俺は黙ってしまった。そして逃げた。

「とにかくあさって、会ったときにゆっくりと」 

 それだけ言うと一方的に電話を切った。

 俺はただ、茫然としてしまった。

 電話の前半ではこれまでの明るい優子に戻って、何事もなかったように楽しく会話が弾んでいた。でも、途中から急変した。そう、あの黒い霧のようなものが俺を襲ってきたと感じてからだ。

 そのどす黒い霧のようなものは、今もまだ部屋全体を包んでいる。はっきりと実感できる。

 かつては、本当に17歳だった時には俺と洋や隆夫がつながっていることを隠していなかったから、このような状況は起こり得なかった。それなのに記憶の隅に、やはりこんなことがあったような気がする。優子が電話で怒りだした記憶……詳しくは思い出せない。

 起こり得ないことが今起こって、だけどそれが実際に起こったことだと感じている。つまり、過去を修正したつもりが、結局ものすごい力で押し戻されて本来の過去に戻っている。

 つまりは、歴史を改竄したつもりができなかった。

 ――歴史は改竄を決して赦さない……

 そんな言葉が、黒い霧の中から聞こえてきたような気がした。この霧は、改竄した歴史を元に戻すための力の具現化なのだろうか……。

 そうだ! と、俺は思った。

 受話器を持ったまますぐに番号を押し始めた。

「あ、じゅんくん? 久し振り」

 美緒の声だ。

「最近全然電話くれなくなったから、こっちからかけようと思っていたところなの」

「ごめんごめん。いろいろごたごたしてて」

「え。なんで?」

「俺の友達の話なんだけど、そいつの彼女が自分の友達の、俺とは別の友達だよ、その友達の元カノで」

「ちょっと待って、どうしたの、急に? なんか話ががややこしい」

「ごめん。つまり、友達の元カノとつき合ってる人が、俺の友達にいるんだけど」

「分かった。それで?」

「うん。で、前にも言ったように俺んとこの学校ってすごいマンモス校だから生徒も多くて、同じ学年でも知らない生徒の方が多いから、その友達は彼女にはその元カレのことを面識ないってことにしてたんだ。それが二学期になってからふとしたことでばれちゃって修羅場になってるんだけど」

「ばれたって、その人が自分の彼女さんの元カレと友達だってことが?」

「うん」

「その元カレは知ってたの? その人が自分の元カノとつき合ってるってこと」

「うん、むしろ、がんばれよとか言ってたみたい。そもそもその元カレの方が彼女を途中で嫌になって、こっぴどくふったんだよ」

「それ、まずいね、最悪のパティーンだよね。修羅場にもなるよ」

「やっぱ、自分の元カレの友達とはつき合いたくない?」

「そりゃ嫌だよ、自分の方がふられたんだったりしたらなおさら。しかも、それを隠してたなんて最低。あ、ごめんなさい、じゅんくんのお友達のこと悪く言っちゃって」

「いや、全くそうだよなあって思う」

「あるいは彼女さんは、その元カレが自分をふっておいてその友達に自分を押しつけたって思うかもね」

 言われてみればその通りだ。やはり俺はしくじったと認めるしかない。過去をやり直すつもりがかえって悪化させてしまった。

 さっきは一瞬パニックになったけど、俺はしょせん未来の国からのビジターだから、客観的にあの出来事を見ようと思えばできるはずだった。

 やっぱ俺、大人にはなりきれていなくて、心は17歳だったんだなあ。

「分かった。ありがとう。この話はこれでOK」

「ねえねえねえねえ、それでさあ、やっぱ無理かなあ?」

「え、何が?」

「うちの学校の文化祭。今度の土曜日なんだけど」

 そういえばそんなこと、前にも言ってた気がする。優子の学校と同じ日だ。同じ日って、たまたま同じ曜日配置だから同じ日付だけど、実際はウン十年の年月のひらきがあるんだけど。

「来て、絶対来て。じゅんくんに会いたい。来てくれなきゃ死んじゃう」

「俺だって行きたいよ、美緒に会いたいよ。でもなあ」

「なんで? 新幹線代がないんなら出してあげるから」

「そういう問題じゃないんだけど」

「別の誰かのライブも握手会もアニメのイベントもないよね?」

「うん、ないけど」

「じゃあ、絶対来て、絶対来て、絶対来て! もう、来てくれるって信じてるからね。うち、ずっとつきっきりで案内してあげるから、いっしょに回ろう」

 なんだかこんな話をしていると、まるで行こうと思ったら美緒に会いに行けるような錯覚に陥ってしまう。

「クラスや部活の出しものとかないのかよ」

「あるけど、そんなんブッチするから。ねえ、会いたい! じゅんくんに会いたい!」

 またもや涙声で、でもさっきの優子とはベクトルが正反対の涙声で美緒は懇願した。

「俺も会いたいよ。考えとく」

 そうは言っても、無理なことは分かっている。

 無理でも、今は美緒に会いたかった。どうしても会いたかった。美緒の学校の文化祭にも行きたい。

 優子の学校の文化祭は、どうも気が進まない。ましてやあさって券を受け取ることになっているけれど、あんな感じで一方的に電話を切られたのだからそれも気が進まない。

 そして、その時にどうなるのか、俺はおぼろげながら記憶をたどることができるようになっていた。


 翌日学校で朝、いきなり大村洋に胸倉を掴まれた。

「おまえなあ、北川優子に電話するって言っていながらその結果がどうなったのか全然話がなかっけど、抜け駆けしてつき合ってたっていうじゃねえか」

 洋の鼻息は荒かった。かなり興奮している。周りは何事かと人垣ができはじめたので、俺は冷たくその腕を払った。

「そのうち詳しく話すよ」

「友達がいのないやつだな。おめえとは絶交だ!」

 洋はそれだけ言うと俺を突き飛ばし、人垣をかき分けて自分の席の方へと行ってしまった。

 そうだ。これが歴史の改竄の修正なのだと、俺は思った。

 実は遠い記憶ではもっと前の時点で大村とは絶交していた。それが、優子のことを小村に内緒にしていたおかげで、絶交もなかった。過去が変わっていた。それが今巨大な力で引き戻されようとしている。時期は少しずれたけれど、記憶通りに大村とは絶交するはめになった。

 心配はいらない。記憶では、三年生になったら俺と大村は自然と仲直りするはずだ。


 さらに翌日の木曜日、優子と会う日が来た。ずっと雨や曇り空が続く毎日だったのに、この日は久しぶりに晴れた。だが、それも午前中だけで、午後からはまた曇りがちの天気となった。

 そしてまるで夏が戻ってきたかのように、この数日の中で最高の暑さとなった。

 俺は三時ちょうどに、京成八幡駅の改札に着いた。このころはまだ、駅に隣接して京成百貨店が存在していた。百貨店といっても看板がそうなっているだけで、一階がリブレ京成というスーパー、二階より上はテナントがたくさん入っているって感じだ。

 果たして優子は来るのかどうか、あの電話のことを考えたら来ない可能性の方が高い。

 昨日、確認の電話を入れた方がよかったかもしれないけれど、今はとてもこちらから電話できるような状況ではない。

 でも、歴史は修正されたはず。そうなると、必ず来る。俺の中の記憶通りにことが進むはずであるのなら……。

 京成百貨店の中の階段を上がると、京成八幡の改札口に出る。はっきりいって、この京成百貨店が営業をやめてから、令和になってからのこの駅の改札がどうなっているのかは俺は知らない。まだ京成百貨店があった頃しか行ったことがないのだ。

 改札に、優子の姿はなかった。

 だが、改札の外の券売機の向こうあたりに、緑色の制服がちらほらしているのが見えた。

 優子だ、とすぐにわかった。でも俺がそっちの方を見ていても、優子はこちらに来ようとはせず、もの影に隠れて様子をうかがっているだけだ。

 俺はあえて、優子のいる方に行こうとはしなかった。意地だった。すると優子はさっと俺の後ろを通って、京成百貨店の入り口の方へと移動した。いかにもわざとらしかったけれど、俺は意を決してそっちの方へ行った。優子の行動が、おどけて俺を冗談半分にからかってというような軽いものではないことは察していた。もっとたちが悪い。

「どうしたんだよ。俺、さっきからここにいるんだけど」

「見えなかったの」

 優子はにこりともせずに言った。あの船橋で会った時と同じような波動だ。優子の後ろには、友達だと思える女の子がついている。同じ鴻池の制服を着た、おさげ髪のポチャッとした子だ。

「これ、文化祭の券」

 優子は全くの無表情でそう言って、俺に封筒に入った文化祭入場券を渡した。

「じゃあ、これから用事があるから」

 優子は友達を連れて京成百貨店の中へと入っていった。俺はもう、それ以上は何も言わなかった。あまり気分がいいものではない。

 そのあとは一人で外へ向かう階段を下りて、国鉄の本八幡駅の方へ向かって歩きだした。

 やはりため息が出る。ズボンのポケットにねじ込んだ、先ほど優子からもらった文化祭の券の感触を確かめた。

 こんな文化祭は行きたくないし、はっきりいってもう行ってもしょうがない。捨てようかと一瞬思った。だけれど、道端に捨てるわけにもいかない。

 本当は切実に、美緒の学校の文化祭に行きたいのだ。美緒の学校は県立で共学だから別に入場券なんかいらないという。だからと言って、簡単に行かれるわけがない、俺にとっては。

 まずは遠いということもあるけれど、話はそんなレベルではない。

 もし新幹線で行ったとしても、その学校に美緒はいない。学校にいないどころか、美緒はまだこの世に誕生すらしていない。その学校だって、すでに存在しているのかどうかも分からない。

 ふとしたことでこの時代に来たように、ふとしたことでこの時代から見れば未来の令和の時代、俺にとっては元の時代に戻れたら美緒に会いには行ける。でも……自分でこの言葉を言いたくはないけれど、おっさんの俺に戻ってしまったらのこのこ会いに行くわけにもいかない。どっちにしろ、美緒には会えない……。そう思うと、俺は胸が締め付けられそうになって、泣きたくなってきた。

 そんなことを考えて歩いていると、途中の国道14号と交差する所の信号で赤で止められた。

「あれ?」

 そこで信号を待っていたのは、渋沢星司だった。

「今帰り?」

「うん、ちょっと寄り道してたけど」

 俺は優子のことを星司に話そうとした。

「あのう」

 その時、後ろから明らかに俺を呼ぶ声がした。振り返ってみると、そこにさっき優子といっしょにいた女の子が息を切らして立っていた。走ってこの信号の所まで俺を追いかけてきたのだろう。その子一人で、優子の姿はなかった。

「あのう、差し出がましいようですけど、北川さんが、もう二度と電話しないで下さいとのことです」

「わかった」

 来た来た来た――と思った。この子が来ることは分かっていた。物事が俺の記憶通りに進むのであれば……。

 筋書き通りに優子の友達が追ってきて、優子からの絶交宣言を伝えていった。

「あの、差し出がましいようですけど、北川さんがもう二度と電話しないで下さいとのことです」

「わかった」

 俺の記憶では、この時の俺は優子を憎み、またばかにされた、利用されたと憤慨していた。もちろん今の俺には、そんな感情はない。ただ、冷めていた。それよりも俺は、美緒に会いたい!

 優子の友達はまた走って、京成の駅の方へ戻っていった。

「よく走る子だなあ。よく走って、せいぜいダイエットしたらいいよね」

 俺は笑って、星司に向かって言っていた。令和の時代でそんなこと言うとすぐにセクハラだとか何とか騒がれるけど、この時代ではそんなこと言う人はいない。

 信号が青になる。人が動き出す。

 星司はまだ事情が分からずきょとんとして歩いているので、俺は状況をかいつまんで話した。

「そっか、まあ、元気出せ、元気」

 いつもの星司の得意なフレーズだ。

「レコード屋、行こう。もうすぐ子ねこのファーストアルバムのLPが出るはずだから、情報確かめとこう」

 星司に促され、俺たちは駅の階段を上ると、改札とは反対側のSHAPOの入り口の方へと向かった、入ってすぐ左側がレコード店だ。

 店内にはBGMで、お目当てのLPにも当然収録されるであろう子ねこのデビュー曲の「セーラー服の歌」が流れている。LPはまだあさってリリースだから当然置いてはいないし、フラゲってこの時代にはまだないようだ。ただ、予約だけはできるようだった。

「予約しとこうか」

 俺はそう言ったけれど、星司は笑った。

「別にわざわざ予約しなくても、あさって間違いなく買えるよ」

 確かに予約特典もたいしたことない。

「野音、買えたの? 裕一郎と行くって言ってた、」

 日比谷野外音楽堂の子ねこのライブのことだろう。

「もちろん。あと、二週間とちょっとだなあ」

 そんな話をしていると、向かい側の本屋の方から鴻池女子学院の制服が二人、こっちの方へ歩いてきた。もちろん、見ず知らずの人だ。振り返った星司が何気にその子たちに手を振った。

 星司はひょうきんで、平気でこのようなことをする。俺はただ苦笑していた。ただ、この時ばかりはほんの少し不快感もあった。相手が鴻池ではなく明陽女子大付属とか大正学院の生徒だったら、ここまで不快には思わなかったかもしれない。

「行こうぜ」

 俺はそんな星司をひっぱってSHAPOを出て、国鉄の改札の方へ向かった。

「あのう」

 改札の手前で、後ろから声をかけられた。振り返ると、さっきの鴻池女子の二人組だ。俺たちは立ち止まった。そしてその二人連れのうちの一人の顔を見て、俺は思わず「あっ」と叫びそうになった。

「僕たち?」

 星司は怪訝な顔をして、自分を指差した

「はい。あのう、今、私たちに手、振りませんでしたか?」

「あ、ああ」

 星司がペロッと舌を出した。

「君たちがかわいかったから、つい」

 しょうもないやつだから許してくれと、俺がフォローを入れようとしたその矢先に、女の子たちの方から言った。

「あさって、私たちの学校の学院祭なんですけど、よかったら来てくれませんか?」

「え?」

 この言葉は意外だった。

「あ、俺はどうせ行く予定なんだけど」

 女の子たちにそう言ってから俺は、星司に聞いた。

「星ちゃんは行く?」

「ああ、行ってもいいけど」

 女の子たちの顔がぱっと輝いた。改札の所での立ち話で、改札の駅員に話を聞かれそうだし、通行人の邪魔にもなるので改札の脇に少しどいた。

「あのう、入場券、よかったらあげますけど」

「券は持ってる」

「え? 鴻池につき合ってる人、いるんですか?」

「いや、そんなのいないけど、ちょっとつてがあってね」

 適当にごまかしておいた。そこへ星司が話に割って入った。

「君たち、フレンド、いるの?」

「「「え?」」」

「じゃなくて、ボーイフレンド」

 一同、大笑い。

「いないですよ。だからよかったら来てくれたらなあって思って」

 さっきから超絶可愛い子の方が一人でしゃべっている。もう一人はちょっと後ろにいて、微笑んでうなずいているだけだ。

「何年生ですか?」

「高二だよ。君たちは? 何年何組?」

 クラスまで聞かれて女の子はちょっと戸惑ったようだったけど、すぐに答えてくれた。

「4年3組です」

 4年というのは、俺らの竹川高校でもそういう言い方をするけど、中学校からの通年での言い方で、つまりは高校一年生ということだ。俺達より一つ下である。俺がついクラスまで聞いてしまったのは、もし優子と同じクラスとかだったら面倒だなと思ったからだ。

 幸い、学年も違う。

 もっとも鴻池は竹高のようなマンモス校ではないから、学年が違っても面識があったりするかもしれないけど。

「よかったら、名前」

 星司の問いに女の子は微笑んだ。

「私は今村博子です。こっちが江藤桂子」

「ねえ、立ち話もあれだから、マックでも行かない?」

 星司がさらにのりのりだ。いや、それは校則があるから無理だろうと俺は思っていたら、やはりすぐに博子という子が言った。

「でも、校則がありますから」

 俺はそれについてはよく知っているから、それはそうだと内心うなずいて、そして言った。

「あさって、一時に国鉄竹川駅の改札で待ち合わせでいい?」

「はい」

 嬉しそうに博子はうなずく。

 だがその時俺は、この今村博子という子についてほとんど記憶をよみがえらせていた。てか、さっき呼びとめられて近くでその顔を見た途端に、記憶はよみがえっていた。

 あさっては一応博子たちと会っても、なぜか鴻池に着く前に博子は、自分たちは大学生とつき合ってるとか何とか言って消えてしまうのだ。そして、いっしょに行ったはずの星司も、いつの間にかいなくなる。

 それから、星司と博子がつき合っているのを俺が知るまで一カ月くらいかかっただろうか。

 博子の顔を見てはっとしたのは、次の正月に原宿デートする星司と着物の博子のツーショット写真を、なぜか俺は令和の時代まで持っていた。令和の時代まで残るアルバムに、しっかりと貼ってあった。だから俺は顔を知っているから、最初に博子の顔を見てすぐに未来の星司の彼女になる人だと分かったのだ。

 でも考えてみれば、優子の写真は一枚も残っていない。というより、優子とは一枚も写真を撮っていない。やはり写真が残っているのといないのとでは記憶の残り方も違うようだ。今村博子はすぐにはっきりと思い出したのに優子については最初は記憶もあまり鮮明でなかったのは、そのこともあるのかなと思う。

 ずっと未来の令和の時代なら、あれだけ一緒にあっちこっち行ったのだからスマホで写真を撮りまくっているはずだ。でもこの時、俺はカメラを持っていなかった。カメラがなかったら写真も撮れない。しかも、もし撮ってもフイルムを写真店で現像してもらって焼き増ししてとかなりめんどくさかった。

 さらに、カメラがなくても写真が撮れるレンズ付きフイルム、いわゆる使い捨てカメラもまだなかった。

 そんな話はいいにして、博子たちが去っていったあと星司は大はしゃぎだった。

「やったやったやった!」

 ナンパしたのかされたのかそのへんはよくわからなかったけれど、とにかく星司にとっては何かが始まる。裕一郎も来週の月曜の秋分の日に里見雪子とのデートの約束を取り付けたらしい。

 この時の昔の俺は二日後の未来のことさえ分からなかったのだから、きっと星司といっしょに有頂天になっていただろう。優子を恨んでいた矢先のことだけに「ざまあみろ、優子」とかまじで思っていたかもしれない。

 もしこれがアニメならば、ここが最終回のラストシーンにいちばんふさわしいだろう。これから何が始まるか分からないけれど、何かが始まろうとしている期待感。それはそのまま2期制作への期待感となる。(その期待感が裏切られることもたまにはあるが……)

 でも俺は、当分何も始まらないという未来を知ってしまっている。始まるのは裕一郎と星司だけだ。

 ただ、今の俺には星司も裕一郎も知らない、あるいは彼らには話すこともできない別の存在がある。

 あさっては鴻池の文化祭などに行っている場合ではない。本当に行きたいのは静岡県立静岡総合高校の文化祭だ! そこで美緒に会いたい! そこに齊藤美緒などという生徒は今は…………いや、確実にいる! 確実に静岡県立静岡総合高校は存在していて、あさっては文化祭だ!

 俺はなぜか心の中で叫んでいた。


 その時、またもや紫の靄が現れて俺を包んだ。

 そして俺は、空中から俺を見下ろしていた。

 一瞬、幽体離脱したのかとも思った。だが違う。幽体離脱したのなら、魂が抜けた俺の体はその場に倒れ込んで、いっしょにいた星司をはじめ周りの人が大騒ぎをしているはずだ。

 だが俺が空中から見ているのは、普通に星司と話をしながら改札を通ってホームへの階段の方へ歩いていっている俺だった。

 何がなんだかよくわからないうちに、俺の心をのぞいた秋風がホームの上の方へと飛んで行った。

 ここ数カ月のめまぐるしい事件と、数カ月にわたって吸い続けた昭和の空気をそっと懐かしむように。

 そして俺は目が覚めた。

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