第9話

 それから、二、三日が過ぎた。優子と電話で話すこともなく平穏な日々が続いていた。そして待っていても来ないものは、忘れた頃にやってくるものだ。

「お兄ちゃん、電話。また違う女の人から」

 妹が俺を電話で呼ぶときは、いつもひと言多い。でも、違う女の人っていうならもしかして……。

「もしもし、内藤です」

「あ、あの、私……北川さんの友達で、サトミっていうんですけど」

 いきなり下の名前、言うかな……と、普通なら思っただろう。だが俺はその名前にピンと来た。そうだ、この子だ。記憶通りに電話が来た。……歴史は改竄を赦さない……か。

「実はこの間、北川さんから手紙もらったでしょ。実はあの子、あれ書いたことすごく後悔してて、すっと今日まで落ち込んでて、もう見てらんなくて」

「え? なんで?」

「なんかあの子、あなたのこと、とにかくいい人だいい人だって、こんないい人に会ったことないって。それなのに、あんないい人を傷つけちゃったって」

 ま、いい人…ね。いい人といい男の違いは、俺なら分かっているけど…。俺は「いい人」だけど「いい男」じゃあないんだろうな。

「そっか、俺がいい人かどうかってのは置いといて、やっぱ元カレって忘れたい存在だよね。その元カレと同じ学校の人とはあまり接したくないって気持ち、分かる」

「え? 元カレって元の彼氏って意味ですか?」

 そっか、元カレとか元カノって言葉、この時代ではまだ一般的ではないんだな。

「うん。北川さんが昔つき合っていた人、その人がだれかっていうのは知らないんだけど。たぶん僕の知らない人だろうけど」

 ここは歴史に抗って、嘘を言っておこう。歴史というと大げさだけど……。

「だから電話すればって言ったんだけど、なんかあの子、意地はっちゃって、自分があなたを傷つけといて今さらこっちから電話できないなんて、そんで余計に落ち込んで」

「別に、俺とつき合ってたってわけじゃないのにな、まだ、それに全然傷ついてないし」

 俺はわざと笑いを含むような声で言った。でも一瞬、沈黙があった。

「だから、あの、悪いのはこっちなんだけど、なんだかあの子がかわいそうで、だからあなたから電話してあげてくれませんか?」

「俺から?」

「筋違いってのは分かってるんだけど」

「うん、考えとく」

「いえ、できれば今すぐ。あの子、私がこうしてあなたに電話していること、知らないんです」

「電話するのはかまわないけど」

「北川さんとはもう五年ものつき合いで、いつもけんかばかりしてるけど、でもあの子の気持ちは私がいちばんよく知ってるんです。だから」

「いいけど、なんで俺の番号知ってるの?」

「体育の時、あの子の手帳、見ちゃった」

 個人情報って概念がまだなかった時代だからな。令和の時代だったら、許されないことだよな。

「で、君から電話があったことは、言っていいの?」

「どうせばれるから、言ってもいいです」

 それで、もしこじれたらということで、彼女は自分の電話番号を教えてくれた。

 その後、すぐに俺は優子に電話した。また家族に取り次いでもらうの、いやだなと思っていたら、出た声は明らかに俊正だった。

「あの、実は今、君のお姉さんの友達って人から電話が来て」

 俺が説明を始めたら、俊正はすぐにそれを遮った。

「ちょっと待ってください」

 そしてすぐに、電話は替わった。

「もしもし」

 優子の声だ。

「あ、俺。内藤だけど」

「あら、しばらく」

 なんかあっけらかんとしてる。

「君の友達に里見さんっているでしょ」

「うん、里見ちゃん、いるよ」

「今、その里見さんから電話があってね、なんか君が落ち込んでいるようだから電話してあげてっていわれたんだけど」

「ええーっ、里見ちゃんが? だって、私、ついさっきまで、里見ちゃんといっしょにいたのよ、いっしょに帰ってきたから。でもなんであの子が内藤君の電話番号……」

「なんか体育の時に、手帳見たとか言ってたけど」

「やだ、もう、信じらんない」

 そうは言っても怒っている様子はなく、半分笑い声だった。

「で、なんか落ち込んでたってけど?」

「大丈夫、大丈夫。あの子ったら大げさなんだから」

「だって、あの手紙……」

「あ、もう、ヤだ。忘れて、あの手紙のことは。なんか、あとから、あんな手紙ばかみたいって思ってた。だから気恥ずかしくて電話できなかった」

 なんか里見さんが言っていたこととはずいぶん違う。

「あ、里見ちゃんって名字だからね。里見雪子」

 思わず「知ってる」と言いそうになって、慌てて口をつぐんだ。

「え? そうなんだ。いるよね、そういう人。あの里見公園の里見でしょ。だって、あの里見公園も、戦国時代に里見義実って人が築いたお城があったところだから里見公園っていうんだし」

「え? 内藤君って、日本史得意だったりする?」

 得意なんてレベルじゃないんですけど……

「うん、まあ、日本史は来年だけどね」

 もうすっかりもとの会話だ。

「ねえねえ、里見義実ってあの里見八犬伝に出てきた人でしょ」

「よく知ってるじゃん」

「だって映画見たもん、おととしの角川の。あの里見義実の娘のお姫様がバーンって弓引いて、矢をはなって、『快・感!』って」

「それ、『セーラー服と機関銃』じゃね?」

「ああ、ごっちゃになってる」

 二人で大笑いだ。

「その映画は俺も見たよ。あと、里見八犬伝っていえば幼稚園のころだったけか、テレビで人形劇もやってたよね、『玉梓が怨霊~~』って」

 俺のものまねに優子はきゃっきゃと笑っていた。この人形劇はよく覚えてる。なんか今頃里見で盛り上がっているけど、それにしてもなんで実際に里見公園に行った時にはこの話は全く出なかったんだろう?

「ま、里見八犬伝はいいにして、じゃあ里見ちゃんには一応お礼言っとく。そうそう、どっちみち電話しなきゃなとは思ってたんだけど、再来週の土日、うちの学校の文化祭だけど、来る?」

「行く行く」

「じゃあ、券がないと入れないから、今度あげるね」

「あ、やった。サンキュー」

「いつ渡そうか」

「いつでも」

「やっぱ学校の帰りはまずいし。今度の日曜日はまた進学教室だし。あ、でもその次の日が敬老の日の振替休日で休みよね。その日にしよう」

「OK」

 このころはまだ敬老の日が第二月曜ではなく日付で固定されていて、それが日曜日なので翌月曜が振替休日になっていた。

 とりあえず詳しいことは近くになったらということで、電話は切れた。

 慌ただしい一日だった。カレンダーを見ると、今日は13日の金曜日だった。


 翌日の土曜日の午後、早速優子から電話がかかってきた。

「あのね、今、八幡やわたの図書館のところにいて、で、里見ちゃんもいっしょにいるんだけど」

「うん」

「前に内藤君の友達のえっと、沖田君だっけ、そんな人の話をしてたでしょ、あなたの親友だって。その人、彼女いたりする?」

「いや、今はいないと思うけど、なんで?」

「その人の話したら、なんか里見ちゃんが興味持ったみたいで」

「あ、いいんじゃないかな」

 確かに裕一郎は、ずっと片思いしていた人に最近ふられたばかりだと、会うたびその話を聞かされていた。というか、たしかこういう成り行きになっていったはずだと、俺には微かな記憶があるのだ。

「今、本人に替わるね」

 踏切の音がして、電車が走り去った音が被った。あの葛飾八幡宮の参道を京成の線路が横切る踏切のそばの電話ボックスからかけているようだ。

「もしもし、里見です」

「あ、この間はどうも」

「電話してくれてありがとう」

「いや、こっちの方こそ。で、裕一郎とってことね」

「あ、うん、まあ、その、ああ、なんかうまく言えない」

 俺と優子のことだとあんなに積極的に見ず知らずの俺に電話してきたくせに、自分のことになるとシャイになってしまう……女子にはよくあることだ。

「もしもし」

 声が優子に替わった。優子が受話器を取り上げたのだろう。

「とにかく、そういうことで」

「じゃあ、さあ、裕一郎に聞いておくから、今から帰るの?」

「うん」

「何時頃帰る?」

「一時半くらいかな」

「じゃあ、そのころかける。できれば自分で電話とってね」

「分かった。お願い。あ、里見ちゃんがね、無理やりにっていうのはいやだって。向こうもいいって言ったらにしてだって」

「わかった」

 それから俺はすぐに、裕一郎に電話した。裕一郎も家にいた。

「え? 困るよ。そんなこと急に言われたって。どんな子?」

「俺も会ったことないから分からないけど、声だけはかわいいよ」

「声だけじゃあなあ」

「ま、とにかく会うだけ会ってみれば。今度、俺が北川さんと会う時にいっしょに来てもらって、四人で会おうよ」

「いつ?」

「今度の月曜、敬老の日の振替休日」

「わかった」

 それから一時半を待って、俺は優子に電話した。呼び出し音が一回鳴ったか鳴らないかで、約束通りに本人が出た。

「おかえり」

「ただいま」

 変なやり取りに、優子も笑っていた。

「そんで、裕一郎だけど、とりあえず会うだけ会ってみるって」

「ああ、よかった。で、いつ?」

「ほら、今度文化祭の券くれるときあんじゃん」

「敬老の日?」

「そう。その時一緒にってどう?」

「いいと思う。で、場所なんだけど」

「うん」

「里見ちゃんがあんまりお金ないって言ってたから、船橋で。国鉄の北口に公園あるし」

「本当は鎌倉とか行きたいなって思ってたけど、ま、いっか」

「ごめんなさい」

「八幡の図書館はよく行くの?」

「うん。でも、今日は五分しかいなかった。学校の帰りに寄り道するには家からの連絡で学校の許可がいるんだけど、たいていの所はすぐ許可下りるけど、あの図書館だけはなかなか許可下りなくて」

「え? なんで?」

「竹川高校の生徒がいるからだって」

 俺は苦笑した。嫌われたものだ。そのあと、16日の月曜日、敬老の日の振替休日の午後2時に国鉄船橋駅改札で待ち合わせということで、電話は終わった。


 前日の日曜日は、朝からずっと雨だった。だから心配していたけれど、やはり月曜日の振替休日当日も雨だった。先週の前半はずっといい天気だったのに、後半からは曇りがちだったからそんな気がしていたのだ。いよいよ秋雨前線の季節だ。ただ、暑さもだいぶ和らいで、今日などは半袖では寒いくらいだ。それに昨日は結構本降りだったけれど、今日はパラパラという感じで、根性があれば傘はささずに済む程度だ。

「なんか気が進まないなあ」

 津田沼で待ち合わせて船橋まで行くふた駅の区間で、走る電車のドアにもたれて立つ裕一郎はそんなことをつぶやいた。

「かわいくなかったら責任とってよ」

 そういう裕一郎は、黒のスリムズボンだった。

「まあ、とりあえず会ってみるってことで。その後どうするかは、あとから考えればいいんだから」

「俺、失恋したばかりなんだよ。ふられたての男くらい騙しやすいものはないんだってねってか?」

「そりゃ、“男“じゃなくて“女”だろ」

 裕一郎が有名な歌の歌詞を勝手に改竄するから俺がつっこんでいるうちに、船橋に着いた。

「俺さあ、こんな形で紹介されてつき合うっていうの、好きじゃないんだよね」

 駅のホームの階段を下りながら、裕一郎が言う。

「最初はどうあれ後になったら同じさ。女、女って騒いでたくせに、いざとなったら怖くなったんか?」

「そんなことないけど」

 改札を出て、あたりを見回した。そして優子の姿を見つけ、そっちのほうに歩いていった。隣にいる小柄でツインテールの子が里見雪子らしい。優子は俺たちを見ると、まずは裕一郎に軽く会釈をした。

「行こうか」

 俺にそういう優子の顔は真顔だった。

 そして雪子の手を引っ張って、俺たち二人を残して改札の左の方の北口に向かって歩き出した。

「え?」

 優子の意外な行動に一瞬驚いたが、すぐに裕一郎を促してそれを追った。なんか俺達、まるで無視されてるみたいだ。

「どういうこと?」

 歩きながら小声で、裕一郎が聞いてきた。

「わかんねえ」

 そう言いながらも、とりあえず優子たちの後ろを着いていくしかなかった。

 左には東武鉄道の改札があって、その向こうが東武百貨店の入り口だ。右側は後にそこも東武デパートの1番街になるところだけど、「VIV」という看板が出ていた。なんか「ぶらんで~とTO‐B」とかいうキャッチフレーズもあったような気がするけど、この時もまだ使っているかどうかは分からない。

 北口の外のペデストリアンデッキはまだなかった。ただのバスロータリーがあるだけだ。南口の商業的発展に比べて、北口は落ち着いた住宅街という感じだった。

 雨はやんでいた。それでも、いつまた降りだしてもおかしくないような、どんよりとした空模様だった。

 ロータリーを超えて、イトーヨーカドーの脇を通って五分くらい行くと、小さな公園があった。これが優子の言っていた公園らしい。そこへ着くまで優子と雪子、そして俺と裕一郎は二人ずつ全く別に歩いていたという感じだ。

 公園に入ると、円形の小さな池を中心にした広場があった。池の真ん中には噴水もある。その広場を囲む木々の間から、右の方に児童公園、奥の方には運動広場があるのが見えた。

「座る?」

 振り返って優子が言った。池のそばのベンチに左から裕一郎、俺、雪子、優子の純に座った。

「そういえば、なんで傘なんか持ってんの?」

 取り合えすという感じで、裕一郎が聞いてきた。

「だって、出かけるとき雨降ってたよ。おまえんとこ、降ってなかったんか?」

「降ってなかったよ」

 そこで俺は反対側に座っている雪子に聞いた。

「雨、降ってたよね」

「うん、降ってた」

 雪子はにこりと笑った。確かにその手にもピンク色の傘がある。

「北川さんとこは?」

 だが優子は、俺の問いには表情も変えずに黙って首を横に振るだけだった。

「船橋は降ってなかったのか」

「船橋だけじゃない? 降ってなかったのは」

 雪子が混ぜ返すので、また笑いが起こった。でも、優子だけはその笑いの中に入っていなかった。

 雪子は小柄で、輝くひとみが印象的だった。休日とはいっても昼下がりの公園は人も少なく、曇り空だけが低く淀んでいた。

「ねえ、今日、北川さん、どうしたの?」

 俺は雪子だけに聞こえる小声で、雪子の耳元で囁いた。だがすぐその向こう隣に優子はいるのだから、聞こえるかもしれない、でも、聞こえてもいいと思っていた。

「ちょっとね、いろいろあって大変なのよ」

 雪子がいたずらっぽく言う。明らかに態度がおかしい優子だけれど、この雪子の無邪気さがかなり場を和ませてくれていた。

 ふとその時、ぽつんぽつんと雨が降り出した。雨は大したことなかったけれど、避難するに越したことはない。

喫茶店さてん行こう」

 裕一郎の発案で、四人ともベンチから立ち上がった。駅に着くまで、雨は本降りにはならないでくれた。なにしろ船橋組は傘を持ってきていないのだ。

 北口とは反対の南口は人通りも多く、ファッショナブルな街だ。そのまま京成船橋駅の方へ向かう。こちらも当然ペデストリアンデッキのような感じで駅の向かいの船橋フェイスに直結する立体通路もまだない。そもそも、船橋フェイスなどというショッピングセンター自体がまだ存在してなくて、ただの背の低い雑居ビルがあるだけだ。

 京成船橋駅に向かう車道は駅の脇の踏切の遮断機に遮られ、車が数珠つなぎになっている。その道の左側の歩道を京成の駅の方へ行くと、左手にペコちゃんで有名なケーキ屋があって、その二階が喫茶店だった。名前は「ユーフラテス」だった。裕一郎がそこを勧めたのである。

 テーブルをはさんで四人がけの席で、俺と裕一郎が横に並んで座った。それの向かいは優子ではなく雪子だった。ここでも優子は口数少なかった。

「本当にどうしたんだよ」

 俺は少し不機嫌そうな声で、さらに不機嫌な優子に問いかけたけれど、目をそらされた。俺の前の雪子と俺の隣の裕一郎は、テーブルの上をクロスする形で話がはずんでいる。話の内容は鴻池女子学院の生徒の数とか、俺と夜中に二時間も電話しているなんて他愛のないものだ。優子とは対照的に、雪子は常に笑顔を絶やさずにいた。

 俺は仕方なく、運ばれてきたコーヒーを飲むのに専念するしかなかった。なんだか空気が重い。

 まるで狐につままれた感じだ。

 電話越しではあるけれど里見八犬伝の話で、優子と二人で大いに盛り上がって笑っていたのがつい二日前なのだ。あの時の優子とは、まるで別人じゃないか。

 そうこうしているうちに、俺は頭がくらっとするのを感じ、そして徐々に記憶が戻り始めた。そう、今日というこの日、俺は人生でも特筆すべき体験をする……それは失恋……ちょっと待てよ、と思う。失恋って恋を失うこと……俺、今、恋をしてるのかな……???

 優子って別に、俺の彼女じゃないよな……まだ。

 そうだ。すべてはあの公園で起こった。確かにこの日、公園に行った。さっき言ったあの公園だ。でも、もうすでに公園を後にしてきてしまっている。

 あの公園に戻って、もう一度はっきりさせるべきだ……俺はそう思った。

 外を見ると、雨は降っていないようだ。

「もう出よう」

 ちょうど折よく優子が言ったので、四人で立ち上がった。

 確かにもう雨は降っていなかった。俺たちはまた、国鉄船橋駅の方へ向かった。

 その時、俺は気づいた。あの公園の記憶は微かにあるけれど、国鉄の駅の北口だったとは意外だった。俺はてっきり公園は南口の、しかも京成の駅を通り越したさらに先だと記憶にすりこんでいたのだ。だけれど、平成の時代も終わりころになって、なんとなくグーグルマップでこの公園を検索してみたのだけれど、そんな所にたとえ小さくても公園などないので、この公園の所在地は俺の中でずっと謎だった。

 考えてみれば、この日があの例の公園に行った日……するとさっきの公園が記憶の中の公園……もちろん公園内の景色などは記憶の中にすりこまれてはいないので、この日に初めて行った感覚だった。もちろんこの時代の俺は初めて行ったのだけど。

 公園に着いた。ベンチは先ほどの雨で軽く濡れていたので、木立の中を歩いた。

 今度は俺と裕一郎が前を歩く形だった。

「内藤君」

 不意に後ろから呼ばれた。雪子からだった。

「あの、北川さんが……なんかお話がって」

 来た来た来た、そっか、こうして「あの出来事」は起こったんだ。

 雪子はそれまで通りの笑顔ではあるけれど、俺に対して何か申し訳なさそうな表情を笑顔の中にも浮かべていた。

 そこで、雪子と裕一郎をその場に残して、俺と優子は運動広場の方へと歩いていった。その周囲の道を今日は初めて肩を並べて歩く。

 しばらく黙っていた優子が、意を決したように歩きながら、俺を見ずに前を見たまま口を開いた。

「私、進学教室で、好きな人ができてね」

 そうだそうだ、たしかにそんな話だった。

「それでその人に昨日、つき合ってほしいっていわれて」

「で、答え出したの?」

 優子は少し考えていた。そっしてやはり前を見て歩きながら答えた。

「つき合うよ、断る理由ないもん」

「そっか。それはよかったじゃん」

「え?」

 はっとした顔で、優子は初めて俺を見た。

「いいの?」

「いいも何も、悩みとか相談できる友達だろう? 北川さんがそう言ったんじゃないか、俺のこと」

 優子は歩みを止めた。そして俺の方を向いた。

「それはそうだけど」

「それで今日悩んでたのか?」

「まあ、ほかにも」

 一度優子は目をそむけた。

「私が入りたい大学について、先生がそんな所に入れるわけない、無理だなんて頭ごなしに言うから頭に来て、じゃあそんな大学行きませんなんて先生に怒鳴りつけちゃったりとか」

「そっか。それはあくまで今の時点では無理ってことだから、今後の努力次第ではどうにでもなると思うよ。今受験するわけじゃないからね。短気おこしてその大学あきらめるんじゃなしに、一発合格してその先生の鼻をあかしたれ」

「なんか、進学教室の先生みたい」

 優子はそれを言う時一瞬だけ笑顔を見せた。

 いや、俺、ここでは高校生だけど、本来は塾の室長だったんだよな。進路指導なんてしょっちゅうやってたんだから。

 なんか忘れかけていた過去、いや、未来……どっちなんだ?

 でも優子はまたすぐに、元の真顔に戻った。そしてまた前を見て歩き出した。

「実はね、その人、前に手紙に書いた、私が去年つき合ってた竹川高校の人に似てるの」

 山木隆夫か…なるほどなっていう感じだけど、俺はやつを知らないことになっている。

「あ、そう?」

 だから、そういうふうにしか言えなかった。

「じゃあ、その人も竹川高?」

「ううん、県立F高」

 うわ、公立では県内でも県チバやトーカツについで偏差値高い学校。将来共学になって偏差値がうなぎ上りになる未来の竹川高だったら引けを取らないけれど、この時点での偏差値はそれほどでもなかった竹高では太刀打ちできない。

「そっか。ま、これから何かあったら、いつでも相談乗るよ」

「どうして、そんなことまで言ってくれるの?」

「だって、友達だろ」

「でも、なんかそんな感じじゃなくなってきた気がしてたし、そんな時に私のわがままでこんなことになって、内藤君、怒ると思ってた」

「それで沈んでたのか」

「うん、内藤君の顔見た途端に怖くなって」

「俺、君の頼みだったら何でも聞いてあげるよ。力になるよ」

 なんか、どっかで聞いた歌の歌詞のようなセリフだけど、その時、優子の眼に涙があふれているのを見た。

 その潤んだ涙目のまま、立ち止まって優子は俺を見た。

 その頬に涙の筋が流れた。

 まるで僕が泣かしたように、周りからは……

「内藤君!」

 優子の激しい言葉が、脳内の曲のヘビロテを遮った。

「君はどうしてそんなにいい人なの? こんないい人、今まで会ったことがない」

 涙ながらに叫ぶと、優子はそのまま走りだした。俺は追わなかった。

 そしてその後ろ姿に、笑みさえ浮かべていた。そう、過去はすり変わっている。

 もうほとんど、全く忘却の彼方にあったこの日の出来事の記憶が、俺の中では甦っていた。

 俺が本当に17歳だった時のこの日……俺は優子をもう自分の彼女だと思っていただけに、優子の突然の心変わりを責めた。

 優子が大学進学のことで悩んでいると言った時も、「そんなことはどうでもいい」と突っぱねた。

「俺のことはどうなるんだよ!」

「もうやめよう。さっぱりしよう」

 優子の最後の言葉がはっきりとよみがえる。この言葉がこの公園で、俺の心に突き刺さった。そしてすべてが破局を迎えたのだった。

 今、俺はその言葉を優子から聞くことはなかった。

 歴史は改竄されたのか……

 そんなことを考えながら、俺は裕一郎と雪子を待たせている所まで一人で戻った。

「あれ、北川さんは?」

 裕一郎がのんきに聞く。

「大丈夫。あの人は大丈夫」

 俺はむしろ、雪子にそう言っていた。雪子はもうすでにすべてを悟っているかのように、微笑んでうなずいた。

 俺は、さっきの出来事をかいつまんで話した。

「ねえ、内藤君ってなんかすごい大人って気がする。同じ高二とは思えない」

けてんだろ」

 裕一郎がまぜっかえすけれど、雪子は首を横に振った。

「そういうことじゃなくって、いい意味で」

 俺は内心冷や汗だった。俺は心は17歳と豪語していたけれど、逆に本当の17歳になったら大人の部分がにじみ出てしまっていたのだろうか……。それは修正しなくては。

「行こうか」

 三人で、公園をあとに駅の方へ歩き出した。

 雪子は京成で帰ろうと誘ってくれたけれど、俺たちは国鉄で帰ることにした。国鉄だと通学定期があるから、切符を買わずに済む。

 津田沼までのふた駅の区間で、裕一郎は言った。

「君が言ってたほどかわいくないよ、北川って子」

 二人してドアの近くに立っている。

「なんか冷たい感じがするね。あんな子、君には似合わないよ」

「だから、今回は事情があったんだって」

「もう一人の里見って子の方がよっぽどまぶいじゃん」

「だろ、つきあってみれば」

「実は電話番号もらったんだけど。俺も教えた」

「じゃあ、かかってくるよ。がんばれよ」

「まあ、もしそうなったらつきあってみようかなとも思うけど、なんか気が進まないなあ」

 そんなことを言っているうちに、津田沼に着いた。その時俺は、あることを思い出した。

 今日優子と会ったのはそもそも、鴻池の文化祭の券をもらうためだったはずだ。それがいろいろとあり過ぎて、結局券はもらいそびれていた。

 裕一郎が降りた後、そのことに気付いた俺は一人で苦笑していた。

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