第6話
日曜日、朝は曇っていたけれど、予報では昼から晴れて暑くなるとのことだった。
本当ならこの日が終業式の日なのだけど、日曜日だったら昨日の土曜日が終業式になった。つまりこの日は、夏休みの一日目である。
ちなみに今年は九月一日も日曜日で始業式は二日からだっていうから、夏休みを二日も得したとみんな騒いでいた。
優子はこの日、新小岩駅の改札口で友達と会って渡すものがあるとかで、待ち合わせは新小岩駅の快速のホームのいちばん東京寄りだった。前に洋が松下昭子と待ち合わせて会えなかった場所だ。だから、その友達というのは松下昭子かなとも思うが、今はもうそんな人は関係ない。洋とのつながりもまた全くなくなったようだ。
ホームの外れの柱に寄りかかって待っていた俺の隣に、優子は約束の時間の十一時よりも二分遅れて笑顔で現れた。私服は初めてだ。白いTシャツをタックインして赤いチェックの膝上くらいのスカートだった。俺は青いカットシャツをアウトにしたデニム――このころはまだジーパンといっていた――だった。平成末期や令和の時代で、男性でデニムはいてるのはたいてい中高年だけど、このころはジーンズは若者のユニフォームとかいわれてたんだ。
「ごめん、遅くなって」
「うん、遅刻」
俺はおどけて言った。これが最初の会話だった。電車はなかなか来なかった。
「さっき改札で会ってた友達からお茶しに行こうって誘われて、どうやって断ろうか困っちゃった」
「これから俺と遊びに行くことは?」
「言うわけないじゃん」
いたずらっぽく笑った目がかわいい。
やがて、快速電車が来た。混んでいて座れなかった。東京駅で降りて地上ホームに昇り、山の手線で有楽町に向かった。今日優子と会うことも洋には内緒だが、裕一郎には話していた。そこで裕一郎が勧めてくれたのが、銀座のソニービルだった。
優子も、東京に来たらまず有楽町にいつも行くといっていたので、行き先はすぐに決まった。
有楽町駅では、精算窓口で通学定期を見せて乗り越し料金を払い、精算券をもらってそれを改札の駅員に渡す。なんともまあめんどくさい手続きだ。
日曜日だけあって、人出は多かった。着くころには晴れてきて、夏の太陽が容赦なく町に降り注いでいた。
カップルも多い。この時代に来るまではいいかげんカップルを見ても嫉妬などすることはなくなっていたけれど、やはり高校生のカップルにはうらやましさを覚えてた。もう俺は二度と女子高生とデートすることなんてあり得ないと思っていたから。
でも今、それがあり得ている。
今は自分も堂々と高校生カップルなのだ。このころはカップじゃなく、アベックとかいっていたっけ。とにかく、二度と行くことのないと思っていた船橋の西武デパートに再び足を踏み入れることができた時のうれしさの比じゃない。
有楽町の駅を出たところにデーンと鎮座している有楽町マリオンは、まだ半分しか開業していないようだった。あとの半分はまだ工事中だ。
「有楽町マリオンって、いつできたんだったっけ」
東京にはあまり来ないと言ってあるから、それを知らなくてもおかしくはない。
「去年できたばかりよ。まだ一年たっていないんじゃない? ずっとそれまでここは工事中だったから」
優子の方がよく知っている。
そのまま数寄屋橋の交差点を渡って、まずは数寄屋橋阪急の中にある京都の文之助茶屋に行った。これは俺が昔そんなのがここにあったのを覚えていたからだ。未来では、この数寄屋橋阪急さえなくなっている。
そしてその向かいにあるソニービルに行った。ここだけは昔も今もほとんど変わりがない。裕一郎は俺がソニービル初めてだと思っているので、まずエレベーターで最上階へいきなり行って、それからワンフロアずつ階段で降りていくようになどとアドバイスをくれていた。たしかに表向きは初めてということになっているので神妙に聞いていたけど、本当はソニービルなんてもう飽きるほど行っている。でも、全部この時点からは未来のことだ。
優子はいろいろおもしろがってはしゃいでいたけれど、俺にしてみれば展示されている製品が古いなあって感じだ。もちろん、そんなことは言わないけど。
昔、本当に17歳だった頃の俺ならいざ知らず、未来の記憶をそのまま持って17歳になった今の俺なら、若い女の子とのデートも場数を踏んでいる。でも、とにかくあまりにも久しぶり過ぎてどうも勝手を思い出せない。でも職業柄日常的に女子高校生と接してきた俺だから、普通のおじさんがこんな状況になったのとはだいぶ違うと思う。
外に出て、また有楽町マリオンを見上げてみる。
「あのマリオンの上の方に、映画館がたくさん入ってるんだけど」
なんか誘うような優子の言葉に、俺もマリオンを見上げた、
「映画、好きなの?」
「うん。ちょっと見てみよう」
俺たちはマリオンの二つの建物の真ん中の、吹き抜けになっているセンターモールまで戻った。そこに行けば、上の階に上がらなくても各映画館で上映している映画は分かる。
俺は「銀河鉄道の夜」や「ルパン三世・バビロンの黄金伝説」とか目にとまったけれど、優子は興味がないようだった。
「銀河鉄道の夜って、宮沢賢治のでしょ?」
「そう。
「それにしても登場人物がなんでみんな猫なの?」
チケット売り場の上の巨大なポスターを見て、優子がつぶやいた。
「なんでだろうね?」
「なだかあんまりいいのやっていないね」
そしてそのひと言で、映画はボツ。なんだか言うことがころころ変わるけど、それがまたかわいい。
とりあえず外へ出た。映画がらみで、俺は話題を振った。
「歌手とか俳優では誰が好きなの?」
「網代新次」
即答だった。
「え? なんでそんなおっさん?」
実に意外な答えに俺は驚いた。
「ふつうあまがき隊とか田丸俊之とか」
「だって網代新次が好きなんだもの」
俺にとってはもう亡くなった人ってイメージがあったけれど、この時は何歳なんだ? 五十前後かな?
「内藤君は?」
間違ってもMCZやHNZ46なんて言えない。ま、言っても誰それ?で終わるだろうけど。
「きゅんきゅん」
だから、一応そう言っておいた。
「え? じゃあ、『少女に起こったこと』、見てたよね」
こっちが内心「え?」だった。なんだそれ?
でも、なんだかきゅんきゅん推しだったら見てて当然って口ぶりだから、知らないなんて言ったらぼろが出るかなあ。
「んん、まあ」
「私あれに出てたのよ、通行人で」
「ええ? まじ? ちょーすげえ」
「えええ? 今なんて?」
また言っちゃった。
「いやいや、本当? すごい」
「お母さんが紹介してくれてね。空港のシーンでほんのちょっと、瞬間しか映らなかったけど」
どんなドラマだろうと思い出そうとするけれど、まずい、忘却の彼方だ。ただ、優子は「見てる?」じゃなく「見てた?」って聞いたから、もう放送は終わってるんじゃないかな。
「きゅんきゅんに会った?」
「それも瞬間。空港内をうろうろしているところを、きゅんきゅんが歩いてただけだし、私がいた所からは遠かったから顔もよく見えなかった」
「そうか」
「あの、『薄汚ねえシンデレラ』っていうあのシーンだったらよかったけど」
あ、そっか! やっと思い出した! あの縦縞スーツの刑事が「薄汚ねえシンデレラ!」って言うあの臭いドラマか……。なんかそのシーンだけ思い出した。そっか、きゅんきゅんのドラマなら、俺が見ていなわけがなかった。でもやっぱ「薄汚ねえシンデレラ」以外は、よく覚えていない。
「あと、最近は子ねこクラブもチェックしてる」
これ以上そのドラマの話すると、覚えていないことでまたぼろが出そうだから話題を変えた。
「えー? なんか変なえっちな曲出した子たちでしょ」
「そんなでもないよ」
「まあ、男の子はみんな好きよねえ。そうそう、この間なんか催し物が中止になったんでしょ」
「え? 何それ?」
なぜか俺よりもむしろ優子の方がよく知ってたりする。
「なんかすごく人が集まり過ぎて、危ないってことで」
「どこで?」
「池袋のサンシャインだったかな。知らないけど」
スマホもネットもないのに、そういう情報はどうやって手に入れるんだ? 優子も、そしてそのリリイベかな?そのイベントに想定外に押し寄せたって人たちも。
謎である。
それなりに情報網や媒体もあって、ちゃんとみんなチェックしているんだろう。俺なんかは完全にネットに頼り過ぎだったってことだな。
この時代の人たちはそんなものなくても、それなりに情報を仕入れているようだ。スマホもパソコンもなくなって手足をもぎ取られたように身動きが出来なくなっている情報難民は俺だけか……。
そんなことを話しながら歩いていたけれど、俺たちには決まった行き先はない。
「原宿行こうか」
俺は思い付きで言った。
「おまかせしまーす」
優子はにっこりと笑った。
そのまま四丁目の交差点まで歩いて地下に潜り、やたら車体が古い黄色一色の銀座線で、ドアの近くに立っていた。なんと全部の駅で、駅に着く直前に一瞬車内の電気が消えるのには驚いたけれど、そういえば昔はこうだったと俺は思い出した。
「ねえ、男同士で交換日記とかしている人、いる?」
いきなり真顔で、優子は聞いてきた。
「いるよ。どうして?」
「嘘! 私も今下級生から交換日記をしてくれって言われて困ってるんだけど」
俺はちょっと不思議だった。
「なんで困るの? してあげればいいじゃん」
「だって、その子、普通じゃないんだもの。なんか変な趣味持ってるって感じで、私のこともそんな目で見てるみたいだし」
ああ――俺はすぐにピンと来た。百合の
「もう、気持ち悪い」
でも、少なくとも優子は嫌がっている。
「なんで? いいじゃん」
「え? 先生に見つかったらどうすんのよ」
「なんでなんで? 俺んとこなんて、国語の先生がクラスの友達同士で交換日記やれって言ったよ」
「変な学校」
それって変なのかどうか、考えたら頭がこんがらがりそうだったので話題を変えた。
「そういえば君ってさ、小学生のころに誘拐されそうになったことがあるって甲介が言ってたけど」
「やだあ、もう、そんなことまでしゃべったの? たしかに、ちっちゃい頃の私は人懐っこくて、誰の後にもついて行っちゃってたから」
「それってまじやばくね?」
「へ? なんか内藤君って時々わけのわからない言葉言う」
また、しでかした。
優子が小首をかしげたところで、地下鉄は表参道駅に着いた。
地上に出ると、ムッとした熱気が俺たちを包んだ。原宿駅までずっと表参道は欅の街路樹が続いている。そして延々二キロ以上続く歩行者天国で、上下二車線四車道の大通りも車は入れず、道いっぱいカラフルなファッションで埋め尽くされていた。この暑さにもかかわらず、ものすごい人出だった。
その中に混じって地元の人もいて、飼い犬を散歩させていたりするけど、その犬がまるでたぬきだったので、優子と二人で飼い主に気付かれないように指さして笑っていたりした。
「あのね、私の友達であだ名がバケダヌキって子がいてね、その子の家で飼ってる犬がまたたぬきそっくりだから笑っちゃう」
「まじ?」
笑いながらそう言って、言ってからまた言っちゃったと思う。でも、優子はつっこんでこなかった。
「その子といっしょに東京に来たら、デパートの化粧品売り場とかで自分の指に全部違う色のサンプルのマニキュアとか塗って遊んだりしてるのよ」
「それでどうするの?」
「もちろん、店員さんににらまれた(笑)。もうそんなことばかりしてるんだから、私たち」
それってもしかして松下昭子って子かな? 違うかな? わからない。
それより、もう午後の遅い時間になっているけれど、昼食がまだだった。
「ねえ、おなか減ったでしょ」
「うん」
「よく行くお店があるんだけど、いい?」
「いいよ」
実は船橋の西武デパートのように、もう二度と行かれないはずだった店がこの原宿にはある。大好きだったその店に、今なら行かれるはずだ。
原宿駅もだいぶ近くなって、歩行者天国だから当然誰も渡っていない歩道橋の下をくぐり、左手にキディーランドが見えると、車道から左側の歩道に上がった。
原宿はすいすい歩ける。実は元いた時代ではほとんど原宿なんか行くことはなくなっていたので、むしろ令和の時代の原宿の方がよく知らない。俺にとってはこの時代の原宿の方が詳しい。
やがてカフェ・ド・ロペという看板のある、パリとかにありそうな屋外の喫茶店があって、客はほとんど白人の外国人だった。そこの脇から細い路地へと曲がった。
懐かしい……この路地がペニーレイン・アベニューだ。その路地を入って五十メートルほど行くと丁字路にぶつかるが、その手前の右側の角に赤レンガの店がある。通りに面して大きく窓が設けられていた。
赤レンガといっても普通の鉄筋コンクリートのビルに赤レンガのタイルを張っただけだろうけど、入り口の上に小さな看板が出ていて、黒字に白い文字で「Café terrace」とある下にやはり白の大きい字で「PENNY LANE」と書かれている。
未来にはここは餃子屋さんになってしまう。もう二度と行かれないと恋い焦がれながらもあきらめていた店が、今現実のものとして目の前にある。
もっとも平成も終わりのころにその餃子屋さんの隣にペニーレインが復活したという話は聞いたことがあったけれど、行ってみたことはなかった。それよりも、普通にペニーレインにかなり久しぶりに行こうと思って行ったら餃子屋さんになっていた時の衝撃は、はっきりと覚えている。
俺は優子とともに、その幻のペニーレインのドアを押した。中も記憶通りだった。
カウンターではなく、テーブル席に座った。店内に流れるBGMは記憶通り、ビートルズのナンバーばかりだった。ちょうど今、「Something」に変わったところだ。
「ここ、よく来るの?」
優子がきょろきょろしながら尋ねた。
「うん。結構入り浸ってる」
入り浸ってた…が本当は正解なんだけど。
だいぶ待たされてから、二人とも注文していたカニピラフが来た。
相席にはこだわらないのがこの店の風習だった、たしか。その記憶通り、六人がけのテーブルには俺たちの隣に若い男が二人腰掛けてきた。二人ともたばこをくゆらせている。まだたばこがおおっぴらに市民権を得ていた時代なんだ。そういえば駅のホームにも柱ごとに小さな灰皿があって、朝夕の一定の禁煙タイムのほかは、みんな自由にホームのあちこちでたばこ吸ってるよなあ。
とりあえず食事をすると、外に出た。
「もう、隣の人のたばこで、頭がくらくらした」
やっぱり思った通りだった。優子の顔にもろに煙がいっていた。
「うちでもね、お父さんがたばこ吸い始めたら、やめるまで睨みつけてやるんだ」
表参道に出る直前の例の屋外喫茶店を、俺は指さした。
「こっちの方がよかった?」
「え、やだ」
「食い意地はってるところ、みんなに見られるから?」
「そんなんじゃないよ、やあねえ、もう」
そう言いながらも優子は笑って、なんだか楽しそうだ。それから少し戻って入ったキディーランドでは、優子は一人ではしゃぎまわっていた。
「ねえねえ、見て見て、かわいい!」
女の子向けのアクセサリーや小物でいっぱいの店内で、優子は俺の腕を引っ張ってかわいい人形売り場に連れていく。それが、俺と優子が触れ合った最初だった。でも、それはほんの一瞬だった。優子が明るくはしゃぎまわるのを見ているのは本当に楽しく、こっちまでハッピーオーラに包まれてくる。
そこを出てから時計を見ても、まだ帰るには早い時間だった。
「新宿御苑、行こうか」
全くの思い付きで、俺は言った。
「うん、いいよ」
そのまま、国鉄原宿駅の方へ向かって歩いた。駅前には、これも未来にはなくなる大きな歩道橋があった。歩行者天国は代々木公園の方まで続いているので別に歩道橋を渡る必要はなかったのだけど、懐かしさのあまりに俺は昇ってしまった。優子も、何のつっこみも言わずについてきた。
代々木公園の方が騒がしい。音楽や盛り上がっている歓声が聞こえる。
その騒ぎの元が神宮橋の上の方まではみ出してきているので、俺には何の騒ぎかすぐに分かったというか、思い出した。
そうだ、今はロックンローラー族全盛期なのだ。ジーンズにリーゼントのローラー、女の子は色とりどりの50年代ファッションで、音楽に合わせて踊り狂っている。それがおびただしい数だ。また、それを見物している群衆も重なって、すごい混雑になっていた。
俺たちはその喧騒を背に、国鉄原宿駅の方へ歩道橋の階段を下りた。
原宿駅は今も未来も全く変わっていない。また面倒なことに券売機でいちいち現金で切符を買わなければならなかった。それが長蛇の列だった。そして、人ごみに押されつつ、改札口で駅員に切符を切ってもらって中に入った。
原宿駅のホームも、昔も今も何も変わっていない。ただ、ここでもたばこを吸っている人がいる。原宿駅は他の駅に先駆けてわりと早くから全面禁煙になったという記憶があるけれど、この時点ではまだのようだ。
やがてステンレスに緑のラインではなく、完全に全身(?)がウグイス色の山手線の電車が入ってきた。ラッキーなことに冷房車だった。
新宿は原宿と違って雑然としていた。新宿御苑は、国鉄新宿駅からだとかなり歩く。ここでも「笑っているとも」で有名なアルタ前から東に向かう大きな通りは歩行者天国になっていた。
途中右手に新宿三越を見て、左手に伊勢丹を通り過ぎると。明治通りとの交差点となる。時計を見ると、もう三時だ。
「入園、四時までじゃなかったかな。急ごう」
はっきりとした閉演時間は、現地に行かないと分からない。やはりこういう時に、切実にスマホがほしかったりする。
途中、伊勢丹にその館内の美術館で誰かの陶磁展と、次期はスーパーリアリズム展がやるみたいな垂れ幕が下がっていた。俺はそれをちらりと見た。
「美術とか、興味ある?」
優子が聞いてきたので、俺はうなずいた。
「絵はほんの少し好きだったりするけど。でも、陶磁展はパスだな。時間もないし」
「そうね。私、大好きな画家がいて、その人の展覧会だったら行きたかったけど」
「え? 誰? 有名な人?」
「昔の人だけど、ロートレック」
「ああ、いいね」
「知ってるの?」
「もちろん」
とはいっても、この時本当に17歳だった昔の俺だったら多分知らなかっただろう。今でもよく知っている訳ではない。
「詳しくはないけど」
「今度見てみて。すごくいいよ。ロートレック」
「分かった」
やがて、新宿御苑の新宿門が見えてきた。駅から十五分くらい歩いた。
中に入ると喧騒から逃れた別世界だった。
俺はちょっと歩いただけで、大きな池やそのほとりの簡単な屋根のある休憩所とか、ものすごい既視感を覚えた。新宿御苑など行ったことはないはずだった。だが、風景に見覚えがある。やはりずっと昔の、17歳だった時にこうして優子と来たのだろうか。覚えてないけど。
そもそも今日優子とともに訪れた場所は本当に昔優子と来た場所なのかどうか、記憶は全くない。ただ、今まで行った所は未来の自分にとっても何回も行ったこともあるなじみの場所だったので、今昔の風景の変遷にばかり気を取られていた。
それが今、行ったこともないはずの新宿御苑に懐かしさを覚えるのだから、やはり今回のコースは実際に17歳だった時に優子と行ったのと同じ場所だった可能性は高い。
ただ、その感覚に水をさすように、歩きながら気がついたことがある。
この風景の既視感は、あるアニメで見た光景だったのではないだろうかということである。
平成の終わりごろ、つまり俺がこの時代に来る前にいた時代から五年以上前に劇場アニメとして見たある作品が、この新宿御苑と思われる庭園をメインの舞台としていた。その時の記憶も混ざっているのかもしれない。そうなると俺は、自分の過去を旅しているだけでなく、そのアニメの聖地巡礼をもしていることになる。
ただ、この日はこの庭園内を歩いているのは、やたらカップルばかりだった。俺たちも今は、その中のひと組である。
でも本当にカップルなのかというと、優子が前に電話で言っていたが気になる。やはり優子は俺のことを、友達としてしか見ていないのではないかと思う。
今日、優子と東京まで来たことは、果たしてデートなのだろうか……??? あるいは、今日は優子にとってトライアルなのかもしれない。あるいは、友達以上になる気は全くないのか……これからも様子を見ていくしかないだろう。って、やっぱ俺、中身は17歳で、今は中外全部17歳だって思ってたけど、客観的に落ち着いて物事を見ることもできるんだなあ。実はこの間までおっさんだったからとは絶対に思いたくないけど。
池に面したベンチに並んで座った。すぐに優子は自分のかばんをごそごそ探りだした。
「これ、よかったら」
優子がとりだしたのは、茶色い紙袋だった。
「キャンデー。私が作ったの」
「ええ? 手作り? サンキュー」
中をのぞいてみると、オブラートにくるまった赤く四角いキャンデーがいくつか入っていた。
「器用なんだね。今度、作り方教えて」
「え? 内藤君が作るの?」
「いけませんかぁ?」
「いや、いけなかないけど」
優子はくすっと笑った。そっか、俺が料理の腕を極めてプロ級の域に達するのはまだ四年くらい未来のことなんだ。
「夏休みはどうするの?」
優子が聞いてきた。
「うん。バイトして、ちょっと京都にでも旅行に行って、そんなとこかな」
「ええ? 京都? いいなあ。私は、進学教室の夏期講習に通う。昨日の一学期の通知表も悲惨だったし」
「悲惨だったのは俺も同じだよ」
俺はそう言って笑ったけれど、悲惨だったのは予想通りすべて赤点だった数学と物理、化学だけ。国語は現国も古文も漢文も、間違いなく満点だった。
俺の学校は期末試験は返却されない。昔はそれが普通だと思っていたけど、そんなことはかなり特殊なんだということを後になって俺は知った。
それはいいにして、担任が国語科なので他の用で職員室に行った時に呼びとめられて、国語科の科目がすべて満点だったことを告げられ、担任もかなり驚いていた。
「勉強の話は、暗くなるからやめよう」
優子が笑って言った。気がつけばもう、閉園の時間も近そうだった。
帰りの丸ノ内線の中では、優子は口数少なかった。目こそ開いていたけれど、眠そうだった。まさしく寝ぼけ
「疲れた?」
「うん」
こっくりと優子はうなずく。
「だって、歩くんだもん」
「ごめん」
「次は映画よ」
「わかった」
何も考えずにさらりと返事をしてから、俺はふと「え?」という感じになった。優子は次に会う時のことを約束している。つまり、また俺と会って、しかも今度は映画というふうにデートの内容まで決めてきた。やっぱ今日のはデートなんだろうか……もちろん、経験豊富な俺がそんなことで悩んだりはしないけど、少なくとも優子はどう思っているのかということが気になる。
東京駅で総武線快速に乗り換えて、船橋に向かう。
「ねえねえ、京都に行くって言ってたけど、一人で行くの?」
思いついたように、優子がつぶやいた。
「うん、そうだよ」
「え? 嘘みたい。やっぱ男の子ね」
「大丈夫。ちゃんと生きて帰ってくるから(笑)」
「ホントよ。気をつけて言ってきてね。死んじゃいやよ」
俺はただ笑っていた。
「今日は楽しかった」
間もなく船橋って時に、優子の方からそう言ってくれた。
「でも、疲れたね」
「大丈夫」
そして船橋に着いた。
「じゃあ、またね」
優子はそう言って、降りていった。
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