第5話
四日後の木曜日、もう6月も終わりに近いというのにまだ上着なしでは寒いかもしれない。昨日は少し暑かったけれど、今日は梅雨寒に逆戻りだ。
昼過ぎから降っていた雨は、六時間目の体育が終わって体育館を出た時はやんでいた。だけど空は依然として曇っている。
体育館から校舎へは、ウォークトップになっているグランドの隅を通る。そこに山木隆夫がいるのを俺は見た。
隆夫も俺を見つけると、愛想よく笑って近づいてきた。たしかにこいつ、イケメンだ。
「今日電話するんだろ、がんばれよ」
実は俺と隆夫が口をきいたのは、これが初めてだった。俺と洋はクラスメートだし、その洋と隆夫は前からの友達のようだったけど、俺と隆夫は顔と名前を知っている程度だった。なにしろ三千人も生徒がいるマンモス校だから、たとえ同学年でも知らない生徒の方が圧倒的に多い。
そんな隆夫との初めての会話がこれだった。今日俺が北川優子に電話する決心をしていることは、洋から聞いたのだろう。
自分の元カノにコクろうとしている存在を隆夫は疎ましく思うんじゃないかと思っていただけに、この隆夫のひと言で肩の荷が下りた。もっとも優子は隆夫の方からふったのだし、隆夫は優子をうざがっているというからそんな心配はいらないとも思っていたけど、これですっきりした。
「ありがとう」
俺もにっこり笑って返した。
今日の朝まで俺はためらっていたけれど、洋が言った一言……
「今日電話しなかったら一生後悔するぞ」
この言葉で決心がついた……てか、はっきりいってここで俺が北川優子にコクるのは筋書き通りで、その後をどう「やり直す」かにかかっているのだ。
「本当に北川さんの方も、山木のことをもう何とも思っていないんだな」
俺は洋に念を押してみた。
「だから、今日電話してみれば分かるって」
ただ、「やり直す」にしても自分の記憶の中の状況があいまいなので、何をどうしたらいいかもよく分からない。ただ、彼女とのなりゆきは、やはり山木の存在がネックだったような気がする。
今日、優子に電話することになったきっかけは、例の永原甲介と昨日会話していて、北川優子はあまり勧められないけれどどうしてもというのなら協力してやると、彼が言ってくれたことだった。
甲介といっしょに学校を出て、二人で国鉄船橋駅で降りた。ここが甲介と、そして優子の家の最寄り駅だ。
「やめんなら今のうちだゾ」
また甲介はそんなことを言ってる。でも、そういうわけにもいかない事情が俺にはあった。
そのまま、京成船橋駅の方へ行く。国鉄の船橋駅はすでに高架の駅だったけど、京成線はまだ地面を走っていて、京成船橋駅も地面の駅だった。駅を出たところには後に高架線で跨いでしまうことになる道に踏切があって、俺と甲介はその踏切を渡ってすぐの道を駅とは反対側の左に折れた。道は線路沿いに続く。もう船橋の賑やかな街は終わり、閑静な住宅街だ。
甲介の家はこの近くの小学校の正門の前で、優子の家はその二、三軒隣の古道具屋だそうだ。その甲介の家に向かう途中で、手ごろな公衆電話を見つけた。ボックスではなく簡易型の台に入っている。
まずは甲介が電話をしてくれる手はずになっている。俺がテレカを提供して、甲介がプッシュボタンを押す。俺はその隣で、優子が家にいてくれることを祈っていた。家にいないと電話で話もできないなんて、ほんと不便な時代だ。
こういった状況では、本当なら俺はものすごく緊張していただろう。数々の経験をこなしてきた今の俺でさえ、胸が熱くなってときめきはじめたりしている。
「あ、もしもし、永原ですけど」
この口調では、電話には親が出たんだな。つくづく不便な時代。
「はい、甲介です。どうも、はい、元気です」
ご近所だけあって、甲介は優子の親とも親しいようだ。
「ところで、優子ちゃんはご在宅ですか?」
なんかやけに丁寧な言葉を使う。そもそも在宅なんて聞くと、俺は現場に行かない在宅オタクのことを考えてしまうケド。
「はい、お願いします」
どうやら、いたようだ。
「あ、俺。そうそうそう……しばらく。……あ、いや……え。ホント? ……あ、それでさ、いや、クラス会のことじゃないんだ」
相手が出たようだけどなんだか甲介が親しげに話しこんでいるから、隣にいる俺は手持ち無沙汰だ。
「実はね、突然なんだけど、俺の友達でなんか君のこと見かけたってやつがいて、ぜひつき合いたいって言っているんだ」
また露骨な、ストレートな表現だなと思う。自分がコクるんだったら、こんなはっきりとした言い方はしないよな。
「うん、そう。もちろん竹高だよ。今、隣にいる。電車の中かなんかで見かけたんじゃない? で、大村…」
まずい、と俺は思った。慌てて甲介の上で引いて、目配せして首を小さく横に振った。
「あ、いや何でもない。なんかいろいろと問いただされているうちに、俺の小学校の時のクラスメートの優子ちゃんじゃないかと思って、写真見せたらそうだってことになったんだよ」
とっさに甲介は何かを察して、すぐに話を作ってくれた。いや、実にありがたい!
全くもって事前の打ち合わせ不足だった。恐らく昔に、実際に甲介はここで洋の名前を出したのだろう。でも今は、俺と洋は知り合いではないことにしておいた方がいい。洋と知り合いだと、自動的に隆夫とも知り合いだと思われる。
そんな事情は甲介は知らないはずなのに、機転がきくやつで本当によかった。
「うん……うん……あ、そう? で、今つき合っている人とかは?」
相手の返事が聞こえないのはどうももどかしい。
「あ、そう。じゃあ、本人と替わるね」
甲介は緑色の受話器をこっちにさし出した。
「つき合ってる人、いないってよ」
もちろん、相手には聞こえないような小声だ。俺は受話器を受け取った。
「もしもし」
「あ、はい。こんにちは」
明るい声だ。なんとかわいらしい。もうこうなったら、度胸をきめるしかない。
「今聞いたとおりなんだけど、突然でごめん。ぜひ君と会いたいなって思うんだけど」
「うーん、あなたのこと、よく知らないし。って、会ったこともないし……」
そりゃそうだよな、と思う。でも、うじうじなんかしていられない。本当のこのころの俺のようなDTじゃないんだ! それに今も、ほぼ毎日美緒と話している。
「それに、今試験前なの」
期末試験だ。そう、普通の高校ならちょうど今ごろだ。七月に入ってすぐって感じだろう。竹川高校だけもう一週あとの中旬くらいが試験だから、そのへんはうっかりしていた。
「そうだね。こっちはまだちょっとあるけど、来週には一週間前になるんだった。やべえ、忘れてた」
それを聞いて優子はほんのちょっとだけくすっと笑った……ような気がした。
少し気持ちがほぐれたかな。ここは下駄を預けるか……
「じゃあ、試験が済んでからでいいから、電話くれる? えっと、043・253・XXXX」
メモしているようなので少し間を置いた。
「じゃあ、待ってるから」
電話は終わった。
隣の甲介がにっこり笑った。
「まあ、やるだけやったんだから、結果がどうあれ気にするなよ」
俺は黙ってうなずいた。
「今日はありがとな。それに、急に話を作ってくれて、サンキュー」
「いやあ、大村とはなんかあるなと思ってたからよ」
ここで甲介と別れて、俺はまた線路沿いの道を駅へと向かった。
一日おいて土曜日、雨は降ってなかったけどまだまだ梅雨空で、どんよりと曇ってた。
俺が教室に入った時は、洋はまだ来ていなかった。甲介だけが俺を見ると、立ち上がってそばに寄ってきた。そしてそのまま俺を教室の片隅にまで誘うように押していって、耳元で小さな声で囁いた。
「北川優子がつき合ってもいいってよ」
「え?」
俺は一瞬動きを止めた。
「昨日の夜、俺んとこに電話あって、おめえとつき合ってもいいって言ってたぞ」
「そっか」
俺は無表情でそれだけ言った。本当ならばそんな状況に胸が熱くなり、あるいは喜びが込み上げてくるはずだろう。
だが、俺は
なるほど、こういうような感じで記憶の中の北川優子とのつき合いは始まったのかと、納得していた。
「まじだよな? 嘘じゃないよな」
とりあえずは反応しなきゃと思って、そういった。
「嘘じゃないよ」
「俺の目を見て言ってみろ」
「うっせえな、本当だってば」
たしかに甲介は俺の目を見て言った。その目は嘘は言っていないようだった。
「でもなんで電話番号教えたのに俺んとこに直接じゃなくって、おまえんとこに電話したんだ?」
「そうそう、おめえが教えた電話番号、通じねえって言ってたぞ。現在使われていませんって出るって」
「あ!」
そうだ! しまった、間違えた。この時点での市外局番と二桁の市内局番の0472・53・XXXXって言わなければならないのに、はるか未来の043・253・XXXXで教えてしまったんだ。通じるわけないな。
その時、教室に洋が入ってきた。その時は、俺はあえて洋には何も言わなかった。
その帰り道、優子からの返事について冷静だった俺も、やはり嬉しくなってきた。いくら自分の過去とはいえ異世界ともいえるこんな時代に召喚(?)されて、いきなり彼女ができることになったのだ。しかもJKだ。通報されることもなく合法的にJKとつき合えるかもしれないのだ。もちろん今は俺も高校生なんだけど……。
帰ったら早速、俺は甲介から聞いていた優子の電話番号に、自宅の電話から電話した。この時代に来て以来、この電話から美緒以外に電話するのは初めてだ。
「はい、若杉屋です」
いかにもビジネストークって感じの、男性の声だ。優子のお父さんにしては若すぎる気がした。お兄さんかなとも思う。だが優子の兄弟構成はと考えて、あ!と思い出したことがあった。たしか弟がいたよな。しかも俺と同じ竹川高に……。でも、お兄さんがいたという記憶はない。この声は、弟じゃない。
「あのう、優子さんはご在宅ですか?」
俺も思わずビジネストークになる。
「少々お待ちください」
優子の家は、そうだ、若杉屋という古道具屋だった。電話は自宅と店と共有なのだろうか。そうすると、今電話に出たのは、お店の従業員?
それにしても、待たされる時間が長かった。家の人にしてもお店の人にしても、とにかく本人直通ではなくいちいち取り次いでもらわなければならないなんてなんて、美緒もこんな面倒な思いをして俺に電話してくれてるんだなと考えていたら、向こうで受話器を取る音がした。
「あの、どちら様でしょうか」
電話に出たのは、優子ではなかった。さっきの男の声だ。
「あの、内藤と申しますが」
「どちらの学校の内藤さんですか?」
なんだか尋問を受けているような気分だ。優子が通うのは女子高だから、同じ学校の同級生っていうのはあり得ない。ただ、俺の声で高校生だって認知してくれたんだな。声だけでも、やはり俺は高校生なんだ。
「小学校の時の同級生ですけど」
ただ、ここで竹川高校のと言っても余計に詮索されそうな気がしたので、適当にごまかしておいた。
「今、風邪をひいて休んでますので、電話があったこと、伝えておきます」
電話は切られた。あとで電話させますのひと言もなかった。
なんだかこの電話のやりとり、うっすらと覚えているような気がする。ただ、あることに気がついた。優子は俺の今の電話番号を知らないのだ。
とにかく報告をと思って、俺は洋に電話しようとした。
だが、待てよと思う。
洋には甲介を通して彼女と話したことはまだ何も言っていない。ましてや、つきあってほしいと申し入れたことも言っていない。そして優子にも、洋とつながりのあることは言っていない。
恐らく俺は、ここで初めて洋にはすべてのいきさつを話したのかもしれない、かつては。でも、今はやめようと思った。
記憶では、この時代から見て将来に、例の山木隆夫が絡んで彼女との間が壊れたんじゃなかったっけ。隆夫はいわば優子にとって元カレともいえる。裕一郎もその隆夫と俺が知り合いだったら、彼女は俺とつき合うのを避けるかもと言っていた。
だから洋や隆夫との接点は、彼女には隠した。だから洋にも言わない方がいい。
俺は洋への電話はやめた。
そして三十分くらい間を置いて、もう一度優子の家に電話してみた。
また先ほどの男が出て、また同じようにかなり長い時間待たされた。
「もしもし」
今度は出てくれたのは優子の声だった。風邪で寝ていたというのは本当らしく、声に元気がなかった。
「ごめん。電話くれたんだってね」
「そうよ。全然つながらなかったから、永原君のところにかけちゃった。さっきも電話くれたでしょ。それで折り返したのに、またつながらないし」
「ごめんごめん、間違えて番号教えちゃった」
「ええ? 自分の番号、間違える? ふつう」
優子は笑っていた。少し声に元気が出てきたようだ。
「0432なんて、どこの市外局番かって思っちゃった」
また笑いながら優子は言う。本当は043までが市外局番なんだけど、ま、それはいいにして。この優子の笑い声で、他人行儀だった優子との間がぐっと近くなったような気がした。
だから俺も、勢いをつけることができた。
「で、永原から聞いたんだけど……」
俺は一呼吸おいた。
「本当につき合ってくれるの?」
「うん。別にいいけど。悩みとか相談できる友達になれたらなって思ったし」
ん?
俺の思考は止まった。これ、全然OKってことじゃないじゃん。よくある「まずは友達から」パターンじゃん。
それなのに、かつての俺はここでもう優子が彼女になったって思いこんだんだよな。たしかに間違いなくそうだった。
とにかく、今はいつまでも黙っていると変に思われる。
「あ、うん、よろしく」
俺の声はうわずっていたと思う。そのまま、話題を探した。
「あ、なんか風邪ひいてるってさっきの電話の人から聞いたけど、大丈夫?」
「うん、なんとか」
「今の風邪って長引くからね」
「大丈夫、大丈夫、ありがと」
優子の声は弾んでいた。なんだか初めて会話する相手とも思えなくなってきた。
「寝込んでるわけにはいかない。もうすぐ試験だし」
「そう言ってたよね。そうそう、電話くれるの、試験が済んでからでもよかったのに」
「なんとなく早い方がいいかなって」
……って、俺の彼女になるってわけじゃないんだろ? いや、そういうつもりなのか? なんだかよくわかんないな。もちろん、そんなことは言わない。
「で、試験が棲んでからでいいから、会いたいね」
「でも、そっちの試験は? 竹高は遅いんだよね」
「いいよ、捨ててるから」
「そんなあ。がんばってよ」
優子はまた笑った。でも、それはホント。少なくとも理数系の科目は捨ててる。文系科目は別にノー勉でクリアだけど。それも言わない。それより、その「がんばって」のひとことを俺は今はさらりと聞き流したけれど、もしかしてかつての俺だったら女の子から初めて言われたそんな言葉にもう舞い上がっていたかもしれない。
「会うの、そっちの試験が終わったらすぐでもいいよ。試験休みってないの?」
「え? そんなのないよ。試験の後も授業。でも、終業式まではずっと半日だけど。竹高はあるんだよね」
やっぱ竹川高校について詳しい。
「試験の後はずっと休みで、終業式だけぽつんと行けばいいんだけど」
「ずるいよね、まったく」
そうは言うものの、優子の声は明るかった。
そういえば……思い出したことがある。遥かな記憶を手繰ると、このあと何か洋と俺がギターの練習をするところを優子と松下昭子を呼んで見てもらったようなこともあった気がする。でもこの電話では、そんな話は出なかった。優子には俺が洋と知り合いであることは隠しているのだから、当たり前だ。
その時、優子がせき込んだ。
「長話しちゃ風邪によくないね」
「大丈夫、大丈夫」
「とにかく試験終わったらまた電話して。それでいろいろ決めよう」
「はい。そうします」
気がつけば結構長い間話していた。もう夕方だ。
俺は受話器を置いた後、ため息をついた。
いきなり訳も分からずこの時代に飛ばされて、それでも一応この時代の女の子とのつながりはできた。ここでやり直すためには、彼女ができたなんて早とちりして舞い上がったりしないで、慎重にいくことだなと思う。
それで、勢いでといってはなんだけど、俺は美緒に電話した。
「ああ、じゅんくん? しばらく」
当然のことだけど本人が出る、しかも名乗る前から俺からの電話だということは分かる。あとウン十年もすれば、こんな便利な時代が来るんだよなと、俺はそのことをかみしめた。
「試験、終わった?」
「これからだって」
高校生が夏休み前に乗り越えなければならない宿命だけは、昭和も令和も全く変わっていない。
「じゅんくんは?」
「俺んとこ、遅いんだ。七月の半ばだから」
「いいね、私立は」
「いや、私立だからってわけじゃないんだけど」
私立だって早いところは早い。
「ねえねえ、直った? パソコン。それとスマホは?」
急に話題が変わって、美緒は立て続けに聞いてくる。
「どっちもまだ」
「えー? 夏期のアニメ、何見るのかなあって聞こうって思ってたのに。お勧めとか」
「そんなの、こっちが聞きたいよ。それよりも春アニメの最終回が軒並み見られない俺の気持ち、分かる?」
「分かるって、
「だろ、だろ、俺もだよ」
それどころかMCZの夏ライブ、AO団のFCイベントのチケットも当選してGETしているし、HNZ46の2ndシングルの個別握手会も何人か当選してる。それら全部干すことになるんだなあと思うと、涙が出そうになる。
「ねえねえ、じゅんくん、聞いてる?」
「あ、ごめん、うん」
「夏アニメなんだけど、結構豊作みたい。でもやたら異世界ものが多くてね。ごっちゃになっちゃうんだよね」
まあ、こちとら異世界とまでもいかなくても、そんな感じの世界に召喚されてるんですけど。
「そうそう、だんまちの2期とあとシンフォギアも」
「おいおいおい」
見たいなあ、見られないのかよ……涙 涙 ( p_q)
「じゅんくんも見られるといいね。夏休みになったら、留守録で何とか見れるんじゃない?」
「ん、まあ」
それも絶望的なんだけど、俺は言葉を濁す。だから、話題を変える。
「それよりさあ、美緒に聞きたいことがあるんだけど」
「なに? あらたまって」
あくまで俺の友達ってことにして、よその女子校の子にコクってOKだけど友達って言われたら脈なしかな……なんて聞いてみようかと思ったけど、なんか昔の恋愛話みたいだって笑われそうなのでやめた。
「あ、いいや、やっぱなんでもない」
そう、俺は三次元苦手な「俺の嫁は二次元に」的なキャラになってるんだし。
そんなことで、とにかくお互いに試験がんばろうということで、俺の束の間の令和への一時帰還の時間も終わった。
美緒と話しているとなんだか懐かしさがこみ上げてくる。いいかげん慣れたとはいえ、やはりこの時代へ来る前のあのころが懐かしい。パソコンが、ネットが、ゲームが、スマホが、そして気になるアニメやアイドルの動向……それらを、知らないことを不審に思われないようにうまく美緒から聞きだす。
そういえば、HNZ46の3rdシングルの発売も近い。そのHNZ46の最初の写真集発売決定のことも、さっきの美緒との電話の中で聞いた。
でも、美緒はそんな情報源のような存在だけじゃあない。美緒と話していると心が落ち着くし、緊張感も全くない。安心して話していられるのはなぜだ? たしかに今の俺は本当に17歳なのだから、SNSのDM交換していた時のような後ろめたさはいらない。だけど、この安心感はそういった問題じゃあない。故郷の幼馴染みと話しているって感じで、そういった安心感が半端ないのだ。
俺はなんとなく熱い心ともに、二階の自室に戻った。
この時代、アニメはさっぱりだが、アイドルということなら話題に事欠かない。
ついに子ねこクラブがデビューシングルをリリースした。
「すげ、純一の言ってたこと、当たったじゃん」
朝の登校路で星司などは素直に驚いていたけど、裕一郎はにやにや笑っていた。
「なんか4月の『夕ぐれニャンニャン』が始まった時点で、子ねこクラブのレコードデビューの企画は始まってたらしいよ」
裕一郎はさらりと言う。当然、三人で「セーラー服の歌」を本八幡のシャポーのレコード屋に買いに行った。
あとで歌詞カードにあった作詞者の名前を見て、ここを原点にHNZ46までつながるのかと俺はなんだか感無量だった。
そんな子ねこのレコードリリースの前に台風6号の襲来とともに始まった7月だったけれど、もうあっという間に第二週となって期末試験を迎えた。
制服も上着がとれて教室内はワイシャツの白一色となり、なんだか明るくなったように感じる。先生たちは半袖シャツでもみんなネクタイしてる。まだクールビズって概念がなかった時代なんだな。
美緒の試験期間はもうちょっと前だったようだけど、互いにしばらく電話は休むことになっていた。
俺にとって課題はとにかく理数系だ。でも、どんなに授業を聞いても分からないものは分からないし、教科書を開いてもとにかく分からない。
……ってことでかなりやばみなシチュなんだけど、専門教科の国語、特に古典と、あとは英語や世界史で点を稼ぐしかない。英語だって塾で中学生の英語の授業を担当したことがあるし、世界史も日本史ほどじゃあないけれどなんとかなる。
そんな感じで、とにかく試験も受け終わった。
午後一時に、京成の船橋駅下り方面への改札口の外で優子と待ち合わせだった。
試験が終わった二日後、つまり7月15日の月曜日、すでに俺の学校は試験休みに入っている。
優子の学校の試験が終わった時点で一度優子から電話があり、今日の日の約束をした。その時は俺が試験直前だったので優子の方が気を利かして、電話は今日の日の会う日時を決めただけで終わった。
昨日の日曜日は優子に用事がるとのことで、今日になった。
今日は優子は学校が休みではないので、学校帰りに来るはずだ。ただ、終業式までは半日で終わるということなのでこの時間に決まった。
遠くのデパートの鐘の音が、よく晴れた空に響いた。
朝からこんなによく晴れているのは、先週の火曜日以来だ。それ以外はずっと曇り空で、時々雨も降った。昨日の日曜日も午後から晴れてはいたが、ニュースによると東京では夕方からものすごい集中豪雨で浸水被害まで出たそうだ。でも、俺の家のあたりは全く雨などなかった。
そして今日の快晴に、梅雨空ももう一気に吹き飛んだという感じだった。だからだろう昨日から急に暑くなって、じっとしていても汗が噴き出すような真夏日だった。
国鉄船橋駅からいつも車が渋滞している京成の駅の脇の踏切の道を通って、俺は約束の改札口に来た。まだ地面にあった京成の船橋駅のホームは線路を挟む形のもので、改札口も上り線はホームの一番端の踏切のところだが下りはホーム中央にあって、別々の改札になっていた。
待ち合わせはホームの中央の下り線の改札だ。学校帰りの優子は、下りの電車に乗ってくるはずだからそうなった。
優子はまだ来ていなかった。俺は改札の外に立って、一人で足元の石ころを蹴っていた。改札の前は車がやっとすれ違えるほどの細い道だ。電車が着かない限り、優子は現れないはずだ。
俺は妙に落ち着いていた。胸の高鳴りが全くなかったといえば嘘になるけど、そこはその、まあ、人生経験がっていうか……いや、俺は正真正銘の17歳なのだ。だからこそここでやはり16歳か17歳の女子高校生と待ち合わせしていても周りから奇異な目で見られることもなく、普通の高校生カップルにしか見えないだろう。
電車が着いた。電車も下半分がオレンジ色、上半分がクリーム色の懐かしいデザインのものだった。その電車が下り方面へと走り去ると、改札から出てくる乗客も次第に切れ始め、鴻池女子学院の緑の制服が降りてきたのはいちばん最後だった。他に鴻池の制服はいなかったので、それが北川優子であることは間違いなかった。
「北川さん?」
俺の方から声をかけた。呼びとめられた優子の顔がぱっと輝いた。
「内藤君……ですか?」
「うん、ハジメましてだね。あのう、敬語はいらないよ、ため口でいいから」
「え? た、ため口? たしかにためだけど」
ためは通じるけどため口って言葉はまだないのか……。
「ま、いいや、行こうか」
なんだか初対面とは思えないくらい打ちとけていて、俺たちは肩を並べて歩き出した。
「久しぶりによく晴れたね。電車の中、窓開けてても暑くてたまらなかった」
そうなのだ。まだすべての電車に冷房がついているわけではない。国電でも冷房車が来ればラッキーという感じだ。
優子は白いハンカチで汗を噴きながら歩いている。あまりじろじろ見られないけれど、俺は横目でそんな優子の表情を見た。
うん、かわいい。
そうだ、たしかにこんな感じだった。遠い記憶が呼びさまされる。たしかスヌーピーって感じがあったことは記憶に残っているけれど、たしかにその通りだなと思う。
それにしても制服、今は夏服だから上は白いシャツと緑のベストだけど、下のスカートの長いこと。そう、遠い将来にはもう少し短く、こんな緑一色ではなくて緑を基調にしたチェックの柄の可愛いスカートになることを俺は知っている。
「そういえば今日で梅雨明けしたって、出てくる前に見たテレビのニュースで言ってたよ」
俺は話題を探して、そう言った。
「ああ、やっと」
「でも、例年より三日遅いんだって」
「じゃあ、これから暑くなるね」
そんな話をしながら、踏切のある車通りに出た。
「お昼まだでしょ? どっかで食事しよう」
優子はうなずいた。車通りを横断した所のパチンコ屋の二階にサンマリノという喫茶店があった。そもそもこういう喫茶店というものが、俺には郷愁を誘う。たしかにこのころはあっちこっちに喫茶店があり、軽食も食べられた。未来にはこのような喫茶店はほとんど姿を消し、食事はレストランで取り、コーヒーが飲みたければコーヒー専門店かあるいはスタバのような大規模チェーン店に行く時代が来る。
「うちの学校、学校帰りに喫茶店なんかに寄ったりしたら大変なのよ。見つかったらどうしよう」
最初はそう言ってきょろきょろしていた優子だったけど、すぐにそんなこと忘れているようだった。
「感じいい店だね」
俺はとりあえずそんなところから話題に入って、優子もしばらくは差し障りのない話をしていた。でも、注文していたコーラとサンドイッチが来るまでの間、優子はずっとテーブルの上のおしぼりを指でなすっていた。あんまり男子とこういう店に来たことがないんじゃないかなと思う。なんか緊張している様子が伝わってくる。
「ねえ」
優子はおしぼりから顔を挙げた。
「私のこと見かけたって永原君が言ってたけど」
そういうことにしておかないとまずい。洋との会話の中で優子の名前が出たので気になったなんて、今は言わない方がいい。
「電車の中で見かけてね。いつも国鉄なんだけど、その日はたまたま電車が事故で、振替輸送で京成に乗ってそんで君のこと見て、その時一緒にいた永原が、あの子なら知ってるって言ってくれて」
全部出まかせだけど……。ん? 甲介といっしょに優子に初めて電話した時に甲介がとっさに作った話とちょっと違う気もするけど、あの時永原がどう言ったのかなんて忘れたし、ま、いっか。
「そうなんだ」
優子はにっこりと笑った。甲介の話と違うなんてことは、優子は気にしていないようでよかった。明らかに陽キャだな。俺の好みだ。
教師だった時も塾に行ってからも、女子生徒たちは割と俺にはなついて明るく親しく接してくれた。でもそれは俺が教師であるという安心感からくるもので、他の一般のおじさんや同級生には絶対に見せない笑顔だったと思う。
だけど今は、優子は学校こそ違うけれど同級生だ。つまり高校生同士。その優子の俺に対する笑顔は、生徒の教師に対するものとは当然のことながら異質のはずである。
優子の髪形はセミロングで、前髪のウェーブが印象的だ。
「だけど、永原君がいるとは思わなかった。よくいじめられたっけ」
「あいつにいじめられたの? 嘘だろ?」
「ホントよ。放課後なんかよく追っかけまわされたし、なんか今思い出してもむしゃくしゃする」
そういえば甲介も、優子のことを小学生の時はとにかくバカだったって言ってたな。もちろん、そんなことはここでは言わないけど。
「今度会ったら、絶対になんか言ってやる。ううん、ひっぱたいてやる」
「そんなにひどかったの?」
「そうよ、もう、あいつ……」
優子の眼は一瞬遠いところに飛んだが、すぐに笑顔で俺を見た。
「他に誰か私の知ってそうな人、いる?」
洋と隆夫の名前は口が裂けても言えない。それよりも、たしか弟がいたはずという記憶をもとに前に甲介に聞いたら、やはり間違いなかった。竹川高の付属の竹川中の三年に優子の弟がいる。だから、その弟の名前を出した。
「俊正君もいるよ」
「やだ、知ってるの?」
「実はまだ会ったことないんだけど」
「会わない方がいいよ」
「今度会いに行ってみようかと思ってたのに」
「洗面器持っていった方がいいかもよ」
「それひどすぎ」
俺が笑うと、つられて優子も笑っていた。
それから一時間近くそこにいて、食事も終わったので出ることにした。
「どこ行く?」
優子が聞く。
「船橋なんて、あまり行くところないね」
そう言いながら、もうららぽーとってあるのかなと思う。なにしろ俺の記憶で俺が初めてららぽーとに行ったのは、大学生になってからだった。
かまをかけてみた。
「ららぽーとは?」
「遠いよ」
優子が即答。ということは、もうあるんだ。ヘルスセンターなんて言わなくてよかった。
「そうそう、西武デパートにかわいいものばかり売っている所があるの」
「じゃ、そこ行こうか」
外に出る時も、優子はあたりに気を使っていた。よほど学校の先生の目が気になるらしい。
西武デパートに着いた。このデパート、息子が小さかったころに9階のレストランにしょっちゅう連れてきていたことの方が懐かしく思い出される。このデパートも令和になる前に、平成最後の年に閉店する運命であることを俺は知っている。もう二度と入ることもないと思っていた西武デパートに今こうやってまた足を踏み入れることができるなんて、不思議な気分だった。
優子が言っていたかわいいものが売っているというのは、七階のアクセサリー売り場のことだった。そこではしゃいでいる優子の姿をほほえましく眺めた後、ガラス越しに街が一望に見渡せる窓際のベンチに座った。
国鉄船橋駅がすぐ下に見えて、黄色い電車や横須賀色の快速電車が出入りしていた。駅の反対側には、すでにこの西武デパートよりもはるかに巨大な東武デパートがデーンと鎮座している。
「俺と会った感想は?」
俺はそう聞いてみた。
「思ったよりよかった」
「そんなにひどい人を想像してたの?」
「そういうわけじゃないけど」
明るく優子は笑った。
その後、優子は大神宮下の医者に行くことになていると言った。
「なんかまた風邪気味で。それに私って生傷が絶えなくて」
そう言って優子は左手の指の絆創膏を示した。
ちょっと待って、今の言葉……そんな歌の歌詞じゃないけれど、なんか記憶にあった。でも、記憶の中とは状況が違う。
そう、本当ならこの次の日に、洋とのギターの練習を優子と松下昭子に見に来てもらったのだった。前にもなんとなくそんな気がしていたのを、はっきりと思い出した。この日のことを追体験したら、記憶がよみがえったのだ。
「あの人は生傷が絶えないねえ」……それは、そのギターの練習の時に時に洋が優子の指の絆創膏を見て言った言葉だったはず。……でも、洋にはまだ今日優子と会っていることは内緒になっているし、明日洋とギターの練習をする予定すらない。
ギターの練習のことが俺の記憶違いでないとすれば、確実に過去が変わっている。そのことを俺は実感した。
本当なら俺は国鉄で帰るのだが、優子につきあって京成に乗り、大神宮下で降りる優子とはそこで別れた。
やはりそうかと、一人になった俺は京成電車の中で思った。
これはデートではない。優子は新しい友達と顔合わせをしたという感じでしかないということはすぐにわかった。次に会う約束すらしていない。
だが、今の俺だからこそわかったことで、昔のこの時の俺はもう舞い上がっていたように思う。確実に自分には彼女ができたと思いこみ、そしてこれが最初のデートだと思っていた。客観的に見てもあのころの俺ならそう思うだろうし、実際にそう思っていた記憶もある。
俺は周囲の人に怪しまれない程度にうっすらとほほ笑んだ。
今度はやり直せると思ったからだ。
だがその二日後、優子の方から電話があった。
今度の日曜日に会いたいという。船橋では短い時間だったし、あまり遊びに行くような所もなかったからというのが理由だった。
「じゃあ、東京に行こう」
俺はそう言った。記憶の糸を手繰っても、たしかこの後優子と東京に言った記憶がある。それだけでなく、今この時代に来てから俺は一度も東京に行っていない。このころの東京がどんなだったかも見てみたかった。
そしてその次の日、美緒の方から電話があった。
いつもの天真爛漫という感じではなく、美緒の声は沈んでいた。
「いったい、どう受け止めたらいいの? ショックでかすぎ」
「え? どうした? 何があった?……」
そこまで言いかけて、口をつぐんだ。もしかしたらそれを知らないってことはものすごくまずいような、そんな大事件でも起こったのかもしれない。
「てか、あのこと?」
俺は分からないまでも、そうかまをかけてみた。
「そうよ。あんなたくさんの人が死んで……。日本のアニメの根幹をなす会社だっていうのに」
やっぱり何か大事件があったのだ。しかも、アニメに関連する……。それで、人がたくさん死んだって……???
「ひどいよね。真相はどうなんだろう」
俺は、うまく事件の概要を聞きだそうとした。
「情報がいろいろと飛び交ってて、何を信じていいかもわからないし。とにかく今は、犯人が憎い」
殺人事件かなと思う。しかも大量の? 場所はアニメ制作会社? わからない! それだけにもどかしい!
「結局
「ま、今は冷静に見守って、それで亡くなった方たちのご冥福を祈るしかできないよね、きっと」
「それなー」
しばらく沈黙があった。
「今年はいつまでも寒いね。なかなか梅雨も明けないし」
また俺は「え?」なんて言ってしまうところだった。しかも、もし美緒の方からその話題を言いださなかったら、俺は「毎日暑いね」なんて言ってしまうところだった。本当に、この月曜日に梅雨明け宣言がされてから、真夏日が続いているのだ。
美緒の住む静岡との地位差でごまかそうにも、美緒の時代はデジタルで調べれば関東の天気なんかあっという間にわかる。
「でもよかった。じゅんくんの声が聞けて少しは心が落ち着いた」
やっと美緒はくすっと笑ったようだった。
それからしばらくは、テストの話とかしていた。こればかりは時代の違いは関係ない。予想通り理数系はガタガタだったことを、俺は話した。
「まじ赤点祭りだぜ」
「ええ? 理数系だけでしょ。
「それな。会えたらいいよな」
そんなこと言いながら、今度の日曜は自分はしっかりと北川優子に会うことになっている。ちょっと後ろめたさも感じる。
そんな感じで、結構長く話して美緒との電話も終わった。
部屋に帰ってから、やはり美緒が言っていた大事件のことが気になった。もちろん、未来のことを調べる手立てなどあるわけがない。なんかのアニメで、異世界に転生した主人公が神様からスマホだけは持っていくことを許されて、異世界でスマホ使い放題で大活躍なんてのがあったけど、俺がこの時代で初めて目覚めた時に手に握っていたのがなんでスマホじゃなかったんだよとも思う。
でも、それでも美緒の電話番号の紙を握っていて、それで電話が通じて、今も話ができているってのも大奇跡だなと俺はつくづく思った。
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