第4話
昼過ぎから、とうとう雨が降りだした。
その日の夜は夕食後すぐには自室に戻らず、居間のソファーでテレビを見ていた。「ぴたっとしカンカン」ってタイトルが懐かしくてつい見ていたのだけど、司会者はずっと記憶の中では久米さんというイメージだった。だけど、出ている司会者は小池アナだった。
「あれ? MC、梅塚さんじゃなかった?」
俺はまだ食事のテーブルにいる妹の彩乃に聞いた。
「MCって何?」
またやっちまった。この時代はまだそんな言葉はなかったんだ。
「司会」
「梅塚さんは去年、もう降りたでしょ、何言ってんの」
妹の声は冷たい。この妹には萌えない。ただ、記憶ではもっと小さい頃から俺はいつも妹をいじめてたし、邪魔な存在だと思っていた。お蔭でこのころは妹との仲もあまりいいとは言えなかった。やり直すとしたらここからかなと思う。まあ、すぐには妹が夜中に人生相談に来るようになるとは思えないけどな。
部屋に戻ってもパソコンはないし、また音楽を聞くことにした。レコードプレーヤーにアナログレコードを置いて手動で針を落とす。ずいぶん安ものだよな、これ。
めんどくさかったらカセットテープに大部分の曲は落としてあるから、ラジカセで聴くこともできる。このカセットテープに落としておいたお蔭でアナログレコードの楽曲をパソコンに取り入れて、デジタル化して聞くことができてたんだ、あちらの時代では。
だからこの時持っているレコードはあの時代になってもしょっちゅう聞いていただけにそう懐かしくもないんだけど、きゅんきゅんのアルバムを聞くことにした。でも、巨大なジャケットや中の歌詞カードは新鮮だった。
そしてほかには何をするでもなく、ぼんやりとしていた。頭の中には北川優子のことが浮かんでくる。だから、なんか今日は美緒に電話しようという気にはならなかった。今のところ、美緒から電話はかかって来ていない。やはり家族に呼び出してもらうというのは、そういった経験がない美緒にはハードルが高すぎるかもしれない。
そして、昼間に気になっていたことが、また頭の中でよみがえる。つまり、北川優子にとって山木隆夫という存在は今はどうなっているのかだ。洋の話だと、もうすっかり隆夫との関係は切れているはずである。隆夫が一方的にふったということだった。
「山木もあの時はかなり泣かれて大変だったみたいだぜ」
洋はそんなことも言っていた。先週の話だ。これはもう一度念を押しておく必要があると、俺は思った。
だから翌日、朝のホームルーム前に、洋にそのことを持ちかけた。
「山木とどうなってるかって? 山木はもうその気は全然ないみたいだけどな、実は今年のバレンタインデーに北川さん、山木にチョコ渡そうとしたんだって」
「え?」
バレンタインデーといえばもう四カ月も前だけど、隆夫が北川優子をふったというのが去年の秋ということだからもうかなりたってるはずだ。
「なんでそんなにたってから?」
「知らねえよ」
「でも、山木はもうあの子のこと何とも思ってないんだろ?」
「ああ、嫌がってるな、完全に」
「じゃあ、どうしてチョコもらうために会ったりしたんだ?」
「いや、それが、なんと北川さんが山木の家まで押し掛けてきたんだってさ。でも山木は門前払いで追い返したって言ってたけど」
なんかそんな話、聞いたことがあったようななかったような……なにしろここでは四か月前のことだけど、俺にとってはウン十年前の話なのだ。詳しく覚えているわけがない。
なんかなあ……と、思う。こうなったら意地で突っ走るか……俺はそんなふうに考えていた。
この日は水曜日なので、授業は午前中しかない。俺がいた時代(つまり、この時からウン十年後)はどうなってるかは知らないけれど、このころは俺の学校は土曜日だけでなく毎週水曜日も午前中授業で終わりだった。
退屈な授業も終わった。数学や生物、物理などは相変わらず話が頭の上を飛んでいる。古典の授業だけ、教師のあらを探すのが楽しい。それにしても古典の教師であって担任でもあるこのおじいさんの先生、あとで知ったんだけど実はWikipedia大先生にも名前が載っているほど有名な偉い人だったんだな。俳句の権威で、教科書にも載っている有名な俳人の門下で、その遺志を継いで同人誌を主宰していたとか。亡くなったことも新聞記事になっていたから知ったくらいで、その時俺はもう学校の教師になっていた。そんなことも知らずに、このころはみんなばかにして、からかっていたりしたんだよな。
現国は…このころは「現代文」じゃなくって「現代国語」っていってたけど…夏目漱石の「こころ」だよ。もう俺、何回この「こころ」でテスト問題作ったか分からない。
そんな授業も終わって帰ろうとして昇降口を出た俺は、前方の校門に向かって沖田裕一郎が傘をさして歩いていく後ろ姿を見た。
昨日から降り出した雨が今日は朝からずっと降り続き、かなり雨脚は強くなっている。
「よう」
俺も傘をさして、後ろから裕一郎に声をかけた。裕一郎はパッと微笑んだ。裕一郎だけは、付属の竹川中の時からの友達だ。だが、その裕一郎には、北川優子のことはすでに話していたのかどうか、どうもはっきりしない。
「なあ、北川優子のことなんだけど」
俺はかまをかけて切り出してみた。
「え? 誰、それ?」
やっぱ話してなかったようだ。
「実は俺、気になってる女の子がいてね」
俺は歩きながら優子のこと、山木隆夫のこと、バレンタインデーのことなど全部話した。
「わざわざ家にまで来るなんて、なんてやつだ」
裕一郎は嫌みのない程度に微笑んで言った。それが彼の特長で、さわやかな印象を演出している。それをわざとではなく自然にやっているのだから得な男だ。
「俺もその話を大村から聞いた時は、ちょっと引いたな」
それを聞いても、裕一郎は微笑んだままだった。
「そうとうお熱あげてるんじゃないか? 今のあの子には山木しかないんじゃないのか? 今割り込もうとしても、その話がつぶれるまでだめだね、きっと」
「割り込むって……」
今自分が北川優子にコクったら、それは割り込むことになるのかなと疑問だ。
「別に北川さんと山木は、今の時点ではつき合っているわけじゃあないんだぜ。大村の話だと、たしかに去年一時期つき合ってたけど、山木の方からふったんだよね。それでも北川さんは山木への未練を断ち切れずにいるっていうのが実情だろう。でも、やっぱ割り込むことになるのかな」
「うーん」
裕一郎は少し考えていた。
「まあ、でもさあ、でもすごく積極的だね、その子。そうとう想ってるんだね」
「でも、山木は嫌がってるみたいだよ」
「だからあ、もし山木が断ったとしたら、そんな子に限ってすごく傷つくと思う。もし君が山木の知り合いだってわかったら、君とつき合うのは避けると思う」
「そっか」
一理ある。しかも、隆夫はとっくに優子を拒絶しているし、はっきりとそれは意志表明しているはずだ。でも、俺は隆夫を知っているという程度で、そんなに親しくはない。それを言おうとしたら、裕一郎が先にため息交じりで言った。
「だからさ、傷つけないであきらめる方法を考えなくちゃね」
「ええ? そんなこと」
「このまま山木が拒絶し続けているとしたら傷つくと思うよ。もう竹川高の人なんか知らないってことになりかねないから」
「うん」
「ちょっと考え過ぎかな?」
しばらく沈黙があった。いつの間にか少し広い道との交差点の信号のところまで歩いてきていた。この道は竹川高の生徒の学生服で埋め尽くされている。周りは住宅街だ。
「だからさ、この際きっぱりあきらめるのもいいかもしれないよ。鴻池にだって何百人もいるんだ。その子一人だけが女じゃないじゃん」
それが無難かもしれない。でも、裕一郎には言えないが、そうしたらそれこそ歴史を変えてしまう。大げさだけど。
「でもあきらめきれないよね、やっぱり」
言いだしておいて、裕一郎の方からまたそう言う。
「うん」
俺は大きくうなずいた。何だか遠い昔に忘れかけていた熱い胸のうずきを、今確実に感じている。もう自分なりに突き進むしかない。
北川優子という名前に遠い昔の記憶がよみがえって、この子とつき合っていたという本来なら過去だったはずの出来事が今は未来として俺の前に横たわってる。もしそんな記憶がなかったら、洋の口から今その名前を聞いても、他人の恋愛話として聞き流していたよな。
なんだか鶏が先か卵が先かって感じだけど、とにかく行くゾ。そして当たり前のことだけど、今の俺は独身である。それに今は俺も高校生。通報もされず合法的に本物のJKとつき合えるチャンスなのである。
裕一郎が先に降りた後の電車の中で、俺は考えた。
俺って、もうすっかりこの時代とこの年齢に溶け込んでいるな。俺がジェネレーションギャップを感じていた肉体的に俺と同世代の、いわゆる普通のおっさんが今の俺と同じ境遇になったら……多分今頃悶死してるだろう。俺は外見はともかく中身は前の世界でも17歳だったのだから、今その中身の心にふさわしい外見を手に入れて水を得た水魚だ。どや、難しい言葉知ってるやろ……って、今は高校生だけどかつては塾に移る前は学校の国語の教師だったんだから当たり前か……。
あるいは、本物のあの時代の高校生が突然この時代に来てしまったら……スマホやパソコンなどのネット環境が一切ない、LINEもメールもSNSもオンラインゲームも一切ないアナログの世界に堪えられずやはり悶死しているだろう。俺なんかは昔一応こういう世界を体験している。でも、生まれた時からデジタル漬けの彼らにとっては未知の世界に違いない。
終点に着いた。そういえば半日授業なので、昼食をとっていない。腹が減った。
ターミナル駅の乗り換え通路の改札脇の立ち食いラーメン屋を見つけた。涙が出るほど懐かしかった。少し小ぶりのどんぶりに待たされずすぐに出てくるラーメンはとても美味で、だいぶ安かったので大好きだった。たしか200円くらいだったと思う。駅の大改造でこのラーメン屋がなくなってからは、俺はこのラーメンの味がどんなに恋しかったことか……それが今目の前に健在で営業している。入らない手はない。
俺は券売機の前で財布から千円札を出した。その千円札を見て「!」となった。これまた懐かしい夏目漱石だった。そういえば現国の教師が「こころ」をやる時に、夏目漱石の解説でしきりに千円札と言っていた。
お釣りで出てきた500円玉と100円玉は全く未来と同じものだった。
ラーメンは死ぬほどおいしかった。なんでこんな店をなくしてしまったのかと思う。いや、これからなくなるのだけど。
それにしても俺は、この時からウン十年たっても同じ町の同じ家に住んでいる。だからこそ感動もある。これって普通はあまりあり得ない、むしろ奇跡なのではないかという気さえしてきた。
どしゃ降りの雨の中を家に帰ってから、電車の中でデジタル漬けの未来の若者がどうのこうのって考えた時のことを反芻すると、ふと美緒のことを思い出した。
今は北川優子に突き進もうとしているけれど、それはそれで美緒の存在とは関係ない。一日空いたけれど電話してみようかと思った。
かつてのネッ友が、今はすっかり電話友達になっている。
美緒はまだ学校に行っているかもしれないので夕方になるのを待って、机の中からやはり出てきたテレフォンカードを手に、まだ雨は激しく降っていたけれど傘をさして公園の公衆電話へと向かった。家の電話だと家族の耳が気になるし、落ち着いて話せない。
電話ボックスに入った。そろそろ完全にドアを閉めてしまったら汗ばむような季節になっているので、足でストッパーをかけて、ほんの少しドアが開いたままにした。
テレフォンカードを入れて発信音を確かめ、美緒の携帯の番号をプッシュしようとした。
その時、ふと思った。ここから時空を超えて電話をかけられるのは美緒の携帯だけなんだろうか?……ということ。
そこで、試してみようと思った。表示されているテレカの残り度数はまだ十分にある。
ところがそれを試そうと思って、俺はあることに気づいて愕然とした。
なんと俺は、記憶している電話番号なんて一つもない。いちいち覚えなくてもスマホの連絡帳機能で、ボタン一つで電話はかけられる。だから、あの太ったおばさんや息子の携帯番号すら覚えていない。当然、友人も誰ひとり、だ。
いくつかの固定電話の番号は覚えているが、ちょうどこの時代かもう少し後の時代の関係者のものだ。固定電話の番号では実験にならない。今、この時代のその番号にかかるだろうから。
そこで、自宅にかけてみた。番号自体はこのころと変わっていないけれど、市外局番が変わった。0472が043になり、市内局番の頭に2が付いて二桁から三桁になっている。
結果……「お客様がおかけになった電話番号は、現在…(ry
そこで、唯一暗記している携帯番号……自分の携帯にかけてみた。もしここから見て未来の自分が出たらどうしようなんて思ったけど、結果……「お客様がおかけになった電話番号は、現在…(ry ) これには少し安心した。
そこで、実験はやめにして、美緒の携帯にかけた。
「もしもし。じゅんくん?」
出た。やはりつながるのは美緒の携帯だけみたいだ。
美緒の携帯には発信元は「公衆電話」と出ているはずだけど、それだけでもう俺からだと分かったようだ。公衆電話からかけてくる人なんて、あの時代では皆無に等しいからな。
「なんかめっちゃ久しぶりって感じだよね」
俺はそう言うけれど、実は一日おいただけである。
「私もそう思う」
よかった。
「今何してたん?」
「学校から帰ってきたところ。じゅんくんは?」
リア充カップルの会話かよw
「暇してた。俺の学校、水曜日も半ドンだから」
「ハンドン? 何それ?」
あ、この時代の高校生には通じないいくつかの未来の言葉があったけど、これはその逆パターンか。半ドンなんて美緒たちにとってはもう死語なんだな。やべ、ぼろが出るところだった。
「半日で終わりってことだよ」
「ええっ!? ちょーうらやまみ! 部活、やってないんだよね」
そっか、前にSNSのDMでそう言っちゃったっけ。
「うん、実はやってることはやってるんだけど」
「え? やってるの?」
「天文部。でも、週に二回集まって雑談するだけの部活だから、実質上は帰宅部」
「なにそれ」
美緒は笑っていた。
「美緒はソフトテニス部だったよな。俺、体育系は全く駄目なんだけど」
「だからあ、ほとんど同好会って言ったじゃん。じゅんくんの天文部と同じだよ。ねえ、天文部って、星見たりするんでしょ」
「そう。合宿の時は一応望遠鏡持っていって観測とかしてるけど、なんせ普段の昼間は星見えないし、やることないから雑談だけなんだよ」
「そうなんだ」
「中学のころは昼休みに屋上で黒点観測とかやってたけど、なんかやめちゃったな」
「屋上って学校の?」
「うん」
「入れるの?」
「うん」
「えー、私んとこ、屋上は立ち入り禁止」
ああ、令和の時代の学校なら普通はそうだろうな。俺の所の学校も、今この時代だから屋上に自由に上がれるのかも。
「天文部って、中学の時から?」
「あ、俺んとこ中高一貫校だから、部活も中高一緒。特に文化部は」
「ねえねえねえねえ、それよりも勇者様、見た? 来週最終回でしょ」
「そっか。最終回か」
見たい! 切実に見たい! それだけでなく他のアニメも!
「あ、そうか、見られないんだっけ。ごめん。パソコン、まだ直らない? スマホも?」
「ああ、まだ全然」
そんなものとは全く無縁の生活だものな。
「あとで最終回どうなったか、教えてくれよ」
「わかった」
「他にも、何か特別な出来事は起こってないか?」
「え?」
しまった。この質問は状況的にまずいよな。
「あ、いや、テレビのニュースはあんまり見ないし、情報は主にSNSだったし、今それがくなて全く情弱って感じだから」
「そっか。特に何もないよ」
それからもしばらく、他愛のない話が続く。他愛はないけれど、俺にとっては貴重な令和の時代とのコンタクトだ。時空を超えて、たった一本の電話線でかろうじてつながっている不思議な関係。あ、いや、電話線はつながってないんだ。美緒は携帯だから。
電話線でつながってるなんて、つくづく昭和な表現だよな。
でも今の俺は正真正銘、美緒とガチで同世代。
そんな二重の意味で胸が熱くなる時間も、テレフォンカードの残量が気になってきた。
「じゃあ、テレカがやばいからそろそろ」
「え? テレカって何?」
またこのパターンだ。テレカは令和の時代でも一応は現役で、コンビニとかでも売ってるはずなんだけどな。
「いや、なんでもない」
説明するのも面倒なので、とりあえずそれで切り抜けた。
外の公園は夕闇が迫り始めていた。
朝、目が覚めると、いつも思うことがある。
目を開けたら今までの一切のことが夢で、普通にこれまで同様の大人としての生活が令和の空間で始まる……昭和の時代の高校生に戻ったなんて所詮は夢だったのかと、すべての出来事が払拭される……でも、いつもそんな期待は裏切りと落胆で終わる。
何度目が覚めてもここは昭和60年で、俺は肉体的にも17歳なのだ。
学校行かなきゃ……俺はもそもそとベッドから起き出す。そしてここでの日常が始まる。
考えてみれば、いや考えなくても、俺は全く新しい別の世界に召喚されて新しい体験をしているわけではない。いわば俺はここでかつての俺を追体験させられているわけだ。
ところがウン十年前の世界である。本当にウン十年前と同じ出来事が起こって、同じ言動を俺がしているのかどうかははっきりとしない。なにしろ遠い昔過ぎてほとんど記憶がないからだ。本当ならばこみ上げてくる懐かしさに囲まれて、デジャヴの嵐の真っただ中にいるはずなのだがどうもそうでもない。時々はそういうこともあるけれど、だいたいの出来事が初めて体験するようで新鮮なのだ。
たとえば裕一郎との会話にしても洋との会話にしても、本当にウン十年前に洋はこう言ったのだろうか、それに対する俺の返事もウン十年前と同じなのか……分からない。でも、そんなこといちいち気にして会話をしていたら禿げそうなので、自然体でいくしかなかった。
今、俺の周りで起こっていることが俺にとって「今」なのであり、すべてが「今の事実」なのだから……。
その洋との会話だけど、しばらく北川優子のことは出なかった。これまで通りの話題だった。裕一郎とはアイドルの話が多いけれど、洋とはむしろミュージシャンについての話が多い。
俺は決して北川優子とのことをあきらめたわけではない。ただ、洋はもう当てにならないと思っただけだ。洋ルートだと洋から松下昭子を通してということになるけれど、その洋と松下昭子との関係自体が凍結しているようなのだ。
そんな感じで何もないまま一週間が過ぎた。
その間も美緒との電話は続いていたけれど、毎晩というわけにはいあかなかった。電話をするということ自体がこんなに手間がかかる時代なのだ。
ただ、日曜日の夕方には美緒の方から電話があった。
「じゅんくん、大丈夫かなと思って」
「え?」
何のことか分からない。
「やっぱ知らないんだ。あのね、驚かないでね。じゅんくん、かやにゃんのこと好きだったでしょ」
「うん」
かやにゃん……なんだかすごく懐かしく感じる。俺が推している声優アイドル。「俺妹」で主演だった時からハマってた。大型ライブも最近は全部参戦してるし、イベントにも足を運んでいる。もちろんCDも全部買ってるし、ファンクラブにも入っている。
いや、全部過去形で言った方が正しいのかな? 未来のことなのに過去形……。
「そういえば今日って、かやにゃんの誕生日だったよね」
そういったことはたとえ忘れていても、SNSのタイムラインが思い出させてくれたものだった。だけど今はそれもない。
「うん、その誕生日にね、私もびっくりしたんだけど今日、入籍したんだって」
「え?」
しばらく俺は、言葉が出なかった。
「つまり結婚? まじかよ。相手は?」
美緒が言った名前は、俺は知らなかった。声優仲間だというけれど、俺は男性声優についてはからきし疎い。
「進撃の主役」
なるほど、そのアニメのメインキャラならよく知っているけど、その中の人か……。あとでググってみよう……ほとんど自然にそう思ったけれど、それは不可能なんだという現実を突きつけられるまでほんの瞬間だけど間があった。裕一郎とか星司とかこの時代の人たちは、何か情報を手に入れたいときはどうしているのだろうと思う……不思議だ。かつての俺もどうしていたんだっけ……? 謎だ。
「私、相手のゆうきゅんのことも好きだったから二重のショック。じゅんくんもかやにゃんのこと好きだって言ってたから大丈夫かなと思って」
「大丈夫じゃない!」
「やっぱショックでしょ」
「うん」
一度俺は言葉を切った。すぐに次の言葉は出て来なかった。
「でもショック10パーセント、祝福してあげた90パーセントだね。こういう時に本当に推しメンの幸せを思ってあげられるのがファンなんじゃないかな」
「それな。なんかじゅんくん、めっちゃ言うことが大人」
「そんなことないけど」
内心まずいと俺は思った。やっぱにじみ出てるのかなあ?
「まあ、声優の仕事の方はこれからも続けるんだろうけど。アイドルの方はどうかな。ユニットもどうなるんだろうね」
そう、かやにゃんはソロだけではなく、二人組のユニットにも参加している。
「情報ありがとう」
「ねえ、もういろいろあり過ぎて……。まみたんも卒業発表したし」
「え。ちょっと待って……」
「あ、それも知らないんだ。じゅんくんてまじ情報難民」
「確かに五月の個握からずっと休養してたけど。やっぱ体調不良かなあ」
まみの所属するHNZ46は推しているけど、まみは個人的に推しではなかった。でも嫌いじゃなかったのでやはりショックだなあ。
「ブログ見ても、卒業理由ははっきり分かんないんだけど」
「ホント、いろいろありがとう。助かる」
そろそろ切り上げないと、隣の部屋の親が何か言ってくるかも。
電話を切ったとも、俺の心はウン十年後の未来に飛んでいたけれど、すぐに戻ってきた。かやにゃんのことも気になるけど、今この時点ではかやにゃんはまだ生まれてもいない。さらに不思議なことに、つい今俺と電話で話していた美緒も実はまだ生まれていないのだ。
もちろん、まみも、HNZのメンバー全員、AO団のメンバーも、それからMCZのメンバーもあーちゃんも、その全員がまだこの世に影も形もない。
そうそう、あーちゃんで思い出したケド、今日はそのあーちゃんのソロコンだった。しっかりチケット押さえて楽しみにしてたんだけど、結局これもまた干しちゃったな。
今俺がいる時代はむしろ鎌田松子の結婚で大騒ぎしてる。明日、その結婚披露宴「松輝の結婚式」が延々とテレビで生中継される予定らしい。
でもそんなことよりも、今の俺にとっての
そして俺はすでにある決心をしていたけれど、決心をしたままでずるずると二、三日たってしまった。
例の鎌田松子の結婚式の10時間にわたる生中継も、妹は学校から帰宅後の夕方からテレビにかじりついて見ていたようだけど、俺はちょこっと見ただけですぐに自分の部屋にこもった。
この週も相変わらず毎日がほとんど雨だった。
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