第3話

 朝、目が覚めて天井を見た。

 よく知ってる天井だ。

 でも部屋の中は昨日の通り。つまり昭和の時代のままだ。一度眠って目が覚めて同じ状況なんだから、これが夢だなんてことはもう決定的にあり得ない。

 正直、この時代で一日を過ごして、横須賀色の電車で自宅最寄り駅まで帰ってきた時、もうすっかりこの時代の空気になじみ始めていた。全く見ず知らずの世界に飛ばされたわけではなく、かつて自分が生活していた時代と場所に来たのである。むしろ俺は今までもこの世界で生きていて17歳になったのであって、妻子ある塾の室長の大人の生活の方がむしろ夢だったのではないかという気さえしてきていた。

 でも昨日美緒と電話で話したことで、この世界もかつていた世界もどちらも夢ではないということが証明された。

 17歳に戻りたくて戻りたくて強く念じて、そしてその想いが物質化して17歳に戻ったけれど、時間までもがそのころに戻ってしまった。とんだ副作用だ。

 俺は昨日と同じように家を出て駅に向かい、乗り換え後の電車では、今度は毎朝渋沢星司と乗り合わせている車両のドアに乗った。はたして途中から星司が乗りこんできた。

 星司の主に芸能界関係の馬鹿話につき合うこと12分、学校最寄り駅に着いて沖田裕一郎も現れて話に加わった。だけど俺は昨日の夜の美緒との電話のことで頭がいっぱいで、二人の会話はあまり耳に入っていなかった。

 学校に着いて、クラスが違う星司や裕一郎とは別れて自分の教室に入った。すると俺に向かって、笑って手を振るのは隣の席の大村ひろしだった。

「おお、内藤。俺、あさっての模試の帰りに、松下昭子と会うことになったぞ」

「あ、そう」

 俺はそっけなく返事をしておいた。

 松下昭子って誰? しかもなんでわざわざ俺に? それよりもあさっては日曜だけど模試のために学校に出るのか。模試って福研ゼミ? それとも四谷ゼミ?

 そんなことよりも、ここであからさまに「松下昭子って誰?」なんて聞いたら変に思われる可能性もあるから、分かっているけれど関心がないというふりをした。そして席に座りながら俺は、なんとかその名前を思い出そうとしていた。確かに聞いたことはあるような気はする。

「昨日、北川さんから電話があってね、松下さんがあさっての四谷ゼミ模試の帰りに俺に会いたがってるんだってさ。新小岩駅の快速ホームにいちばん東京寄りに一時半。うらやましいだろ?」

 洋の顔は完全ににやけている。

「勝手にしやがれ」

「ああ、勝手にシンド…って、ふる!」

 このギャグは、この時代でももう古いのか。それよりも今、大村は北川さんって言ったよなあ…。

「北川さんって、北川優子?」

 俺はそっと聞いてみた。北川といえば北川優子……その名前の記憶が断片的にだけどよみがえった。

「当たり前だろ、他にどこに北川さんなんているんだよ?」

 いや、北川なんて名字の人はいくらでもいるとは思うが、そっか、北川優子か…。俺はその名前に頭がクラっとした感触があった。

 松下昭子とかはともかく、北川優子という名前は忘れようにも忘れられない。

 そっか、松下昭子って、あの北川優子がらみの女の子か…。道理で、聞いたことがあるような気がしたわけだ。

 そしてちょうど今、あの北川優子といろいろあったあの頃なんだ……そう思うと少しだけ胸が熱くなったような気がした。

「やったやったやった!」

 俺のそんな内心など知るはずもなく、洋は一人で盛り上がって満面の笑みではしゃいでいる。

 北川優子…俺の初恋…いや、初恋というのが淡い片思いを意味するのならば、それは小学校の時にすでに経験しているような気がする。

 北川優子は俺にとって初めてできた彼女――今から思えば彼女などといえる存在ではなかったかもしれないけど、当時の俺としては彼女だと思っていた。その「当時」というのが今のこの時代で、このあとすぐに訪れようとしている。

 でも、そもそもどういうきっかけでつき合い始めたのか、またつき合ったといってもどんな感じでどんなふうにつき合っていたのか記憶は定かではない。それに、今俺の隣ではしゃいでいる洋がさんざん口にしている松下昭子という子は、どんなふうにかかわっていたのか……思い出せない。はっきりしているのはただその北川優子という名前と、結局実らない恋だったような気がすること。

 ふと気付くと、隣の席で洋が紙切れにしきりに何か書いている。ちょっとのぞいてみると、なんと「松下昭子」って名前を何度も何度も繰り返し紙に書いているのだった。

 バイタリティーがある……俺もそうだったのか、と思う。俺も彼女欲しさに北川優子に突き進んで行ったのかな……?

 男子校という閉鎖された空間にいたら仕方ないことかもしれないし、年齢的にもそういった衝動にかられるのも無理ない……

 でも、ちょっと待て!……と、俺は自分の思考に待ったをかける。

 なんでそんな大人目線なんだ、俺? たしかに塾の生徒には仕事の上で大人でなくてはならなかったけれど、でも本当はそんな大人目線がいやで、肉体的には仕方がないとしても心までもが大人になることを拒否して自分は17歳だって思いこんで、そして今は肉体的にも本当の17歳になった。それでも心の中に大人の部分を引きずっている。

 でもそれは仕方ないかもしれない。大人の記憶を持ったまま、ここに来て17歳になってしまったのだから。

 だから、隣の席で女の子の名前を何度も何度も書いて有頂天になって喜んでいる洋のようにはなれない。クラス内を見渡しても、俺にとっては懐かしいこの面々と全く同じ心にはなれない。俺は、本当に17歳だった頃の俺とは同じではない……?

 そんなの嫌だ! 同じにならなければいけない……そんな心の葛藤を感じていた。

 もう一度、北川優子と昔のようにつき合ってみようか……女子高生とつき合ったって、今の俺にとっては同じ歳なのだ。誰からも通報はされまい。そして、今なら引き返せるどころか、引き返して今に戻ったのだ。今度はうまくいけば、実らない恋で終わらせなくても済むかもしれない。本当の意味で「やり直せる」!

「なあ、大村」

 俺はまだしきりに松下昭子の名前を書き続けている洋の顔をのぞきこんだ。

「さっき名前が出た北川さんって……」

「ああ、前に話しただろう。去年の夏にプールで」

「プール?」

 俺が怪訝な顔をすると、洋は手を止めて笑いながら俺を見た。

「忘れちったんかよ。去年俺と山木と市営プールで北川さんと松下さんに声かけて」

 そっか……なんとなく記憶の糸がほぐれてきた。

 高校一年の夏に大村たちはプールで鴻池女子学院の女の子二人を、早い話がナンパしたって言ってた。そうそう、ナンパじゃなくって自然に仲良くなったんだなんてことも言ってたっけ。

「そっか。山木とつき合ってたんだよね、その北川さんって子」

「それも言っただろ。山木がある日突然、すっかり冷めてふったんだって。おかげでとばっちりで、こっちも松下さんとの関係がおかしくなってずっと連絡取ってなかったんだけど、昨日すごい久しぶりに電話かかってきて」

 洋はなおさらににやにやして、顔だけでなく座ったまま上半身を俺に向けてきた。

「なんだ? 気になるのか? 北川さんが」

「あ、うん」

 やっぱまだ、俺が北川優子とつき合う前なんだ。つまり、まだ出会ってもいない前なんだな、今は。

「俺が松下さんに頼んでやるよ。任せとけ」

 ずいぶん軽いけど、本当に任せて大丈夫なのかどうかどうも疑わしい。

「よし、そうなったら勉強だ」

 洋は急に名前を書いていた紙をしまって、教科書とノートを出して勉強し始めた。

「どうしたんだよ、急に」

「だって、松下さんに会うのは四谷ゼミ模試の帰りだよ。あの問題どうだった? こうだった? なんて聞かれて、わからなかったらみっともないだろ。あの子、頭いいんだよ、北川はばかだけど」

「そんなことで急に勉強始めるなんて、単純だな」

 俺はそう言って笑っていたけれど、この時代に来て早速何かが始まりそうだった。

 だが、帰り道に一人で歩きながら――ちょっと待てよ……と思った。

 本当にこんなことがきっかけで、俺は北川優子とつき合い始めたのか? だって、今の流れは、俺が北川優子とつき合ったという過去(今の時点からすれば未来)があるから意識したのであって、そうじゃなかったら洋との会話の中で話題にしたりするだろうか?

 いや、したかもしれない。要は女の子なら誰でもいいからつき合いたかった……男子校生活五年目の自然な感情で、俺が突き進んだのもあり得たかもしれない。そう思って俺は苦笑した。

 じゃあ今の俺も、突き進んでみるか……。

 そんなことを何気なく考えていた。


 翌日の土曜日は県民の日で休みだったので、暇こいていた俺は自分の部屋にこもっていた。

 とにかくスマホもパソコンもないと、暇すぎる。世間には忙殺って言葉があるけれど、暇殺って感じだよ。リアルでこの時代を生きていたころの俺は、いったい何をして休みの日とか過ごしていたのだろうか? 記憶をたぐっても思い出せない。

 土曜日が祝日と重なると、土曜日には振替休日なんかないから公立高校は休みを一日損するわけだけど、私立で土曜日が休みでない学校はちゃんと恩恵を被る。もっとも俺の場合、職場が塾なので祝日は関係なかったけれど。

「やっと去年から県民の日ができてくれてよかったよ」

 昨日、洋がそんなことを言っていた。そう、中学生の頃、すでに東京都民の日はあって、東京都内から通っている生徒は都民の生徒だけ休みにしろなどとブーイングを起こしていたかすかな記憶がある。もちろん言っている本人たちも冗談のつもりだったのだろうが、県民の日ができて都民もいっしょに休めることになった。さすがに都内から通ってきているやつだけ学校に来いなんて、中学生みたいな冗談を言うやつはいなかったが。

 そんなことを思い出していた時、ふと不思議なことに気付いた。県民の日が土曜日というのは俺が前にいた世界でのことだった。その同じ日付がここでも土曜日だ。もっとも、同じ月の曜日配置が二つの年で同じになるなんてことは数年に一度起こることで珍しくもない。自分がいた年と昭和60年がたまたまそうだったというだけのことだ。

 さて、自分の部屋で暇こいていた俺の話……テレビを見るにはいちいち下の居間まで行かないといけないので、俺はレコードとか聞いてた。そして、昨日の洋との会話に出てきた北川優子のこととかを思い出していると同時に、もう一人の女の子の存在が気になってきた。

 昨日はほんの試しに電話してみて、ここからだと遥か遠い未来で生活していて、今はまだ生まれてさえいないはずの美緒に電話がつながった。今は存在すらしていない携帯電話に、この時代の固定電話から電話が通じたのである。

 あれは一回こっきりか、何回でもつながるのか……俺の家からだから通じたのか……?

 俺はまた試してみたくなった。こんなときすぐにでもスマホから電話がかけられていたのがどんなに便利だったか、今になっては痛感する。

 下の固定電話の部屋には今は母もいるし、妹がテレビを見ていたりする。会話が筒抜けになるのはご免だ。

 そこで俺は、この時代には町の至る所に公衆電話というものがあったのを思い出す。いちばん近くはと記憶をたどると、家のすぐそばにある夏は盆踊り大会が開かれるくらいのちょっと大きめの公園があって、そこに公衆電話ボックスがあったような気がする。

 俺は早速行ってみた。公園では小学生たちが野球をしているが、その隅に透明の電話ボックスが記憶通りに存在していた。公園は令和の時代でもほとんど変わらない姿で存在しているけれど、この公衆電話ボックスは令和の時代にはなくなっている。電話機は緑色の、令和の時代でもごくたまに見かける公衆電話と同じ型だ。すでにテレフォンカード式の公衆電話であった。もちろん俺はカードなど持っていない……いや、自分の部屋の机の引き出しの中をあさればあるのかもしれないけれど、手っ取り早く小銭を持ってきた。10円のほかに100円玉も入る。

 とりあえずは10円を入れ、つながったら百円を入れるつもりで番号のボタンをプッシュした。家の電話と違い、ここはピピポと音のするプッシュ回線だ。

 呼び出し音が鳴った!

「はい、もしもし」

 美緒の声だ、今日も通じた。

「俺、純一」

「あ、じゅんくん? 公衆電話からって表示だったから、誰からかと思った」

「元気? 何してたん?」

「今日は土曜で休みだから、めっちゃ暇してた。じゅんくんは?」

「俺も暇してた。今日は県民の日で休みだから」

「あ、そう言ってたよね。でも、なんで公衆電話? てか、今どき公衆電話なんてよくあったね」

「近所の公園にね。あスマホは使えないし、家の電話のそばには親がいるし……」

「そうそう、それ、スマホが使えないのはなんで?って聞きたかったんだけど」

 俺はどういう理由にしようか、一瞬考えた。

「学校で授業中に見てたら教師にばれて没収されて、そんで親経由で返されるはずだったけれど、親で止まってる。だから親から没収されたみたいなものだよ」

「ええ~。まじか。それちょー痛いじゃん」

「まじ痛いよ。だからネットも見らんないし電話もできない」

「それで公衆電話」

「ああ。そんでパソコンも炎上した」

「バズったの?」

「そうじゃなくて、ガチで燃えた。なんか焦げ臭いなって思ってたら、ディスプレイの後ろから煙が出てた。リアル炎上。慌ててコンセントひっこ抜いたから火事にはならなかったけど。で、修理出すにも新品買うにも数万もするし、そんな金ないし、親なんか絶対出してくんねえし」

「何それ? 最悪じゃん」

「ああ、まじ最悪」

「でも、火事にならなくてよかったね」

「ああ」

「てことは今、スマホもパソコンも使えないってこと? 信じらんない。パソコンは私あんまりいじらないけど、携帯なかったら死んじゃう」

「俺も死にそうだよ。このまんまずっとアナログ生活かよって」

 かなりの部分が嘘だけど、本質的なところ、つまり俺のアナログ生活は本当の話だ。

「アニメも見らんねえ。テレビのある部屋は結構遅くまで親が起きてるし、録画したって見る時間ないし。今まではアニメもネット配信をパソコンで見てたから」

「ええっ? まじやばみ。アニメはとりあえず録画だけでもしとけば、そのうち見られる時も来るんじゃない?」

「うん、そうする」

 本当はそれもできないのだ。

「情報入らなきゃ推し事もできないじゃん。学校で友達からいろいろ聞ける?」

「それが学校のリア友にはオタクは全くいない」

「オタばれしてないんだ」

「うん。だから美緒、頼むよ」

「分かった、任せといて」

 ミオは明るく笑っているような感じで言った。

「そろそろ100円玉、なくなってきた」

「え? 100円玉入れ続けてかけるの、公衆電話って? 私、使ったことないから分かんない」

「市内なら10円でかけられるけど」

「そうなんだ。公衆電話ってたまに見かけるけど、誰も使ってないよね。そうそうそう。じゅんくんの家の電話の市外局番の047ってどこか分からなかったからググってみたけど、千葉県の市川ってところだね。そこってディズニーランドの近く?」

「千葉って言うと、みんな必ずそう聞くんだよな」

 俺は笑って言った。でも、市外局番は047じゃなくって、本当は0472までなんだけど。そんで美緒の世界では043に変わっているけど。

「あ、じゃあ、まじで100円玉やばいんで、また電話する」

「うん、待ってる」

 束の間の至福の時間は終わった。こんな話の内容、ここの友達とはできない。裕一郎にも星司にも洋にも、まずはこんな話しても内容が通じないし、もうほとんど言葉が通じないといってもいいだろうな。だから、こんな話を思い切りできる美緒って存在は俺にとって故郷みたいな感じだ。それに、美緒と話してるとすごく楽しかったし、胸もキュンとなった。

 だったら北川優子なんて存在にアタックする必要あるのかなとも思ったけど、美緒は電話で話せても会って話すことは不可能。いっしょにどこかに遊びに行くこともできない。

 ま、成り行きに任せるか……俺は公園から自宅へ戻る前のごく短い道のりで考えていたりした。


 翌日の日曜日、大村洋が受けると言っていた四谷ゼミの模試の日だけれど、たぶん俺は申し込んでいないので家にいた。そもそも記憶の細い糸をたぐっても、俺は学校で強制的に受けさせられた進研模試のほかは、三年生になってからしか自ら申し込んで日曜日に受ける模試など受けたことはなかったはずだ。

 この日も暇殺だったけれど、なんとか時間をつぶしてという感じで一日終わった。また美緒に電話とも考えたけれど、そう毎日毎日電話していてはしつこいと思われそうだし、こちらサイドとてスマホで手軽に電話できる状況ではない。家族の様子をうかがって家の固定電話からかけるというのも、また外に出て公衆電話からかけるというのも、このころの高校生なら誰もがそうしていることなのだけど、手軽さに慣れてしまった自分にはなかなかこの時代に合わせるのは気力がいることだった。

 そうして翌日の月曜日、俺はまた詰め襟の制服を着て学校に向かった。昨日までずっと曇っていたけど、久し振りに晴れた。制服は夏服ではあったけれど、ただ生地が薄くなっただけで外見は冬服と変わらなかった。この上着なしの白いワイシャツだけで登校できるようになるのは、たしか七月になってからだったと思う。

 黒い詰め襟学生服だと少々暑いと感じる陽気になってきたけど、もう少しの辛抱だと思ってとにかく学校に辿り着いた。途中、いつものように一緒に登校していた裕一郎や星司には、例の北川優子の話はしていない。彼らはまだその名前も知らないはずだ。

 クラスの違う彼らと別れて自分の教室に入った俺は、ちょうど教室から出てきた大村洋とばったり会った。

「おお。どうだった?」

「ああ」

 それだけで、洋は俺が言おうとしたことは分かったようだ。当然、松下昭子のことである。聞かれた洋は歩きながら、あははという感じで笑った。

「会えなかったよ」

 そのまま洋は歩いていくので、俺もそれに歩幅を合わせた。洋はちょうど教室の向かい側のトイレに入って行ったので、気になった俺はそのままついていった。

「なんだよ、トイレの中まで付いて来なくたっていいだろ」

 そう言いながらもの洋は、ばつが悪そうに笑っている。

「だって、会えなかったってどういうこと?」

「時間、間違えちゃった」

「ばかじゃないの」

 用をたしている洋の後ろで、俺は噴き出した。

「いや、一時半に行ったのにいなかったんだよ。で、これはからかわれたなって思ったんだけどね」

 話しながら教室へと向かう。

「そしたら夜に北川さんから電話があって、よく聞いたら約束は一時だった。俺が一時半だっただろって言ったら最初は一時半ってことだったけど、電話切る時に『あ、やっぱ一時』って言ったでしょだって」

 LINEとかだとこういう間違いしなくて済むのになあと、俺は思う。それに携帯があれば、待ち合わせ時間にいなかった時点ですぐに携帯に電話がかかってくる。

 仕方がないことだけど、今の洋の話の中で、北川優子が言ったという「あ、やっぱ一時」って言葉が妙に印象に残った。

 そういえば本来の俺なら、実はまだこの時点では北川優子の顔も知らないはずなのだ。だが、俺は知っている。いや、知っているといっても遠い記憶の彼方にかすかに残っているという程度だ。裕一郎や星司、洋などはつき合いも長いし、また写真もけっこう残っているのでこの当時の顔なら見てすぐに分かった。だが、北川優子は一枚も写真を撮らなかったので、顔はうっすらとしか思い出せない。それでも一応、顔は知っているということになる。

「それで」

 俺は話を続けた。

「松下さんと会えなかったのは仕方ないけど、北川さんと電話したんなら、俺のことそれとなく言ってくれた?」

「あ、忘れた」

「まじかよ」

「え?」

 そうだ。その言葉は通じないのだ。とにかく、どうせそんなことだろうと思った。実際、あまりあてにしていなかった。

「今度かかってきたら言っとくよ」

 それから洋は真顔に戻って、少し視線を落とした。

「でももう、かかって来ないかもな」

 実は俺もそこが気になっていた。つまり、なぜ松下昭子と会う約束を本人ではなく、北川優子が洋に電話したのか……。

 どうも不自然だし、なんかありそうだなという気がする。洋がもう電話はかかって来ないと予想しているのもそれと関係があるのかなと思ったけれど、いいにした。

 本当に昔俺は、これと同じ体験をしたのか……はっきりしない。もしかして俺は今、昔とは全く違う新しい体験をしているのか……とにかく記憶が定かではないので何とも言えない。

 ただ一つだけ、絶対に昔には体験していたはずがないということがある。

「純一、電話!」

 夕方自宅に戻った俺を呼ぶ母の声が、階段の下から響いてきた。

 誰だろうと思いながら、俺は階段を下りる。

「齊藤さんっていう女の子」

「え?」

 俺が階段を下りる足が速くなった。

「彼女?」

 にやにやしながら母が聞く。

「そんなんじゃないって!」

 俺はとにかく母から受話器をひったくると、電話のコードを伸ばして隣の部屋に入ってドアを閉めた。でもコードがあるから完全にドアは閉まらない。

「あ、じゅんくん? 今いい?」

「うん、暇してた」

「やだあ、もう、ちょー緊張した。宅電に電話しておうちの方に取り次いでもらうなんてこんな経験したの初めてだから。なんか私、声うわずってたんじゃないかな」

「大丈夫だよ」

 俺は笑った。

「なんか俺のせいで面倒な思いさせてごめんな」

「それは、ぜーんぜん大丈夫。ていうか、じゅんくんて優しい!」

 なんかそう言われると照れる。

「それより、面倒な思いまでして電話くれてありがとうな」

「昨日電話来なかったから、どうしてるかなって思って」

 なんだか胸が熱くなるぞ、こら。でもなんか話に集中できない。ドアの向こうで母親が聞き耳立てているんじゃないかと思うと、気が散ってしょうがない。

「今日、何してた?」

 俺はとりあえずそう聞いてみた。

「うん、やることないし、一日ゲームして、録り置きしたアニメ見て、ずっとTL流して」

 いいなあ、なかなかデジタル生活してて。俺はアナログ生活で本当に暇だったんだゾ……というのはさすがに言えない。でも感じるのは、この電話線の向こうは令和の時代。確実に時空を超えた会話がはずんでいる。

「今期のアニメもそろそろ山場よね。もうすぐ最終回だものね」

 ああ、その話題になったら、今の俺は手も足も出ない。

「そうだよね。今期はちょっと不作だったな」

 話を合わせるけれど、その不作だったアニメの最終回を、俺は見られない。

「やっぱ、あの勇者様が最高だった」

「今期でハマったっていったら、たしかにそれだけだよ、まあ、異世界ものはまずはずれがないよね」

 勇者様の最終回も見たかったなあ……てことでアニメ談議からアイドルの話……そういえば一昨日の土曜日って、俺が推してる声優アイドルのかやにゃんのライブだったんだよな。チケット押さえてたのに、干しちゃったな……もう、どうしようもないことだけど。

 そんな、なんだかんだで結構長く話したが、突然ドアの外をノックする音がした。

「お兄ちゃん、いつまで話してるの? 私も電話するところがあるんだけど」

 妹の彩乃の声だ。電話も家族共有だとこういう不便さがある。

「ごめん、妹が電話使うんだって」

「え? 妹さんがいるの? 何年生?」

「中三だけど」

「妹萌えのアニメを地で行かないでよね」

 いや、こちらは妹萌えのアニメというよりも、タイムスリップ? それとも異世界召喚? 今ガチでそんなアニメを地で行ってるその真っ只中にいるんですケド。

 とりあえず今日の電話は終わって電話機をもとあった場所に戻すと、食事の支度をしている母の小言が飛んできた。

「純一! 電話が長い! 電話は用件だけにしなさい」

 用件って、別に用があって電話している訳じゃなくて、話したいから電話しているのに……そんな反感が俺の中をよぎった。やはり頭の古い大人とは意思疎通はできそうもない……え?

 ふと気がつくと五時になったらしく、妹が見ていたテレビからチェッキーズの聞いたことのある曲が流れだした。

 裕一郎や星司と話題になった「夕ぐれニャンニャン」が始まったので、俺はテレビの前に飛んで行った。星司たちについ言いそうになってしまったけれど、俺は知っている。そうだ、来月だ。来月発売になるデビュー曲は今でもそらでフルコーラス歌える。でも、今人前で歌ったりしたらまずいよな。まだこの時代の人々はその曲の存在を知らないのだから。


 翌朝、俺は黄色い電車のドア付近に立って、星司が乗ってくる途中駅に着くまでの間、ドアの外を流れて行く景色をぼんやりと見ていた。空はどんよりと曇り、梅雨の真っ最中らしく今にも雨が降りそうだった。

 思えば、毎日三十分近い乗車時間を立ったまま乗っている。不思議と苦にならない。この時代に来る前は三十分を立ちっぱなんてとても耐えられず、ターミナル駅からの始発電車に乗るという特権を生かして電車を数本見送って並んででも必ず座っていた。今は立っていても平気なのだ。

 そうして景色を見ながら、昨日の夕方の美緒との電話のことを思い出していた。この景色を見ながらあの電話で話した内容を思い出すと、まるで夢の中の話のような気がする。つまり。今見ている景色が現実だということになる。だが、ついこの間までの生活から考えると、今の方がはるかの夢の中のはずだ。もう、何がどうなっているのかわからなくなる。

 途中の駅で星司が乗ってきて、学校の最寄り駅では裕一郎も合流するといういつもの日常が始まった。そして学校に着くと、隣の席にはもう洋が来ていた。

「松下さんからの電話、やっぱ来ないよ」

 洋はまたその話だ。頭の中に美緒との電話のことがこびりついていた俺は、松下さんの名前とか付随して北川優子のこととかが飛び込んできて、一気に“現実”に引き戻された気がした。

「そういえば松下さんってどこに住んでるの?」

「新小岩」

 それでこの間の日曜に新小岩駅で洋は松下さんと待ち合わせしたのか……。

「じゃあ、北川さんも?」

 思い出しついでに聞いてみた。俺としては、本当についでだった。

「いや、船橋だよ。駅のすぐ近くって言ってたな。あ、そういえば永原!」

 洋は俺から見て洋とは反対側の列の一つ後ろになる席の永原甲介を呼んだ。俺の中では甲介という下の名前しか記憶に残っていなかったが、永原という姓だったんだ。髪は少し長めの細身の男である。

「永原って、家、船橋駅の近くだよな」

「ああ、歩いてすぐだけど」

「おまえんの近くに鴻池の女の子が住んでないか?」

「いるよ、一人」

 甲介は即答だった。

「その子、北川優子っていわないか?」

「え、そうだけど、なんで知ってんだよ?」

 甲介は驚いたような表情で、座ったまま全身を洋の方へ向けた。

「ええ?」

 驚いた声は、洋からもだった。

「世の中、広いようで狭いな」

 甲介ははっと何かに気付いたような顔をし、すぐに何かに納得したかのように軽くうなずいた。そして言った。

「やめとけよ、あんなばか女。小学校の時同じクラスだったけどすげえ頭悪くて、みんなからからかわれてたよ」

「いや、別に俺じゃない」

 慌てたふうに洋は言うと、俺を見た。

「内藤が気になってるって」

「ちょ、おま」

 俺は慌てて制したけれど、また甲介は納得したような顔をした。

「内藤かあ? やめとけって」

 今度は俺に言った。俺は洋の方を見た。

「本当にそんなに頭悪い子なんか?」

「ん、まあ、かわいいことはかわいいけど、んー白痴美?」

「そりゃ言い過ぎだろう」

 最初に北川優子のことをばかと言った甲介さえ、そう言って笑っていた。だが俺は逆に、北川優子に親近感を覚えていた。やっぱ、会ってみたいなあと思った。

 もう記憶の中で薄れかけているその顔を直接見て思い出したいし、せっかく本物の17歳になれたんだから青春してみたくなった。

「やっぱしおめえには似合わねえよ」

 突然、洋が言いだした。俺はふんと鼻であしらっておいた。

「内藤がいいって言うんならいいんじゃないか」

 甲介はクールだ。

「俺だったら、あんなうるさい女はいやだけど。もっと静かに、図書館で本とか読んでいるタイプの方が好きだけど」

「いや、俺は明るくてにぎやかな方がいいな」

 それは俺の本心だった。

「ま、人それぞれってことで」

 洋が割って入って、甲介も一応納得しているようだった。

「なんかあの子、スヌーピーみたいな感じだよね」

 洋が笑う。甲介もうなずいた。

「そうかもしんない」

 俺はなんとかまた記憶の糸をたぐろうとする。たしかに、そんな感じだったような気もするけれど、でももっとかわいい子だったような……思い出の中で美化されているのか……??? とにかく会えば、分かると思った。

 だが、そう、結局破局を迎えることになる……だけどそれは、昔はそうだったということで、今自分がいる世界での未来でも必ずそうなるかどうかは分からない。なにしろ俺は今、過去を“やり直して”いるのだから。

 だけど、その破局の要因の一つが、去年彼女がつき合っていた山木隆夫の存在だったように記憶している。具体的に何がどうだったのかまでは思い出せないが……。だから“やり直す“以上、その隆夫のこともしっかりと踏まえていくしかないと思った。

 実は俺は、山木隆夫とは面識はあるものの、それほど親しくはなかったような気がする。だから隆夫に直接、北川優子のことを聞くということは抵抗があった。

 だからやはり、洋に聞くしかない。

 そう思った時に、朝のホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。

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