第2話

 パッと目を開ける。

 もう外は明るかった。

 いつものベッドで目覚め、カーテンを開けようとして手を伸ばした。その時、自分の手に何か紙きれみたいなものを握っていたようで、それが床に落ちたけど特に気にもしなかった。

 そして、カーテンを開ける。

 ん?

 いつもの自分の家の二階の窓から見える風景なんだけど、どっかなんか違うなあ? 隣の鶴川さんの家、リハウス前の茶色い木の壁で灰色の瓦屋根の家になってる。

 部屋の中を見渡してみる。

 え? え、え、え?

 部屋はいつもの部屋なんだけど、なんかすっごく懐かしい。

 いつもと違う本棚、そして壁のポスター……でもすごく見覚えがあるんだ……いつものアニメキャラのポスターじゃなくって実写。これ、きゅんきゅん? しかも若いころのきゅんきゅん? きゅんこじゃなくてきゅんきゅん。それに若いころの鎌田松子……。

 もう狐につままれたように、俺はただ茫然としてた。

「純一! 学校に遅れるよ!」

 母親の声だ。今日はやけに若々しくて張りがある声だ。すると、どんどんと階段を駆け上がる音。いくら静かに階段をあがれと言ってもどたどた音を立てないと階段を上らない息子がまた上がってきたかと思った。

 そして部屋のドアが開く。顔を出したのは……え? 女の子? 誰?

 でも見覚えのある顔……あ! 妹の彩乃だ! でも、彩乃じゃあない! でも彩乃だ!

 語彙力がないから何のことだかわからないな。つまり……顔を出したのは妹の彩乃だけど、今の彩乃じゃあない。今では彩乃はとっくに結婚して子供もいて、違う家に住んでいて、どうしょうもなくおばさんになってる。ところが目の前にいるのは昔の彩乃! そう、中学生くらいの時の……。

「あのねえ、私、部活あるから先に学校行くから、で、友達に貸す約束してるからチェッキーズのレコード、返して」

 レ、レコード? チェッキーズ? 

「昨日の夜に返してって言ったのに、お兄ちゃん、これから聞くから明日の朝に返すって言ったじゃない」

 部屋の中を見回すと、たしかにベッドの足もとの上、机の脇の棚の上にアナログレコードのプレーヤーがあって、そのケースの上にアナログのLPレコードが置いてある。

――うわ、でか! 

 アナログレコードのLPってこんなに大きかったっけ?……そう思う。それをとりあえず彩乃?なんだろうなあ…に渡す。

「とにかく朝ご飯だから、早く下りてきなさいよ」

 彩乃はそれだけ言って、レコードを持って階段を下りて行った。

 ここでこうしていてもはじまらない。なんかとてつもなく異常な状況にいるんだけど。

 まずはこの部屋の外の様子も知るべきだ。そう思って俺は階段を下りた。

 階段の途中では、これまでの日常と同じ感覚だった。

 下のダイニングのドアを開ける。テーブルはいつもと同じ。でもその向こうの食器棚が古い。もうとっくに捨てたはずの、昔使ってたやつ。

 そして。テーブルの中央の、いつも俺が座っている席には……

「親父……」

 もう二十年以上も前に死んだはずの親父……しかも、死んだ当時の老人ではなく、まだ中年……。

 俺は最初、とてつもなく恐ろしいものを見た気がした。なにせ死人が生き返っている。もう明るい朝の光の中で幽霊を見たような恐怖があった。でも、その感情はほんの瞬間だった。

「親父だって?」

 父は笑った。

「パパのこと親父って呼ぶなんて、急にどうしたんだ?」 

 もう、恐怖はなかった。その代わりになんだか熱いものがこみ上げてきて、思わず涙腺まで緩みそうになった。

「早く座りなさい」

 ダイニングにつながっているキッチンで、立って料理をしているのは母だ。でも、おばあちゃんなんて呼べる感じではない。

 そう、俺が親を親父、お袋と呼び始めたのは大学生になった頃だった。それまではずっとパパ、ママだった。そして、パパ、ママと呼んでいたころの若い親父とお袋……て、ことは……

「ねえ、今、何年?」

 俺は慌てて、新聞を広げている親父、いやパパに聞いた。新聞なんて、ネットが普及してからもうとっくに我が家ではとるのをやめていたはずだ。

 親父は鼻で笑った。

「何言ってんだ。昭和60年に決まってるだろ」

「え?」

 俺は慌てて、洗面所に駆け込んだ。そして洗面台の上の鏡を見た。

 しばらくは言葉が出なかった。心は17歳と信じていても、どうしても抗うことができなかった肉体の老化……それなのに……鏡に映っている自分は紛れもなく高校生の若者だった。昭和60年には、記憶をたぐれば俺は高校二年生、ちょうど17歳だった。

 もう唖然として、しばらく俺は本当の17歳の自分の顔を、鏡ごしに眺めていた。

「純一、早くご飯食べなさい」

 キッチンの方から母の声がした。

 とりあえず、飯食うか……。

 俺はダイニングに戻った。

「彩乃、おじいちゃんとおばあちゃんも呼んできなさい」

 母が言う。

「え? わたし、もう学校に行くんだってば。それに、おじいちゃんもおばあちゃんももう来たよ」

 彩乃の言葉と同時に、ダイニングの入り口のドアが開いた。

「おはようさん」

 そう言って入ってきたのは……。

「おばあちゃん!」

 おばあちゃんとはお袋のことではない。本当の自分の祖母だ。そのうしろにはおじいちゃんも……。もう三十年以上も前に死んだおじいちゃんとおばあちゃん……。

「なんだい純一、ばあちゃんの顔になんかついてるかい?」

 おばあちゃんはそう言って笑って、テーブルの席に着いた。俺はもう全身が硬直していた。もう二度と会えないはずの人に、今会っている。全身が震えた。涙が出そうになって、慌てて席を立った。

「先に顔洗ってくる」

 洗面所に駆けこんで本当に顔を洗いながら、俺は考えた。まずはこの異常な状況について、冷静に判断しなければいけない。いったい何がどうなっているのか、なぜこんなことになったのか……。

 とりあえず座って、パンにバター塗って、ついてたテレビを見た。テレビも液晶画面ではなく、ブラウン管だ。画面の幅がぐっと狭い。いつもの位置よりも少し手前の、エアコンの下あたりに置いてある。

 テレビではCMやってる。「デリシャズじゃなくデリーシャスよ」と竹下さん、「♪二十四時間ラララ~ララララ~」、そして「♪今の君は~」で日向美穂(しかも若い)が服を脱いで水着に……。頭がくらっとする……。そしてCMが終わって朝のニュース番組で、話題は鎌田松子と飯田聖輝との結婚式の日取り発表の記者会見の模様……。

 そんなの見てるとまた頭が混乱するのでとにかく急いでパンをほおばり、二階に上がった。これから学校へ行かねばならないらしい。学校へ行くなら制服を着なければならないだろうし、さっき起きて部屋を見渡した時に、ベッドのそばの壁に黒い詰め襟の学生服が掛けてあるのを見た。

 確かに学生服はあった。だが、すぐに着替える気もせず、ベッドに腰掛けて、まずは冷静に状況分析を試みた。

 まず今の状況を確認すると、今は昭和60年だということ。

 時間がその時に戻っている。昭和60年だと自分は高校二年生だったが、まぎれもなく自分はその高校二年生である。鏡に映った姿は、間違いなく高校生だった。

 家の中や窓から見える町の様子も、その当時のものである。そして家族もあのころの家族である。祖父母も父も健在で母も若く、妹も若い。

 そして、家族は今の自分がここにいることが当たり前であって、彩乃がレコードのことを言っていたことからすると、自分の存在は家族の中では昨日までとそのまま連続している。

 だけれども、自分自身にとっての昨日までは……ちゃんと塾の教室長として働いていた。妻もいたし子供もいた。そして外ではスマホ、家ではパソコンをいじる時間がほとんどだった。

 アニメオタクでドルオタで、そしてミオという女子高校生と毎晩DMで会話……

 自分の記憶はそのままだ。それがその記憶はそのままにいきなりこの時代に飛ばされてきた。そうだ、ミオ……。

 そう、そのミオという会ったこともない少女が、すべての発端だったような気もする。ミオともっと接したい、ミオと会いたい、そう思う俺にはものすごい障壁が立ちふさがっていた。俺が17歳だということが肉体的にももし本当だったら、俺とミオは何の気兼ねもなく……。

 もう一度俺は、部屋の中を見渡してみる。俺の部屋であって俺の部屋ではない。つい昨日まで生活していた家と同じ家であって同じ家ではない。そして俺も、俺であって俺ではない…。

 どうしてこんなことになったのか、まるで現実とは思えない。アニメではよくある展開だ。でも、周りを見回しても、異常な世界ではあるけどここは三次元だ。

 そして記憶をたどる。俺はここで目覚めたが、昨夜は寝てはいない。ただ意識が遠のいていって、やがて気絶するみたいに倒れ込んで、そして気がついたらこの世界のベッドの布団の中で普通に寝ていて、そして目覚めた。

 気を失う直前は…? そう、俺は強く念じていた。切実に17歳に戻りたいと。頭から湯気が出るくらいに念じていた。そうしたら声がしたんだ。

 ――想いは必ず物質化する……

 でも、だって、しかし……俺がそう念じたのは、ミオと気兼ねなく会うため、せっかくミオは直電まで教えてくれたのに、こういう状況になっては逆にミオとの関係は断たれたようなものじゃないか……。

 ミオに会うために17歳に戻りたい。そう思って、そしてそうなった。でもそのせいでミオに会えなくなってしまった……これじゃあ本末転倒だ。

 ふと、その時思い出した。

 さっき目が覚めた時、俺はなんか紙切れを握ってたな。そう思って俺は窓の近くの床を探したら、紙きれが落ちているのはすぐに分かった。

 何気なく開いてみる。そして俺は愕然とした。

 そこには俺の字で数字の行列が。

 ――09078XX55XX

 これって……唯一俺が昨日までいた世界から持ってきたもの……そしてこれはミオの直電の番号!

 でも、今のこの世界でこの番号があっても……

「純一、まだ学校行かないの!」

 階段の下から、母が叫ぶ。とりあえず俺はその紙を机の引き出しに入れた。引き出しの中もいろいろ見たかったけれど、今はそんな時間はない。

 学校の制服を着る。黒い詰め襟の学生服。今どき、いや今ここにいる今じゃなくって元いた今……ややこしい! とにかく令和の時代だったらこんな制服の学校はもうないよと言いたいところだけど、俺が卒業した学校、つまり今から行こうとしている学校は令和の時代になっても同じ制服なんだよな。電車の中とかで時々見かけるから知ってる。

 さすがにかばんは、令和の時代にはないしろもの。革の学生かばんを、どうやったのか加工して薄く潰してる。記憶をたどると、たしかこのかばんは先輩からもらったもので、その時点ですでに潰されていた。潰してないのは豚かばんとかいってダサさの象徴だったよな。

「今日、天気予報だと雨だってから、傘持って行きなさい」

 母のそんな声を背中に、とにかく俺は外に出た。

 外の道を数歩歩いただけで、なんか体が軽いなあって感じがすることに気付いた。

 駅までの道は、昨日まで俺の世界で毎日歩いていた道。変わっている風景も多いけど、基本は変わらないなあ。でもこの頃って、みんな家の屋根は重い瓦だったんだな。家の壁も木造丸出し。

 そうそう、前はこここんなだった――

 え? こんなだったっけ?――

 全く変わっていない――

 そんなふうにいろんな家がある。

 とにかく毎日通っている道がいつもと違う風景というのは、なんか新鮮だ。って、そんなのんきな状況じゃないんだけど……。

 駅に着いた。駅だけはずいぶん形が変わってる。まだ階段に屋根がついていなくて階段がむき出し。だからホームの上の駅舎がよく見える。そして何よりも大きな違和感は……まだモノレールがなかったんだ!

 そんなことに感心していると、電車の接近放送。俺は慌てて駆けだして、駅の階段も一気に駆け上った。

 あれ……?

 変な気持ちだった。あれだけ走ってこんな階段を一気に駆け上っても、多少呼吸が乱れている程度でそれもすぐに元に戻った。今までの俺ならこんな階段を駆け上ったりしたら息が切れて胸も苦しくなって、しばらくは座りこんでしまっていたかもしれないのだ。

 だけど、体は元気でもとにかく頭がくらーっとするようなものを見てしまった。

 改札が有人改札だった。囲いの中に駅員が立っていて、乗客たちの切符を切ってる。

 そうなんだ、そうなんだ、たしかにそうだったんだ。そんな駅員が入っている囲いは四つくらいあって、朝のこの通勤時間帯はフル稼働だ。ただ、やはり今の時間は定期の人が多いみたいで、みんな定期券を駅員に見せて通っている。

 そういう俺も、ポケットを探るとちゃんと定期入れに入った紙の定期が出てきた。それを、切符切りの駅員の目に見せればいいはずだ。なんか、ものすごく緊張したけど、無事に駅の中に入れた。

 いつもだったらスマホを自動改札にピッ! モバイル定期券にしてるから……そういえばなんか物足りないと思ってたら、朝からスマホ見てない。いつもの自分だったら考えられないけれど、スマホなんか、ない!

 改札を入って、たしか目の前の多機能トイレがあるはずの場所にホームに下る階段がある……いや、あった……はず。でも、階段は一か所だけで、いつも利用しているエスカレーターもエレベーターも姿も形もない。

 決して初めて見る光景ではなく、むしろ昔は見慣れていたはずなのに、再び直面するとやはり新鮮なものである。

 でも、そんなのをじっくり観察している暇もなく、電車が来た。各駅停車だ。それがなんと……。

 いわゆる横須賀色という濃い青とクリーム色の懐かしい電車が来た。全車両がボックスシートだ。そんな電車に詰め込まれたけれど、どうせ二駅で降りる。降りたら乗り換えだ。

 その到着したターミナル駅は、もう全然違っていた!

 乗り換えるホームまでは、そうそうこんなふうに前方は上に昇る階段で跨線通路、後ろの方は下に降りる階段で中央改札がある地上通路だった。つい昨日までのホームの上の階のコンコースも駅中の多くの店もまだ全く存在していない。

 乗り換える電車も、あの懐かしいカナリヤ電車……ステンレスに黄色いラインではなく、全面が黄色に塗装されている。ここからは始発なので、一、二本見送って並べば座れる。電車の車体の色が違うこと以外は、電車を待っている時に目に入る風景はほとんど俺の昨日までの光景と変わりない感じだった。大きな違いは、これから乗る電車がJRではないこと。JRではなく「国鉄」なのだ。そしてさらに大きな違いは、俺が若い肉体を持ち、高校の制服を着ていることだ……。

 電車が発車して車窓の景色を見ても、そんな極端な変化はない。今どこを走っていて、次は何駅かって景色を見れば分かる。

 だから景色見るのも飽きて、ついついいつもの癖でポケットを探る。そうだ、スマホないんだ…スマホがないと電車の中がこんなにも手持ち無沙汰なのかと驚いた。

 さらなる違和感は、だんだん乗り込んでくる乗客の中でも、今の俺と同じ高校生の制服。この制服はあの○○高校の昔の制服だなんて分かるのもいる。男子は詰め襟金ボタンが多く、ブレザーにネクタイはまだ少ない。そして女子がやはりダサいブレザーとひざ下までの長いスカートでめっちゃダッサダサ。もちろん、明陽女子大付属のように、数少ないセーラー服の生き残りといわれている学校の制服は今も車両内にちらほら見えるけど、みごとに変わっていないな。ま、俺がこれから行こうとしている高校も、制服は全く変わっていないけどね。

 ふつう、高校生の電車の中での過ごし方は友達がいれば話しするだろうけど、単身だったら試験前なら勉強していたりするか、そうでなければまずはスマホが基本だったはずだ。けれど、スマホがないこの世界ではみんなどうしてるのかなと観察してみる。

 座ってる人は寝てるか本読んでるけど、立ってる人はただボサーっとしてるだけみたい。でも、音楽を聞いてる人もいる。

 俺の前に立ってる女子大生風のお姉さんも白いコードのイヤホンで音楽聴いてる。もちろん、スマホにコードがつながっているはずもなく、そのうちかばんを探って取り出した端末は……おお、懐かしのカセット・ウォークマン。その蓋をあけてカセットテープをとりだして、裏表ひっくり返して再度装着し、蓋をパタン。お姉さんは当たり前の行動を当たり前にしてるんですって顔ですましてる、いや、実際そうなんだけど……。

 駅に着いた。駅前の風景は、ここに関しては驚くほどこのころと俺がいた時代とで変わっていない。屋上にボウリングの巨大なピンがあるビルも、このころも未来も変わっていない。

 そしてあの光景を、俺はまた見る。

 俺の行く男子校の竹川高校の生徒は道の右側の歩道、隣の女子校の大正学院の生徒は道の左側の歩道に見事に別れる。別にそんな決まりがあるわけではないのだが、自然とそうなる。そんなことを思い出してたら、今目の前の光景も全くそのままだった、

 不思議なことに、道の右側を歩く竹川高も道の左側を歩く大正学院も、将来的には両方とも共学高になるんだよなあ……。そんなことをふと考えて、俺ははっと気付いた。

 俺は肉体的にも17歳に戻ったけれど、つい昨日までの記憶はそのまま……てことは、つまり、俺はこの世界で、未来を知っている存在なのだ、

 でも、記憶はあまりあてにならない。昔、ある大学生が二十年前にタイムスリップして、未来を知っているから予言者的存在になって金儲けをするって小説読んだけど、あれと同じようにはできないよな、俺。

 第一未来から来たっていっても、記憶を持ったまま高校生に戻ったということで、タイムスリップとはちょっと違うんじゃないか?

「おい、純一」

 そんなことを考えて歩いていたら、後ろからポンと肩を叩かれた。

 振り返ると、知っている顔だ。

「おお、星司?」

「なんで今日、いつもの所に乗ってなかったんだよ?」

 よく言えば紅顔美少年だけど、童顔のお坊ちゃんって感じの渋沢星司。

「ごめん、ぼーっとしてた」

 そっか、俺は毎朝この星司と同じ電車の同じ車両に乗りわせて一緒に学校に来てたんだ。未来を知ってるって言っても、もっとよく知ってるはずの自分の過去の記憶の方があいまいだ。ちょっと待て。この時代の人々にとっては未来は、俺にとっては過去。だから過去の記憶があいまいだから、あまり未来を知っているとは言えない……。なんだかややこしや!

 その未来の記憶、というのも変な言葉だが、その未来の記憶によればこの紅顔美少年のなれの果ての姿も知っている。高校卒業後しばらくずっと疎遠になっていたけれど、ある日ちょっと前に大流行していた某SNSでこの星司を見つけた。こともあろうに星司は、近影ですとか言って小さな娘とともに移った画像を送って来やがった。切実に見なければよかったと俺は思った。そこに写っていたのは今目の前にいる紅顔美少年の面影はかけらもない、頭が禿げてお腹の出た見事なおっさんだったのだ。

 将来はなくなってしまうことを知っているこの少年のみごとな黒髪を、俺は何気に見た。

「どうした、純一。何かあった? 元気ないじゃん」

 そりゃあ、何かあったどころの騒ぎではない。あり過ぎて本当はパニックになっていなければならないところなんだが、なぜか冷静な俺が自分でも不思議だった。

「べつに」

 だから、そう答えておいた。

「よお」

 そこに顔を出したのは……あ、沖田裕一郎。

 俺は絶句して、思わず立ち止まりそうになった。こいつ、この時から三年後に……、いや、その話はやめよう。

 だが、ちょうど交差点に差し掛かって信号が赤になったので、実際に立ち止まることになった。

「ねえ、見た見た見た? 昨日、テレビ」

 さあ、俺、見たんだろうか?

「鎌田松子の結婚式が十日後に決まったって」

 そう、たしかに裕一郎はいつもこんな話題だった。

 信号が青になり、俺たちはまた歩きはじめた。

「見たよ。驚いたな」

 俺は冷静に答えた。実は昨夜ではなく、ついさっきの今朝の朝食の時に見たんだけど、実は昨日から発表されてたんだな。

「あれ? なんかあまり驚いてないような」

 星司が歩きながら俺の顔をのぞきこむ。そりゃそうだ。そんなこと、とーーーーーっくの昔に知ってるんだ、こっちは。

「だってあの二人、前からつき合ってたし、四月の時点で婚約発表してたしね」

 裕一郎が代わりに答えてくれる。

「そうそうそう、原ひろしと別れたすぐあとだったよね」

 そんな二人の会話に、俺は記憶をたどってみてもそんな細かいところまでは思い出せなかった。それよりも俺は、覚えている未来もある。来年には娘の亜矢加が生まれる。

「あの二人はあと十年」

 そう、鎌田松子と飯田聖輝とは十年ちょっとで離婚するんだ。うっかりそのことを言ってしまいそうになって口をつぐんだ。そんなことは言わない方がいいに決まっている。ま、言っても信じてもらえないか、ただの個人的予測としかとらえてはくれないだろうけど。

「あと十年?」

 星司が興味深げにつっこんできたけど、俺は首を横に震わせた。

「なんでもない」

 タイムスリップもののラノベや漫画でお約束の、主人公の悩みだ。つまり、自分が過去を変えてしまっていいものかどうかということ。でも俺の場合はタイムスリップしたわけではなく、記憶を持ったまま過去の自分に戻ったって感じだけど、やっぱ似たようなものか?

 って、こんな異常事態を、ほんと不思議なんだけど冷静に受け止めてるんだよなあ、俺。

「そうそう、歌手なんか追っかけまわしてたのは中学ん時までだよ」

 裕一郎が苦笑したように言う。たしかに中学生の時はきゅんきゅんや松下美代、石田仁美、早坂美由、中田明日菜とかアイドルラッシュだったけど、その後しばらくは新しい人はあまり出なかった気がする。いや、出てたんだろうけど俺の記憶には残っていない。

 だから裕一郎には同意した。

「それなー」

「はい?」

 同意してやったはずの裕一郎が、怪訝な顔で首をかしげてる。でも、すぐに星司が割り込む。

「そうそう、今はもうの時代だよ」

 え? そっか、子ねこクラブもこのころだっけ? もうちょっと後だった記憶があったけれど、ブレイクしたのがもうちょっと先ってことで、芸能界デビューはしてたんだ。つまり秋友さんの時代は、もうこのころから始まってたんだな。

「まあ、あの歌の歌詞は衝撃だよな。いいのかよって感じだけど」

 そう言いながら俺は、頭の中でさっと計算した。秋友さんもまだ二十代のはずだ。

「え? 歌? 歌って?」

 星司は首をかしげている。

「子ねこクラブの曲だよ。セーラー服を…」

 そこまでいいかけて、俺は口をつぐんだ。もしかしてまずいこと言っちゃったかな?

「子ねこクラブって、レコード出してたっけ?」

 星司が言うと、裕一郎がすぐに口をはさんだ。

「レコードなんか出してないよ」

 そうか、ユニットとしてのCD…じゃない…レコードデビューはまだだったのか…。

「出すよすぐに、きっと」

 俺は思わず言ってしまった。

「出したら、大ブレイクする。きっと」

 いちいち「きっと」をつけなければいけないのがもどかしい。

「ブレイク? 壊れるの?」

 星司がまた首をかしげる。どうも言葉が微妙に通じないから困る。

「ヒットするってこと。それより星ちゃんは子ねこの誰を推してんだよ」

「おす? おすって背中押すの?」

「は? 推すっていったらそういうことじゃねえだろ。北生ほくしょう推しとか橘田きったさん推しとか」

「何言ってるか分かんないし。おしって何?」

「まじかよ」

「え? マジック?」

 俺はため息をついた。そっか、さっきの「それな」も「推す」も「まじ」も、この時代の高校生には通じないんだ。たしかにそうだったよな。

 なんかこれ以上話しているとぼろが出るので、会話はあとの二人に任せて、俺は通学路の景色を確認しながら歩いた。

 駅前もそうだったが、このあたりはほとんど変わっていない。

 ただ、ふと気付いたことは、自宅やその周辺は昨日までいた時代でも毎日歩いていた道だからその変化を目ざとく見つけられたけれど、このあたりは高校を卒業してからはほとんど来たことがない。だから令和の時代にはどういうふうになっているのかよく知らないから、変化が見つけられないのかもしれない。ただただ懐かしいなあという感じだ。

 なぜこんな異常な状況になっても俺は落ち着いているのか……突然異世界に召喚されるアニメにハマっていたから、現実でそれが起こっても二次元の世界と混同していて動じないのか……でも、いくらガチオタでも、リアルと二次元の区別くらいはつく。ここは二次元ではないし、ゲームの中でもない。周りの風景も三次元だし、隣を歩いている裕一郎も星司も、みんな血の通ったリアルの人間だ。

 他にアニオタでなくても誰でも考えること……つまり夢ではないかということ。たしかに夢の中にいるときは、その夢を現実だと思っている。でも最後はやはり「これは夢なのではないか」という気がしてきて、夢なんだという確証に変わって、そして目が覚める。

 ところが、今はこれが現実であると思っているけれど、昨日までの令和の時代の生活も生々しく記憶としてあるんだ。現実の記憶を持ったまま夢を見るなんてこと、あり得ないだろう。それに、こんなに長く続く夢なんていうのもない。どうも今も令和の時代も両方同じ現実……そうとしか思えない。

 そんなことを考えているうちに、学校に着いた。もう二十分も歩いたらしい。

 私立の竹川高校――三千人の生徒が通うマンモス校。この時代は、その三千人がみんな男という男子校だった。共学になるのはずっと先の話。

 ぼろい校舎だなあと思う。昔に通っていたころは他を知らないのでこんなものだと思っていたけれど、つい最近、創立何十周年かの合同同窓会っていうのがあって、その時に見て驚いたすべての建物を取り壊して改築した冷暖房完備のきれいな新校舎を知っている目からすれば、とにかくぼろい。

 そんなぼろい校舎に入っても、自分の教室も自分の席もなぜかすっと分かるから不思議だった。

 ホームルームで担任の姿を見て、懐かしかった。この時すでにかなり老人だったのに、亡くなったという話を聞いたのは令和になる十五年くらい前、つまりこれからもだいぶ長生きするのだ、この人は。

 一時間目は数学。

 授業の前にパラパラと教科書をめくってみる。そして読もうと思ってつい癖で、胸ポケットから眼鏡を出そうとした。当然、眼鏡なんかない。でも……。

 読めるのだ。裸眼でこんな小さな字がすらすら読めるのだ。これは感動だった。でも読めても、書いてある内容は全くの謎だった。

 チャイムが鳴って、先生が入ってきた。たしかにこんな先生だった。懐かしい先生たちとも、懐かしいクラスメートとも再会の時を俺は楽しんでいた。しかも、同窓会での再会のような変わり果てた姿との再会ではなく、昔の自分の記憶の中のままの彼らと再会している。

 しかし困ったことに、数ⅡBの授業が始まると、先生は全く何を言っているのか分からない。すべての話が頭の上を飛んでいく。いや実は、もう忘れてしまっているからではない。この当時から俺は、数学の試験は赤点しか取ったことがない。でも、かろうじて少しは点数をとっていた。だど、今もし試験があったら確実に0点だ。やばいな、これ、やばたにえん!

 だからもう無駄なあがきをやめた俺は、今朝起きてから今までの体験をとりあえず整理してみることにした。

 今自分が置かれている状態、それは何者かの力によったかどうかは知らないけれど、過去に飛ばされた。それもタイムスリップとかじゃなくて、過去に戻った。今の記憶を持ったまま。

 今この世界にすんなり溶け込んでいるのは、俺がもともと肉体的は別にしても、心は17歳だったからだろう。

 そしてもうひと大きな問題は、これが一時的なことでいつかは令和の時代に戻れるのかどうか。仕事のことも気になるし、息子のことも気になる。やはり息子の顔を見ないのはさびしい。でも、こちらでも昨日まで俺はこの世界に普通に存在していたようだし、あちらでも今日の朝をあちらで迎えた俺がちゃんといて、息子の面倒見たり仕事をこなしているのかもしれない。

 そうなると、もう二度と帰れない可能性も出てくる。

 でも、それは大丈夫だ、普通のタイムスリップと違って、俺は必ず元いた世界に帰れる。そう、つまりこのままウン十年の時が過ぎれば、令和の時代の自分になる。気が遠くなるような長い時間にも感じるが、それは俺がもう一度人生をやり直せるチャンスをもらったということにもなる。

 俺の人生、大まかには成功だったと思うし、勝ち組とはいかないまでもまあまだと思う。でも、やはり後悔していることもある。もう一度人生をやり直せるということは、令和の自分になる前の人生の中で、ああ、こんなことしなければよかった、あんなことしなければよかった、こうしておけばよかったと思うことすべてをやり直せるということだ。それによって到達する未来も変わるかもしれない。なんと俺は、一度の人生を二度体験することになるのか……そう考えたらわくわくしてきた。

 それに俺の寿命もウン十年延びた。普通の人が平均八十年、いや最近(令和での最近)は人生百年時代なんて言ってたけど、中とって九十年だとすると、俺の場合は九十プラス過去に戻ったウン十年ということで、百何十年生きることになる。

 それと、過去をやり直すっていうなら、過去を変えてはいけないというテーゼからも解放される。あの未来の世界のタヌキ…じゃない…ネコ型ロボットだって、過去を変えるのが目的で未来から来たんじゃないか。

 そう、今の俺はあのロボットと同じ未来から来たんだ。未来の国からやってきた知恵と力と勇気の子……(ゴホン)←咳払い。

 ただ、困るのは……休み時間になったてもスマホがない。スマホがないとこんなにも休み時間て暇なのかと思う。

 数学はさんざんだったけれど、次の英語はまあなんとか分かる。あのころよりもはるかに分かる。そして次が古典。朝来た担任が古典の教師だったけれど、古文なんてもう赤子の手をひねるようなもの。しかも『源氏物語』?「若紫」? もうほとんど暗誦できるほど読みこんでいる個所。だから、授業の内容よりも授業をのものを観察して、ああ、ここはもっとこういうふうに教えたらいいのにとか、ここをもうちょっと強調すべきだろうとか授業評価しているうちにチャイムが鳴った。

 そんな、なんだかんだで四時間目の世界史も終わった。世界史の内容も、赤子の手をひねるようなものだった。そして、お袋が持たせてくれた弁当を食う。

 隣の席の大村ひろしが、やたら話しかけてくる。

「おまえ、なんだか今日、浮かない顔してんな。どっかでかわいい女でも見つけたんか」

「それどころの騒ぎじゃないんだよ」

「どうした、どうした?」

 洋は詰め寄ってくるけど、実は…なんて話せるはずがない。

 それにしても教室内すべて男だって、もうむさい。息がつまりそうになるな。前はすでに男子校生活五年目だったからほとんど慣れてたけど、いきなりこんな世界に放り込まれたら、息がつまりそうになる。

 そんななんだかんだで六時間目まで終わって、俺は帰ることにした。部活はたしか天文部だったけど、週に二回何となく集まって雑談して帰るだけの部活。今日はその週二回の曜日ではない。

 帰るころはかなりの雨だった。俺は傘をさして誰とということもなく、黒い学生服の群れに混ざって一人で校門を出た。

 なんか疲れた。

 このままウン十年かけて令和の時代を迎えるまで人生をやり直すのかとも思うけど、あるいは突然ここに来たのだから突然戻るってこともあり得るかもしれない。ま、しばらくはここで17歳の高校生として暮らすしかなさそうだ。

 タイムスリップで平安時代とかに飛ばされたわけではなく、自分の高校時代だ。昭和といっても、このころはもうわりと令和の今に近い生活をしていたようだ。

 細かいところは違いはあるにしても、例えば夕食では家族六人がひしめき合ってテーブルに座り、俺がいちばんテレビがよく見える席にいるのだが、そのテレビも地上アナログ放送だから画質はこんなものかと思うけど、すでにリモコンはあってテレビの上にはビデオデッキも置かれている。

 そして今日は金曜日だけに、テレビをつけるとしっかりと、あの数学の時間に思い出していた未来の世界のネコ型ロボットのアニメがやってる。しかもその中の人が初代のあの声優さんだったから、感無量だった。

 だから俺にとってここは、かつての日常とそれほど遠い世界でもない。

 もちろん、今いるこの部屋の家具の配置は微妙に変わっていた。キッチンの流しの上には窓があったし、冷蔵庫の脇には勝手口があって、そこからも外へ出られるようになってた。俺の記憶のそのままだ。いつだったか、たぶん俺が結婚した後だったと思うが内装は大々的にリフォームしてその勝手口もながしの上の窓もなくなった。

 食事をしながら見ていたアニメが終わると、あのじゃがいも小僧のアニメが続くかと思いきやさすがにそれはまだ始まっていないようで、なんか子供向けの実写の変身ヒーローものが始まった(決して「アクション仮面」ではない)、でも、こんなの全く記憶にない。そこでリモコンであちこち回していると、このころ何を見ていたか思い出した。

 坂田秀明と見城ヨシコの掛け合いが印象深かったバラエティー番組だ。自分が何か咎められた時に俺が口癖のようによく言う「いけませんかあ~~?」っていうフレーズの出所は、この番組の中での坂田秀明のセリフだったんだ。それにしても、坂田秀明が若い! 髪が黒い! 当たり前だけど。ほかにとしちゃんとかも出てた。

 最初、坂田秀明が「としちゃん!」と呼ぶから「え?」と思ったけどそれは田丸俊之で、まさか加藤詩織のはずがない。

 その「カックランド大放送」が終わったらそのまま、刑事ものドラマの「太陽に向かえ!」が始まった。よく知ってはいるが、もともとあまり見ていなかった番組だし、食事も終えたので俺は二階の自室に戻ることにした。

 戻ったところで、何もやることはない。まだ寝るには早すぎる。

 比較的もとの生活と近いなんてさっきは言ったけれど、決定的に違い過ぎる点が一つあった。

 今朝の電車の中ででも思ったことだけど、とにかくここにはパソコンもスマホもない! つまり、ネット環境が全くないということだ。これがいちばん大きかった。なにもやることがない。

 自分にとってネットは決して暇つぶしではなかった以上、それがないというのは単に手持ち無沙汰だなんて言葉では表し得ない切実な問題である。まるで手足をもぎ取られたようだ。こんなふうに情報難民として、この時代でアナログの生活をしなければならないのかと思うと、ある意味背中がぞっとする。

 テレビを見ようにも、テレビは下の居間に行かなければない。記憶では、大学生になったらこの部屋にもテレビを置いたものだった、今はまだない。

 この頃は夜は何をしていたのだろうかと思い出そうとしてみたけれど、あまり記憶が定かではない。高校生なら勉強といいたいところだが、夜に時間を区切って授業の予習から参考書学習などをし始めたのはこの時から見て来年、つまり高校三年生になってからだったと思う。

 人生をやり直すにはそこから始めようかとも思ったけれど、文系科目はそんなの全く必要ない。昨日までの世界での職業柄、むしろ教えていた立場なのだ。では理数系科目はというと、手のつけようもない。無理だ。

 とりあえず今、つまりここでの今期やっているアニメにはどんなのがあるのだろうか……と思う。うわっ! こんなことネットがあればすぐにググってあっというまに調べられる。ああ、ネットがなかったら何もできないよぉ! って、俺もう発狂しそう。

 本棚の漫画や本も令和時代までそのまま残っているし、当然のことそのすべてが読んでしまった本ばかり

 仕方なく俺は、下に降りて行った。居間のソファーで父親が新聞を広げている。

「ねえ」

 また「親父」と呼びそうになって口をつぐんだ。でも、「パパ」なんて気恥ずかしくて絶対に呼べないよ。たしかに昔はそう呼んでいたかもしれないけれど、「親父」と呼ぶようになってからの方が長い。俺の息子が生まれる前に父は亡くなったから、「おじいちゃん」と呼んだことは一度もないし。

「あの、一週間分の新聞、見せてくれる?」

 なんだか会話がぎこちない。

「ああ、納戸に積んであるだろ。勝手に見ればいいじゃないか」

 口調は優しく、父親は言ってくれた。

 そこで玄関脇の納戸、ここは全くこの頃も未来も変わっていない。そして一週間分の新聞を持ってあがって、ベッドに座って番組欄だけをずっと見た。

 裸眼でちゃんと見えるんだ。老眼鏡なんていらない、当たり前だけど。

 アニメだけを拾ってチェックしてみた。当然まだ深夜アニメなどというのは存在しない。アニメはゴールデンタイムにキッズアニメがあるだけだった。全部で二十本くらいしかない。一週間に百本以上もアニメが放送される時代から来た身には、なんだこれって感じ。

 しかも知らないタイトルばかり。題名を知っているのは「ガン●ム」と「オバ●」、「ル●ン三世」、「うる●やつら」、「北●の拳」、「忍者●っとりくん」、「キャッ●♥アイ」、「タッ●」くらいしかない。それらも、俺はこのころは全く見ていなかった。かろうじて「オバ●」はもっと昔に、「ル●ン三世」「キャッ●♥アイ」はずっと後になって見たものだ。このころの俺は、アニメとは無縁の生活を送っていたんだな。

 そこで、音楽でも聞こうかと思ってベッドの足もとの段ボールに入っているレコードの箱をあさったけれど、実はほとんどすべての曲をウォークマンで聞くためにカセットテープに落としてあって、未来の俺、つまりここに来る前の俺はその音源をラジカセからパソコンに取り入れてMP3にデジタル化して聞いていたので、アナログレコード自体やジャケットには新鮮味があったけど、曲については懐かしいと思う曲は全くなかった。

 やはりスマホかパソコンがないと俺は生きていけないとあらためて実感した。

 スマホといえばここに来る時確かに、間違いなく左手にスマホを握りしめていた。それなのに持って来られなかった。もっとも、スマホを持て来たとしてもどうせ電波は圏外だろうし、いっしょに充電器も持って来ない限りは充電もできないから、今のバッテリーが終わったらそこで終わり、ただの薄っぺらい板である。

 なんで右手の紙は持って来られて、左手のスマホは持ってこられなかったんだよと、小声の独り言で愚痴った時、連想ゲームのように思い出した。

 スマホは持って来られなかったけレオ、右手に握った紙は持って来られた。

 そう、今朝起きて窓を開けようとした時、それは手から床に落ちた。たしか今は、引き出しに入っているはずである。

 俺は引き出しを開けて、その紙を取り出した。「090」で始まる、まぎれもない携帯電話の番号がそこに書かれていた。

「ミオ……」

 そう呟いてから、俺はふと気付いた。スマホを持って来られなかったことばかりさっきまで嘆いていたけれど、逆になんでこの紙は持って来られたのだ?

 俺はその電話番号を眺めているうちに、何か特別な力がこの紙にはみなぎっているような気がした。

 かけてみようか……そう思ってすぐに苦笑。こんな時代から携帯の番号に電話しても、「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」と返されるに決まっている。でもなんか、不思議な気分になってくる。まさかこの時代は090がどこかの市外局番だったなんてことはないだろう。

 ただ、かけるにしても、こっちにはスマホがない。家の固定電話は下の居間だ、あんなところで通話していたら、話の内容を全部親に聞かれてしまう。それに、まず通じるはずもない番号に電話するのに、いちいち下まで行くのもめんどくさい。

 俺はベッドに横になって少しうとうとしていた。

 だいぶたってから、親が階段を上がってきた。そして俺の部屋をのぞく。

「純一、寝るんだったらちゃんと布団に入って、電気消して寝なさい」

 母親はそう言った。もう寝るらしい。父親はもうとっくに寝たようだ。

 つまり、今は下の居間へ行っても誰もいない……いや、まだ妹がいるかも。

「彩乃は?」

「もう、自分の部屋に行った」

 妹もいない。一か八か、ダメもとで電話してみようか……俺は好奇心から、つながらないことを確認するためという自分に言い聞かせの名目を持って、もうしばらくしてから例の紙とともに静かに階段を下りた。

 電気をつける。

 下の居間の入り口のドアを入ったすぐ右の棚の上に、電話機はある。外見はダイヤル式ではないいわゆるプッシュホンで、受話器をとって紙に書かれたミオの携帯の番号を押す。

 時間はもう12時近い。でも、宅電じゃあないから、いいだろう。それに、高校生がこんな時間にも寝ているなんて思えない……なんて、無事につながることを前提に考えているけれど、そんな確率は限りなく低い。昭和の時代の電話から、令和の時代の携帯に電話がかけられるはずはない!

 でも、俺が今本当の17歳になって昭和の時代にいるなんてこと自体、本来ならあり得ない。でも、そのあり得ないがあり得てるでしょ……って何かのCMじゃないけど。

 とにかく、俺は異常に緊張し、胸の鼓動が激しくなってきた。

 この電話、プッシュホンの外見の癖に実際はダイヤル回線で、ダイヤルを回して戻る時の音が、番号の数だけ繰り返された。

 さあ来い! 「おかけになった電話番号は現在…」でも何でも来い!

 と、思っていると……

 プップップ…なんて音の後に……え? 呼び出し音?

 しかもすぐにそれは途絶えた。

「もしもしぃ?」

 眠そうな、不審そうな声。もちろん、女の子の声だ。

「あ、あのう……ミオ?」

「うん、ミオだけど、誰? てかどちら様ですかあ? 知らない番号だけど」

「内藤です。純一です」

「はい?」

 あ、ミオは俺の本名を知らない。

「つか、じゅ、じゅんくんです」

「ええええーーーーーーっっっっっ!!!!」

 すごい声が耳元にびんびん響いてきた。

「こ、こんばんは」

「じゅんくん? え? まじ? まじまじまじまじ? ガチでじゅんくん」

「まじです」

「ええーっ! 本当に電話くれたんだ? うそ! 信じらんない。けど、うれしい! どうしよう」

 めっちゃ可愛い声。実はネカマのおっさんなんじゃないかなんて疑った俺を、ぜひ罰してほしい。

「どおしちゃったのぉ? 今日いくらメッセ入れてもずっとスルーだったじゃない。LINEみたく既読つかないから、読んでるのかどうかも分かんないし」

「ごめん。いや、実は今、携帯使えなくて」

「あ、それで、これつまり自宅の電話? だから、知らない番号だったんだ。何の番号かなって思っちゃった。てかうち、じゅんくんの携帯番号も知らないけど」

「そうだったね。でも今携帯使えないし、この宅電の番号で登録しといて」

「わかった」

 こっちに来てからまだ一日しかたっていないのに、俺が存在していた世界とすごい久しぶりにつながって、やっとまともな会話してるって実感する。それがこんな不思議な状況で……。

「じゅんくんの声って、思ったより渋いんだ」

「おじさんぽい?」

「そういう意味じゃない。でもだってまじな話、じゅんくん、17歳だなんて言ってたけど、実はちょーおじさんだったりしたらどうしようかって思ってたけど」

 ドキッ! でも、今は本当に17歳になってるんだから、騙してはいない。

「でもよかった。そんなんじゃなくて。声聞く限りまともな同世代よね。一個先輩だけど」

「おじさんだなんて、んなわけないじゃん」

 俺は笑った、なんかすごくほっとした気がする。

「ごめんね、こんな時間に」

「でも明日一日行けば、あさっては土曜日で休みだし」

「土曜日が休みってことは、普通の公立?」

「うん」

「俺んとこは私立だから本当は土曜日も休みじゃないんだけど」

「ああ」

 少し憐れみの声。ま、こっちが明日の土曜も学校っていうのは私立だからってわけじゃなく、こっちは公立もみんなまだ土曜日が休みじゃない時代なんだけど、それは言えない。

「でもあさっては県民の日で休みなんだ」

「ええ? そんなのあるの? いいなあ。うちの方はそんなのないよ」

「そうなんだ。そっか、静岡か。もっと近かったら会えるのにね」

「ああね」

 いやいや、時代を飛び越えての会話。たとえ家が近くても会えないでしょう。

「じゃあ、あんまり遅くなると明日起きられないし」

「うん、今日はとりあえずこんな感じでってことで。で、しばらくは俺、ネットできないから」

「じゃあ、また電話して。いつでもいいよ。あ、こっちからかけてもいい?」

「いいけど親が出るよ、なるべくこっちからかけるよ」

「あ、じゃあ、本名言っとくね。私、齊藤美緒」

「ミオって本名なんだ。どんな字?」

「美しいに緒はあの糸へんのやつ」

「OK。ばっちり!」

「齊藤の齊は上が難しくて下が簡単なやつ」

 そこまで細かくなくていんだけど……

「俺、内藤純一。純は純粋の純に一、二、三の一」

「じゃあ、今まで通りじゅんくんでいいね。先輩に君付けなんてあれだけど」

「いいんだってば、同じ学校じゃねえんだから。つか、もうとっくにタメ口じゃん」

「それなー」

 二人で笑った。

 とりあえずの電話は、この日はここまでだった。

 また足音を忍ばせて階段を上り、ベッドに入った。何から何まで不思議な状況だ。突然時間が逆行して昭和に戻り、自分自身も本来の記憶を持ったまま17歳の自分に戻った。でも、昭和の時代の固定電話から令和の時代のミオ…齊藤美緒の携帯へ電話が通じて、時間を超越して会話が弾んだ。

 こんなあり得ない状況になんだかわくわくして、なかなか眠れそうもなかった。

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