第14話
「少しいいか?」
夕食を届けに私室へと訪れた自分は、銀色のワゴンから机に食器を移動させ「後で回収しに来ます」と投げかける。そのまま食堂へと戻る為に背中を向けた時だった。背中に向けられた言葉の続きを求めて振り返り、灯りの灯された部屋を視界に収める。
書斎ではない私室だというのに壁を隠すように並べられた樫の木の本棚が教授の脳内を暗喩している気がする。乾き切った紙媒体は冷静で人間味をあまり持たない教授の思考回路を彷彿とさせ、本棚に詰まった本を抑えるガラス戸に映る顔は教授の裏の貌を想像させる。
「すまないが、今晩も警護を頼みたい」
黒の上着を脱いでいた教授は手元の手紙を眺めながら言った。
「‥‥気付いていたんですね」
「この屋敷には敵も多い。元来、身勝手に振る舞ってきた私が造り出した外敵と呼べるやもしれないが、恐らく今回は君も関係している」
こちらからの返答には答えない教授は食事を守るクローシュを取り外して鳥の香味ソテーを確認する。爆発するように放たれた芳醇なハーブの香りに当てられた「‥‥流石だ」と口を衝く姿を見て、同じ反応をしたアビゲイルを思い出させる。
「———すみません。巻き込んでしまって」
「巻き込んだのは私だ、アビゲイルとあの家との関係などとうの昔に断ち切ってしまえば良かったのだ。けれど、深紅の貴族は今も帝国の中枢に席を設けられている重鎮。この国で生きる以上、彼らとの繋がりを切るのはなかなかに難しい」
帝都から離れた街に屋敷と工場を建てたのは、僅かでも深紅の貴族から距離を取りたかったからなのかもしれない。
食事はそのままに今も雨粒が叩くガラス窓へ歩みを進めた教授は濡れる事も気にせずに窓を開ける。突然の行動に、その意味を計れずにいる自分を気にも留めずに白い手紙を外へと投げた、そして一連の行動を終えるように窓を閉めてポケットチーフを取り出してシャツを拭う。
「もう聞いているだろうが、私も悪魔の一人だ」
身の丈を軽々と超える翼を持つ、巨大な何かが窓の外を覆った。
自分にはそれが一体何のかはわからなかった。
手紙に翼を持たせたのか、それとも教授が飼い慣らした獣の一体なのかもわからない。翼と思わしき姿を持つ巨体は何処からか現れた直後、雲を駆け上がるように天へと戻って行く。教授の頭蓋越しのそれの姿を完全に視認性する事は出来ず、過ぎ去った巨体に言葉を失う。
「いずれ話すべきだと考えていた。悪魔の中でも私はとても古い血筋を汲んでいる———そして我が妻は人工的に造られた悪魔だ」
机に戻る教授はそれ以上は言わなかった。
ナイフとフォークを手に取る姿はただの日常であり、つい先ほど異常など存在しない物と扱っていた。セイルから全てを訊いていたのだから、驚愕すべき事実など存在しない筈だった。けれど今教授が使役して見せた物は———言語化するのなら、
「そこから先は言わない事だ。そして次に見せる時が訪れたのなら、自ずと見える。時が来るまでも待ちたまえ」
「‥‥わかりました。警護の件、お受けさせて頂きます」
「頼んだよ」
屋敷にいる時は、基本的に私室と書斎を往復する生活を送る教授は食事すら一緒には取らなかった。アビゲイルに密かに訊いてみても「気にしないで。普通だから」と屈託のない笑みを向けられたのを覚えている。食事の時間も家族によってまちまちのようだった。
今度こそ背を向けて出て行こうとする背中に教授は何も言わなかった。だから、次はこちらから聞いてしまった。
「セイルさんを知っていますか?」
「無論だ。アビゲイルの妹なのだから」
それ以上聞く必要はないと考え、ドアノブを捻って退室した。
「ごめんね、無理にでも私が連れてくれば良かったのに」
「いいえ、お気になさらず。あの方とはあまり話した事はなかったので」
食堂から離れ、普段使いもしなくなった遊技場にて夕食後のお茶の時間にも姿を見せない教授を嗜めるアビゲイルだが、客人たるセイルにこう言われては引き下がるしかなかった。そんな光景を遠巻きから眺めている自分とミシュレさんは同時に苦笑いを浮かべてしまう。
優しくて割と人の機微に気付く教授だが、それを押してでも自分を優先してしまう性格はもう治らないだろう。
「もう、またそんな事言って」
「わかりました。明日の朝に挨拶させて貰います」
「うん、喜んでくれると思うよ!!」
と楽し気に告げるアビゲイルに若干セイルは顔を暗く濁らせる。
小さく咳払いをしたミシュレさんが視線で聞いてくるので、こちらも小声で「大丈夫、あの人も気になってました」と所感を伝えておく。深紅の貴族の実子を早々に追い立てた教授だが、女性には優しくを心情に掲げている家主である以上交わす言葉など無いとは言わない筈だ。
自分の回答に静かに安堵の息を吐いたミシュレさんは、更に続けた。
「久しぶりにお会いしましたはが、その顔色が———」
「はい、朝に医者を呼んで診て貰いました。疲れさせてしまったようです」
「‥‥そうですか」
自分よりも長く親交がある年上の女性は何も言わなくなってしまう。
しばらくアビゲイルとセイルの話、学校での事や帝都で開いていた店についてを語っているのを訊き続けると遂こちらから聞いてしまう。
「教授のかかりつけ医、あの人とは知り合いですか?」
「ええ、隠す事でもなかったんですが、言い出すタイミングがなくて」
「———あなたも医者なんですか?」
「昔、軍医に付き添う救護隊の訓練を受けただけですよ。私の叔父は医者なので参加しない訳にはいかなくて」
お手製のハーブティーを口を付ける姿だけだというのに絵画のような非日常性を感じた。長い鮮やかな金の髪と幼めの顔付きの持ち主は気にした様子もなく目が合った瞬間、にこりと微笑み返してくれる。商売気のない自然な笑顔に息を呑んだ。
「可愛いお顔。年下をいじめてしまいました~」
「年上が好みなのでは?」
「好みというよりも、私の憧れの人が年上だっただけです。次の相手によって年下になるかもしれませんよ~」
「いい人に出会うのを微力ながら祈っています」
「落ちませんね~」
ふたりしか率先して飲まないハーブティーのポットを手に持って次を注がせて頂く。庭の探索からかなりの時間が経ち、自分も湯を浴びたというのに雨粒は今も屋敷に降り注いでいた。時折聞こえる雷鳴と思い出したように瞬く稲光に視線を投げてみる。
「うーん、明日の朝までに終わってくくれば有難いのですけど」
「明日また続いたら、もう一晩ですか?」
「あ、積極的。今日は様子見で明日に襲ってくるの?私だって知っています、相応の立場の殿方には正妻以外の女性がいるって」
「アビゲイルとの契りが先です。そしてアビゲイルの許可を得たのなら迎えに行きます」
「籠絡すべきはアビゲイルさんからでしたか」
何処まで本気かはわからないが、疑いが晴れた自分に対して軽口を言い合える程度には成れた。つい油断してしまっていた、背後から抱き締めてくるアビゲイルに驚きながら伸ばされている手を握りしめた。少しだけ不機嫌な様子の吐息に「どうした?」と言うと「ミシュレさんを独占してズルい!!」と答えられる。そして奪うようにミシュレさんを連れ去ってしまう。
窓を眺めながら立ち上がり、セイルとミシュレさんに囲まれて楽し気なアビゲイルに声を掛ける。
「少し庭を見てくる」
「庭?どうかしたの?」
「椅子とか机を片付けてくる。今更かもだけど風が吹いたら危ないから」
わざとらしい嘘に気付いたのはセイルだけだった。アビゲイルが「手伝うよ」と言うが軽く手を振って大丈夫と伝え、廊下へと踏み出した自分は悪魔の身体を纏わりつかせる。瞬時に黒の外套を帯びた自分は近場の窓から飛び出して庭の雨音に紛れ込む、そのまま迷彩服に似た服で潜入していた不届き者を踏みつぶす。
一言も許されずに背骨を踏まれた男性は無表情の黒いマスクを付けていた。
「殺させないでくれ、死体の処理は面倒なんだ」
次いで外套を腕の形に模し、ツーマンセルで斥候を行っていたもうひとりを掴み上げる。悲鳴など許さない————喉を指で締め上げて眼球を覗き込む。呼吸しか許されない窮屈な時間の中で兵士であろう男性は見た事だろう、自分達が訳もわからず潜入した屋敷の悪魔を———。
雷光にのみ姿を現す漆黒の歪んだ巨体は———人間の牙が通ずる筈もない尋常外の位に座する悪魔そのものだと。
「誰に雇われた————お前以外にも入り込んでいるのは知っている、意味はわかるか?お前を砕いて帝都に送りつけてもいい」
一定の訓練、心を落ち着ける瞑想を学んでいた男性は生き延びる為に声を発する。
「た、大佐だッ!!」
それが虚偽であったのなら褒める所だが、どうやら揺れ動く瞳孔から察して事実なのだと判断を下す。
もしくは大佐の名を騙る何者かに雇われたか。
「お前は兵士か?」
「ち、違う!!出稼ぎに帝国に来ただけだ!!だから、俺は関係な———」
喉を締め上げて気絶させる。人体を握りしめた心地良い感触に牙を覗かせるが即座に外套で身体を覆った。身を叩く筈だった雨粒と弾丸は分厚い悪魔の身体に阻まれて発砲音すら雨音に消えてしまう。視界が最悪な現在の状況で身内が居ようと発砲するとは思わなかった———必要があれば仲間を切れる工作員か、それとも仲間意識など皆無な金だけの関係か。どちらにしろ————始末する。
「勝った気か?」
曇天の空へと掲げるように砲台を造り上げる。しかして砲弾を放つ為の銃器ではない。
「死ぬなよ、面倒だ」
この力は既に兵士達に伝わっている。だというのに雨に紛れて気付かなかったという戯言を言い訳として目に浮かばせる彼らは、ただただ弱者だった。弱者は生き残れない、弱者は解剖されて次のパーツに替えられる————過去の自分に戻った瞬間、息継ぎの時間も与えずにカエルのように叩き潰す。内臓が喉からせり上がる感覚を覚えただろうか?自分の身体の中だけ気圧が代わり、吐き気を覚えた事だろう。
「あちらでは一日と生き残れない。弱いって可哀想だよ———羨ましい」
緑の垣根に隠れながら次の対象を想定する。
彼らの目的は何か?十中八九アビゲイルだ。けれど大佐という兵士達の長の名の元に命じられたのなら彼女を狙う意味がわからない。仮にアビゲイルを誘拐したとして、なんの意味がある?アビゲイルという生物の遺伝子と母体が欲しいのなら————あの教授をも敵に回すと同意義である。それはそのまま帝国中の兵士や彼らの最高指揮官たる皇帝すら敵となる事を告げる。
「教授に勘付かれたくないから傭兵を雇った、いやあり得ない。なら大佐なんて名前は使わない」
垣根から僅かに頭蓋を晒し、聞こえる足音に視線を投げる。
一連の攻防に気付いたのか、それとも通信か合図が届かないのを怪訝に思ったのか、数人の傭兵達が同じ迷彩服を着て軽機関銃を携えながら歩み進んでくる。腰を一切降ろさない素人具合から潜入などという面倒で泥臭い作業は慣れていないらしい、どうにもこの世界の戦争は自分の元いた世界とは違う攻め方をするようだ。
「もしくは金で雇われた完全なる素人か。そっちの方があり得る」
軍列で殿とは最も戦闘経験を持つ玄人が担う、特別な役割である————よって垣根に隠れたままで軍列が過ぎ去るを待つ。
先頭———中程————殿、総計5人の小隊を見過ごした自分は垣根の影に悪魔の身体を仕込む。そして殿の前のひとりが前方に視線をやった隙を狙う———殿の身体中を悪魔の腕で組み敷き顎のすぐ下と喉仏、首の付け根を握り締める。
「油断したな」
自由を全て奪った殿の傭兵を垣根の角にまで引きずり、悪魔の貌を晒しながら首を絞める。
「忘れるな、お前の敵はこの悪魔だ」
脳裏に焼き付ける。懺悔など許さない。人間の身を超える力にて意識を奪い去る。
「あと四人」
舌なめずりなどしない。した所で何も変わらない。
今眼球に映るは————アビゲイルの笑顔の種である庭に入り込んだ人間の粛清だけだった。
「あ、戻ってきた!!」
雨粒を拭き取った後、顔を見せた遊技場ではもうお開きの様相を呈していた。目元を細めたミシュレさんは若干だがうつらうつらしている上、出迎えてくれたアビゲイルに至っては躓いて身体に倒れ込んでくる程。完全に起きていたのはセイルだけだった。
「悪いな、少し手間取って」
「うんん。全然気にしてないよ」
自分を待っていてくれたのだとわかり、屈みながらアビゲイルの足に手をそのまま持ち上げる。人前では見せない姿勢だというのに、やはり寝ぼけているアビゲイルは楽し気に頬を肩と胸に擦りつけてくる。
「もう時間だろう。そろそろ部屋に戻ってくれ」
「君も一緒に‥‥」
「部屋の片づけをしておくから。今日は一人で」
「‥‥わかった」
降ろしたアビゲイルを戸惑うミシュレさんに渡して部屋に送ってくれるか伺う。今はまだ油断できない為に何を訊かれようとも有無も言わさずに「お願いします」と告げると、勢いに任せて攻められるのは慣れていないらしいミシュレさんは大人しくアビゲイルを連れて遊技場から出て行く。ひとり残ったセイルの向かいに座った自分は静かに「ハーブティーは?」と聞くと「結構」と断じられた。
「それで我が家の刺客でしたか?」
「雇い主は大佐だと言っていた」
「それはなかなか———」
想定外を楽しめるギャンブラー気質であったらしいセイルは好奇心旺盛な声を上げる。そのまま「姿は?」と聞かれた。
「迷彩服で軽機関銃、そして黒い仮面」
「帝国の工作員ですね、資源豊富な近隣諸国への諜報に必要とあらば要人の暗殺を受け持つ特殊部隊。しかし違和感もあります。軽機関銃なんて配備される筈がありません。彼らはあくまでも工作員、潜入に奪取に暗殺が主たる使命。こんな日でなければ断続的な発砲音を起こす銃器なんていう戦場を駆け回る役割など持ち合わせていない———ああ、戦闘を念頭に置いたのね。気付かれるのも作戦の内の様ね」
足を組んで何かを思案する仕草をするが、それもすぐ様余裕ある楽し気な表情に戻してしまう。
「殺したの?」
「屋敷の小屋に閉じ込めた。明日の朝にでも尋問するよ」
「手伝います」
「頼りにしてる。だけどその前に聞きたい事がある」
手引きしたのか?そう聞かれると想定していたらしく、顔を引き裂く笑みを浮かべる。
「どのくらいなら信じていい?」
「質問の意図がわかりません」
「銃火器にはどれくらい対抗手段を持っている?正直に言う、この屋敷全てを防衛するには手が足りない」
肘掛けに頼りながらニヤリと微笑む姿は、契約者が罠に掛かったと愉悦する悪魔そのものだった。
「沿岸対艦砲、気球母艦による爆撃、戦艦艦砲射撃主砲でなければいくらでも————それで、あなたは何を差し出すの?」
「セイルの悪魔に成る」
僅かに顎の上げて指組をするセイルは、やはりこの意味に気付いたようだった。
「良いでしょう。私もよく動く手下が欲しいと思っていた所ですから、さてあなたに何をさせましょうか?」
「帝都を攻め落とそうか?」
「それは最終段階に入ってから。まずは部屋へ」
手を伸ばしてエスコートを求める年下の悪魔の求めるまま、細い身体と長い足に腕をやって抱き寄せて持ち上げる。しかし、自分でやっておきながら失態に気付いてしまった。これはアビゲイルだけが求める移動手段だと。腕の中にいるセイルを恐る恐る覗くと————声も出さずに目を丸くしていた。惚けている隙にと思い、降ろそうと試みるが「このまま‥‥」と申し付けられる。
「未婚の貴族に、これは流石に———」
「あなたがした事だから‥‥それにこの視線は新鮮——」
そんな筈がないと顔を振るが、やはり腕の中のセイルはこの状況を純粋に楽しんで見える。
仕方ない、自分に言い聞かせて遊技場を後にする。廊下を歩く振動すら楽しいらしく「わぁ‥‥」と一回りも二回りも幼く声を上げる。そのまま同じ階の客室へと進むが、窓ガラスの月に顔を照らされたとしてもセイルは変わらずに腕の中からの景色を楽しんでいる。
「‥‥姉様はこの風景を毎日?」
「毎日、でもないけれど。かなりの頻度で」
「そう‥‥」
ようやく満足したようでで胸に手を当てて降ろすように命令される。角度を変えて腕の中から滑り降りられるようにすると、何も言わないで床に足を落としたセイルは自身の旅行鞄から衣服を取り出す。それは一見すれば法服にも似た仕様ではあったが————何故だろうか一目で魔術師の纏うローブであると理解した。
足首あでを隠す衣は月明かりに照らされた事で、それが深紅のローブであると気付かされる。
「着替えをします。手伝って」
「仰せのままに」
と間髪入れずに答えると身をよじって振り返る。
「‥‥本気?」
「アビゲイルには何度かしてる」
「外に出ていて」
狼狽する態度がお好みであったらしいが、既にアビゲイルとの生活で着替えの手伝いならばできる程と成っていた。ローブで身体の前を隠しながら睨みつけるセイルに従って外へと出ると———仕掛けていた黒の糸を誰が掛かったと悪魔の脳が知らせてくる。屋敷の門に張り巡らされていた糸が破られたとは、自分達は招かざる客人だと知らないらしい。
「先に行ってる」
「勝手にして」
衣擦れの音を響かせながら不機嫌そうに投げられた言葉を背に近場の窓から飛び降りる。屋敷の屋根へと悪魔の腕を用いて登った自分はクラシカルな黒の高級車を眺めると、そこには車を物珍しそうに眺める一団が屯していた。あの車の価値など到底数字では言い表せまい、いっそのこと車上荒らしや強奪に切り替えてくれれば良いのだが———彼は帰り際に選択しそうだった。
「時間を掛け過ぎだな。脱走手段を確認するのはまずまずだが、爆破処理でもするべきだ」
自分からすれば真下に位置する固く締められた玄関に一団が殺到し、そのまま鍵を破壊するか解除するかをその場で算段し始める。まだまだ時間が掛かると全員で訴えかけている以上、これを放置する訳にはいかなかった。
外玄関から見て遠く右手に音もなく飛び降りて着地した自分は、左腕に砲口を仮想————機械仕掛けの悪魔の脳を一部借り受け、腕に纏わせた悪魔の身体に命令する。蠢く肉はその艶めかしさから断続的に変化————硬質の傷ひとつない無機物へと姿を変える。数秒にも満たない仮想時間の中で硬芯を同時に作り上げる。
「まずは一人」
硬芯に悪魔の肉を被せて徹甲弾とする。腰を落としながら放たれた徹甲弾は———音さえ置き去りにし影さえ忘れ去る。
防弾性を持つ黒の迷彩服に身を包んだ工作員の脇腹を捉えた徹甲弾は彼を奪い去り、『く』の字どころではない角度に変貌させて影そのものと成っている垣根へと案内する。その迷彩柄が仇となった———消えた男性に気が付いた一団は銃口と視界を右往左往させるが、完全に闇に囚われた一員を探し出す事が出来ずにいる。
「気付かないか?では次だ」
再度放つ砲弾を視認するなど不可能。螺旋を描きながら動体視力を超えて飛来する漆黒の砲弾は着弾と同時に意識を奪い、身体ごと彼方へと運び出していく。一人また一人と消えていく光景は悪魔の所業としか言い表せまい、そして誰かが裏切っているのでは?という疑心暗鬼と次は誰だ?という恐怖は瞬時に伝播する。見えない襲撃者への対処法はひとつしかない————逃走だ。
「三人目」
門まで駆けた背に腕ひとつ分の砲弾を放つ。質量は人体の腕など比べるまでもない。背骨と内臓こそ砕け散らないが肺を瞬時に潰し意識を奪うのは容易い物だ。狙いを外す筈もない、この砲口は身体の一部である、ならば自分の眼球から投げた視線を外す事などあるだろうか。
「気付いたな」
人体が自然の摂理を無視して門の外壁へと突き刺さる。撃ち出された砲弾の角度にようやく気付いた工作員達に自分は————悪魔の腕を開きながら迫った。目視できる熱線を蠢く身体で防ぎながら最前線で止まっていた人間を掴み上げる、何の躊躇もせずに人間一人分の重量を持った拳を一団へと放つ。
骨と肉の砕ける感触を骨から感じ取り、人数が足りないと理解した。
「避けたのか」
それとも腰が引けたのか。足を開き震え上がっている一人を見下ろしながら既に意識を失った身体を振り落とす———しかし、その寸前に腰が引けている男性が消えた。否、違った。人体もまた肉であり弾性があるのだと改めて知らせるように門目掛けて何度も石畳で跳ね返り、ようやく止まる。腕と足を投げ出す姿は人形としか評せない。
「来たか」
身の丈を超す扉から現れた深紅の悪魔は、尚も不服そうであった。
「どうかしたのか?」
「別に。けれどあなたが紳士であるのなら女性を待たずに立ち去るのはマナー違反です」
「女性を急かすように待ち続けるのは礼儀知らずじゃないか?よく似合ってる、綺麗だ」
「———良いでしょう」
深紅のローブで全身を包んだセイルは確かに悪魔的ではあったが、アビゲイルと同じか若干低い背丈の所為で赤ずきんをやや思い起こさせる。もしくはマッチ売りの少女だろうか?けれど、その双方ともセイルとは似ても似つかない薄幸の少女像である。
仮にそういった状況にセイルが落とされたのなら、数日と経たずに貶めた人間達へ悪魔の顔を見せつける筈だ。
「確認だけど、いいのか?」
「人様の屋敷に無断で踏み込む不埒者が我が家の私兵であったのなら、口の利き方から教え込むが礼儀。二度と私の顔を正面から見れない身体にして差し上げましょう。男性って意外と脆い物のだから」
「よく知ってるな」
伸ばされた腕を取って、やはりエスコートの真似をしているが碌な教育も受けていない自分では立ち位置を見誤ってしまうが道理だった。
「近々私が直々にレクチャーしてあげる」
「正面から顔も見れないぐらいにか?」
玄関へと続く石造りの短い階段を————今も蹲って気絶したままの傭兵を跨ぎながら降りる。
「まさか。あなたとアビゲイルさんが婚姻を結んだのなら、追々披露宴へお披露目会が開かれます。その時、私との関係が噂されるぐらいに跪かせてあげる」
肩に顔を預けながら不敵に笑む姿に背筋こそ凍り付くが、こういった対応は何処に行こうと変わらないのだと辟易していた所だった。
支配者層とは、何故こうも人よりも上位に立つことに重きを置くのか。ほんの瞬きの間で足元を救われて素っ破抜かれるのが日常だというのに————実際、出し抜いた当事者である自分が思うのだから事実に違いなかった。
「どうかして?」
「ひとつ伝えておきたい。人は一度でも蔑ろにされたら、どんなに心が広い相手でも決して忘れない。必ずどこかで反撃を繰り出す。それも近い内に」
「それって脅し?」
門に隠れがら向けられた弓矢、ボウガンに視線を向ける。あれで隠れていたつもりなのだろうか?時折此方を覗く黒い頭が月明かりに照らされていたというのに。音もなく、しかし影の残る放たれたボウガンに悪魔の腕で対抗しようと一歩前に躍り出るが————隣のセイルが更に飛び出る。
「よく見ていて」
黒く染められていた矢弾は弾かれた。
石畳に落ちる弓は容易に人命を奪えるとは思えないぐらい軽い音を立てて。
「どうか死なないで。遺族に支給するお金の額面なんて知らないから」
無音の命令に瞬時に従ったのであろう存在は、黒の車両から飛び出ながら弓をその身で弾き返し易々と傭兵を加え上げ空へと掲げる。いつの間にか止んでいた雨の匂いのする空から、車両が踏みつぶしても傷ひとつ付かない強固な石畳へと叩きつけられる。人体が起こせる最大限の轟音を立てた傭兵は、そのまま寝返りもしないで動かなくなる。
「どう?綺麗でしょう?」
蹄鉄とは思えない甲高い楽器の演奏にも匹敵する音を立てて歩み寄る『漆黒の馬』は、到底今までの常識が通じる存在ではなかった。車両から飛び出たというのに背丈はクラシカルな高級車を軽々と越えている上、見た目通りの重量ならば車両すらも追い抜いている。
サラブレッドと呼ばれる走る宝石とは、まるで違う強固な骨を美しくも力強い巨大な筋肉で支える姿は軍馬そのものであり、整えられた眩い毛皮とたてがみは傷一つない車体を思わせる。その中でも最も目を引くのが今も上下している光ファイバーのように淡く光る毛並みだった。
月に照らされた毛皮は確かに毛ではあるようだが———若干ながら赤く染まっている。
まるで淡い色の炎を、その身に纏っているかのようだ。そして眼球に至っては深紅と言っても過言ではない輝きを放っている。
「‥‥美しい」
「合格点———」
背後に漆黒の馬を携えたセイルは顎を僅かに上げながら舞い戻ってくる。しかし身の丈を越す巨体が作り出す影に包まれると同時に、軽々と馬の背に乗り楽し気に見下ろして来られる。絶対的な立場の違い、完全なる勝者を連想させる盤石の姿に両手を上げてしまった。
「負けたよ。セイルは選ばれし悪魔だ」
「ようやく気付いて?では、あなたを真に私の悪魔と認めましょう」
背を跨がずに両足を揃えて見下ろす姿での『認める』という言葉は殊更、超常的な女神像を感じさせた。実際そう思わせたかったようで自分に対しての正しい対応だと言わんばかりに牙を覗かせてくる。全く度し難い事だが、この自分は許された立場だと言わんばかりの視線もセイルという美し過ぎる少女が行うのだから、誰も文句も言えずに来たのであろうと想像に難くなかった。
「そしてそのセイルという名も、私達だけの時は止めて」
「どうして?」
「その名は私が男子として生まれた時の為の名だから。セーレ、こう呼んで」
「了解しました。セーレ」
二つ返事で返した事で益々ご機嫌な表情になったセーレは、門に視線をやって呟いた。
「一度でも受けた恨みは忘れない。決して失われる事はないから————その通りよ。だって私もずっと抱えているから。だけど、もうあなたによって解決されてしまった、私はこの恨みを家人で慰めるしかないの。あの男と同じね。そんな私を嫌悪する?」
「いいや、俺も同じだ。俺がここに来たのは復讐の為に何もかも捧げたから。周りに人がいても気にしなかった。なのに、此処まで逃げ延びてしまった」
「そう。あなたも悪魔なのね。ただそこにいるだけで誹りを受けて反抗しようものなら」
「罰を与えられる」
セーレの言葉の先がわかってしまった。彼女と自分が似ているとは思わない。けれど他人だとも思えなかった。
「門から入る最低限の礼儀を弁えた愚者なら、私が相手をするに相応しいでしょう。あなたは」
「ああ、物を知らない底辺を始末してくる」
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