第13話
「誰かいなくなったか?」
「ええ、勿論。当主の実子の一人が」
アビゲイルが見せたい物があると言ってミシュレさんを屋敷の庭園へと連れて行っていた。
前々から世話をしていた草花が春に近づいたお蔭で遂に開いたからだ。何故皆を連れ立って行かなかったかと言うと種と生育方法を教わった本人にまず最初に見せたかったから、そして褒めて貰いたかったから———だと隠せない笑みを浮かべて本人的には勘付かれぬようにと出来る限り平静を装って案内していた。屋敷から庭園へと続く過程のテラスでセイルと共にふたりのやり取りを見ながら椅子で風を感じていた。
「家は良いのか?」
「私が?いた所で邪魔者扱いしかされません。それに口を挟むような下賤な行いは、私には似合いませんから」
「今後の舵取りとかは」
「どれだけ悪魔を誇ろうが寄る年波には勝てません。後数年もすれば私達新世代に頼る事となる。それに私は本家の出自ですから、後々の事を考えてどうやって私のご機嫌取りをしようかと皆々様は躍起になっているかと。だから今は時間は与えているの、帰った時私の食指を最も喜ばせるのは誰か———裁定を下さなければね」
長いスカートの中で足を組んで、テーブルに頬杖を突く姿はもはや女主人と言った所だった。そんな彼女に涼やかな風が吹き込むのだから尚更絵になった。黄金の髪を軽やかにかき上げる姿は春を告げる女神を彷彿とさせるが、春の到来は何者逃れられない刈り取る残酷な冬の女神が過ぎ去ってから訪れるものだった。恐らくは春を告げるのはアビゲイル、冬を担うのがセイルなのだろう。
「どうかした?婚約者を放って妹を見つめるなんて」
「あの獣の力があの男の力だったのか?」
「私も全てを知っている訳ではありません。だから私の憶測も含めて言うのなら———あれは彼の本質そのもの」
目を瞑らなくとも思い出す。あの爪を毛皮に覆われた穢れた四肢を。肉と血が歪みながら形となった姿は自分の記憶にある野生動物とはまるで違う。人を襲い貪る為に造られた姿は、誰もが二度と視界に収めたくはならないと口を揃えて言うであろう奇怪な汚物だった。
背もたれから前屈みになり庭の二人を見つける。既に何たるかを気付いていたミシュレさんがアビゲイルを抱擁してあやすように褒めている。彼女達の関係は教師と学生というよりも、歳の離れた姉と妹と言った所だった。
「私がいるのに‥‥」
「案内しようか?」
「いいえ、今はあの人の番。後で独占しますから」
「きっと喜ぶぞ」
頬でも膨らませていそうだったセイルに視線を向けると、やはり憮然として表情でふたりを睨んでいた。
「本質って言ったけど、あれは‥‥なんて言うか」
「言葉に出来ないでしょう?敢えて言うのなら獣の姿こそがあの男の力の象徴。更に言えば理想の自分の姿、そして人を重点的に襲っていたのは自分は人を蹂躙出来るという自己顕示欲の表れ。あなたも身に覚えがあるのでは?あの翼と巨大な銃口があなたの理想では?」
「‥‥死骸を見たのか」
小さく頷いたセイルは静かに草花に覆われた庭を視線をやった。到底長く眼球に宿せる代物ではなかった事だろう。
自分が見た最後は毛皮に覆われた獣が巨大な弾丸に穴だらけにされた死骸、しかしあの姿が死後まで続くとは思えない————よって元の人間の姿へと戻った、頭蓋と胸に巨大な穴が穿たれた肉片と化した姿で深紅の屋敷の庭へと振ってきた筈だ。今も現場保存として放置されているかもしれない。
「正直顔も身体もズタズタで確認できる物はなかったけど、今日まで姿を一切見せないのだから消去法で彼だと決まりました」
「———教えてくれ、あの人はどんな人物だったんだ」
「何故?もうどうでもいいでしょう」
「そうだな‥‥」
思い出したくもないと言わんばかりに冷たく突き放され、空気が淀んでしまう。
しかし天の助けとアビゲイルとミシュレさんがこちらへと歩み戻ってくる。まだ日も高いのにもう終わりなのか?と二人を出迎える為に立ち上がると、アビゲイルは自分のすぐ傍を通り抜けてセイルを連れ去ってしまう。ミシュレさんに自慢し終わったのだから次はセイルなのだと走り去る背中で語っていた。
「隣いいですか?」
「勿論、お茶は要りますか?」
「いいえ、だけど話し相手になって下さいね~」
先ほどまでセイルが座っていた椅子に座り、テーブルに身を乗り出しながらこちらを見つめるミシュレさんの魂胆がやはり自分にはわからなかった。試されてるのか?と真っ直ぐに見つめ続けると、ふわりと微笑んで強張っていた鼻を指で弾かれる。
どうにも此方に来て自分は鈍って錆び付いてしまったようだ。過去ならば、このような隙は見せなかったというのに。
「不思議です。普通の男の子なのに」
「普通に見えますか?」
「はい。アビゲイルさんが構ってくれないと拗ねてしまう、普通の男の子ですね~」
そうなのかと慌てて顔を触ると何処も歪んでなどいない。納得できない評価に文句を付ける為に顔を向けると、顔に付けられていた指が頬越しの歯に触れていた。心臓が止まりかねない衝撃に身を竦ませると「ほら。普通の男の子~」と朗らかに意地悪そうに微笑んでいた。
「怒らないで下さいね、アビゲイルさんは優しい人が好きなんですから」
「‥‥俺、」
「そんな悲しそうな顔はしてはいけませんよ。あなたはアビゲイルさんを守り続けてる、そして守り切ったのだから。あなたは弱くなったんじゃない、やっとあなた自身成れた。どうか誇って」
「————何処まで聞きましたか」
「私は何も知りません。だけどあなたがあれだけの傷を負っていたのなら理由はアビゲイルさん。違いますか?」
突き出していた指を戻したミシュレさんは、何も変わらない微笑みを花を模した両手の器で頬杖を突く。
彼女の心意がわからなかった。目の前の男を断罪しようとしている訳ではない、だけど何かを探ろうとしているのは間違いなかった。今も真緑の眼球を僅かに閉じた表情をしながらも、その実一切として瞼を閉じない彼女の視線が首元に突き付けられたナイフのようだった。
「‥‥そうかもしれませんね」
「そうですよ、知りませんでしたか?」
何もかもを話してしまえば楽になるのだろう。昨夜自分はひとを一人殺めてくたと。その相手は他でもないセイルの血族、深紅の貴族の直系であると———そして彼こそが帝都を恐怖に陥れていた相手であり、あなたの家を襲った獣、兵士を幾人も殺した殺人鬼だと。
だけど、そんな世迷言を一体誰が信じるか。彼は悪魔の力を使って自分達の遺伝子の劣化を補う人間を殺していたなんて。
「どうかしました?何か話したい事でも?」
頷いてしまえばいい。この罪悪感とも違う胸に詰まった思いの丈を———だけど、この痛みも含めて自分が置き去ってきた物だった。
「何も」
「本当に~?」
「本当に」
「どうやってプロポーズしたかは?」
「二人だけの秘密です」
「残念‥‥」
ようやく諦めてくれたミシュレさんに、自分は初めて勝った気がした。
庭園に目を向けるとセイルを引きずり回すアビゲイルは、先ほどとは違う種類の心底嬉しそうな表情を浮かべている、
しかし当のセイルは思う存分に振り回されて頭で円を描いているのが見て取れた。セイルはあまり運動は得意ではないのか、汗ひとつとして滲ませないアビゲイルに対して歩き回るだけで肩で息をしている。それに気付かないアビゲイルはまたも移動を開始する。
けれどセイルの付き合いの良さ、そしてアビゲイルを独占出来る事への喜びで必死に食らい付いているのがわかった。
「ん~、そろそろ限界ですかね?」
「わかります。そろそろ限界ですね」
「だけど、もう少し付き合って貰いましょう。セイルさんも喜んでいますから」
「ええ、邪魔は出来ません」
彼女達にとっても大切な貴重な時間だと一目で分かる。お気に入りの花やパーゴラを案内している事からも待ちに待った時間だというのが伝わってくる。———セイルにとっても想像しなかった特別な時間であるのは間違いない。
「あなたがくれたんですね」
「俺は何も。あのふたりの事ですから、きっといつかはこうなっていました。もうすぐ春ですね」
心地良い風が顔に吹き付けてくる。
日の当たる庭園が青々と揺れていき、髪を抑える二人を通り越した風に乗る甘い香りは春の到来を感じさせた。口と瞼を閉じ贅沢に青い風を全身で感じていると、遂に限界が訪れたらしいセイルの倒れる音と共にアビゲイルの慌てて謝る声が木霊する。
「迎えに行って来ます」
伝えると同時に立ち上がって、肩を貸し貸される二人を発見する。
「学校に運動の教科は?」
「ありますよ。私の知っている頃のままなら銃を抱える訓練も。だけどもう要らないかもしれません———」
突然だった。庭園が影に覆われたのは。庭園全てを覆った雲の、生暖かい湿り気を含んだ風の匂いを感じ取る。
「先に屋敷へ」
伝えながら上着を脱ぎ垣根や花壇を飛び越えて二人に駆け寄って被せる。一瞬の事だったが辛うじて間に合った傘代わりに、アビゲイルとセイルが驚いた表情を浮かべる。何か言いたげであったが今も頭と肩を叩く雨粒は無視できず二人の背中に手を携えながら急かす。
春の雨とは思えない豪雨を睨みつけながら屋敷へと駆け戻ると、直後に雷鳴すら耳朶を叩いた。
「びっくりした‥‥」
狙い澄ましたかのような雷鳴に瞳孔を開いたアビゲイルが呟く。
自分も思わず声を出してしまいかねない雷鳴に庭園へと振り返ると、見えるのはガラスを叩く雨粒のみで稲光が瞬かないのがむしろ不思議だった。窓の外へと向けていた意識を肩を叩かれた事で我に返ると、被せていた上着をセイルが突き出していた。
「これ、ありがとう」
顔を背けながら渡され、受け取った上着はずぶ濡れで早々にハンガーにかけて形を整えなければと考えさせる。
「折角、まだまだ見せたい物があったのに」
「こ、この天候では無理ですね。また今度———」
庭園の案内と屋敷への駆け足で体力が完全に尽きたセイルは立っているだけでやっとなのが荒い呼吸で証明されていた。二人の話を他所に先に戻っていた筈のミシュレさんが見当たらないので視線で探していると、荒い足音を響かせて屋敷の廊下から現れるミシュレさんを発見する。
その手にはバスタオルの数枚を。そして背後には教授を携えている。
「すみません、お借りします」
「構いませんよ、どうぞお使い下さい」
紳士的な対応に会釈をしたミシュレさんがふたりの頭を拭いていく。
珍しくと言うと語弊があるかもしれないが自力で起床しただけでも驚きなのに、寝起きの教授が自分ひとりで髪や服を整えているとは思わなかった。長い睡眠から目覚めた教授はしばらくの間放心状態となり、コーヒーすら口に付けない無気力状態となるのに。
「息子よ。私だってレデイから助けを求められれば紳士として振舞うさ」
「‥‥すみません」
「日頃の行いだ、気にしてはいないよ」
言葉の途中、不意に背後から被らされたバスタオルを振り払いそうになると「動かないで!!」と叱られてしまう。ぴしゃりと言い放たれた言葉に身を竦めると「レデイからの施しだ、謹んで受け取りなさい」と告げて背中を晒して去って行く。
「あ、ごめんなさい、勝手に」
「娘が久しぶりに友達を招いたんだ、とても喜ばしい出来事だよ。今晩の部屋の準備を整えて差し上げなさい。私は自室にいる」
静かな館に硬質の靴底を響かせて消えてく教授はやはり吸血鬼を彷彿とさせた。
「やっぱりカッコイイですね‥‥」
「え、でも、すっごい年上ですよ!!」
「年上さんって私の好みなんで~す♪」
「だ、だけど娘だっているんですよ!!」
何処まで本気か冗談かわからない言葉を放ったミシュレさんにアビゲイルが慌てて異を唱えるが、濡れ鼠と成っている自分はそれよりも気掛かりな事があった。例え寝起きであったとしても、あの教授がセイルに気付かない筈がなかった。ましてや深紅の外套に身を包む姿など真っ先に視界に入るというのに。
「気になりますか?」
「少しだけ」
「そう」
と、自分と比べれば濡れていないセイルは興味無さげに呟いた。
「どうかして?」
髪から仄かに花の香りを放つセイルが問い掛けて来た。
二人分の寝室の準備を整えた後、それぞれの入浴が終わるのを夕食の食器や食材の準備をしながら待っていると、真っ先に食堂へ足を運んだのはセイルだった。髪をまとめたセイルから漂う甘い香りの発生源は髪だけではなかった。
幼い頃より薔薇などの強い香りの植物油で身を清めてきた少女は毛穴や汗腺から一般人とは造りが変わる。身体に滲ませた甘い花の香りを己が物とするセイルは全身から人を引き付ける香りをする上、自力では動かせない筋肉を人の手によって揉まれる事で至高の肉体を得る。
年齢が変わる度に完成される肢体を欲しいままに見せつける深紅の姫君は、牙を覗かせながら椅子へとしなだれた。
「どうかして?」
白い膝を見せつけながら組む仕草で気が付いた———自分はいつの間にか囚われていた。
「よく似合ってる」
「及第点。次は問われる前に褒めて下さい」
車両に用意していた荷物鞄から取り出した寝巻も深紅のドレスのようだった。幼く言えばワンピースだが、捕らえ方と角度を変えれば薄手のバスローブとも映る。少女と女性の間の容姿を持つセイルに、この衣は若干大人びた印象を持たせるまさしくドレスであった。
そして————恐らくは夜伽の時間さえも想定に入れている服は、一瞬で脱がせられる簡易的な機構を持ち合わせているのが表面からでも分かる。首元の留め具さえ外してしまえば、すぐにでも足元に落とせる。スカートに潜り込めば容易く脱がせられる。
「とても綺麗でしょう?触りたい?」
本能をくすぐる甘い悪魔の囁きに目を逸らす事が出来ない。その上、誘うように真っ赤な口から血でも啜ったかのような舌を覗かせる仕草、そして軽く自身の小指を噛みながら告げるセイルの艶姿に息を呑む。いつの間にか年下の手の平による自分も、こういった罠への耐性を持ち合わせていないようだった。しかし———直後に橙の衣を纏う婚約者が現れた事で、教えを活かせると躍起に成れた。
「よく似合ってる。綺麗だ」
不意打ちを突かれたアビゲイルが静かに「‥‥うん」と頷いて返してくれる。
下を向きいじけるような姿をするアビゲイルの可愛らしさに笑顔を浮かべてしまう。セイルからの洗脳が解けた自分は隣のキッチン室へと足を運び、ミシュレさんの言いつけ通りに用意した鳥肉に触れる。塩と香辛料を揉み込まれた手羽元は、このまま焼き上げるだけで食欲を誘う香りを放つ事だろう。
「あ、いい感じですね」
背後の扉から現れたミシュレさんにキッチン台を預け渡して自分は補助に回ろうとしたが「二人をお願いします」と告げられた。急遽決まったとは言え二人は出迎えた客人である。だから「いえ、流石に悪いですよ。お客様なのに」と返すが、ニコリと微笑みを浮かべられる。
「大丈夫、実は何度もこのキッチンは使わせて貰っていますから」
そう言いながら、こちらを壁に追い詰めるように近寄ってくる。
「ミシュレさん?」
「この屋敷に泊まる日は私が料理を振る舞うって決めてるの。それに私の手料理好きでしょう?」
吐息を感じる程に近寄られ逃げ場が無くなった瞬間、口から吐き出される温かな息を吸いこんでしまう。何も含んでいない吐息だというのに生々しい人間の香りに当てられて動けなくなる———罠に掛かった獲物を値踏みするように舌なめずりを見せつける。
「好みは年上の紳士かもしれません。だけど愛人として選ぶのなら年下———だって何をしても逆らえないでしょう?」
普段の口調とまるで違う支配者層の雰囲気に圧倒されてしまう。
「私にとってもアビゲイルさんはとても大切な人。彼女を悲しませて泣かせるなんて絶対に嫌、それはあなたも同じ」
いつの間にか突き付けられていた膝を股座に押し付けられ、声すら我慢出来なくなった。
「可愛い声ですね。こんな関係をアビゲイルさんが知ったらどうしましょう?私も許せません、だけど私って悪魔なんですよ」
「‥‥アビゲイルを裏切れません」
「はい、どうか頑張って。私に堕ちないように律して下さいね。だから私はあなたがアビゲイルさんを裏切らないように目を光らせないといけないんです。これからあなたを誘惑して悪戯して籠絡します。だけど絶対に彼女に気付かれないように我慢して下さいね」
もう逃げられなかった。吐息でくすぐられ続けた肌に舌を這わされる。
「美味しい———もし我慢出来なくなった言って下さい、望み通りに襲いますから。そしてあなたを密告して捨てるように勧めますから」
温かな吐息を止めたミシュレさんはようやく膝を引き抜いてくれた。心臓の高鳴りすらコントロールされている状況で目も合わせられない。
「酷いって思いますか?だけど、アビゲイルさんを裏切るかもしれないあなたの方が———」
「あなたも演技が苦手ですね」
欠片ばかりだとしても拾い集めれば視認出来る結晶に至る。そして一度でも完成すれば砂礫の山は一粒まで山である。
「‥‥何が言いたいんですか?」
何事も無かったように調理に取り掛かる背中へ更に声を掛ける。
「さっき言った通り、あなたにとってもアビゲイルは大切な人。絶対に泣かせられない大事な友達———なのに、アビゲイルを泣かせるような真似をあなたがする筈がない。例え結果的にそうなったとしても、あなたがアビゲイルの大切な友達を奪う筈がない」
軽やかにキッチンを使い続ける手元に一分の狂いもなかった。アビゲイルの母が亡くなってから、本当に何度も使ったというのがわかった。
過去に工場長が言っていた。あの人が亡くなった日から屋敷は心臓が止まったように静かになったと。
「あなたがアビゲイルから離れるなんてあり得ない。そして大切な人を奪うのもあり得ない。————俺を今更疑い理由があるとしたら、あなたは知っていたんじゃないですか。自分が狙われていると。そしてアビゲイルも可能性があるのではと」
「‥‥確証があった訳じゃありません。あの夜まではただただ不安だっただけです」
あちらの世界とは比べ物にならない調理器具だったとしても帝国の最先端技術を用いたキッチンだった。スイッチを捻れば火が生まれ、ハンドルを掴めば水が溢れる。それぞれを使いこなして行う料理は、何処か痛々しくて懺悔にも似ていた。
「あなたと獣だけが取り残された時、私はアビゲイルさんに謝りました。あなたの婚約者を奪ったって」
「だけど俺は生き残った。そしてあの夜、あなたは獣の姿を完全に見た訳じゃない————俺を獣だと思ったんですね」
「‥‥はい。アビゲイルさんを騙して襲おうとしていると、あなたをまた疑ってしまいました」
温まった釜に鳥肉を入れる腕は、白い筋肉を包んだ大人の女性の物だった。
「やっぱりあなたを疑いました。兵士さん達が沢山亡くなった昨夜、あなたも傷を負って帰ってきましたから」
「すみません、都合よく頼ってしまって」
「昨日は私も必死でした。だからよく考えないであなたを迎えて薬も与えてしまった。もう少し私が落ち着いていればあなたにトドメを刺していたかもしれませんね」
「いいえ、あなたはしませんでした。ここまで傷口を縫えたあなたは至って冷静でしたから」
苦く笑む姿は、アビゲイルが謝る時のようだった。
襲撃を受けた日は俺がいた。兵士が死んだ日も俺が帝都にいた。疑って当然だ、アビゲイルには欠けた正しい警戒心を持ち合わせている。
「今も疑ってますか?」
「勿論、疑っています。ここで私を殺して食らうのなら———私は死んででもあなたを殺さなければなりません」
悪魔としての力を持っているのは、この人も同じだった。そして今の口述通りならば確実に人を殺められる力を持っている。
「だけど、あなたは私を襲わなかった。ちょっとドキドキしちゃいました」
胸の前で両手を組む身体は震えていた。無理して振り向き、吐きそうな覚悟を持って笑みを浮かべているのが痛い程わかった。
「ひとつ言っておきます」
「二度と顔を見たくない‥‥?」
「あなたはアビゲイルの大切な人なんだ、二度と自分を売るような事は止めろ。俺にとってもあなたは大切な人になるんだから」
え、と口を衝いた姿はとても無防備だった。
「あなたはこれからも屋敷の工場の大切な仕入先になる。それに大規模な改修工事の出資者であるセイルは、この工場があなたを選んだとわかったから決めたんだ。今さら縁を切られては困る、今後の工場の行方を決めるのはあなただ。アビゲイルを路頭に迷わせる気か?」
「‥‥ごめんなさい」
肩を縮こまって謝る姿に、ようやく空気が軟化していくのがわかる。
「俺を疑いたいのなら好きにすればいい。追い出したのなら勝手に策略を巡らせてろ、だけど約束して貰う———アビゲイルを裏切る気なら、俺はあなたを許さない。アビゲイルは俺の婚約者、妻になる大切な人。彼女を苦しめるのならあなたには相応の罰を与える、覚悟して下さい。俺はあなたとは違う、本物の悪魔だ———」
キッチンから離れようとした時、背中に声を掛けられる。
「証明して。あなたが私達を狙った獣じゃないって証拠を」
「俺があなた達を標的として狙ったのなら、あなた達はもう死んでいる」
振り返り様に見せた。
何者も正体を見定められない、悪魔の姿を。
身体中を覆う悪魔の身体は捻じれた筋肉を思わせる。外套のように纏う黒の翼は不揃いに歪ながらも人間の首程度、容易く絞め殺せる腕である。そして獣を殺した真なる凶器を見せつける———両腕は既に人の形跡など見当たらない。拳ひとつは易々と呑み込める銃口は胸骨に撃ち込めば残骸すら残さぬ悪魔の身体を編み込んで造り出す徹甲弾を放てる———もう片腕の頭蓋ならば楽に落とせる断頭斧を模している。
「あなた達との信頼関係?婚約?契約?そんな物要りません。あなた達がふたりになる時を狙う必要もない。寝首を掻いて首を落として燃やして歯を砕けば人物を特定する事は出来ない。骨盤と顎さえ砕けば性別だってわからない。豚の骨と混ぜれば人間だったかどうかも判別できない————疑う?言うのが遅いんだよ。出会って早々にハーブティーで薬を飲ませて自白剤漬けにすれば良かったんだよ」
一歩踏み込むだけで震え上るのがわかる。次元の違う、世界を滅ぼした悪魔に目を離せないでいる。
「つい最近まで戦争中だった?冗談言え、こんな警戒心の欠片もない国、俺なら一人で滅ぼせる」
「‥‥本気で、」
「重ねて言います。今すぐ、その気になればあなたもアビゲイルもセイルも教授も殺せる。忘れない事だ。俺はあなた達を大切に思ってる、傷つけたくない。疑われるのは仕方ない、試されるのも受け入れます————だけど、アビゲイルを巻き込むのなら覚悟しろ。俺はアビゲイルの為なら全てを捧げられる、全てを生贄に選べる———そろそろ焼けたのでは?」
悪魔の身体を解きながら言い渡すと、慌てて思い出したように電気釜へと駆ける。
「料理、期待して待ってますね」
「‥‥最後に聞かせて。———プロポーズの言葉は?」
「‥‥秘密です」
そう言ったというのに、鳥肉を乗せたグリルを持ったミシュレさんは「ダメで~す♪」と何事も無かったように返してきた。
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