第12話

 胸に顔を擦りつけるアビゲイルの様子に、ようやく安堵の息を吐けた。

 昨夜から昏々と眠り続けていたのだと胸を撫でおろす。明朝、明け方とも言えない日の出寸前にミシュレさんの家から飛び出した自分は滑り込むように屋敷へと戻っていた。そして自分の記憶と寸分違わぬ様子で一人寝息を立てていたアビゲイルとソファーとの間、身体を支えていた悪魔の肉体と入れ替わって橙の髪を梳く。柔らかな髪は指から溶けるように解け、水が滴るようにアビゲイル自身の背中を覆う。

「‥‥医者が必要なのは俺も同じ」

 止血こそ済んでいるが肋骨は数本は折れている。しかし自分の体重を優に超える肉塊の爪を受けたのだ、身体が千切れなかっただけ救いがあった。しばらくの間は———アビゲイルからの視線と心を読む力に警戒しなくてはならない。また泣かせてしまう訳にはいかない。

「教授の後に世話になるか」

 昼直後ではあったが教授の睡眠時間は諸人を大きく超える。きっと今日の昼過ぎになっても起きはしない。だから起床までに医者を呼ばなければならない、同時に自分の治療に使う手拭やガーゼに湯を用意しなければならない。そして見つかった場合のアビゲイルへの言い訳も、まだまだ自分は休めなかった。

「アビゲイル」

 日の出も済み、日光が窓から差し込む時間に至った。

「アビゲイル、そろそろ起きないか?」

「‥‥もうちょっと」

「教授の顔を見に行こう。父さんの顔を」

「‥‥うん」

 寝ぼけまなこのアビゲイルの肩を揺すりながら、今も胸に顔を落としている頬を親指で撫で上げる。だが寝足りない猫のように顔を更に埋める姿に、しばらくはこのままで良いとやはり自分に言い訳をしてしまう。卑怯で愛くるしい婚約者はまたも寝息を立ててしまう。

「困った———」

 腹部からぬるりとした血の感触がする。暖められた傷口から固まっていた血が溶け始めていた。再度悪魔の身体を置いてシャワーにでも赴けば良いものを、そして自力で出来る準備を全て整えるべきだ。そう訴えかける理性の声を邪な本能が遮ってしまう。

「俺も少し疲れた。少しだけ休もう」

 温かくて小さい肩と後頭部を抑えて胸に押し付ける。自分以外の温かな人肌を求め続ける。

 重症であるが致命傷ではない。致命的ではあるが死に体ではない。だから自分の快楽の為にアビゲイルの肉体を求めてしまう。微睡に浸かりながら閉じた瞼は朝日に焼かれたとしても開かなかった。光から身を隠す程の膂力はもはや残っていなかった。




 自分の皮膚を抑えながら受ける処置に僅かな違和感を覚えた。

 麻酔を使われた身体の皮膚は触覚を失い触れている箇所は他人の物に感じる、同時に触れている脇腹の痛みすら何処か曖昧だ。肌の神経を研ぎ澄ませれば、確かに奥底に火傷にも似た痛みが有るが———このまま眠ってしまいそうなぐらいに他人事だ。

 教授の部屋にて受けている治療の手は、古くから往診に来ているらしい医者のものだった。

 教授よりも一回り年上の男性だが、その手は一分の狂いもなく最先端の手術支援ロボットにも等しい。一度縫われた傷を開くという激痛が走る筈の開腹手術も適した麻酔の量によって体感では数秒にも満たないでいる。

「気分はどうだ?起きたのならアビゲイル君と話して来なさい」

 明滅する視界の中で諭すように告げる医者は、すぐさま眠り続ける教授へ掛かりにいく。

「‥‥終わりましたか?」

「ああ、終わった。君に関しては教授から言い渡されている、求められたのなら緊急事態だからと」

 瞼に指を当てて眼球運動を計る姿は、もはや見慣れた物である。自分にとってもその認識なのだから医者からすれば日常以外の何者でもあるまい。今回も聴診器を取り出し脈も取り始める後ろ姿には、教授への心配はあるにはあるが代わり映えしない光景だった。

「教授は、」

「いつも通りだ。歳を取って来たのだから無理な徹夜はやめるべきと何度促したか、昔からこうだから聞く筈もないのだが」

「古くからの友人ですか」

「奇しくも大学時代に知り合った古い友人だ」

 それ以上は何も言わないあたり、教授への対応も古くから変わらないのだろう。

 上着を着直しながら改めて縫われた傷に触れてみると、麻酔が切れ始めた傷から引かれるような痛みを覚える。

「これは、友人に縫って貰って」

「知っている。本人から聞いたからな、君は知らないかもしれないが意外と帝都というのは狭いのだよ」

 邪魔はするなと言わんばかりに顔も向けなくなった医者に背を向けて、何食わぬ顔で扉を通り抜けると教授の着替えを抱えるアビゲイルがやはり心配そうに待っていた。無言で手渡してくる着替えを受け取り次第、医者の袂に置きに戻って早々にアビゲイルの元に戻る。

「お父さん、やっぱり具合悪いの?」

「少し疲れが出たみたいだ。歳とかなんとか」

 口に出してみると違和感が生まれた。教授の具体的な年齢は知らないが年齢を言い訳にする時間にはまだ達していない筈なのに。

「‥‥そっか、お父さんももう40過ぎだし」

「え、」

「えって、知らなかった?」

 不思議そうな表情で覗き込むアビゲイルは可愛らしく首を傾げるが———教授も初老のひとりになりつつあったという事実に驚きを隠せない。しかしあれだけ帝都中に知られている表裏の天才だとしても、余りにも若過ぎれば誰も重要視しなかったかもしれない。

「少し驚いた。そうか、もっと若いと思ってた」

「あは♪言ってあげて、きっと喜ぶから」

 腕を引いて隣に立たされると誰も見ていないのを良い事に口を突き出してくる。

 だから自分も少なからず視線を廊下中に渡らせてから小さな唇に重なる。唾液で湿った柔らかな唇は吸い付くようにこちらの唇を奪い、悪戯好きなアビゲイルは一瞬の隙を突いて唇を舌で舐め取る。そして形の整った唇で僅かに口を噛んだ瞬間には逃げてしまう。

「昨日も出来なかったから、お返し」

「昨日はアビゲイルがすぐ眠ったんだろう?」

「私からの誘いを断った罰!!で、どうかな?」

 言い返される訳がないと確信した無敵の表情に、自分は膝を折るしかなかった。大人しく「悪かった」と告げる。頬を赤く染めて満面の笑みとなるアビゲイルは何も言わないで胸元に顔を擦りつけてくる。巨大な猫のような反応に頭を抱き締めて更に引き寄せる。

「そろそろ工場に行ってくるよ」

「うん、いってらっしゃい」

 離れ難い柔らかな身体から、泣く泣く離れた自分は背を向けて廊下へと踏み出す。廊下から固い音を出して進む途中、足音を気にせずに駆け寄ってくるアビゲイルが背中にしがみついた。何も言わないアビゲイルの手を撫でて呼吸を整える。

「どうした?」

「今日もずっと一緒が良いって言ったら居てくれる?」

「アビゲイルがそう言うなら」

「‥‥ダメだよね。最近はずっと君を独占してる」

 離れていく手を掴み留まらせようとしたが、身を引くアビゲイルを掴み取る事は出来なかった。ここ数日は教授の申し付けとは言え、工場へ濾過具合、発酵、蒸留酒に混成酒に使う果実糖分香料、混ぜる水の量でアルコールの濃度を決めるなどと言った諸々の計算の類の手伝いに余り尽力出来ていなかった。その上、力仕事に至っては全てにおいて任せてしまっている。せめて目で盗む努力をするしかない。

「アビゲイル、良かったら」

「ダメだよ、私が居たら邪魔に」

「そんな事、言われたか?」

 無理に手を引いた。対面する風が壁のように感じられるが、この程度で止められるとは俺を侮っている。既にこの身は悪魔そのものとなりつつある、自分だけの死に場所は既に見つけている。アビゲイルの隣以外で死する事などあり得ない。アビゲイルを悲しませるなど、断じてあってはいけない。

「行こう、俺達はもう他人じゃないんだ」

 返す言葉はなかった。

 だけど止まる事もなかった。ただ無言で手を真っ赤に熱しながら従ってくれた。




 あれは何だったのだろうか。

 命じられるままにとある施設を爆破した仕事があった。遠方から邪魔な監視の頭を撃ち抜く光景をすぐ目の前で確認した後、自分は死体を足蹴にして走った。想定外の出会い頭に息を吐かせる暇も与えずに喉を一突き、そのまま肺に膝を入れて胸骨を叩き割る。

 一瞬の出来事に警備の傭兵は白目を剥いて倒れ伏す。

 耳当てに指示を下し、新たな死体の処理を命じる。自分は辛うじて上の立場であった、必要とあらば人員の再配置を命じられる程度には。また必要とあらば人員の縮小、切る権利すら———しかし、終ぞ自分にそれを行使する時は訪れなかった。

 無駄な人員など存在しなかった。手数を失うとは、そのまま自分の手足を焼き切るに等しい。だから、絶対に誰も失いたくなかった。

 やっとの事で一人で目的の施設への侵入が叶った日、自分は確認の為に数度歩いてきた廊下を暗闇に紛れながら走った。

 タイル張りの床は足音を消す事はなかったが、反発力のある床は走るには容易かった。

 警備員は、この時間は全員が外で交代と共に点呼を取っている。だから何者も自分を止めるものはなかった。

「見つけた」

 たったの一言でマイク越しの人員の息を止まるのがわかった。皆遂にと思った、自分もそう思っていたのだから。

 だけど明日から何かが変わる訳でも、これを終わらせたからと言って見えない手錠が外される訳でもない———だけど息つく暇は与えられる。休暇など存在しない、あるとすれば身体の損傷を修復する為の安静期間、手錠と足枷に守られた寝具の上だった。

 だから、自分達にとって次の任務がないという瞬間、救いであり祈りの時間であった。

 しかし、その日は違った。分厚い隔壁に閉ざされた部屋の奥底のガラス筒に自分は息を吐いた。

「‥‥肉?」

 青い水に包まれた肉があった。血管が浮き出る肉塊はピンクと紫だった。歪んだふたつの眼球に数本の骨。

 無色のワイヤーで吊るされたそれに瞼などない、だから自分と肉塊は目が合ってしまった。笑ってなどいない。ただただ興味深いから見つめている。もしくは何者かが目を通してこちらを見つめている。言葉に出来ない恐怖を感じた。混ぜられた酸素が泡となって肉塊を包んだ瞬間———数刻だけ視線を自分の背後へと投げた。

 振り返った時、そこにも肉塊が佇んでいた。だけど、それは一人で出歩いていた。

 大きく右に避けたが、放たれた肉の蔓は身体を捉えた。受ける衝撃に歯を食いしばり、大人しく壁へと背中を埋める。

 その瞬間、壁に身体を固定して腰の拳銃に手を伸ばす、そして引き金を引いた。弾丸を数発も受けた肉塊はただでさえ歪んでいた身体を更に歪ませて全身が動脈なのかと思わせる量の血を迸らせる。洪水のように足元に流れた血も構わずに、恐慌状態の自分は撃ち尽くした。

「‥‥襲撃を受けた。だけど排除した」

 倒れた肉塊をつま先で蹴りつけて安否の確認をする、だけどもう呼吸もしていない。そもそもしていたのだろうか。

「作戦を続行する」

 短い確認に相手方も短い言葉で返した。

 予定通り腰のプラスチックと粘土の塊をガラス筒に押し当てて信管を差し込む。慣れた感触に安堵せず、手のひらを汗で浸しながら進める。

 ガラス筒の肉塊はやはり恐れてなどいない。足元の同族など気にも留めずに真っ直ぐに粘土とこちらの見つめている。

「人工の内臓か、食肉か、それとも生物兵器か」

 足元の肉塊を見て全ての可能性を否定した。人間とは似ても似つかない姿に僅かな嫌悪感を覚えた。自分はそれを形容する言葉を持っていなかった———スモッグに犯された、癌に食い散らかされた元人間だと自分を納得させた。きっとわかっていたんだ、これは自分の常識で測れる存在ではないと、これは別世界か、或いは他天体から訪れた化け物の類だと。

「だけど自分には関係ない」

 信管を確認した後、自分は隔壁を潜り抜けて走り去った。見てはいけない物を見てしまった、手にかけていけない物を、触れてはいけない物に触れた。許されない知識を得てしまった。目を合わせてはいけない物と目を合わせてしまった。

 震える歯を止める事なく、泣きじゃくりながら走った。

 そして同胞達の元に戻った自分は遠距離から施設の爆破を眺めた。傭兵達は慣れない消火活動に勤しみながらも何処か他人事だ。一瞬で肺を焼き尽くす火に巻かれたくない、遠くから腕を組んで眺めていたい———しかし、彼らは知らなかったようだ。

 あの施設に関わった人間は皆死んでいると。入った者を残らず食い尽くす人食いの館であると。

「作戦成功を確認、撤退する」

 折れた肋骨も気にならない。当てられている冷たい手もどうでもいい。

 今はただ———あの化け物を脳髄から消し去りたかった。





「どうかした?」

「ん?アビゲイルは宇宙に生き物がいるって思うか?」

 突拍子もない質問に面を喰らった橙の悪魔は可愛らしく「んー」と思案した。

「宇宙って空の彼方のね。そうだね‥‥ん————」

 慣れない腕組みをする姿を横目に遅めの昼食を手に取る。

 久しぶりに工場に入ったアビゲイル曰く、自分の知らない内に何度か改修工事をされていたらしく目を丸くしていた。だけど職人達は思い出のままと言い放つや否や「だけど長い髭は似合わない」と職人達の長に首を振る。愕然とした長はそれぞれに視線を投げて確認を取ると、皆一様に頷き返した。誰も言わなかっただけで、誰もがそう思っていたようだ。

「いるんじゃない?私達がいるんだから」

 と意外とあっさり正解を語った。

「ああ、俺達がいるんだからきっと何処かにいる」

 自分はアビゲイル達の世界に取って異星人や異界人だったのだから。

「ねぇ、私邪魔じゃなかった?」

「全然、皆そう言ってただろう。水だったり書類整理だったりを手伝ってくれて助かったよ」

「‥‥午後からは休んで良いって言われたのは?」

「俺が一日がかりで終わらせる仕事をアビゲイルが手伝ってくれたから半日で済んだ。ありがとう」

 ようやく納得してくれたアビゲイルがおずおずと食事に手を付け始める。既に医者は帰った後のようで教授は今も眠り続けていた。昨夜に殺人を犯してきたとは思えない平和な時間が続いていた。教授が今もアビゲイルに秘密にしている理由がわかった気がする、この時間、この笑顔に血生臭さなどあってはならない。この屋敷は常に平和であるべきだと。

 教授が殺気立って、あの男性を追い返した理由が体感できた。

「あ、さっき電話してね。後でミシュレさんが来るんだよ」

 初めて聞いたように「ミシュレさんが?」と聞き返す。

「そうだよ!!久しぶりに来てくれるって!!昔は何度か泊まりに来て、一緒に遊んでくれたんだぁ」

「小さい頃にか。急に決まったけど、どうかしたのか?」

「私もびっくりでね、片付けも修繕工事も急に決まったとかで明日までお店にいられないんだって。だから行ってもいいって」

 昨夜の取引の結果だった。昨夜の傷と治療については何も言わないし聞かない代わりにアビゲイルの安否を確認、明日の夜まで傍に居させて貰うという物。そして訪れる人はもうひとりいた。此方に足を運びたかったのは彼女の為でもあったのだろう。

「それとね、学校の友達が来てくれる。特別な子だから君にも紹介してあげる!!」

「楽しみだ。どんな子なんだ?」

 手元のコーヒーを飲みながら聞いてみる。

「可愛くていい子だよ。だけど、可愛いからって私の婚約者だってことを忘れないでね———」

 語尾に背筋を凍り付く威圧感があった。思わずアビゲイルの顔を見返してしまう程、しかし当のアビゲイルはやはり愛らしい笑みを浮かべるのみだった。まるで別人の雰囲気を一瞬でかき消したアビゲイルは、やはり名軍師であり名女優でもあった。

「どうしたの?」

「教授に確認を取らないとと思って」

「あ、忘れてた。でも起きてもずっと書斎だろうから大丈夫だと思うよ」

 昔からある事なのだろう。心底忘れ去っていたようだ。

 昼食終わりに教授の部屋を訪ね、念のため声を掛けるが布団を上下にするだけで返ってくる返事はなかった。まさかと思い首の脈に指をつけるが間違いなくただ眠っているだけだった。安堵の息と共に置き手紙をサイドテーブルに残して部屋を後に、玄関へと足を運ぶ。

 そろそろ到着するのでは?と高を括っていると、既に服装を整えたアビゲイルが今か今かと待ち続けていた。

「楽しみ?」

 階段を降りながら声を掛けると、大きく頷いたアビゲイルが腕を取ってくる。

 前々からそうだが、アビゲイルには抱きつき癖が付いてしまっている。出会った頃は手も触れられなかったというのに。

「大事なお客様を迎える時は、お父さんとお母さんはこうして待ってたんだよ」

「教授とお母さんは仲が良かったのか」

「うん、すごい仲が良かった。喧嘩もしないし、何かあってもすぐにお父さんが折れて。悪かった、許してくれって」

 まとめていた髪を流したご令嬢としての表情を見せるアビゲイルの、普段とは違う魅力に目を奪われてしまう。髪の色によく映える暖色のワンピースを纏う姿は清楚で少しだけ大人びていて。この話をこの場でしてくれている事が、何よりも嬉しかった。

「あ、車の、」

 一瞬腕から離れ飛び出して迎えに行こうとするが、淑女としての立ち振る舞い思い出したアビゲイルは優雅に腕を引く。誘われるままに扉を開けて陽光に身を晒すと漆黒の車が停まっていた。瞬時に身構えてしまいそうになるが、アビゲイルは気にせずに歩みを進める。

「大丈夫、あの車は知ってるから」

 臆せずに客人をもてなす姿は、やはり普段とはまるで違った。

 はたして後部座席から降りてきたのはふたりの女性だった。

 ひとりは遠目から見ても大人の美貌を携えた金髪碧眼の麗人、植物に囲まれた日々を送っている彼女をイメージさせる深緑のドレスを揺らし朗らかに進んでくる。そしてもうひとりも金髪ではあるが少女としてのあどけなさを持ち合わせる美少女。それぞれ見慣れた私服ではなく客人としての正装を整えた貴族然としている。一際深紅の外套がよくよく目立ち彼女の言う所の公務のようだった。

「ありがとうございまーす、お招きいただき光栄です」

 言葉遣いこそ毅然としたものだが、端々から伝わるおっとりとした雰囲気に緊張感がほぐれてしまう。

「あははは‥‥はい、来てくれて嬉しいです。家には久しぶりですね」

「もう数年は経ってますね。帝都の厳戒態勢は解かれましたが、なかなか外からの出入りは人の目が気になってしまって~」

 ミシュレさんの持つ雰囲気に当てられたアビゲイルは頬に手を当てて会話を続けるが、後ろで暇を持て余している彼女が睨みつけていた。

 軽くアビゲイルの肩を揺らして視線を向けると、慌てて手を引いて紹介してくれる。

「ご、ごめんなさい!!この子はね、私の友達で親戚でもある子なの!!」

 と、ようやく言葉を振られた深紅の少女は僅かに溜息を吐いてカーテシーを見せてくれる。

「お招きいただきありがとうございます。ご紹介に預かりました私はアビゲイルさんと親戚であるセイルです」

 初対面を装った対応と共に、忘れ去られていた対応に爪を残す言動を繰り出すセイルを慌ててアビゲイルが手を引いて屋敷へと引きずって行く。確かにただの親戚ではなく、その様子は不貞腐れた妹に謝る姉そのものだった。

「うんうん、セイルさんはとても寂しがり屋なんですよ。アビゲイルさんが連れて行かれるとすぐ不機嫌になってしまって」

「‥‥知っていて?」

「ふふ~、まさかー」

 そう言って手の甲を向けてくるミシュレさんの心意がわからなかった。

「エスコートをお願いしますね」

 アビゲイルもセイルも勝てないミシュレ様からの命令に自分が勝てる筈もなかった。大人しく腕を預け渡すと肩に頭を置いて屋敷への道を視線で勧めてくる。アビゲイルがセイルと共に屋敷へと入って行くのを見詰めながら一歩一歩踏み出すと、すこぶるご機嫌に耳をくすぐる笑みを転がしながら従ってくれる。

「うん、やっぱり腕太いですね」

「すみません。組み難くて」

「いいえ、こういう男性の腕、私はとても好きですから」

 一瞬で気を引かれた。

 自分も意図せず視線を向けた時、深緑のドレスから覗かせる白磁を思わせる傷一つない肌に胸が高鳴ったのがわかる。そして胸元に香水を含ませているらしく、ミシュレさん本人の香りと共に甘い花の香りに頭が絆されていくのがわかる。

「真っ直ぐ歩いて。しっかりアビゲイルさんの婚約者として私を安心させて下さいね」

「‥‥あなたも悪魔なんですね」

「知りませんでしたか?私はお二人よりも長く悪魔をしている、悪魔の先生ですよ~」

 アビゲイルも大人びた態度を時たま見せる為、多少なれど抗体が出来ていたと思っていたが経験者である本物の悪魔に対して自分はただただ無力であった。屋敷へと入った途端に「はい、終わり」と飽きたように去っていく背中をつい追ってしまいそうになる。

 そしてそんな様子を僅かに振り返っていた眼球を細めて見つめている。

「どうしました?一緒に行かないの?」

 まるで歯が立たないと悟った自分はミシュレさんを追い抜いてアビゲイルと共に応接室へと通す。

 客人である二人に豪奢なソファーを差し出し、何も言わないで座って貰う。そして用意してあった紅茶を注いでアビゲイルに目で合図すると話したいと思っていた会話の内容を進んで始めてくれる。自分はその様子を横にアビゲイルの隣に座って客人の様子を見詰めた。

「お店はどうですか?もう着工が始まったとか」

「そうなんですよ~。もう設計図も完成してしまっていて、それにお金も待って貰える事になっていて」

 セイルにだけ分かるよう視線を走らせると紅茶のカップ越しに軽く頷いた。

 そもそもが次期当主が暴れて荒らした店なのだ、責任を取って店内の保証をするのは不思議な事ではないのかもしれない。そして———彼女が荒らされた店内を眺めていたのは、ある程度の目算を本当に付けていたからなのだとわかった。

「あ、あのね。セイルが赤い外套を着てるのわね」

「私も貴族のひとりですから、これは私達の誇り。どうか理解の程を」

 一切負い目も見せずに発せられた言葉を最後に紅茶で口を噤む。彼女と家との関係など既に承知している自分に対して少しだけ不躾ながらも正直に言う姿には、彼女の責任の取り方が含まれて見えた。批判も批評も好きにせよと言っていた。

「大丈夫、俺は気にしてない。それにその色はよく似合ってる」

「‥‥そう」

 静かにカップを置いたセイルが薄く笑って見えた。

「もしかして知り合い?」

「まさか。私は選ばれた血筋ですから、選ばれた御仁としか交わす言葉を持ち合わせていません」

「あ、またそういう事‥‥」

 軽く叱ろうとしても気にも留めずに視線を外してしまう態度に、何故だか頬を膨らませるアビゲイルがまたも幼かった。セイルの言葉を思い出せば、アビゲイルから話しかけて妹と呼んだのだと判断している。実際それは正しかったようで古くからの———それこそ家族に言い聞かせるように態度を嗜める。しかし、姉を奪ってしまった黒髪の婚約者に対して深紅の妹は尚も斜に構えている。

 約束通りの態度ではあった。

「親戚って事は教授もアビゲイルの母も特別だったのか」

「うん‥‥実はそうなんだ。ごめんね、話す機会がなくて」

「これから話し合っていけばいい。だからゆっくり教えてくれ」

 隣に座るアビゲイルの手を取って静かに告げる。気まずそうにだが頷いてくれたアビゲイルが嬉しかった。

「本当に婚約したんですね」

「——はい、私はアビゲイルと誓い合いました」

 取り合った手を携えて肯定する。

 微笑んだままのミシュレさん、そして黄金とも形容出来る瞳を持った深紅の悪魔は静かに頷いた。

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