第11話
外周中を探索する必要などなかった。見下ろせば彼らの攻防が繰り広げられていたからだ。
駆る車両ひとつ分はあろうかという巨大な影と肉の塊が街中を縦横無尽に駆け巡り、追随する兵士達のエンジン音と怒号が響く中、自分は俯瞰する為に監視台である斜塔の頂上にいた。ライトを照射する兵士達は、やはり真上にいる自分の事など全く気付かないでいる。
仕事熱心な事だ。少なくとも戦場を渡り歩いた兵士ではない———この街にいるのは治安維持を目的とした弾圧者達だ。
「油断が過ぎる。誘導も陽動も見た事ないのか?」
かつての自分はとある施設の破壊工作の任を受け、しばらくは潜入という名の従業員の振りを続けた。
そこは他の私企業や国々を大きく抜き去る技術を持ち合わせた電子工業であった為、変電施設を狂わせるだけという最低限の破壊活動のみで全てを無に帰した。当然、そこに務める人間や出資者達はこぞって放電を続ける施設を見て呆然と立ち尽くした。
真後ろで悠然と立ち去る自分に誰も気づかなかった———そして手に持つ最後の基盤にも気付かずに。
「真面目な人間ほど目の前しか見えない。切り落とした、見落とした物の価値に気付くべきだ」
自らの銃も矛先も通じぬ鋼鉄の毛皮を追う姿に一抹の哀れみを感じた。
自らが撒いた種とは言え、外聞上は既に数人を殺した獣を帝都を預かる軍が見逃す訳にはいかないと判じたのだろう。真下の監視塔窓からは大口径の狙撃銃こそ突き出しているが街中で、しかも自分の味方である軍服の兵士に着弾するやもしれぬ状況下で引き金を引ける勇者ばかはいない。もし仮に一撃で仕留められる名手がいるのなら、早々に獣は狩られている。
「———さて、上手く逃げ切ってくれよ」
自分にとっても因縁の相手ではあるが、はっきり言ってしまえば誰が仕留めても構わない。可能ならばの話だが。
しかして自分の目的も獣である。よって彼には兵士達の視界から上手く立ち回った消えてくれればいい————後はこちらで仕留める。
「手傷のひとつでも付けてくれれば有難いけど、無理そうだな」
獣が遂に牙を剥いた。
大通りを追い立てられた獣を迎え撃つ兵士の隊列が一斉に発砲する。人間に対する鉛玉であろうと逃げ場のない鋭い弾丸の一斉掃射の壁をその身で受けた獣は僅かにたじろぎ、全身から誰の物かもわからない血液を迸らせる———続け様に背後から鋼鉄の車両が激突を繰り出す。
数百キロはある車両の激突に押された獣は近場の石造りの外壁に押し止められ、身動きの一切が取れなくなる。
兵士達は、さぞかし勝利に震えただろう————しかし、あれは知恵ある獣である。
「まずは一人か」
ボンネットに重要臓器が集まる上半身、そして損なえない関節を持つ下半身を乗せて激突のインパクトを半減以下にした獣はただの腕力で窓ガラスを破壊———掴み取った兵士の頭蓋を噛み千切る。破裂する頭と夥しい血が流れる首を持つ身体を近場に放り捨てた獣はすぐさま兵士達の隊列に突進する。そしてただ腕を振っただけで数人の身体を折り曲げ、掠っただけの爪で肩口の肉を抉り取る。
「今晩は食事が目的じゃない。邪魔者を排除したかったのは向こうも同じか」
獣自身からの攻撃は今夜が初めてだったようだ。
一瞬の出来事に狼狽を隠せない兵士は破れかぶれに銃を乱射するが、例え身体の中央に命中したしてもその分厚い皮膚を突き破った時には力を失う。そして傷も毛皮で覆われてただのかすり傷程度にしか届かない。そのまま男性ひとり分の重量を持つ腕で真上から砕かれる。
到底人の敵う相手ではない。いっその事ひと一人分にも届く刀身を持ち出し、一か八かで首を落とせば仕留められたやもしれない。
始まってしまった蹂躙の渦中———大佐の声が木霊する。
混乱しながらも自分よりも体格ある獣の原始的恐怖に、ある種の生存本能を引き出した兵士達は皆早々と鋼鉄の車両に戻って駆け上がる。
その間も数人の軍服が血に染め上げられるのも厭わず。かくして、近場の獲物が消えた獣はもう反抗する者も現れないと悟ったらしく意気揚々と車両と車両の間を潜り抜けていく。側面に血と肉片をこびり付かせながら進む姿は、この世の物とは思えない。
あれは化物、人が触れていい存在ではなかった。
「期待してなかったよ」
気の毒とは思うが、やはりこの程度。既に死地に送り込まれた被害者からすればただただ復讐心が満たされる喜劇でしかなかった。
大通りを血の足跡を残しながら進む獣は昨夜と同じように貴族街へと向かう———兵士達からすれば、もう追う必要がなくなると安堵の表情を浮かべるに足りるだろう。
そして次の瞬間には拾えた命のありがたみに震える。装甲を纏った生物兵器など二度と視界にも入れたくはあるまい。
「そろそろか‥‥」
一連の光景を見下ろしていた監視塔の兵士達は遠距離からの狙撃を敢行するが、弾速が取りない所為で獣の足跡すら捉えられない。
恐らくは狙撃銃など無意味だ———と言われる時代に差し掛かっている。
要人は常に装甲車の中で守られる今の時代、いくら大口径でも人が持ち上げられる銃の弾丸などただの豆鉄砲にしかならない。そして次の時代である、要人足り得る人物が街頭演説を始める時代に入らなければその真価を発揮できない————その間は埃を被る忘れ去られる技術である。
過去の遺物の発砲音を置き去り、影に潜みながら斜塔を降りると、兵士達は今も逃げ去る獣の背中にご執心のお陰で路地裏に降り立つ音にさえ気づかれない。今更だが、教授の真似をして上着とハットを被り路地裏から路地裏へと歩みを進める。
「あれは獣———だけど知恵を持っている。しかも人が恐れる姿を模倣している」
もしあの獣が、本当にただの獣であったのなら窓ガラスを割っても———その奥にいる人物を掴み取るような真似はしない。あれは窓ガラスの向こう側に人がいると理解しているからできる芸当。殺人に特化した技術を仕込まれた獣———の皮を被る何者かである。
「人を喰っていたのは、自分の姿が獣側だと思い込んだからか?だとしたら、そろそろ殺さないと。血を覚え始めてる」
山で飢えた野生動物が人里に降りてくるのは、よくある話だ。そして山の立ち入ってはならない土地で収穫をする人々が獣に喰い殺されるのもよくある話だった。この二つは密接に関係する。理由は単純に人肉の美味に肉食獣が気付いてしまったからだ。
山で喰った猿によく似た生物が闊歩する土地に、餌を求めて入り込んで何がいけないのか?生き残るという生存本能に従った獣を誰が咎められるか。しかし、人と獣の境を超えてしまった生物は食欲を満たす為ではない————狩りという遊びを始めてしまう。
「爪と牙を持ち合わせている、悪いがどちらにしろ殺すしかない」
一歩強く地面へ踏み込んだ自分は煌々と輝く街灯を足場に、空へと解放されるように屋根を踏み始める。
空を見上げれば月が落ちてきそうだった。夜明けまで時間がない。しかし急ぐ訳にいかない。
「怪我は避けたい。知られたら口を利いて貰えなくなる」
二度目の貴族街に踏み入ったが既に獣は姿を消していた。しかし足跡を消す時間は無かったようで点々と続く血痕を見下ろし、数度目の赤いスレート屋根に足を沈ませると、想定内であり眉をひそめるに値する光景が広がった————あの傭兵達がせっせと街中の血痕を拭きに現れたからだ。軍の車両とは違う、やはり高級車の面影を生み出す車両から降りる傭兵は悪態を付きながらも清掃活動に勤しみ始める。
しかし、やる事は粗暴としか言えない。ただただ大量の水で洗い流し靴底で血を削り取るだけ。
あれでは雇い主の餌行きが確定してしまう。
「十中八九、あの男が獣。違っていても血縁者だろう」
帝都を恐怖の底に陥れていた獣の正体は建国の英雄だった。その理由はアビゲイルという手放すには惜しい遺伝子を持ち主を攫う為———そしてこれまでの襲撃騒ぎは気に入った人間の細胞を得る為。もしくは止まらない情欲を発散する過程で殺してしまった。
自慰に耽っていればいい物を———穢れた血と蔑んでいても自身の欲望は止まらなかった。
「ミシュレさんの家の前に死体を放置したのは———あの人も狙われているとわかったからか」
セイルと名乗った少女は全てを知っていた。自身の家の欲望も軍の傲慢さも全てを知っていて———知っていて放置するしかなかったから、あの人の店によく出入りしていた。自分という外面上は選ばれた血筋、血族という立場を使って守り続けていた。
「ハーブティーでもご馳走してやらないと」
傭兵達を見下ろしながら突き進み、かろうじて手薄になっているであろう貴族の屋敷近くまで踏み込んだ。黒の外套で身を隠しながら見下ろせば予想は確かに的中していた———青々とした芝生とよく磨かれた純白の石の道の近辺に人はおらず皆が皆出払っている中、無人の前庭の門を通る寸前のクラシカルな車を発見した。よって自分は一切の躊躇もなしに石造りの屋敷の屋根を踏んだ。
月明かりに照らされた高い広い深紅の屋敷は多くの一枚屋根に覆われ、無機物質なのに内臓の生々しさを彷彿とさせた。
そして誇り高い深紅が尚更屋敷に鮮血をぶちまけたかのようなむせ返る鮮烈さを感じさせ、或いは屋敷そのものが息づき、皮膚を剥がされ破れた血管が露出した肉瘤とも思わせる。
「さて、何から始めるべきか」
本来潜入など一年どころか数年単位で執り行う作戦である。
当該屋敷の規模、近辺の家々の消灯時間から傭兵達の食事排泄就寝時間は勿論、家人の家族構成から近隣から遠方の親戚との関係性まで須らくかき集めなけばならない。そしてようやく潜入の必要性が問われる————潜入というひとつの技術が、もはや不要となる程にひとつひとつを摘み取らなければならないというのに、自分はまたも最適解から外れた悪手を取っている。
しかし、今の自分の状況は決して最悪の部類ではなかった。そもそも成すべき事が今までの比でないぐらい単純だ。
「何か盗む訳でもないんだ。ひとまずは———」
自分に襲い掛かった傭兵の姿形を思い出す。
背格好から骨格までの完全なる模写は不可能でも身長と衣服の真似は可能だった。
深緑の浅い帽子を目深に被り、鉄板が仕込まれていた分厚い軍靴までも悪魔の身体で模倣した自分は傭兵達の真似を更に行う———影になる壁を外套で伝いながら屋根から芝生に降りた直後、彼らの巡回している前庭に残る足跡をたどって家主の通る石造りの道をすぐ傍まで歩みを進める。そして車両が過ぎ去るのを真横で待った。
まさか獣が直接乗り込んでいる筈もなく、ハンドルを握る手は白い手袋で覆われていた。想像通りの一連の光景の最後を見定める為、光の角度で微かにたわむフロントガラスに目を凝らす————吐息にも満たない時の間、確かにその顔を見つけた。
そこで視線を細めた。深い皺を刻んだ男性が自らハンドルを握っており、僅かな違和感を覚えた。
「‥‥老けている」
口の中だけで呟いた言葉など車両の音にかき消され気付かれずに玄関を支える石柱まで去っていく。けれど自分の目が確かならばあの教会図書館と今の男性は、よく似た親子程に年の差があって見えた。そして唐突に脳裏に教授と対峙していた男性の姿を思い出した。
「まさか別人———」
心臓が止まる。自分はしくじった。
「‥‥落ち着け」
確かに獣は外周で兵士達と争い、この貴族街に逃げ込んだ。血を宿す足跡も残っているのだ、すぐ近くにいる筈だ。
————あの屋敷に走り去っている訳がない。
「———何を焦っているんだ、今はまだ失敗していない」
そう思った矢先、清掃を終えた傭兵達の車両の音が近付いてきた。
顔も知られていない自分が出迎える訳もなく、先ほどの逆回しのように屋敷の影に隠れ屋根へと登る。そのまま門が開くまで待ち続け改めて兵士達の姿を視認した。数人を警備として残して屋敷内に入っていく傭兵の緊張感のなさたるや蹂躙された外周の兵士達とは別世界に見える。
そこで気付いた———家人を直接護衛する近衛兵とでも呼ぶべきエリートとは違い、どれもこれも個性のない佇まいをしている。
危なかったかもしれない。自分の姿とは僅かながらだが違っていた。
「そもそもなんでここの傭兵は戦地に行っていないんだ」
無駄な思考だと降ってわいた疑問をかき消す。
しかし、この帝都で男性とは軍人を除けば老人や本当に幼い子供。帰ってきた除名者こそいるがそれだって怪我や精神的な状態で出歩く事もままならない。なのに、ここの傭兵達は皆一様に顔色もよくとても健康的である。
ついこの間に戦地から帰ってきた英雄には見えない。少なくとも言動で正しい兵役を経験した兵士とは思えなかった。
「帝国外の———」
月明かりは全てを明るみに晒す。それはこの悪魔も変わらない、そして身の丈を大きく超える巨大な影ならば尚更だった。
弾かれるように全力で深紅の屋根の一枚から逃げた瞬間、空気を切り裂く分厚く鋭い刀身の音が聞こえた。しかし断続的に響く断層の音にそれは刀身ではなく、待ち望んだ爪であると気が付いた。
声を出す暇もなく———獣の視界内にある一つながりの尖塔の裏に隠れる。
そのまま息を断ち、全ての気配を断ち切る。
スレートを踏みつぶす音で獣が追ってくるとわかった———そう、そのまま襲え————尚も自分は呼吸さえ消し続け裏に隠れる。一秒にも満たない潜伏の中、獣が塔ごと砕く勢いでかぎ爪を回した。眼前で火花を散らせる鋼の如き爪と堅牢な壁の間隙に———つい拳を作り出した。
今まで一切声を発しなかった獣のうめき声を真下に、斜塔の頂上から造り出した徹甲弾を発射する。
先日の一撃は身体を貫通しなかったのは知り尽くしている———仮想したのは弾頭を矢のように鋭く重量を持たせた数世代は過去の弾頭。あちらの世界では分厚く頑丈に作り出された装甲は既に鋭利な弾丸は通じなくなっていた。よって重量を持つ弾頭こそ至高とされている。
しかして———ただの毛皮に対しては、獣の肉体に対しては鋭い刀身の如き一撃が致命傷となり得る。
飛来する空気を突き破る弾頭に顔を向けるが、既に頭蓋を捉えた弾頭を避ける時間もない。
人間では体感できない不可視の時間を目で追いながら茫然自失と佇む獣を血しぶきを上げさせながら深紅のスレートに縫い付ける。人体とは比べ物にならない血の樽を破裂させた———だが未だ蠢く腕と首から命の断片を持つと判断する、よって死にたいの身体に新たな銃口を向けた。
蠢くたびに跳ね上がる血肉と血を宿した屋根を視界に収めながら、弾頭を争点する。
「まだだ」
続けて放ったのは身体中を貫く実包ショットシェルの弾丸を一つにまとめたスラッグ弾。
飛距離も貫通力も足りない初心者に勧められた弾丸ではあるが、近距離の面に対しては絶大な破壊力を誇る。骨を砕き内臓を破裂させ爪を塵とする破壊の指先を獣の頭蓋が無くなるまで————放ち続ける。
無論、徹甲弾の段階で壮絶な音が鳴り響いているのは知れている。けれど、次は無いように脳がただの肉片となるまで続ける———完全に留めを刺したとわかるまで、続ける銃撃が止むまで自分は動く事はしない。
「充分か」
原型がなくなるまで続けた内臓だった物を晒す死体を悪魔の腕で持ち上げ、屋根から放り投げると地上から傭兵達の声が響く。悲鳴とも評せる声を背後に、獣であった姿を陽動にし自分は深紅の屋敷を後にした。
「え、だ、大丈夫!?」
「悪い、少し手当てしてくれ」
裂かれた脇を抑えながら頼った場所は結局ミシュレさんの家であった。
初撃を完全に避ける事は出来ず、獣にとっては僅かに、この身体にとっては致命傷足り得る傷を負ってしまった。そして出迎えたセイルは意外としおらしくも慌てて家に引き込み、もはや動けないと悟り玄関で横にしてくれる。
「ちょっと待ってて!!今包帯を!!」
「それと大量の水。桶で頼む。爪で裂かれた」
野生動物の爪と牙には総じて感染症の可能性がある雑菌が住み着いている。しかも、あれは多くの人を切り裂いた実績があった。
血の感染症で死に絶えるなどというあっけない終わりは、マキナも望む所ではあるまい。
「わ、わかった!!動かないで!!」
ドタバタと廊下を走るセイルの後ろ姿に密かなに笑みを浮かべる。
そして何事かと起きたミシュレさんも到着し、事態の収集が不可能なレベルで混乱を作り出してしまう。玄関近くを血で染めぬように強く悪魔の身体で締め上げ続けるが、街中を腹を抱えて走ったしわ寄せが噴出し始める。血が止まらないどころか意識さえままならない。
「眠らないで!!起きて!!」
耳元で叫ぶセイルに頬を叩かれながら、応急処置どころか外科手術にも近い医療行為を始めるミシュレさんの手管に驚きを隠せない。
幾ら教諭をしていたからと言って、この腕はただの一般人とは言えないレベルに達している。しかも更に幸運だった。意識が薄れているのが功を奏したらしく痛みはごく曖昧な物に留まる。アルコールと湯でこびりついた血肉を拭き取り、針と糸で縫われた傷口から血が止まり始めた。
最後に強い匂いがする薬を大量に塗られたわかった瞬間————気が付いたらリビングのソファーに包帯だらけで横になっていた。
「ねぇ大丈夫?ちゃんと起きてる?」
「‥‥さっきまで死んでたよ」
傍らで手を握り続けていたらしいセイルに事実をそのまま言い返すと軽くあばらを突かれる。たったそれだけで意識を失う激痛が走るが、ピアノの鍵盤でも叩く軽々しさで次のあばら骨を突かれると失い掛けていた意識が舞い戻ってくる。そして胃酸が食道をかけ上げる。
「ご、ごめんなさい!!」
何故だか用意してあったバケツに口の中身を全て吐き出し、渡された水で口を洗って更に吐き出す。
「最高だ。ちゃんと生きてる」
「‥‥何言ってるの?」
「さぁな。外はどうだ?」
窓から外を見れば夜の終わりが見え始めていた。夜明けまで数時間もない。
「———あなたが仕留めたんだよね」
「知らない」
「そう‥‥ついさっき軍人達が来たの。獣は仕留めたって」
「やっと安心して過ごせる」
「‥‥うん」
俺が逃げ込める場所はここしかないと知っている。その推理は正しく自分が眠っている間に後処理を全て済ませたようだ。兵士を数人犠牲にした俺に医者でも呼ばない当たり、彼らからの復讐でもあるらしいが帝都を恐怖の坩堝に落とした獣を狩った英雄に対してなんて扱いだ。
「ねぇ、本当に」
「家に帰ったら誰かが居なくなってるかもしれない。気の毒な事だよ」
「————そうかもしれませんね、悲しくて枕を涙で流してしまう。だけど、それも数日で終わりそう」
「なんで?」
「あの家の家主になり得る人物が死んだのだから毎日忙しくなります。葬儀に説明に次の候補の選別に————悲しむ暇なんて無さそう」
心の底から憎らしかったらしく、まるで隠さない微笑みに溜息を吐きながら頷いてしまう。
だけど僅かの時間でセイルは晴れ晴れとしながらも酷く億劫そうな表情で溜息を吐き、視線を今も仄暗い空へと向ける。
今後執り行われるあらゆる儀式にうんざりしているのが見て取れた。実際、数年規模で続けるであろう家々との挨拶回りは自分の想像を絶する億劫さである事だろう。
「頑張ってくれ」
「酷い人、そこは助けようかとは言わなの?」
「そういう約束だっただろう。今夜を終わらせればアビゲイルを守るって、契約は果たしてくれよ———最後に聞きたい」
「どうしてあんな獣の姿で帝都を襲っていたのか、あなたも察しているようだけど欠落しつつある遺伝子を埋め合わせる為。あの人はもう限界だった、そしてあの人以降の血はもう生まれなかった。これは秘密にして———私達、他所の血を招いた理由は子供が生まれなくなったから」
あまりにも血を重ね合わせ過ぎた結果、遺伝子情報に欠陥が生まれてしまったようだ。それはそのまま子供が生まれなくなるという結果を生み出してしまった。さもありなんと言った所か、穢れた穢れたと嘆いた選ばれし血族は、穢れ切った世界に居場所を失ってしまった。
清すぎる水では魚は育たないと知らないとは。
「あの男は二人いた。だけど、あまりにも————」
「そう似てたでしょう?白い髪と髭を生やした老人こそ現当主。そして今夜消えてしまった男は当主の実の子。驚いた?あれが同じ血を重ね合わせ過ぎた結果、ずっと同じ見た目の人間達が引き継ぎ続けるから不老不死の噂さえ流れてしまったぐらい。———それを良い事に、あの男は付け髭だったり髪を染めて好き勝手に振る舞っていた。これで大人しくなるといいのだけど」
「今日、アビゲイルを求めてきたのは変装だったのか」
上手く誤魔化されたと言うべきか、それとも元になった人物への造詣が深かったのか。どちらにしてもこれで終わりだ。
零れそうな内臓を腕で抑えながら立ち上がると、意識が遠のくがわかる。
「まだ横になっていた方が」
「夜明けまでに戻るって決めてるんだ。ミシュレさんへの言い訳を頼むぞ」
造り出した漆黒の杖に頼りながら床板を突いて歩く。
軽く押せば倒れてしまう脆さだが、屋敷に戻って数時間も眠れば最低限は動けるようになる。そう祈るしかない。
「置いて行ってしまうのですね」
振り返った時、これは演技だとわかっていても無視できない顔を覗かせていた。
小さな拳を包んで胸に付ける、小さな肩を震わせて上目遣いで見つめる姿に魔が差してしまった。仕方ない、数度目の言い訳を自分に言い聞かせて元いたソファーへと腰を下ろすと、勝ち誇った笑みを浮かべたセイルに今も痛む腹を押されて横にされた。
そのまま冷たい小さな手で熱を帯びる傷を撫でられると、傷が癒されているようでつい目を瞑りそうになる。
「‥‥気持ちいい」
「あの子では物足りないでしょう?」
「姉なのに他人事だな」
静かに頷いたセイルに「いつから?」と聞かれる。
「わからない。だけど、なんとなく似てる気がした———怒るか?」
「いいえ、だけどせっかく驚かせようと思ったのに。姉と言いつつ、私とあの子はただの親戚。最後に会った時そう言われただけ、もうあの子は忘れているかもしれないけど」
「あのアビゲイルが自分で言った事を忘れるって思うのか?」
「‥‥さぁ?」
初めてセイルより有利に立てた気がした。姉であるアビゲイルと違って上に立つことを常に求められたセイルは、いつからか人との和解、協力よりも支配を重んじてしまったようだ。アビゲイルに欠けている人を疑うという思考を自力で培った彼女が手強かったのは当然だった。
「会いに行かないか?約束しただろう」
「本当に酷い人。置いて行くと思ったら、連れ去れるだなんて———どうか連れて行って」
「‥‥わかった」
手を取り合った時ミシュレさんの声がした。
マズイと思い慌てて振り払おうとするが「どうしたの?」とアビゲイルと同等の小悪魔な表情を見せるセイルは、二階から新たな包帯を抱えて現れた店主殿に見せつけるように手を胸元に引き寄せる。そして傷を癒す冷たい手の爪を僅かに立てて、振り払う手から力を抜かれる。
「あ、ミシュレさん。これは違うの‥‥私がこの人を‥‥」
と何かを勘違いさせる妄言を口にしたセイルと引き剥がされた自分は、内臓が口から零れ出る寸前まで強く包帯を結ばれた。
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