第10話

 教えられた裏口を叩いたが数十秒待ち続けても足音ひとつしない。もう寝付いてしまったか、それとも無暗に出迎えてはならないと自分に誓約を掛けたのか。今の帝都で一人暮らしをする上でむしろ当然の理論だ。仮に軍人が門を叩いたとしても、早々に開いてはならないだろう。

 だとしたらこれ以上はあの人にとって邪魔でしかない。できる限り迷惑は掛けるべきじゃない。

「‥‥行こう」

 二人で被っていた外套を振りながら次の屋根でも探そうと考えたが、深紅の少女は一歩も動かなかった。

「貴族だからって、何もかもが守ってくれる訳じゃない。少なくとも数日間身を隠せる場所を探すべきだ」

「隠れ家の事を言っているんですか?そんな物、幾らでもあるに決まっているでしょう?」

 憮然としながら聞き届け、あしらわれた自分はやはり眉をひそめるに至る。

 この少女はまるで一人で帝都外周を出歩いているという節が言葉の端々から感じ取れた。自分が思っている以上に身軽な立場———という事はあるまい。数える程もいない深紅の貴族の名を連ねている彼女は、本来は深窓の令嬢として青い血管を宿している筈だ。なのに自分の庭のように外周を知り尽くしている。

「そんなに驚き?私だって一人になりたい時だってあります。それに、どうせ私はお飾り。家の空気を僅かでも明るくするだけの頭数」

「どういう意味だ?」

「さぁ?私自身、今更私に何が求められているか知りませんが、あの家は既に主たる産業を存続出来なくなった干からびた蛇。老衰し切った空気を僅かでも私という麗人で埋め合わせをしようとしているのでは?だって老いた男性だけの家ってそれはそれは険悪ですから」

 知らないと言いつつ、この回答だ。そして血が繋がっている少女が家にいるだけで空気が軟化するとは———確証はないとしても、あの男性の行動を鑑みれば到達出来てしまう隠さなければならない呪われた事実が露呈した。

 深紅の貴族は血縁関係者のみで形成されている、それは本当に嘘偽りない事実。恐らく外部から血を招く行為は最後の手段————近親者のみで子を作り、選ばれた血族として血を守っていく。身内に対して何の忌避感も持っていなかったから、男性は迷わずに施そうとした。

「私の母もそういった用向きで招かれましたが、気を良くしてしまったのでしょうね。今は社交界でも何でも足繁く通っていますから」

「———じゃあ、君は」

「見ての通り。あの人は他所の血なんて穢れていると疑わない狂人ですから、ようやく生殖できる血縁者が生まれて嬉しいのでは?」

 家族という物がどういった存在なのか。自分にはまだ理解出来ていない、けれど聞いた試しがある。

 近過ぎる血で交わらないように働きかける、ある遺伝子とでも呼ぶ性質を人間は持ち合わせていた。顔や性格、体型と言った幾つかある中でも際立って顕著なのが『匂い』だ———若い娘と父とが交わらぬ、あるいはそういった感情を持たせぬように当人同士では酷い悪臭が漂っていると感じさせる。しかし、この家ではそういった働きかけは皆無なのだろう。仮にあったとしても、それは興奮を煽る切欠になり得る。

「まぁ、それでも尚私は一晩だけの相手のようですが」

 人形を思わせる無表情で告げる少女に自分と同じ物を感じた。

 酷く冷たい境遇。今後の展望がない事も理解する現実。誰かに奪われなければ自分の終わりを見詰められない、実感できない失敗作。

 劣化とは違う劣性遺伝。必ずや起こる結果にして、遂に来てしまったかと嘆かれる張本人にしてただ生を与えられただけの赤の他人。

「ひとまずここから離れ———」

 手を引いて離れる寸前だった。あの間延びした声が聞こえる。けれど、その裏には緊張感と共に何かを成し遂げる覚悟を感じた。

「ミシュレさん、今大丈夫ですか?」

 改めて声を掛けた扉が弾かれるように開かれる。片手は猟銃で埋まっていたが、こちらの顔を視認した瞬間に安堵の表情を浮かべる。そして何も言わずに引き入れてくれたる———だが、そこで黒の外套を纏っているのがひとりだけではないと気が付いた。答えるように脱ぎ捨てた外套から現れたのは黄金の髪を持つ深紅の貴族だった。顔こそ知らぬかもしれないが、纏っている上質な衣服で偽物ではないと勘付いた。

「あなたは‥‥」

「お久しぶりです」

 それだけの短い言葉で、花屋の店主はふたりとも引き入れてくれた。

 真っ先に与えられたのは温かなハーブティー。僅かなえぐみを舌に伝える慣れた味は、なるほど悪くはなかった。むしろこの家に訪れたのなら、この味を感じなければと焦燥感に駆られてしまう。いっそのこと市販して見れば良い物を。苦さの中毒性に虜となる者が続出するだろう。

「お口に合いましたか?」

「はい、まだありますか?」

「勿論、待ってて」

 少女とふたり、リビングでキッチンに戻るミシュレさんを見送る。しかし少女の方は余計な事をと言いたげに、人間らしい恨みの感情を顔に浮かべる。どうやら彼女もこの味は苦手らしい。アビゲイルと言い自分よりも慣れ親しんでいる筈なのに、何故未だに慣れないのだろうか。

「仲が良いのね」

「何度も世話に成ってるから。そろそろいいか?」

「アビゲイルさんの秘密?」

「その前に名前を聞かせて欲しい」

 何か不思議な事を聞いただろうか。不意打ちでも受けたように口元を隠した少女は長い時間を掛けて我に返った。その頃にはミシュレさんもポットを持って現れ、空になっていたふたつのカップにハーブティーを注ぐ。しくじった、と感じた顔を瞬時に歪ませて舌打ちを制した少女は新たな茶を断るタイミングを見失った。そしておずおずと口に運ぶが、茶請けはないのかと視線をテーブルで遊ばせる。

「驚きました。こんな時間に遊びに来て下さるなんて」

 迷惑という様子を一切浮かべない家主は、その言葉通り友人が遊びに来てくれたとても上機嫌と成っている。その証拠にカップのピッチが早い早い。頬を赤く染めながら微笑む姿は、年相応よりも幼く感じさせた。

「すみません、頼れる場所が思いつかなくて」

「全然、気にしないで。私もひとりは不安に思っていた所だから」

 出会った頃よりも少しだけ言葉が砕けたとわかった。

「それで今晩はどうして?」

「少しだけ帝都に所用があって、道を歩いてたら」

「道に迷った彼を私が保護しました」

 示し合わせてもいないでっち上げの、けれど僅かに自分が優位だと知らしめる言い訳に眉をひそめた。それを「なるほど」と言った感じに頷く年上の女性は少しだけ警戒心を持つべきでは?と要らぬ気遣いを持ってしまう。そのまま「用事とは?」という当然疑問を口にする。

「あの襲撃の参考人として軍に呼ばれたんです。だけど、そのまま放置されて」

「酷い。こんな夜更けに一人になんて。車は?」

「迎えは軍の車両でしたが———」

 という取って付けた悪評を使い、アビゲイルとこの人を事実上生贄にした軍部を下げに下げ続ける。無言で聞き続ける深紅の少女は時折失笑をするが、それも苦いハーブティーで誤魔化してしまう。

「不思議ね。今更私達に何を訊きたかったのかしら?私の所にも一日に一回は訪れるの」

「ただの巡回では?」

「うーん、そうなのかな?」

 彼らにとって、この家が襲撃されるのは策略のひとつだったのか?それとも本当にただの偶然だったのか。圧倒的に前者の可能性が高いのだから今更考えるまでもないが、家に入り込まれるまでに抑え込むつもりではあったのもしれない。もし帝都の女性ひとりで片付くならばと決めた場合、あの餌は家に塗りつけられていた筈だ。必ず店先に飛び込む様にと。

「だけど、この通りにはもう兵士さん達もいないし———ああ、ごめんなさい。自分の事ばかり。それで」

 と視線を深紅の少女に向けた。

「セイル」

 一瞬意味がわからなかった。けれど、ミシュレさんが「はい、お久しぶりですね。セイルさん」と朗らかに次いでポットから注ごうとするので、こちらを見つめてくる。事実として彼女が居なければ何もわからない自分はポットを奪い取って自分に注ぐ。

「あ、乱暴な人。気に入りましたか?」

「ええ、とても———ミシュレさんもお知り合いですか?」

「はい♪私が教員として通っている頃に顔を覚えて貰いました。それに顔を見る為と何度かこのお店にも訪れてくれて。アビゲイルさんからお聞きになりませんでしたか?」

 どうやら深紅の貴族ことセイルはアビゲイルと学友らしい。

 しかし、恐らくは過去にアビゲイルが述べていた特別な枠に座っている特別な生徒であるようだ。

「アビゲイルと一緒に?」

「数える程ですが」

「驚きました。まさかこの方ともお知り合いだなんて。ふふ、学院への入学が楽しみですね。だけど、どうしてこんな時間に?」

「実は私も帝都の獣を遠目からですが、見てしまいました。参考人として証言を求められたのですが、家に送られる途中でこの方が途方に暮れているのを見つけまして。私の立場上、屋敷に連れ込む事は勿論言葉を授ける機会も憚れます。仕方ないと思い、ここにお連れした次第です」

 よくもスラスラと口が回る。こちらとしても有り難い話ではあったが、やはり自分は下に見られているようだった。

 そしてこれにも「なるほどなるほど」と頷くミシュレさんは、しばらく眠れなかったのか目の下が黒く変わっているのを見つける。

「そうです!!お二人共、夕食は?」

 ひとりは心細かったのかもしれない。数日前に到底人とは思えない獣が入り込んだ家での生活は眠れぬ日々を過ごしていたのだから。

 セイルと名乗った少女に何かを聞き出そうとかとも思うが、それよりも先に成すべき事を見つけた。だから、ここは素直に頷いて日常を取り戻そうと決めた。



 意外とセイルという少女は饒舌であった。むしろミシュレさんに対して自分から話しかける姿勢に、ようやく陽性の人間らしさを感じた。勧められる料理は全て平らげて、食後の茶は甘いクッキー片手に飲み込む。貴族としての誇り———というには、個人的な思慮に合わせ過ぎていた。そして短いけれど楽しい団欒の時間が過ぎた頃、ミシュレさんはソファーに腰かけて寝息を立ててしまう。

「ようやく眠ってくれましたね」

 無頼な言い方をするが、その実彼女も眠るまで付き合うつもりだった筈だ。

 近場に有ったローブを身体に掛ける姿にも、彼女の人となりを見れた気がした。

「では、そろそろ此方も」

 着いて来いと背中で伝えるセイルに従い、今も壁や天井に爪痕が残る店先に移動する。

 窓ガラスの全てが破壊されている訳ではない、けれど厚板を打ち付けられた店先から月明かりと草木の香りに包まれた幻想的な世界は消え去っていた。破壊された棚も砕かれた木片も既に片付け済みであるが、何もない無表情な店の様子には耐え難い切なさを感じた。数度しか踏み入れていない自分がつらいのだ、ミシュレさんの心中は今も静寂には至っていないだろう。

「本当に花も草木もないんですね」

「ああ、全部砕かれた」

「‥‥そう」

 ようやく気が付いた。今も漂うこの香りは軍人の火薬と硝煙の匂いだと。この店には相応しくない諍いの匂いに、密かに表情を険しくしてしまう。いつの間にか振り返っていた少女に顔を見られるが、何も言わずにただ歩みを進めた。店の中央に放置された、兵士達が座っていた———アビゲイルと共に月明かりと花を楽しんだ席に着くと。改めて店内の暗さに眉をひそめる。

「私も数度、あの方には世話を頼んできました。会合に出席する時に持参する花束など、この店以外には頼みませんでした」

「そうか」

「けれど、この様子では入荷も疎かになっている様子。次を見つけなければ、そちらの工場は?」

「変わらず、この店を頼りにする予定」

 鼻で笑う姿を予想していた、けれどセイルは値踏みでもするように店内を見つめた。

「どうした?」

「買い取るとしたら、どのくらいの価値があるか考えているの」

「花も植物もない、この荒らされた店をか———次を見つけた方が早い。俺が買い取る」

「‥‥酷い人。自分ばかりあの人を独占する気?」

「工場と独占契約を結んで、他所の商会や家との売買も全てこちらで管理、割に合わない店舗売買も計算し直した方がいいかもな」

「———そんな事は許しません」

 自分から打ち上げた乗っ取り計画を自分から否定している。独占したいのはどちらなのかと告げそうになる。

「それにこの店は帝都外周どころか内部の屋敷とも長く売買を続けてきた店。もしあなた達が全て買い上げたら」

「どうなるんだ?」

「私の隠れ家がひとつ減ってしまうでしょう?」

 決してわかりやすい素直な性格でないのは間違いないが、彼女にとってもこの店は特別であるようだ。きっとアビゲイルも、そしてあの学友達にとっても同じに違いない。であるならば、この程度の事件で取り潰す訳にはいかない。こちらとしても、次を探すには時間と手間を掛けてしまう。

「それについては、ひとまず休戦しよう。追々に」

「ええ、いずれ決めましょう———何から聞きたい?」

 空気が変わる。視線が鋭い物と同時に余裕ある貫禄を併せ持った。此方がどれだけ責め立てても、この視線を向けられたのでは何か奥の手や裏があると勘ぐる事だろう。そして、それは嘘やハッタリの類ではない。隠し持つ毒を自ら紹介する警戒色にも等しい。

「まず、そちらの家の目的はアビゲイル」

「正解、と言っておきます。今はまだね」

「ならば言い切れる———アビゲイルの母は深紅の貴族の出身」

 想定内の回答に、少女は小さく頷いた。むしろ心がざわついたのは自分の方だった。

「驚いた?近親者のみで血を通わせていた家の人間が、自らの婚約者の母君だと知って」

「どうかな?そこまで珍しい訳じゃない。聞かせておく、俺には自分の子がいる」

 これは想定外だったようだ。余裕ある姿勢である足を組んで口元を隠す姿から変わり、テーブルに頭を突き出した。

「冗談じゃない。そして年齢は恐らく俺と同じだ」

「は?」

「重ねて言う。年齢は俺と同じ俺の血を引く個体がいる。この身体が精製された直後に細胞から遺伝子を抜き取られ培養、成長、分裂、着床を経て生まれた身体がいる。目の前で死んだ奴かもしれないし、身体性能が足りないと判断を下されて良性遺伝子だけが取り柄の肉塊に作り替えられているかもしれない———もしくは俺が両手両足、内臓を失った時の為のスペアとして生かされている」

「何を言っているの?」

「さぁな、だけどこれでわかったか。自分を呪いたいのは自分だけじゃないって。同じ身の上がいるって———警戒する相手は他所にいる」

 これで心を通わせられたとは思っていない。けれど、少女の向ける目が変わったのは事実。驚愕という余裕とは真っ向から反対する感情に支配された彼女は嘘を交える精神状態には、もう戻れない。哀れみなど持ち合わせていないだろうが、ただ流せる内容でもない。

「‥‥あなたは一体」

「培養体、ホムンクルス、ムーンベビー。言い方は大量にあるがウツシミと呼ばれてる、いや、呼ばれていた」

「呼ばれていた————どこから来たの?」

「わからない。必死に逃げた結果アビゲイルに救われた。だから興味もない。これでお互いの身の上も隠すべき事情ももうない。続けよう、アビゲイルを欲しているのは次期当主の男児を欲しているから。ここまではいい、だけど次だ。何故アビゲイルなんだ?」

 血縁者との間で子を欲しているのなら、目の前の少女こそが最善の母胎にして血の濃さで言えばアビゲイルと同等の筈だ。

 わざわざあの教授が守護する橙の悪魔をつけ狙う必要性などない。今でこそ没落をかろうじて回避しているが、早々に裏社会から制裁を喰らうだろう。もし仮にアビゲイルの母を教授が奪ったから、その当てつけで求めているのなら————やはり意味がない。

「アビゲイルの血の半分は教授、純粋な血を求めているのなら」

「そう意味がない。そして私の半分も他人の血————数字の話では、もう正当な理由にはならないって訳。特別な血っていう幻想に頼るしか、もうあの子を欲する必要性がないの。これでわかった?アビゲイルを求める理由は、あの子の母親が根源だって事に」

「‥‥俺は、詳しくは聞いてないんだ」

 やっぱりと言いたげに、深紅の少女は溜息を洩らした。

 自分の言い難い過去とアビゲイルにとって特別な歴史を今まで放置してきた所為だろうか。だけど自分は間違っているとは思えなかった。何もかもを包み隠さず話す必要などない、亀裂を恐れているのではない、やはり意味がないからだ。何処まで愛し合おうが———自分とアビゲイルは別個体でしかない。全幅の信頼など夢のまた夢でしかないのだから。

「どうする?私から聞きますか?」

「‥‥教えてくれ」

 え、と少女が口を衝いた言葉をそのまま発した。

「不思議か?」

「少しだけ。いいの?許可を取らなくて、だって愛し合ってるんでしょう?」

「愛し合ってる。踏み込むべきじゃない範囲も理解してるつもりだ」

 尚更何故だ?と表情だけで問い掛ける。だから、自分は逃げ出した臆病者の顔をもう一度取り戻した。

「きっとアビゲイルは———どれだけ親しくなっても、子供が出来ても話してくれない。俺も聞くつもりはなかった、だけど知らなくて良いっていう理由にはならないんだと思う。教えてくれないなら自分で探すしかない、ただそれだけ」

「‥‥あっそう。つまらない身勝手な理由ね」

 失望させただろうか、それともやっぱりこの程度と諦めてさせたか、どちらにしても素直に哀れに口を開くのなら構わない事象だった。

「アビゲイルの母君は、悪魔のひとりだった。それも特別強力な」

 アビゲイルが語っていた先天的な力は親族からの流れを汲むようだ。むしろ突発的にああいった力を得ることはまずないと踏んでいたのだ、特段気にすべき事柄でもなかった。けれど、彼女は自分の分類について嘘を吐いていた。

「君も悪魔のひとり。深紅の貴族は悪魔を排出する名門なのか」

「だった、がもう正しい。上の世代なんて二世代前とは比べ物にならないくらい劣化してるから焦ってるみたい。他所の家と混ざった私と同じ卑属達は少しだけ悪魔の力が復帰した世代———まぁ、それでもお爺様からすれば頭を抱える程度には弱くなってるみたいだけど」

「自分達の世代を誇ってるのか」

「実際、戦争に駆り出される力の持ち主達なのだから弱小悪魔の筈がない。だけど、あそこまで悲観されるとはね」

 いい気味とばかりに鼻で笑ったセイルは頬杖を突きながら、にたりと八重歯を輝かせる。

 昼間の天真爛漫なアビゲイルとは真逆の微笑みだった。人が貶められるのを心底から嘲笑い、そして何度騙されても求めてしまう魅了の悪魔の微笑みに目を離せなくなる。年齢よりも成熟した四肢を持ち合わせた少女は、深紅の外套を内側から持ち上げる胸元を意識的に見せつけた。

「どうかした?」

「悪魔の力を失うのを恐れたから、外部からの血を忌避した」

「その中でも一族の誇りを掛けて完成した研究を用いて精製、徹底した不純物の排除と多くを犠牲にした研鑽を紡いで作り上げたのが、アビゲイルの母君。アビゲイルを求めたのは———彼女の遺伝子を引き継ぐ子がアビゲイルしかいないから」

 狂った倫理観が欠けた家系だ。しかして正常な判断と選択を下せる理性的な集団だった。

 彼ら彼女らは深紅の貴族とは裏腹に純粋なる探究を続けた研究者達であった。むしろ優良遺伝子のみを組み合わせて造り出す身体性能も思考回路も優れた生体兵器とは、いずれは起こるクローン技術の先駆者ともなり得る———義手や義足といった高度な人体工学を持ち合わせる帝都にとって必ずや通る道筋。その中でも唯一にして現存する最後の成功例であるアビゲイルの母を求めるのは、正しい結果だった。

「本来はアビゲイルの母を求めていた———」

「いいえ、ふたり共求めた‥‥子を産むまで待った」

 家畜と同じ扱いだ。しかし、同時に新たな疑問が浮いた。

「何故だ?だって不純物を」

「不純物?まさか、あの教授も悪魔の一族。しかも最古の悪魔とも言える選ばれた血筋の生き残りなのに、知らなかったの?」

「———ああ、知らなかった」

 本当に自分は何も知らなかったようだ。

「話を続けたい。端的に聞くアビゲイルから目を逸らす、いや救うにはどうすればいい」

「さぁ?」

 やはりと思った。彼女にとっても此処から先は決めかねない本当の行き止まり。

 自分を利用したがっていたのはアビゲイルの身の安全さえ保証できればサブプランとなり得る自分を守れるから———そう考えさせたかったのだろう。ならば自分の譲歩できる、譲歩すべき領域を知らせるに値する彼女と真に交渉を始めた。

「俺はアビゲイルと、あの屋敷さえ守れればそれでいい」

「ふーん、自分はどうなってもいいの?」

「必要があれば」

 そう言って逃げ出した者など腐るほどいる。彼女にとってもそれは日常であったに違いない。

「どのくらいまでなら、犠牲になれる?」

「魂なら悪魔に売り払った。払える物は何もない———」

 魂も身体も既に悪魔に捧げた反神者が自分だった。死に慣れる事などない、死を恐れない日々などなかった。けれど死で救える命があるのなら、あの何もかもが気に食わない悪魔に捧げる筈だった魂を奪えるのなら何を厭う事があろうか。きっと自分は笑って奪えるだろう。

「だから、何もかもを道連れに出来る。だけどひとつ伝えたい」

 先ほどから、出会った頃から自分を見下してた少女に———自分こそが正しいと傲慢にも思い込んでいる世間知らずの深窓の令嬢に真に悪魔としての姿を見せた。

 時を超える機械仕掛けの悪魔と契約した人類の裏切り者、人類を贄に捧げ逃げ出した最初にして最後に産まれた悪魔は背に翼を開く。

 不揃いの両翼は十を超える。そして腕の数は自分の思うまま、形さえ冒涜的に変化できる姿はアビゲイルを攫おうとした組織を焼き尽くした力の奔流。その脳裏に刻み付けられた真なる恐怖の権化の顔を晒す。一度見ただけで震え上がる、魂まで砕かれる非道の顔を。

「‥‥悪魔」

「忘れるな、俺はただの悪魔じゃない」

 床板を軋ませる体格を持つ姿にセイルと名乗った『嘲笑の悪魔』は酷く震え上がる。

 形のいい唇は揺れ、まぶたすら閉められない。首すら動かせなくなった小悪魔に真なる悪魔は口を開く。

「最初に生まれた最後の悪魔が俺だ。既にひとつの世界は滅ぼした悪逆の使徒だ。繰り返す、この悪魔を忘れるな。俺に勝てる悪魔も人間も存在しない———俺を利用したいのならお前も差し出せる物を選べ、俺はアビゲイルの為なら何をも犠牲に捧げられる」





 夜明けまで時間がある。そして約束と当初の予定を遂行する為に静まり返った裏口のノブを掴む。

「もう行くの?」

 背筋に掛けられた声に振り向かずに返答する。

「ああ、またな。言い訳は頼むよ」

 扉を潜りながらそう告げる。不思議と冷たい夜風は嫌いではなかった。むしろ徐々に春の陽光に近づきつつある時期の今日この頃、顔に吹き付ける風は生暖かくも感じ始めた。夜は明ける、冬も終わる———過ぎ去るべき残酷な収穫の季節も終わりを見せ始めている。

「獣、今日で刈り取らせて貰う」

 自分は悪魔だった。決して神ではない、けれど悪魔に近づき温かな時間を奪ったのだ、与えるべきは安らかな終わりである。

 黒の外套をはためかせた自分は近場の車両を踏み越え、今も獣を追跡している軍部を探した。

 彼らが獣を射殺できる訳がない、そんな物彼らこそが知り尽くしているだろう。自分達の小銃では決してあの肉体を貫通できない、重機関銃や火砲、重火器の類がなければ知恵ある獣には到底対抗など出来やしないと。しかしこの帝都で重機など持ち運べる訳もない。

「起きろ、マキナ」

 ————貴様が成すべきなのか?————

「ああ、俺の使命、そして契約だ」

 ————ならば、力を貸そう。ようやくまた楽しめそうだ———

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