第9話

 かの老人は自分にとって船頭の役割、もしくは七日間の試練を伝えてきたのかもしれない。しかし自分は老人を一蹴してしまった。

 人から見れば顔を背けたくなる愚行を施したかもしれないが、そもそも不老不死になどなる気もない。無論、草や蛇などにも興味もない。それに———この教会図書館へは自らの手足と知見で訪れた。誘導される施しを受けたのなら、必ずや失敗していただろう。

「何者か、考えるべきだけど今はどうでもいい。報告されて顔を見せようものなら良いんだが」

 まるで鏡移しであった。本棚の向かいには本棚。そびえ立つ巨大な柱も等間隔に並び、尚更鏡の世界を旅して見えた。シンメトリーと呼ばれる左右対称な構造は、合理性が求められた結果生まれた様式である。古代ギリシャにて誕生した言葉であり、安定した配置には盤石な美しさを感じたからこそ、後の世にまで波及した美術のひとつ。であるならば、この建築物はずっと古くから帝都に佇んでいた事だろう。

「そもそも何の為に訪れたか」

 深紅の貴族の背を追って踏み込んだというのに、見かけたのは老人ひとり。今も煌々と明かりがつけられた内部は何処までも清廉潔白に見えるからこそ、影も深く刻まれて見えた。影があるからこそ光が際立つのなら、その逆も成り立つであろう。

「教授と帝国。影があるから光も見える———図書館を成り立たせる別の事柄がある」

 なればこそ、自分は先ほどからこの教会図書館に似つかわしくない物体や様式を追っていた。第六感と言われる直感は、意外と馬鹿に出来ない。錯覚だ、と言われればそれまでであるのは間違いないが、違和感を覚える物を放置できる程自分は劣化していない。

「この教会図書館の歴史は長いと判断する。無駄のないシメントリーの建築様式は、合理性を求めたからだ」

 丁度中間、本棚と本棚が殊更鏡移しとなった地点で巨大な木製のテーブルに手を乗せる。

「ならば、削ぎ落す無駄など存在しない。それが当初に教会として求められた意味だ。けれど、ここは既に図書館として求められている———あの男性が求めた機能はなんだ。十中八九前者だ、さもなければこの時間に訪れる筈がない」

 誰に聞かせるつもりもなく、自分の中に思考を言葉として表現する。

「違和感は図書館としての存在意義。もはやこの建物は図書館としか見られていないのは、あの司祭の言葉で知れた。だったなら」

 視線を向けた先は明白だった。本来ならば十字架に磔にされた聖人、もしくは聖母が子を抱いている様子が模された石像、はたして教会の最奥たる台座にて自分を見下ろす存在は後者であった。しかし、灰色のそれは既に打ち捨てられた石像でしかなかった。

 この世界に嫌気がさしたのか、それとも存在する意義はもう過ぎたというのか。

 神の存在を知らせる神品機密など、既に失われた存在となり果てていた。

「‥‥あの司祭、何者だ」

 台座にて屹立する聖母と思わしき像は、あちらとは若干ながら違っていた。背に巨大な翼を持つ存在は聖母というよりも女神のようだった。そしてこの推測は正しかったようだ。天井画を改めて見渡せば、女性を模した天使達は皆ひと際巨大な女神像に仕えていた。

「女神か。お前よりも奉られているんじゃないか?」

 ————無知とは面白い———

 久方ぶりにまともに返答をしたかと思えば、これである。機械仕掛けの悪魔とはやはり気が合わない。

 ————けれど、いい勘をしている。台座を調べてみろ———

「なに?」

 しかし、ようやく上げたかと思った腰をすぐさま下ろした悪魔は、返事のひとつもしないで押し黙ってしまった。

 悪魔は悪魔だが、悪魔とは契約書には従順だと相場が決まっている。言われた通りに台座の後ろに回り手の届く範囲を調べ始める。そこでようやく気が付いた。この台座も、庭園にてマキナと王の契約を刻んだ石碑と同じ素材であると。それどころか女神像自身も類する素材だと。

「‥‥ただの大理石でも結晶でもない。パネルか———誰が作り上げた」

 慣れ親しんだ感触を思い出す、この感触は毎時間のように触れていたと。けれど、この世界の画面は比べ物にならない。湾曲させながらも石像の質感を模倣したパネルなど元いた世界でも存在しないだろう。仮に開発されていたとしても自分が知った事ではない。

 あまりにも時代を無視したオーバーテクノロジーへの興味は尽きない上、台座の裏に手をかざした瞬間に———気を配るべき状況の中で油断した。耳鳴りという虫の知らせにも似た不快感に姿勢を下げた事で頭蓋を捉える長物の一撃を寸前で躱す。台座を壁に続け様に放たれる殴打から逃れ、女神の足元から大きく飛び退いた事で襲撃者を見定める。

 深緑のロングコート、独自の私兵に配備している軍服を纏った襲撃者は肩に長大な銃剣を構えた。暗殺者と呼ぶには隠さない手口と隠し持つにまるで配慮出来ていない銃器と衣服の数々には、自分との相性の悪さに舌を巻いた。本物の戦闘職である男性を見上げながら推察した。

「何用か」

 短い言葉ながらも肥大した自尊心を感じさせる。仮にも教会図書館、公共に開かれた土地だというのにやはり我が物と言った感じに肘で銃剣を構えた男性は、殺傷以外何も想定していないと顔からでも読み取れた。往々にして自分と主の立場を入れ替えて考えてしまう護衛という物はどの世界にも存在するようだ。

「答えろ」

 向けられた銃口は軍人達が揃える口径よりも僅かに広い。重ねた実験と時間と研鑽の元製造され、あらゆる対象、あらゆる環境にも秀でた結果を誇る量産品こそが兵器にとって至高であるのは疑う余地がない。けれど、個人の為に仕立てられた或いは手に馴染むよう磨かれた武器は本物の手足のように扱える。今も向けられている銃器は、紛れもなく後者である。

「答えた所で殺すだろう」

 銃口を向けられたガキ、男性の目からはそう移ったに違いない。暗殺に対抗する護衛を雇っているという事は年若い少年の接触など腐るほど見たに違いない。その度にこうやって処理した、だから今回も変わりない————そうやって足元をすくわれた者は反省する事なく死する。

 銃口から逃れる最善の一手。床の大理石を削るように滑り込み男性の足元へと迫る、頭上を通過する弾丸への一切の戸惑いもしない行動に男性は銃口というご自慢の一撃から蹴りという原始的対処への移行が遅れる。

 油断した男性へ肉薄しながら外套を変換させ、鉄板でも仕込んでいるかのように膨れ上がる軍靴を掴み上げる。そのまま倒れる傭兵の銃剣の間合いの中に身を置き更に造り出した腕で口を閉ざす。そして慈悲なく最短の一撃へと移行する。

「油断したな」

 造り出した武器は鈍器とも言えない杭だった。けれど、手と一体化した杭は至近距離から何の抵抗も出来ない身体の胸骨を易々と砕き内臓を破裂させる。しかしやはり死体を出すには、ここは不都合だと判断した。仕方ないと逡巡した結果、男性の鳩尾辺りを鋭く捉え意識を奪う。

 貫通しない杭を受けた傭兵へ声を漏らす暇もなく気絶、銃剣を手から落とした。

「また起きられると面倒だ」

 硬質な音を大理石と共に響かせた銃剣を手に取り、一瞬破壊しようかとも思ったが先端に刃物が設置されている以上放置など出来なかった。仕方なしと外套を伸ばし内側に収納すると、僅かに首と肩を引かれた気分となるが耐えられる程度だった。

 傭兵が待機しているという事は台座は調べられたくないという現実を如実に語っている。傭兵を本棚の影に放り込み、再度台座裏に手を伸ばすと、そこには地図にも等しい絵が生まれ教会図書館全体を形作る地図の一点が赤く示される。何処試練にも似た一連の出来事に溜息を吐く。

「ここは‥‥」

 地図が示した方向、それは今も自分を見下ろしている吹き抜けの二階であった。すぐさま台座から手を放し、また襲撃を受けないとも言い難い一階から脱出。外套を腕に模させながら重厚な本棚や灰色の柱を掴み取り巨大な蜘蛛を彷彿とさせる姿で登り渡る。ともすれば自分は慌てて二階の手すりに身を隠し懸垂でもするように影に潜み続けた。

「騒々しい」

 深紅の貴族だった。彫の深い容貌を携えた男性の低い声に身震いをしながらも、爪を作り出した外套で教会図書館と一体化する。真下から見上げればやはり巨大な蜘蛛としか映らない自分は、その気に成ってしまえば男性の頭蓋を持ち帰られる距離にいた。

「‥‥何処に行った。死体は可能な限り避けよと命じた筈だ」

 どうやら仕留めたネズミの処理に走ったと思い込んでいる、これ幸いと自分は耳を澄まし続けた。日常の中の違和感とは意外な程気付かない、目を瞑れば過ぎ去るただの光景であるからだ。何事にも動じない胆力とは、行き過ぎれば鈍感と言っても差し支えない代物へと劣化する。

「仕方あるまい」

 悠然と踵を返した男性の足音が離れるのを聞きながら、手すりへと身を乗り出しすぐさま本棚の真上に移動する。真後ろにこのような悪魔がいるとは露知らず、無防備な背筋を晒し続ける男性は一歩一歩厳かに進み続けた。そして時折声を出して、あの護衛を呼び出すが返ってくる返事はない。

「———煙草でも吹かしているのか。ヤニの匂いでも残せば首を落としてくれる」

 僅かな苛立ちを宿す男性は、そのまま三階へと続く階段に足を延ばす。

 追随は危険だ。逃げ場がない一本道での追跡など罠でしかない。そう確信した自分は近場を見渡し外へと続く扉から飛び出る。テラスと呼ばわれる屋外に足を踏み入れ、そのまま外壁を掴み取りながら三階まで移動する。目指す先など知れている、今も煌々と明かりが付いた一部屋を窓から覗き込んだ時、表情を微々に変えるに値する人物を見つける。

「娘か孫か、もしくは」

 深紅の外套を纏う少女は何をするでもなく火を灯すランプを眺めていた。そして扉を叩かずに現れた男性に密かに溜息を吐く。たった数秒だけ動作でしかないというのに、あまりの美しさに息を呑んでしまう。頬杖を突いていた手の爪、僅かに開いた眼球、火に当てられた小さな頬に至るまでありとあらゆる部位が大理石で造られ彫られたかのように光り輝く。

「何故勝手に接触した」

「なんのお話ですか?」

「とぼけるな」

 長身な男性がひと際威圧的に少女に迫る。けれど少女自身はどこ吹く風と気にも留めていない。

「あの家は私が支配する。そう伝えた筈だ」

 わざとらしく少女が鼻で笑う。

 それに目元を歪ませた男性が更に詰め寄った。襟でも掴み上げ兼ねない雰囲気にそろそろと言った感じに深紅の少女は視線を向ける。

「今の今まで何も出来ていないあなたがそう申されるのですか?もはや表でも裏でもあなたの影響力など高が知れています。挙句、みすぼらしいと評した教授は今やはあなた以上に上質な御召し物に袖を通しています。この帝都、戦場でしか通じないこの色に一体どれだけの価値を見出しているのですか?遂には、彼女が成長するまでと言っておいて皺を顔に刻んでしまっている。いい加減、醜いのでは?」

 痺れを切らした男性は眉間に更に皺を作り少女を掴み上げた。しかし、むしろほくそ笑む表情を浮かべる少女から恐怖を感じ取る。

「何が面白い。貴様こそこの色を傘に生き続ける卑しい身の上だろうが、貴様がこの深紅を纏うことすら虫唾が走る———」

「はっ!!ようやっと申されましたね。常々、私の見えない影から言いふらしていたと思っておりましたが、終ぞ勇気を持てましたか?」

「図に乗るな。お前の価値は世継ぎを作る程度、しかもお前の母も碌な男児を生まなかった」

「それによって救われたのはあなた様でしょう?良かったですね、母が優秀な子を産まなくて」

 繰り広げられるお家事情には興味こそあるが、自分の目的にどれがどれだけ通ずるかわからぬ中での会話に目蓋を締める暇もなかった。

 しかし、ようやく見えてきた物もある。あの家とは間違いなく身を寄せている屋敷、支配するとはアビゲイルを奪うと断じていい筈だ。そして世継ぎを求めているという事は、跡取り息子に恵まれていない意味だと受け取る。なれば、アビゲイルを求める理由にも察しが付く。

「何故アビゲイルなんだ」

 口の中で呟く言葉に、我が事ながら落胆した。声に出した所で返事などする筈もない。むしろ自分の存在を知らしめる可能性を孕むというのに———けれど、問わずにはいられなかった。確かに貴族であり至高の美女であるアビゲイルだが、これほどまでに求める理由がわからない。

 貴族としての格ならば、彼方が幾分も上である筈だ。

「悪女が、もしや自分が跡取りに」

「確かに女王という存在は帝国に設けられています。跡取りが女性という趣も現代の帝都では自然な流れかと。しかしそれを私から言わせたいなどと、あなた様はやはり気配りが足りぬようだ。そんな事だからあなたも子に恵まれぬのですよ、天から見つめる子供もあなただけは嫌だと」

 挑発を繰り返す少女が気付かない筈がなかった、彼女が拳銃を構えたとしてもただの腕力でねじ伏せられる可能性があると。一息に眉間を撃ち抜けさえすればただちに男性は絶命するが、成人男性の身体に拳銃という小さな銃口では決定打に欠ける。二発三発と続けて放ったとしても、怒りに我を失った握力でその細い首を締め上げられれば、相打ちにも届かず息を絶えてしまう。

「襟など掴んでどうするおつもりですか?血縁関係の少女の顔に傷などつければ、遂に手まで上げる程落ちぶれたのかと指を差されるのでは?」

「口の利き方を教え込む。ただの教育だ」

 既に怒りに飲まれていた。襟から力任せにシルクの白いシャツのボタンを引き千切った時、その目は既に正気とは言い難かった。

 何が正解なのか。自分にとっては、ただの家庭内暴力に過ぎない。どれだけ目の前の少女が痛めつけられ、その純真を汚されようが知った事ではない。実際、生殖の適齢期から遠く離れた老人に孫程も若い女性の誘拐を仰せつかった試しなど枚挙に暇がない。その後の行方など知らない。ただ、時たま老人が思い出したように「惜しい事とした」とつまらなそうに呟くのを眺めるだけだった。

「だけど、アビゲイルの何かを知っている」

 彼女はあらゆる事情に精通している。口でも縫い付けられては、此方としても困りものである。

 情報収集から救出に代わってしまった。既にこの手は汚泥に塗れているというのに、昨今は洗い流す瞬時ばかりが巡ってくる。慣れない陽動作戦へ頭を切り替える————仕方ない、そう自分を納得させて培ってきた常識を敢えて逆行———自分の姿を晒す。

「なんだ———」

 少女の両腕を掴み、袂のソファーに押し付けて馬乗りに成りつつある男性はようやく何に覗き込まれていたかを悟った。

 仄暗い雲が裂け、月光に包まれたこの身を眼球に宿した男性は引き下がった。もはや蜘蛛とは言い難い形容し難き異形と化した悪魔は巨大な窓を掴み取り深紅の少女を覗き込む。背には歪んだ不揃いの翼を生やしひと一人ならば容易に解体し得る、ぞろりとしたかぎ爪を持ち上げる悪魔は黙ったままで声も発しない少女を掴み上げ、そのまま教会図書館から落下する。

「動かない、口を開けない」

「舌を噛むから、ですね」

 切り出された石のブロックを積み上げられた塔にも似た教会から飛び降りた自分は姿を更に変える。もはや窓から見ても点とも映らない距離を取った悪魔は黒の外套をふたりで被る。やはり慣れない救出活動など避けるべきだったと舌打ちをした、けれどあの深紅の貴族の口を封じた所で記憶ばかりは残ってしまう。草の根分けてでも自分を捕縛した悪魔を探し当てるだろう。

「———いつから気付いてた」

「あなたが軍の施設に踏み込んでから」

 空を掴む外套を更に巨大に作り替え、落下から滑空に移行した悪魔の身体はもはや諸人には見つけられない闇となる。夜に紛れながら屋根と斜塔を踏み付ける己が姿に深紅の少女が鳥肌を立てているのがわかる。決して無視できない立場の当主から逃げ出したというのに、当の本人は高揚感に包まれていた。夜の街に目を輝かせる深紅の少女の考えが、自分には推察できなかった。

「何故だ?」

 そう問うたというのに、微笑むでも嘲りもしない。

「何が?」

「なんで俺が来るとわかった。窓から覗き込んでるなんて、想像してなかったんだろう」

「あなたにとって彼女はその身を引き替えにしても惜しくない人。そんな人をつけ狙う人間が相応の立場ある人物————」

 歌うように続ける少女は、アビゲイルがなかなか踏み込めなかった範囲を易々と飛び越える。首と肩にしがみつく少女はあどけない表情など一切せずに経験者の雰囲気を物語っていた。ああいったやり取りは彼女にとって日常茶飯事、ただの威嚇でしかなかったのかもしれない。

「もし私があのまま囚われでもしたら彼女の秘密には遠のいてしまう。よって私を救うしかない。簡単な順路に過ぎません」

 何を当たり前の事を、とでも言いたげに呟く声は相応の経験とやり取りとは決して言い換えられない闘争を興じてきた者たる所以を感じた。

「軍部に内通者でもいるのか」

「当然、いるに決まってるでしょう?」

「あの大佐か」

「想像に任せます。それで、何処まで行くの?」

 未だかつてない経験をしている筈なのに今も尚つまらない、を装っている彼女は眼下の街を見つめている。街灯と色とりどりの屋根、そして競うように積み上げられた屋敷の斜塔を踏み付ける状況に何故か恐怖を感じていない。まさか、とは思ったがむしろ往々にして当然だ。

「悪魔か」

「気付いたのはあなたで二人目。何故わかったの?」

「想像に任せる———何処まで行くか、ひとまず姿を隠せる場所に行きたい」

 とは言ったものの自分がそんな都合良く知っている筈がなかった。何処かの屋根にでも止まれればいいと思ったが、選ばれし家の中でも最も誇り高く格式高い家の出身である彼女は何処に行けるのかと目をらんらんと煌めかせる。屋根から屋根へ、暗闇から闇夜へと飛び出し続ける自分は———いっその事安宿でもと思ったが「私は未婚ですから」と先手を打たれる。どうやら目が泳いだと気付いたようだ。

「仕方ありません、彼女に頼りましょう」

 伝手があるらしく気付かれぬように胸を撫で下ろす。そして指差した方向を見て密かに眉を動かす。

「あの人には迷惑を掛けられない」

「知らないようですね。あの方も貴族の一席、その上皇帝に代々仕えてきた我々とは違う存在。仮にあの男が居場所を突き止めたとしても、指を加えて自慰でも———失礼、何も出来ずに今晩の娼婦を探すだけ。隠れ場として、これ以上の場はないと思いますが?」

 清楚な見た目には似合わず割と世情に塗れた人物のようだ。自分の知らない世界での闘争とは、これほどまでに俗っぽいようだ。

「あはははッ。もしかして貴族に期待でもしていた?でも残念、彼らだって所詮は欲ある人間。ノブレスオブリージュなんてただの外面、虚飾と色欲に塗れるが貴族。そして隙を見せれば二度と浮かばぬようにと私刑を下す俗物達。もし蝶よ花よと愛でられている深窓の令嬢に憧れを持っているのならお生憎、既に彼女達は知らず知らずのうちに汚される相手が決まっていてよ。だって、あの俗物は私にだって厭らしい目を」

 逃げ出した解放感を存分に味わっているご令嬢は、言葉と経験だけ鑑みれば確かに世界の深淵を覗き込んでいるのは間違いない。だけど同時に純粋な心を裏切られと叫ぶ程には、救済願望を持ち合わせているらしい。こんな嘆きを持ち合わせているのだから。

「あなたも忘れないように。真にアビゲイルさんと契りを結びたいのなら」

「その為に俺はここにいる。君も忘れるな、俺は何処まで行ってもアビゲイルの為にしか動かない」

「いつ落とされるやも知れない状況を忘れるな。そんな事知っています」

 何故だろうか、高揚感とは違う感情を浮かべ始める。それは何なのか自分には図り知れなかった。

 何も話さなくなった少女と二人、この帝都で唯一頼れて身を寄せられる人物の家を目指した。

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