第8話

月明かりのみが自分の正体を知り尽くしていた。

 冷たい夜風を統べるように闇夜を疾走するこの身を捉えられるのは、形無き概念のみ。掌握も視認も能わない夜の色そのものとなった自分は空から逃れられる者が存在しないのと同意、何処までも自由に、誰にも気付かれる事なく帝都へと続く石畳を眼下に見下ろしていた。

 今もヘッドライトを灯して走る車両こそあるが、真上にこのような尋常外の生物がいるとは想像もしていまい。

「まずは———」

 近づいてきた帝国の尖塔、監視塔を見据える。灯された大質量の光源には人影がある。

 監視か観測か、獣の動向を探っているとしたら高く評価できる。だが、それはどちらに対してなのかと疑って掛かる。彼ら軍の人間は獣の食事時に現れた。事件後に訪れるのは捜査機関であればごく自然の事である。だから同時に事後に現場へ足を踏み込んだとしても、誰も疑わない。

 そして、自分の痕跡を全て水で流し去る行いをしたとしても、やはり諸人では気付かない。

 気付くとしたら、それは何も知らない身内であるのだから。

「だが追い払うにしても完全に火力不足、練度不足だった。餌にされたのは奴らも同じかもしれない」

 多くの疑念、疑惑が渦巻く帝国軍の全てを解明する気など元から皆無である。あくまでも自分が見据えるべきは獣の正体。もし軍が何かしらに関わっていたとしても、やはり彼らを殺傷する気など皆無であった。現場で陣頭指揮を執っている者など、ただの小間使いでしかない。

 けれど、もし獣を守る為に策を弄するのなら、この悪魔は望み通りに帝都を蹂躙する————。

「兵舎、あの駐屯地に」

 過去に侵略された帝国は断崖絶壁と言っても過言でない隔壁で覆われている。門こそ常に開いているが、敵国の銃声の影でも感じればすぐさま臨戦態勢へと移行。ようやく戦争が終わったと安堵した女性老人元軍人関係なく銃を手に取る。

「人間同士の諍いには興味がない」

 と、呟き顔を悪魔の身体で覆う。もはや背格好ひとつ取っても自分の形跡など皆無だった。

 夜の帝都に現れる獣と同じく、帝都の夜空に飛ぶ悪魔と銘打たれる姿をしていた。




 帝都外周、淡い赤色をする石屋根の上に降り立った。深夜と言っても過言ではない時間、獣の襲撃が繰り広げられた帝都外周の家々は、扉を固く締めている。先日の一件以来、数日振りの帝都に人の流れなど見当たらないと予想していたが、反して軍靴は隊列を踏んでいた。長大な軍服を纏った大佐こそ発見できないが、パトロールと言うにはあまりにも物々しい大捕り物の前兆を造り出している。

「使わないで済むといいけど‥‥」

 腰に差している連射式拳銃。マシンピストルと言える銃火器に対して、ひとつのマガジンしか持ち合わせていない。

 使う段階は思案しなければならない。殺すのなら確実に、脅すのなら撃てないと悟られぬように。そして証拠は残さぬように。

「‥‥何処まで想像通りか」

 こうなる事を想定して譲り渡したのなら、既に自分は大佐の手の上で踊っている。それならそれで構わない。アビゲイルを救えるのなら、慣れないステップの限りを尽くそう。けれど、それは待ち受ける罠を張っているのと同意義である。やはり放置は出来ない。

「まずは———」

 身体を包む悪魔の肉を変形、屋根と煙突を掴むかぎ爪として作り直す。空気抵抗を限りなく削った、身体の線に寄り添う外套で街明かりも届かない屋根を疾走し続ける。足音ひとつ残さぬ綱渡りにも似た忍び足は、あちらで散々使い続けた歩法だった。

「いつの俺が会得したかもしれない技術。これも受け継ぐと言えるのか」

 失敗したなら死が待ち受けていた。その度に自分は心臓と脳だけはと守り続けた。

 新たな足が配られた時、今度こそは磨き続けた正しい駆動。人類がその種を以って造り出した技術を受け継いだ我々の、この身に宿る優れた人間の遺伝子。それを積み重ねと共に、野生の勘で造り出した足は獣に大きく似通っている。最適解、それこそが我らの強み。

「用意された正解。見える目的こそ至高にして最優。侮ったな大佐」

 悪魔の力のみが厄介と思ったのだろうが、自分はこの力を数度も使っていない。本当に数える程の操作だが、脳の一部を占領した新たな肉体は思うがままに作動する。新たな臓器、新たな腕、新たな眼球。ようやく完成した整えられた肉体を駆る自分は、人を越えられた。

 最後に家屋をひと飛びし、灰色のシェルターとも言える兵舎を見つめる。

 屋上には腰掛けた樽こそ並ぶが紫煙はなく、むしろ全員出払っているかのような静けに包まれていた。期を逃さず、悪魔の足で無音で降り立った自分は飛び込むように階下へと踏み込む。やはり明かりこそ灯っていたが、土埃ひとつ立たない建物は無人を物語っている。

「———大方、地下だ」

 煩わしかった兵士の声から逃れるべく、ある程度の土地勘を造り出した階段を飛び降りながら死体収容室を求める。

 死体を見ますか?そんな提案をされていたが、あの時からどれだけ彼らを信頼できるか思考していた。もし違う別人の死体でも見せられたら、自分は早々に兵士達を信用していたかもしれない。断って正解だったと言えよう。

 仄暗い地下へと飛び降りた時、自分は最奥の突き当たりに駆けこんだ。全ての検視が終わった時に運ばれる部屋だからだった。

 けれど、易々とは行かないのも知れた事。鍵が閉められた扉は、一枚の鋼鉄にも見えた。

「動け、マキナ」

 つまらない、そう告げた悪魔は数秒にも満たずに黒い鍵を造り出す。軽い抵抗感を感じながら開かれた部屋に波のように飛び込んだ。

「まだ新しい筈だ」

 何処の世界もモルグは変わらないらしい。簡素に造られたロッカーは、それぞれひと一人分の為に造られた奥行ある小部屋。出向かる為に設置されたテーブルの上で整えられているファイルを手に取り、三日前に運ばれた変死体を確認する。

 獣に食われた死体であるが、獣に殺されたのか、死んだ後喰われたのか、死んでいる途中で死んだのかわからない。よって変死とカテゴリーされていると予想、列挙された死因を調べていく。まるで見ろと言わんばかりに放置されたファイルには真新しいインク文字が浮かんでいた。

「———これか」

 元からそこにあったように角度も影も元に戻し、飛びつくようにひとつのハンドルを掴む———予想通り。死体など見当たらない。

「‥‥餌はここから運び出した。あれは元から死体だった」

 新鮮な肉しか食さない肉食獣は存在する。だが、死肉しか口に運ばない獣も現存する。それの折衷、見当たり次第食い散らかす物の怪も。

 確証はない。だから断定など不可能だ。けれど、死体と数えられていた筈の死者は元から存在していなかった。あれは誘き出す為の血を纏ったただの肉塊であったようだ。であれば、叩きつけられた腕や抵抗した痕跡は血によって酩酊した獣の本能の余波だったと。

 よって決定した。獣が狂ったように襲い掛かった理由は、軍部が関わった可能性がある。

「なんの為に、あの場に置いた」

 口の中だけで呟き、分厚い鋼鉄の扉の影から外を窺う。はたして兵士達は小銃を構えて誘き出された悪魔を待ち望んでいた。

「小さい銃口だ。街中での重火器申請がまだ間に合っていないのか」

 重機関銃、破片手榴弾、火炎放射器、簡易的焼夷弾、それらの類があったのなら厄介ではあったが、対人しか念頭に置いていない小銃しか持ち合わせていなのなら、然程も気に留められなかった。

 人は恐怖に支配される。生存率を辛うじて高める為の本能であり、触れてはならないと悟る理性でもある。

 奇しくも自分の姿は、誰もが思い描く悪夢の象徴を見違う形を持ち合わせていた。

「な、なんだ!?」

 鋼鉄の扉に軽い弾が跳弾する。未だ姿を見せていない自分は強靭に編み込んだ悪魔の腕を細く分割。人から見れば女性の黒髪にも映る腕の数々は長い灰色の廊下を全て覆い尽くしながら兵士達に迫る。銃弾も銃剣も一切受け付けないアラミド繊維を仮想、まとめ上げた腕達は兵士の一人の足を掴み上げ————そのまま壁や天井へと叩きつける。気を失ったのを確認し、呆けているもう一人を天井まで掴み上げてそのまま固定する。ようやく自分達の現実とは別次元の存在だと気付いた兵士達が狂ったように絶叫を上げて逃げ、或いは廊下の隅に縮こまる。

 そして、悠然と開かれた扉の中央にいる悪魔の姿を脳裏に宿す。そして一言、声を漏らす。

「悪魔‥‥」

 造り出した足を使い、床を滑るように廊下を走る自分に兵士達はもはや銃口すら向けられない。階段でまとめて倒れていた兵士を跨ぎ、そのまま屋上へ続く階段の手すりまで一息で飛ぶ。それぞれの階で待ち構えていた銃口は一瞬の的を捉えられず壁ばかりを弾丸で叩き続ける。

 慣れ親しんだ銃声を背後に、屋上の扉を飛び込みながら開け放つ。

 抑えていたらしい兵士を扉で弾き飛ばした時、前触れもなく帝国の空へと身を投げる。熱線にも似た銃弾の檻を避け、或いはマキナの頭脳を使って計算、悪魔の眼球を用いて装甲で受け止める。この身に一切の傷を付けられずに佇む大佐率いる軍部を横目に自分は兵舎を後にした。


 


 教授の上着を参考に外套を編み造り出した時、自分は路地裏の煉瓦造りの壁へと背を付けていた。光溢れる大通りには、ついさっき置いてきた兵士達が車両を駆り、おおよそは自分を追っているようだ。いい勘をしている。けれど、もはや正気とは思えない顔付きの数々。あの形容し難き姿を追い求めているのだ、仮に自分が大手を振って表れても気にも留めまい。

「俺が気に留めるべきは」

 自分は狩場、或いは縄張りに不意に現れた敵対者である。あの獣が放置するとは思えない。

 あれに嗅覚の類があるのであれば、既に鼻孔に収めた体臭を追っていずれは対峙する事となるだろう。けれど、それは自分にとっても望むところ———死なない程度に首を捥ぎ、虫の息となった所で首輪をつける。蜂の巣を探す、危険な生物や人物の住処を探す手法と同じ。

 飼い主の在り処へと足を踏み込むには、これ以上ない確実な方法である。

「もし知能があったとしても、真っ直ぐに帝都内部に走った。帰る場所はひとつしかない」

 けれど、これは何処までも受け身の手法である。時間を無駄には出来ない。時点では次の目的を追うしかない。

「軍部は知れた。獣は放置———深紅の貴族」

 彼、彼女が何故自分に接触してきたのかは、やはり未だ判然としない。わざと惑わせている可能性はあるが、少なくとも教授と口論の一歩手前まで踏み出していた男性は確実にアビゲイルに用向きがあった。自分の事など眼中にないのは明白、あの教授でさえ障害のひとつとしか数えていない。

「あの貴族が、それほどの力を持ち合わせているのか。信じられない」

 帝都という一ヶ所では留まらず帝国全ての裏で暗躍、犯罪界にも名を轟かせ、軍部は勿論王室にさえその事を知られながら次期帝都知事にすら数えられる秀才にして鬼才。言ってしまえば裏社会の皇帝と評しても誰もが黙認する天才である。そんな教授と肩を並べられる帝国礎の英雄とは———一筋縄ではいかないとは想像しているが、街中で見かけた姿からして然程も市民に敬われている様子ではなかった。

「‥‥門は越えられる」

 路地裏から白亜の壁を見上げる。門を閉ざした犯しがたい絶壁はその気になれば登りきるのも容易く見える。事実として獣が毎晩帰還しているのが貴族街であるのなら、外周と内部の垣根はあまり高い訳ではないようだ。実際、あの庭園を身分証もなしに入れたのだから。

 やはり教授の真似をして、慣れないし似合いもしないシルクハットを被る。杖でもあれば良いのにと肩で路地裏の臭気を切って大通りへと姿を晒す。既に兵士が去った後とは言え、人々の姿が見当たらない夜の街はどこか怪奇的で幻想的でもあった。

「———獣と貴族の関係か。何もない筈がない」

 深夜の襲撃は、確かにアビゲイルを狙っての物だった。

 少なくとも自分が目的の筈がない。自分はまだこちらに来て日が浅いのだから、顔だって知られていない。可能性の問題としてミシュレさんも範囲にこそ当たるが、帝国に住まう彼女を狙う時間など幾らでもある。わざわざあの時間に獣を放つ必要性はない。

「アビゲイルを殺したいのか。なら暗殺者でも———」

 その可能性に行き着いてしまった。

「‥‥人買いか」

 静かに息を整える。その場に部外者たる自分が居なければ、既にアビゲイルは消えてしまっていた。何処かの大家へと連れ去られていた筈だ。あの容姿を持つ彼女は誰よりも目を惹く、狙うのは容易かっただろう。けれど同時に無理にでも連れ去る過程で誰もの目を惹いてしまう。

「その辺りも聞き出す」

 連れ去り、何をしたかったのか。狂人の理論など知った事ではない。けれど未だアビゲイルを狙っている以上、自分の成すべき事は変わらない。今も教授がアビゲイルに秘密裏にしている裏社会を使ってでも守り続け、帝都の何処に足を運んでも守り切れるように見張っていたのだから。自分もアビゲイルに救われた悪魔として報いる時が訪れた。表裏から彼女を守護する。帝都を庭にしているのは貴族だけではない。

「夜明けまで、まだ時間がある」

 呟いた時、自分は既に視界の中でも最も高い煙突に爪を刺していた。外套の中から生まれ出た腕はやはり意思など持たない。自分の望み通りにしか起動しない操り人形であった。けれど咄嗟の反射には強い新たな腕は、自分を覆い尽くす巨大な光源から身を守ってくれる。

 黒一色、影そのものとなった自分を呑み込んだ光は何事も無かったように、自分達の幻想が造り出した獣と悪魔を探し始める。

「妙だ。街に光なんて———」

 ここまで深夜に帝都を徘徊した事が無くともわかる。今の態勢は異常だと。詰所たる兵舎に侵入者があったとしても、今も眠り続けている帝国市民に対して容赦なく光を当てるなど。革命を恐れている軍部と支配者層が無意識にだとしても、こんな愚行するとは思えない。

 ただし、逆に言えば将来の恐怖を押してでもせざるを得ない状況、切迫した環境に置かれてるという意味でもあった。

「這い出たか」

 獣が現れた。そう確信した。

 だが自分自身も何処にいるかもわからない以上、手出しは出来ない。餌になる気も毛頭ない。

「まずは貴族街。軍に遊んでもらえ」

 アビゲイルを餌に獣を誘き寄せた疑いがある兵士が数人でも数百人でも死のうが興味ない。悪魔は悪魔らしく自分の主に呑み注視する。

 外套をはためかせ、白亜の門と壁を乗り越えた自分は壁に足を乗せる事なく地上へと落下する。潜入に観察など不要。隙を見つけたのならまずは潜行。事ここに至って躊躇するのは、たたらを踏みながら己が正当性のみを謳う新兵の戯言である。

「偽証用貨幣でも持ち出すべきだったか」

 無駄な冗談を口に、スレートひとつ取っても外周とはまるで違う貴族の屋根へと足を置く。既に知っていたが街灯のデザインが違う。外周は槍と盾をモチーフにする突撃兵の然様だが、こちらは誇り高い剣と兜である。けれど、同時に外周と内部であれば間違いなく自分は前者を選ぶ。

「古い街だ」

 歴史を重んじる、と言えば聞こえばかりは良いが実際は新たな技術の更新が送れた忘れられた街である。

 外周はいずれ高層ビルが建つ様子さえ見受けられるのに、こちらは広さこそあるがどれもこれも低く、自分にとっては不格好に見えた。

 一世代二世代前の富裕層の家々は黒ずんだ石灰石を使っている所為で、近代化の流れに乗る教授の趣味に添ったアビゲイルの屋敷に比べれば煤埃が溜まって見えてしまう。実際、立て直す資源が入手できないのだろう。掃除はそこそこに放置されている。

「これもこれで趣があるけど、写真と絵に中で十分だ」

 道路こそ石畳だが、車が走る事を基調にした粘土を固めた外周に比べれば、やはり古臭く感じる。

「どうでもいい。それより———」

 男性の深紅の色を思い出す。アビゲイルによれば、あの色は貴族それぞれが持ち合わせる自身の家を強調する証だと聞かされている。

 注意深く観察した事こそないが、婚約指輪のように普段から身に付けているのなら高い確率で靡かせている。よって自分は月に入った。中天から悪魔の身体で街を見降ろし、視界に入る旗を確認。色とりどりの旗の中でも原色に近い、もしくはそれその物に近い色彩はすぐさま眼球に映った。

 城の如き積み上げられた大理石は己こそが帝国の中で最も貴られるべきと宣言している。周りの屋敷とは一線を画す屹立する要塞とも彷彿させる外観は、帝都全てを見下ろす巨人を思わせた。城壁と呼んでも相違ない垣根の一部、開かれるべき門には私兵らしき時代錯誤な傭兵が障壁となって佇んでいる。

「‥‥サーベル」

 近場の尖塔に着地し、影に潜みながら見据える。ひとりの傭兵は肩に小銃こそ背負っているが、腰に佩いた刀剣の柄を撫でていた。

 真剣かどうか図るまでもない、紛れもなく刃を持つ真剣。サーベルに限らず重量を持つ刀剣は、一太刀浴びれば必ず絶命する。息も絶え絶えの看取りなどあり得ない。だが必殺の威力を持つ武器だからこそ素人ではまず振り回せず、手元が狂って指を落とすに終わる。

 けれど———敢えて装備しているのなら、あれは人斬り部類。

「用心棒、もしくは御庭番と呼ぶべきか」

 自分は戦闘のプロではない。悪魔の身体こそ編み込み、人からすれば寄生させているに近いが素手で本物の軍人と争う訳にはいかない。

 ———戦闘は避ける。傭兵の数は見える範囲では二人だが、あれだけの筈がない。経験上、人影でも見ればそうそうに新たな傭兵が投入される。あれだけの規模の屋敷ならば詰所とでも呼ぶべき部屋すら存在し兼ねない。むしろ、あって然るべきだ。

「‥‥あの男は即座に帰った。であるならば、今夜は外せない会合、機会があった。車両は———」

 家から家へ、屋敷から屋敷へ、斜塔から尖塔へ。接近可能な限り深紅の貴族の城へと腕を伸ばす。ようやく敷地内の前庭———芝と石畳に包まれた家ひとつ呑み込める土地の内側を視認した時、煌々と輝く玄関部分に自慢の高級車を停めている状況を確認した。

 帰宅後か、それともこれから赴くのか。はたして深紅の貴族は悠々と車両に乗り込んでいく。後者のようだ。

「獣の話は届いているだろう。襲われる訳がないと知っているのか」

 未だ確証こそないが、あの貴族と獣との関係を疑うのは極々当然であった。けれど、やはり物的証拠もないのもまた事実である。疑うのは至極当然だが、決めつけて先行するのは愚の骨頂である。視界を広く、あらゆる可能性を辿る。しかも現在、辿れる道はひとつしかない。

「追跡する」

 自分への命令。脳に浮かび上がる目的を声で再確認しながら次の屋根へと身体を伸ばす。モダンな高級車は、自身の敷地内こそ徐行しながら運転するが、やはり大通りに車輪を乗せた瞬間には我が道を走るように疾走する。こんな時間、こんな状況で誰かが歩いている訳がないと高を括っている。それはそのまま、もし仮に轢き殺しても隠し通せる自信の表れでもあった。

 向かった先はアビゲイルと共に訪れた庭園の近く、教授の大学にも程近い図書館。けれど、その造形は巨大な鐘と時計塔を合わせたかのような姿を誇っている。誰に対しても門を開き拒まず、しかして去るを許さない。言うなれば、教会図書館であった。

「あまり関わりたくなかった」

 信仰心はとても尊いものである。

 誰もの模範となるべきと己を律し、血を流さず祈りを捧げる父の家の姿は、今後の世界の平和を求める正しい信教となっていく事だろう。

 だが、その実、教会とは何よりも金銭的で即物的。金さえ払えば、永遠の処女であり世界を救う聖女という称号さえ与える組織、同時に自分の意思に反した科学的技術や事実は火に架ける暴力主義。技術の進歩を忌み嫌う封建主義の代名詞でもあった。

 未だに信仰心さえあれば、神が土地を耕かし、豊にすると信じて疑わない怠惰な集団でもある。

「仕方ない。真似でもするべきか」

 高級車を横目に路地裏へと降りた瞬間、上質な上着やシルクハットは早々に崩す。そして黒一色のマントを目深に被って顔に気付かれぬようにと深く前屈みになりながら図書館への経路に躍り出る。

 この街に浮浪者はいない。もし紛れ込んだとしてもすぐさま兵士に追い立てられるだろう。

 しかして隠した信仰心を持つ、立場を憚るやんごとなき人間も数多くいる。よって信仰心など欠片もない無神論者である自分でも、姿形ばかりは真似られる。真に祈りを抱えた者が入れば背教者と罵られる心を携えた自分は、既に消えていた高級車のタイヤ痕へ足を揃える。

「どうかお時間を」

 黒の法服を纏った老人が、家から抜け出したと思わしき目深にマントを被った自分に対して思いも寄らない声を掛けた。

「大学の学生様ですか?」

 不意打ちを受けた気分だった。忘れてなどいない、ここは教会でありながら図書館でもあったのだと。

「はい、帝都大に所属しております」

「このような深夜まで勉学に努めるとは。しかしご自愛ください、どうぞお入りを」

 朗らかな声を掛けた男性の背に付いて、初めて足を踏み入れた教会図書館の内部を眺める。

 予想に反して教会図書館内部は、れっきとした図書館であった。立ち並ぶ本棚には所せましと書籍が詰められ、吹き抜けたる二階、三階にも大量の書籍が並んでいる。もはや図書館というよりも書庫と評すべき建造物は、開かれているようで常人には理解し難い、生半可な知識では眩暈と自己中毒を起こしかねない迫りくる蔵書量で圧倒する。けれど、確かにここは教会でもあるのだと理解した。

「‥‥美しい」

 一瞬、天井が存在しないのではと錯覚してしまう美麗な青の数々だった。

 衣のみを身に付けた人類の祖と人類の創造主たる超常の存在の接触が描かれている。僅かに自分の知る世界創造とは違うが、紛れもなくこれは宗教学である。天井画と呼ばれる空と天上界を現した絵の数々には、宗教的価値だけではなく美術的価値も試算された。到底数字など付けられない途方もない歴史と人の手によって造られた天井は、確かにそこに世界を創造する。

「おお、ご覧になるのは初めてでしょうか?」

「はい。立ち入ったのも初めてです」

 振り返った老人の声に事実を述べると、このような学生は初めてだったのか、深く頷いてやはり人好きそうな笑みを浮かべる。

「もしよろしければご案内をさせて頂けませんか?」

 どうすべきかと逡巡した。教会中ほどまで歩いて来たが、あの貴族はやはり見当たらない。それどころか形跡すら確認できない。この老人が深紅の貴族の行き先を知らぬ訳がないのだから大人しく着いて行くべきかもしれない。けれど、これは時間稼ぎ、何かしらの会合が終わるまで他人を寄せ付けない策略であったのなら時間を無駄にしてしまう。

「いえ、すみません。目的の書籍を」

「ああ、これは失礼しました。そうでしたな、ふふふ、どうかごゆっくり」

 断ったというのに法服を纏った老人は変わらぬ調子で一歩一歩離れて行った。けれど、僅かに首を回した老司は密やかに、こう告げた。

「教授様は、本当にいい男児に恵まれたようですね」

 と。その意味を問い質そうと近づいたが、おぼつかないと思わせていた足で本棚の影に隠れた老人は既に消え去っていた。まるで煙のようで、もしくは蜃気楼の如き姿に造り出した外套を強く握りしめる。そして自分以外誰もいなくなった図書館の探索を開始した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る