第7話
数日経った時だった。大学から軍の運転する車で帰還した教授を出迎えたのは。
上着や鞄を受け取った自分は教授の私室、書斎の扉を開けていつも通りに溜めてあった新聞を手渡す。店での襲撃以来、数度の獣の発見こそされているが死傷者が出ていないのは新聞で知る所となっている。
もっとも教授は帝都大の人間なのだから、自分以上に今の帝都の状況など肌で感じているだろう。
「アビゲイルの様子はどうだ?」
おもむろに問いかけられた質問に、自分は上手には返せなかった。
あれ以来、帝都への移動を自主的に制限している彼女が徐々に不調になっているなど、包み隠さず答えられる訳がなかった。
だから、「毎日、工場の職人の方々と挨拶を交わしています」と当たり障りのない水を提供してしまう。無論、そんな思案など教授は見透かしていた。たった一言「そうか」と告げたが最後、こちらが何かしらのアクションを起こすまで無言を貫いてしまう。
まるで処刑のようだった。
告白すれば後悔し、押し黙れば喉を締め上げる。絞首台へ自ら歩み寄るか、頭陀袋を被らされるまでの時間をただひとすらに過ごすか。
だけど、自分にも意地があった。そして救われた者としての覚悟も。
「俺は、もうアビゲイルの付き人ではありません。あの人の為に、自分のすべき事をわかっています」
新聞から視線を逸らした教授に深い眼窩を向けられる。
帝国という強大な列強諸国の中でも極めて巨大な国の中枢、政治の矢面に立たず全てを背後から操る黒幕に自分は今対峙していた。
指先ひとつで自分の命はたやすく手折られる。教授にとって直接下すか、命令を下すかの違いでしかないのだから些末な問題でしかないのは、そうそうに理解できた。けれど、自分の命を賭けられる盤面を用意したのは、当の教授本人だった。
自分の命には価値があると、知らせてくれた。
「俺にとってアビゲイルは光です。救ってくれて、愛してくれた。だけど彼女の優しい心はとても脆いもの」
「‥‥ああ、その通りだ」
「彼女の心を守れるのなら、俺は何も恐ろしくない。アビゲイルの心が砕ける事よりも恐ろしい物などない。教授、あなたは」
「皆まで言わないでくれ。私が悪かった。———君ばかりに頼って、父としての役目を放棄しようなど、卑怯にも程がある」
重厚な万年筆も、帝都大どころか帝国全ての未来すら決めてしまいかねない書類も放置して立ち上がった。
顔を振りながらまぶたを開いた教授は、やはりただ無言で隣を通り過ぎて行く。だが、振り返る事こそしないがその背中には紳士の哀愁が漂っている。覚悟にも似たそれは、アビゲイルと同様にとても脆い物に見えた。
「ご一緒しても?」
「何もかも君の予定通りか。益々頼ってしまう。一介の使用人など君には相応しくあるまい。今後はこの家の人間を名乗りなさい」
「‥‥認めて下さるのですか?」
「何を今更。既に軍部にも大学にも、そう伝えている」
つまらないとでも伝えげに軽い香水の香りを残しながら教授は、たった今過ぎ去った扉に手を掛ける。
慌てて場所を交代しようと駆け寄るが、後頭部を向けたままで顔を振られる。大きく深呼吸をした教授はドアノブを軽く掴んで、独りでに扉が開くように押した。そこで気が付いた———無理をして髪と顔を整えたアビゲイルが、そこに佇んでいたと。
顔こそ振られてしまったが、自分は無意識にアビゲイルの前に躍り出る。
「大丈夫?」
来てくれると信じていた。柔らかく緩めた口角の小声でそう伝えた瞬間、肩に手を置いて自身の父へ相対した。
そのまま数秒にも満たない沈黙の時間が流れ、口火を切ったのはアビゲイル本人だった。
「私の見る目は正しかったでしょう」
窪んだ目など元からなかったように発した声へ、本当に薄くだが教授が微笑んだ。
「———結局、私の独り善がりだった訳か。強くなったな」
「でも、まだまだお父さんには居て貰うから。だから今日はずっと付き合って貰うから」
「光栄だ」
腕を引かれた教授は、「すまないが」と告げて顔を背ける。ふたりで談笑しながら去る背中を追う事など出来なかった。
外出こそしないが応接室で同じ時間を過ごしている二人をそのままに、楽し気に皺だらけの顔を歪ませる好々爺と温かくなってきた風の中で屋敷を眺めていた。アルコールと爆薬を今も精製している工場は今も稼働こそしていたが、やはり人手が足りていないのは明白である。
「若い職人の方々も帰って来られたんですか?」
「数人だがな。だけど、今はまだ家で時間と取り戻している。自分が生きているのが信じられないんだろう」
戦火と銃声に包まれた戦地の中心で、補給部隊として活動していた彼らは誰よりも長く生きて来てしまった。前線で奪われる命を見つめ続けてしまった結果、心の中に楔となって残ってしまう。引き抜くには時間が足りない。研ぎ澄まされた脳髄を手放すにはまだ環境が整えられていない。そして————心的外傷後ストレス障害を消し去る事など出来ない。
家族や医者が提供できるのは、静かな生活でしかない。心を慰撫出来ても、消し去る事など誰も出来やしない。
「帰ってきた奴らに会ってきた。どいつもこいつも、戦争前の顔を忘れてる。中には捕虜になった奴もいたんだからな」
「‥‥技術者だからですか」
「ああ、そうだ。爆薬と医療用の薬品の計算が出来る奴らなんだ。狙い撃ちにするか、帝国への裏切りを強制されてきただろうよ。まぁ、今の帝国の兵士共だって帝国の為だなんだと殊勝な心で従ってる奴なんぞ、数える程もいねぇだろうが」
仕方ない時間の流れだ。そして時間の流れが解決するのを待つしかない。老獪きわまる人物の言葉に、ただ自分は頷くしかなかった。
今も空の彼方には黒煙が立っている。見る事こそ叶わないが、それはきっとすぐ近くで立ち上っている。
その袂には、誰かの亡骸が横たわっている。そしてほんの隣には看取っている人物すらも。
「兵士って」
「ああ、金持ちになれる。家には税の免除。怪我しても金は帝国持ち。死んだら家族に今まで溜めに溜めた給金が支給される。国の為でもあったんだろうが路地裏で野垂れてる奴らの為じゃない。テメェの村だ家だの為にくたばる。今更帰って来られても仕方ないと評価されてる人間だって幾らでもいる。死ぬ為に送られた小僧共だっていたんだ————死ななきゃならねぇから死ぬ連中がな」
ただの水を飲んでいるのに、唇を濡らしながら続ける老人は酩酊でもしているようだった。
酔わないとやっていけない。真正面から眺めるには、この世界は痛みが溢れかえり過ぎている。だけど時代は近々移り変わる。
「お嬢と社長は何やってるんだ?」
「応接室でずっと話しています」
「珍しい事もあるもんだ。ウチの社長殿は計算にしか興味がねぇと思ってたのに。懐かしいなぁ」
静かに呟いた老人は風に目を閉じた。そのまま眠ってしまう、風に消え去ってしまいそうだった。
だけど、唐突に目を開いた老獪が首を機械のようにこちらに向ける。彫が深い面貌に見つめられた自分は、一言も発せられなくなる。
「お嬢から自分の母親について聞いたか?」
喉から上がる低い声には、決して虚偽など認めない、逃げる事など許さないと暗に告げられているようだった。
「‥‥いいえ、何も。待ち続ける気です。いつか答えてくれるって信じてますから」
洞穴に住み付く物の怪の響きが如く、低い笑いが老人の喉から響き渡った。
「そうか、そうか。今の若いのはそういうのを好むのか。爺の老婆心なんぞ、持つべきじゃなかったな」
「いいえ、あなたにはいつも感謝しています。教授がいない間、ずっと一人でまとめてくれてるんですから」
「んな事気にするな。俺は昔からの連中とつるんでるだけだ。それに下手に他所の工場なんぞ移ってみろ、こんな時間は許されねぇ」
大きく伸びをして立ち上がった老人は、やはりまだまだ腰など曲がっていない。身体の線に寄り添った紳士服さえ纏えば、まだまだ若々しいと断じれる。けれど、この老人はそんな堅苦しい服は御免と断るだろう。老人にとって、正装とはこの作業服に違いない。
「俺は工場にそろそろ戻る。お前さんはどうする気だ?」
「———少しだけ、一人を楽しみたいと思います」
この風を独占する、そう伝えた気だったのに。何か勘違いさせてしまったようで、「ああ!そうしろそうしろ!!結婚したら、何をするにもカミさんの許可が必要になるからな。独身を楽しんでみろ!!」と高笑いを上げて去って行く。
独身、そう言われれば今の自分はそういう扱いなのだろう。
しかも婚約も既に終えている、残り少ない独身期間。無駄に過ごすには価値があり過ぎるのかもしれない。けれど、だからといって何をどう楽しむべきなのかはわからない。それどころかアビゲイルとの結婚後と今を比べても、あまり変わらないだろう。
「独身、独身か」
昼食後、アビゲイルのいない隙を狙って教授に問い掛けてみた。
「教授、質問をいいでしょうか」
「続けたまえ」
「俺は、独身という枠に入れられているのでしょうか」
普段は無表情な教授も、興味を持ったらしく顎に指を付けて小さく頷いた。そして顔こそ移動させないがアビゲイルの動向、弾き出す言葉を逡巡した直後、一切の淀みない眼球を向ける。整えられた前髪と僅かに年老いた初老とも言えない年齢の美青年が形のいい唇を開く。
「その通り。君は世間一般で言う所の独身という存在だ。大方、工場長から言われたのだろう。独身を楽しんでおけと」
「流石です」
「何、ちょっとした推理さ」
どこか誇らしく顎を上げた教授は、霧の都の探偵を彷彿とさせた。もしこの場にパイプであれば更に似通っていた事だろう。
「そして君は人生の楽しみ方を知らないと見える。確かに工場長の心配は最もだ。君が笑う時は、私の娘と共にいる時のみ。独身の楽しみ方を知れば、そのまま人生を楽しめるというのは些か短絡的かもしれないが、紛れもなく正解の、それもこの世の真実そのものだろう」
ますます教授の探偵像に拍車が掛かっていくのがわかる。だが、きっと教授自身はそんなつもりは露ほどもない。
彼にとって、これは数式を解いているに過ぎない。快感ではあるだろうが、何かを装う必要性など全くの皆無だ。
「教授は独身をどう楽しんでいたのですか?」
「私の時代と今は大いに違う。だが、参考程度で良ければ一つの手本としなさい。私は自分の癖に大いに悩まされた人生を送ってきた。何か物体を見れば、傾斜表面比率重心角度は勿論、経年劣化による損傷具合の予測を解き明かさなければ気が済まなかった。そして私は多いに散財した———その額は言う訳にはいかないが、しばらく生家の屋敷に顔を見せられない程だったよ」
「意外です。教授なら懐との相談もできる筈では?」
「私が出来るのは過去への追想、未来への予想だけだ。今現在への欲望だけは、手綱をいつも手放してしまう。困った獣だよ」
まるで他人事のように述べているが、その実、自分は後先考えられない人種だと諦めているように感じる。数日前にアビゲイルが言っていた、父の買い物癖は随分と放置されてきていたらしい。家の人間も、もはや手の付けようがないと諦めたのだろう。
「そして私はあまり人付き合いの良い方ではなくてね。諸人は異性を求めていたが、大体の時間をひとりで過ごしていた。しかし、幸か不幸か私も早い段階で自分の半身に出会ってしまった。あの時の震えは独身という人生を体験してなければ、何も感じない空気となっていた筈だ。早すぎたと嘆いてしまったよ」
どこか楽し気で、何よりも残念そうな顔付きに今の教授という人間性の始原が垣間見えた気がした。
「君も結婚すればわかる。食事ひとつ取るにも妻の許可が必要となる窮屈さ、幸福を」
「相談が楽しかったのですか?」
「ああ、勿論。とてもとても楽しかった。いつもは数秒で終わってしまう出来事も、何日もかけて説得する尊さに比べればなんと味気ない出来事だったか。時には諦めるという無念さ、そして過去の自分への戒めに折り合いをつけるのも悪くない気分だったよ。ただ、やはり当時の楽しさ、ひとりで何日も大学と安宿を往復する時代が懐かしくなったのも、また事実だ。だから、もし独身という期間を楽しみたいのなら———孤独との付き合い方を知るべきだ」
「————孤独との付き合い」
小さく呟いた言葉には、言い知れぬ重みを感じた。孤独などとうの昔から隣人として置いていた。
ひとりでの潜入、結果的にひとりとなってしまった潜行など数えるのも呆れるほど体験している。だが、自分の経験してきたそれは既に目的が提示されているミッションそのものだった。きっと真の孤独とは大いに違う。愛すべき孤独とは完全なる別人なのだろう。
これは人生にも似ていた。誰しも孤独という時代を過ぎ去るから、共栄か争いを選ぶ。
それが国という巨大な集団の総意となれば、戦争そのものを起こしてしまう。選挙という表面上の物だけではない、国民感情といった普遍的であるが目に見えないミクロ的な存在が生まれてしまう。だから、もし選ぶという快楽を得るのなら、今の独身時代が恰好の時期なのかもしれない。
「教授、やはりあなたは只者ではありませんね」
「光栄だ。だが、そういう君もなかなかの秀才のようだ。そして私の息子に相応しい世間知らずだよ」
「光栄です」
「で、話は終わった?」
首が曲がる勢いで背後へと振り返ると、心底不満で心底暇を持て余していたと表情で知らせる我が婚約者だった。
やはり不満気な表情ひとつとっても絵になる。時たま見せる苦虫を噛み潰したよう表情すら、絶世の美女と言っても過言ではない。
「何話してるかと思えばさ。私がいない隙をついて独身談義なんて」
「アビゲイル、男性の環境は結婚の前後で須らく変わる。独身を責めるのは」
「何?」
「‥‥好きにするという。私も妻には責められたものさ」
いつのまにか自分に物を申せる位に成長したアビゲイルへ話を促した教授は、手元のカップを啜りもしないで口に付ける。ここから先はノーコメント、非接触と決め込むつもりらしい。そして既に絶対的な支配権、いわゆる空気を掌握した小悪魔は更に続ける。
「そりゃ確かにさ、君の容姿は目立つよ。ミシュレさん達と一緒にお昼取った時に馴れ初めとか色々聞かれるぐらいに。それに私の為になんでもしてくれるから君に頼りっぱなしになるのは、少しだけ反省すべきかもしれないけれどさ。だけどね、君の婚約者はこの私であってね!!」
その後も永遠と続く自分の婚約者への言いつけ、更には父への不平不満が炸裂していると、来客を知らせるブザーが食堂に鳴り響く。
聞き届けた教授が天の助けとばかり颯爽と立ち上がって、優雅に扉を潜る。
持ってもいない杖を振り回して見えたのは自分の幻覚だったのか。それとも教授の見た白昼夢だったのだろうか。
「私にとって君はもう付き人なんかじゃなくて、もっとも親しくて大切な人なんだから。まぁ‥‥縛り付けるつもりはないから、ミシュレさんとも話していいけど。でもね、幾らあの人が美人で優しいからって」
「アビゲイル」
違和感について知らせるつもりだったが、それが異議に感じたのか、更に拍車が掛かるアビゲイルに事実を指摘する。
「足音が聞こえない。応接間にも通してない」
「玄関で話してるんじゃないの?」
「今日は教授が返ってくる日。狙ってこの時間に訪れた相手を、教授が玄関で応対するとは思えない」
ようやく気付いたアビゲイルと共に廊下へと移動するが、やはり足音は聞こえなかった。それどころか、いつか言い争いへと発展するとわかる成人男性同士の語尾を強めた会話が響いていた。聞き耳を立たせるべきだ。だが、言いようのない虫の知らせに従って、急ぎ玄関ホールへと足早に駆けていると———何かを思い出したようにアビゲイルが足音も抑えずに疾走した。
肩を掴む暇もなく走り去るする背中に追随し、玄関を見下ろす二階手すりに差し掛かった瞬間アビゲイルと共に床へと隠れる。
「なに‥‥?」
「狙撃でもされかねない」
だから、アビゲイルはここで待っていてくれと告げて、自分ひとりで立ち上がり階段へと足を踏み入れる。
先ほどまで居た二階手すりに視線を向けず、それどころか階段にすら目も向けないでふたりの男性と同じ階層へと下る。ひとりは黒の上質な上着を纏った教授自身。もうひとりは僅かに教授よりも老いた様子の男性であったが、顔よりも姿そのものに目を見張った。
貴族の証たる————深紅の外套が視界に映った。
息を呑む弱みすら見せられない。胸を張る無礼さすら見せられない。けれど腰を低くもしない。あくまでも来客に対する態度を取ろうとした矢先、深紅の外套を身に着けた男性と同じ位置に降りる直前、何者をも見透かす老獪の眼球と目が合ってしまった。
背骨が凍てつく。眼球の奥の脳裏が焼け付き、視神経が渇き切るのを感じた。けれど歩みだけは止めなかった。
密やかに顔だけで振り返ってきた教授が誰もいない隣を眺め、静かに対峙している男性に視線を戻す。
「教授、よろしければ応接間のご準備を」
「不要だよ。そろそろお帰り頂く時間だ。扉を開けて差し上げてくれ」
と、普段の教授からは信じられない敵愾心、殺気にも似た空気を発しながら言葉を紡いだ。自分は言われるがままに教授、深紅の男性のすぐ隣を過ぎ去った時、背中に声を掛けられた。
「君は?」
「この屋敷で教授の手伝いをさせて頂いております」
嘘を吐く必要性など、やはり持ち合わせていない自分は偽りなく告げた。だが深紅の男性は、それは事実か?と問いただす為、恐竜の鎌首のようにゆっくりと教授に向き直る。対する教授は、普段の自然体こそ装っていたが、僅かに視線を尖らせる。
「拾ったというのは彼の事か?」
「ああ、その通り。彼にはつい最近から世話をして貰っている。だから丁重に扱ってくれ。この屋敷の次期当主だ」
短い言葉であったが、それはどこか宣戦布告にも聞こえた。
「君、この外套に見覚えはあるか?」
「勿論です。私は幾度も帝都を歩かせて頂いており、数度お目にかかっております。深紅の色こそ帝国の礎そのもの。忘れる筈がありません」
「口が回る」
静かに呟いた言葉だけで地震にも等しい現象を感じた。だが、彼にとってこれは意識的な圧力ではなかったようだ。そして深紅の男性を最も喜ばせた、興味を引かせたのは別の行動であったらしい。
「私の視界から自力で逃れるとは、良い拾い物をしたようだ。いいだろう、次期後継者のご尊顔も見れた事だ。此度はここまでとさせて頂く」
全てを言い終える前に、男性は体当たりでもするように自分の力で扉を開けて出て行った。
扉が閉まる直前、停まっていた車両を見つける。
元いた世界であれば紛れもなく高級車の、しかもクラシカルなデザインを持つ車体は、並みの富豪でも高級官僚でも駆る事の出来ない芸術の始まりを知らせる風体をしていた。数秒後、響く音さえ地響きに似て、地面を掴み取り主の移送を知らせる咆哮の如きエンジンを知らせる。
エンジン音が遠ざかり、緊張の糸が緩んだ時、ようやく振り返って教授を見つめると、紳士には珍しく上着の前を外し首元を緩めていた。
「今お部屋の準備をします」
問いかけに小さく頷いた教授に応え、誰よりも早く階段を飛ぶように駆け上がった。
ネクタイは勿論、僅かに前髪を崩した教授に水を手渡す。
無言でただ喉と唇を潤す様子を、自分は無言で見つめているしかなかった。ただ、教授の眼差しは先ほどから一切何も変わっていないように見えた。教授にとって、あの深紅の男性は今も眼前に迫っているのかもしれない。無防備な姿なれど、隙などまるで見せない。
「さて、何から話すべきか」
「今はお休み下さい」
「そうも言っていられない———いや、すまないが休ませてもらおう」
ゆっくりと寝具に納まる姿を見届けた自分は、慌てずに確実に寝室の絨毯を踏み付けていく。
向かった先は巨大な窓だった。窓から差し込む日光を遮る為、カーテンを掴み取る。
数日振りの大学からの帰還時、教授はいつも倒れるように睡魔に襲われてしまう。
深い眠りに落ちた瞬間から多少の物音では眉ひとつ動かさないが、この未だ年若い父にとって日光ばかりは受け入れ難いようだった。
光を嫌う姿は、吸血鬼を彷彿とさせる。
けれど、アビゲイルの父であり美青年と評しても誰も否定しない容姿での夢路はむしろ相応しいと言えた。
窓、ランプと言った光を放つ類を全て覆い尽くしてから退室すると、またもアビゲイルは扉の前で佇んでいた。
「お父さん、元気ないの‥‥?」
「いや、いつも通り眠っただけだ」
「‥‥うん、そっか。いつも通りだね」
唯一の肉親たる父を心配するアビゲイルは、納得したようにいつもの微笑みを取り戻した。
確かに屋敷へ帰宅した教授は、習慣として深い眠りに誘われるが、今回のこれは別物にも感じた。翌朝の顔色によっては医者の往診を求める必要があるかもしれない。この屋敷お抱えの医者には、自分も診て貰っていた時期がある。名医と言っても差し支えない。
「ひとまず部屋から離れよう」
そう言いながら、寝室から離れるべく二人の密会室へと向かう。教授が見ていない最中での、何も告げずとも腕を組んでくるアビゲイルとの時間は、罪悪感にも似た非倫理的な行為を感じさせる。肌と肌を合わせながら辿り着いた部屋は、普段使いはしない談話室。
深夜に部屋を抜け出して逢瀬を重ねる部屋には、自分達ふたりの痕跡が至る所に散乱していた。
二人で重なる一人掛けの長いソファーには、ふたり分のバスローブと途中で放置されたチェスに近い遊具。逢引きを重ねた時間を散り積もった灰で告げる暖炉。そして昨夜から打ち捨てられ、脱ぎ散らかされた肌着が部屋の使用用途を物語っていた。
僅かでも鼻を利かせれば、もしや夜の体液の香りさえ感じ取れるかもしれない程の濃い男女の密室だった。
そして回収するのを忘れていたアビゲイルは、「待って!見ないで!!」と脱がした本人から肌着を守り、バスローブに包んで近場にあった籠に放り投げる。振り返ったアビゲイルは愛想笑いこそするが、夜と夢に現れる淫靡な悪魔ではなく、つい悪戯をしてしまいたくなる小動物を連想とさせる。けれど、これさえ策略であったのなら、彼女は稀代の名軍師と名を馳せる事となるだろう。
「え、えっと。何を見てるの?」
「普段使いの下着も、無理して着てくれる下着もアビゲイルに良く似合ってると思って」
「最後までしたのは、つい最近でしょう!!いいから大人しく椅子になって!!」
と、破れかぶれになりながらも自分の方が立場は上、恋をされた側だと腕を引く。仰せのままに従った自分は、ソファーと足置きに身を任せて揺り籠を作ると、細くとも肉感的で年相応よりも成熟した臀部を股の上に落とされる。そのままやはり猫のように胸辺りに顔を擦りつける。
「ふぅ。落ち着く‥‥」
「俺もだ。久しぶりの二人っきり」
「昨日の夜も、ここで眠ったよ。うん。なんか久しぶりな気がする」
あの深紅の男性は何者か。深紅の外套を纏った少女は何を知っているのか。聞くべき、聞かせるべき対象は全く尽きなかった。
けれど、これこそがこの屋敷の秘密。自分が真に家族となったのだから降り注いだ罰であり試練なのだと受け入れる。だから、今はただ耐え忍ぶしかなかった。問いただした所で、やはり何も解決しない。工場の蒸留酒の発酵だってまるで進まない。
「ねぇ、私ってもしかしたら子供欲しいのかも」
艶っぽい、水分を含んだ吐息を発したアビゲイルが上目遣いでそう告げる。温かな香りを携えながら薄い脂肪と程よい筋肉、細い骨を持つ下半身を崩しながら擦りつける仕草に、自分はただ抱擁するしかなかった。
気付いてしまった。これは———彼女なりの誠意の現れなのだと。
「誤魔化すのが下手だな。無理しないでくれ」
「‥‥うん。私演技は苦手なの」
静かに眠るように告げたアビゲイルは、瞬く間に眠りに落ちてしまう。
だから、自分は自分のすべき使命を実行に移す。アビゲイルを受け止める身体を作り出し、滑り降りながら温かな体温と彼女が好きだと言ってくれた身体の香りを残留させる。目が覚める頃には帰るからと、幼げに上着を掴み続けるアビゲイルの額に口づけを施す。
「———獣の正体。深紅の貴族。軍の思惑」
目的はシンプルであるべきだ。手順も単調であるべきだ。
ならば腕を増やし、処理を早めたこの身体はシミュレーション通りの最適解を求められる。
さもなければ身体の劣化は止まったとは言え、精神の劣化ばかりは止められなくなる。よって既に失った冷たい手足は、もはや不要である。
けれど、けれど————この一度凍り付き、あらゆる犠牲を飲み干した心は捨ててはならない。
犠牲を求めない。ああ、何たる劣化か。なんて無様な答えだろうか。切り捨てず、収束を欲するとは。きっと、自分の劣化はもはや手立てがない。与えられた幾人もの屍が礎となって洗練された普遍的事実をかなぐり捨てるとは。なんて———堕落、劣化だろうか。
なんて些末な対価だろうか。
「起きろ、マキナ。脳を寄越せ」
機械仕掛けの悪魔は、果たして高笑いを浮かべた。
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