第6話

 真夜中の帰還は、涙目のアビゲイルを宥める事から始まった。

 無論、彼女自身は大いに否定するだろうが、一晩ただただすすり泣くのみのアビゲイルは泣きつかれて眠ってしまう。だから、何も言わないで胸を抑えるミシュレさんと共に一晩を三人で明かす事となった。

 夜が明けた時、朝の空気を吸い込むべく、未だ兵士達のいる店先に移動する。想像通り————道端の血はほとんど水で流されていたが、石畳の溝に詰まる黒く変色、固まった血から発せられる匂いに顔をしかめた。これでは客など寄り付かないだろう。

 しかも道のそれは数日と経たずに消え去る惨劇の証拠であったとしても、破壊された窓や荒らされた店内は到底開店なぞ望むべくもなかった。

「手伝います」

 目元を赤く腫らしたアビゲイルの言葉に、店主は深く頷いた。

 何かをしていなければ気が狂ってしまうと、察したのだろう。そして店主自身もすぐそばに身内を置きたかったのかもしれない。

 昨日に移動させた植木達も身を砕かれ、花もその身を散らしていた。時間にして数秒程度の間隙であったとしても、あれほどの巨体が窓ガラスから飛び込み天井に激突したのだ。けれど、石造りの店と家自体が歪まないでいたのは奇跡といえるかもしれない。

「外を掃いてきます」

 そう言い残し、無言の店から外に出る。既に太陽は空の中央付近へと躍り出ていた。本来ならば工場へと戻り、事の顛末を職人達に報告、今後の香料収集について相談すべきかもしれない。けれど、振り向けばわかる。

「恩返ししないと。無理にでも説得してみせる」

 今の状況の、この店と契約など打ち切れる筈がない。古くから勤めている工場の人間ならば口を揃えて頷く。

 それに、しばらくは店の外に出れそうになかった。人買いの手と、獣の襲撃の度重なる経験の所為でアビゲイルの心は深く傷つき疲労している。今後は昼だとしても、常に車や屋内でなければ安心させられない。彼女は嫌がるかもしれない、だけど屋敷にしばらく籠ってもらうしかない。

「‥‥俺に出来る事はなんだ」

 箒片手に、そして破壊された商品棚を片付けながら問いかける。

 よしんば、アビゲイルをしばらく屋敷に縛り付けられたとして———それは一体いつまでもだ?と自分自身が考えてしまう。

 獣は貴族街に逃げ込んだ。ならば帝都に常駐している『あの兵士達』が早々に駆除するのを待つしかない。

 ———だけど、そんなが狩りが可能か?

 ただの鉛玉では———獣は退却させた、とは到底言い難い力不足を昨夜露呈させた。自らの小銃では殺傷は不可能であると、もはや本人達すらも痛感しているだろう。尋常外の獣を打ち倒すには、悪魔の、超自然的な力でなければ組み倒せないと。

「あの一撃を受けて跳ね返るだけだった。皮膚が分厚い、しかも骨も関節も比類できるものがない。あれは、一体‥‥」

 肉食獣の骨格であるのなら、あれはとても脆い筈だ。

 サバンナや森林といった、天敵が溢れかえる戦場に暮らす猫科肉食獣ならば、あの身体の頑強さ柔軟性も理解できる。

 けれど、あれはこの帝都で狩りをしているのだから、どちらかと言えば豹やチーター等の身体を一度でも傷付けられればそれで死亡が確定するようなガラスの刃にも似た視認外の凶器。

 音もなく刈り取られた首の数を数えられても、骨折どころか内臓を破裂させる衝撃を加えられて逃げ去るとは思わなかった。

「少なくとも、近辺に人間がいたのでは殺せない。仕留めるのなら———」

「ねぇ‥‥」

 もし存在するのなら、小夜啼鳥と謳われる美声を響かせた少女が扉の奥から声を掛けてきた。

 箒も棚も投げ出し、橙の羽を持つ悪魔を身体で守るように扉と壁の間に入り込む。未だ目元を腫らしてるアビゲイルの姿に、僅かな爪痕を感じながら。

「あのね‥‥」

「うん、どうした?」

「‥‥今日はね!ミシュレさんとね!」

「ああ、今日もお世話になろう。教授には俺が会ってくる」

「‥‥ダメ、私といて」

「わかった。そうする」

 教授だって気が気でないのは承知しているが、あの人には娘を守るように頼まれている。ならば、裏切る訳にはいかない。

 黒く窪んだ眼窩に日の光こそ差すが、深い影に包まれたアビゲイルの顔付きは幾らも改善されない。いっそのこと、彼女が気に入っているあの庭園に連れ出してしまえば、無理をしてでも笑ってくれるかもしれない。だけど、結局それは自分は無力だと宣言しているのと同じだった。

「そろそろ終わるから、待ってくれ」

「私も手伝うよ」

「———ごめん、それはダメなんだ」

 察していたように、そして裏切られたかのような表情をさせてしまい、小さく頷いた少女に暗い店の扉を閉めさせる。

 何を差し出してでも彼女を守ると誓い、隣にいると、一緒になると約束したというのに、終ぞ自分は彼女に離れろと命じてしまった。

 誰からも必要とされながら役目が終われば、役に立たないと判断されれば消えろと言い渡される。この正し過ぎる清廉潔白な世界に、自分達悪魔の居場所はないのかもしれない。あらゆる幻想も幻惑も、解明されて捉えられてしまう世界への扉の真っ只中に、我々人外の存在は———ただただ邪魔なのかもしれない。『お前達なんかいなければ』、そう貫かれた瞬間、自分もアビゲイルも砕けてしまう。だから。

「‥‥なんの為に、ここに来た。死ぬのは、今じゃないだろう」

 やはり何も変えられない、全てを押してでも優先すべき存在がいる。

「アビゲイル!!」

「は、はいッ!!」

 店先どころか店外、道端にも響き渡る声を発した瞬間、背を向けていたアビゲイルが直立不動で振り返った。

 芸術の王に彫られた像にも引けを劣らない絶世の美女に、自分も無言で迫り、逃げる真似など許さないと渾身の力で抱擁する。混乱した所に、更に混乱した悪魔は小声で何かをさえずりながらも昨晩、そして教授がいない夜のように背に無意識に腕を回す。

「よく聞いてくれ。俺にとってアビゲイルは何よりも欲しい、誰にも渡したくないヒトなんだ。だから———アビゲイルが怪我をしたなら、俺は俺ではいられなくなる。悪魔そのものになってしまう。信じられないのならそれでもいい。だけど、どうか俺との約束は忘れないで‥‥」

「‥‥私も同じだよ。君が遠くに行っちゃったら、もう私も私じゃいられなくなる。きっと手当たり次第に夢に入って、帝国そのものを堕落させてしまう。君が帝国を崩壊させるのなら、私は帝国を崩落させる————全部を夢みたいに忘れて、私の世界を造り出させる」

「アビゲイルを悲しませやしない。我を忘れさせもしないから。どうか、俺の為にアビゲイルはアビゲイルのままにいて欲しい。約束も誓いも、アビゲイルも必ず俺が守るから。俺の話なんて信じないでいい。だけど、契約は必ず守るから。だから、どうか」

「うん。信じてる———君は一度も、私を裏切ったりしてないもんね」

 紅葉を思わせる鮮やかで艶やかな髪に顔を埋め、今も震えている肩を引き寄せる。自分は確かに逃げ出し、全てを捨て去った。望んでいたのは自分が自分足り得る健やかな死のみだった。だけど、何も拾えない筈がなかった。悪魔は、ようやく自身だけの物を得てしまった。

 そして、この悪魔は契約をしてしまった。何を捨ててでも、必ず守ると誓った人を。

「ごめんね。君を疑って」

「ごめん、酷い事言って———ずっと隣にいて欲しい。俺を忘れないで」

「忘れないよ。だって、絶対将来は君との証を抱いてるってわかってるから」

 震えていたのも自分もだった。昨晩から凍てついていた、他人の物のような心臓の鼓動を取り戻せた。

 最後に大きく花々と草木、そしてアビゲイルの髪の香りを肺に溜め込んでから離れると、一瞬の隙を突かれて口元も濃い唾液の味を教えられた。そのまま押し倒されるように椅子に腰を掛けると、膝の上の跨った橙の悪魔に舌を吸い上げられる。

 夢に入り込まれた夜のように、力が抜けていくのを良い事に舌に続いて唇と首にも舌を這わされる。

「‥‥積極的過ぎじゃないか。まだ昼なのに」

「昨日の夜は、結局二人きりで出来なかったから。ちょっと我慢の限界だったの。それに、君からの告白十回記念を忘れたくないから♪」

「悪魔め‥‥」

「悪魔だからね♪」

 お互いに首と耳に舌を這わせ、胸に溜まり続けていた情欲と劣情をお互いの身体で発散し続ける。膨れ上がった胸を押し付けるアビゲイルの身体を胸骨で押しつぶし、膝から滑り落ちそうになる悪魔の臀部を掴み上げる。その瞬間、甘い声を発したアビゲイルに頭を抱き締められ窒息も厭わない深い口づけを施される。柔らかな肢体と舌に惑わされながらも必死に求め続けると、ベルトに手を伸ばされる。

「え、ダメなの?」

「流石にダメだろう?そろそろ終わりにしないと」

「じゃあ、最後に最後までしようよ。もう限界」

 瞳を満月のように見開いた悪魔の色欲は留まる事を知らなかった。現実の世界でも知ってしまった愛と快楽の虜になった小悪魔は、真に悪魔となりつつあるのを感じさせる。手慣れた様子に自身の胸を撫で上げて誘うアビゲイルに息を呑むが、背後の影に背筋を凍り付けてしまった。

「後ろ、そろそろ見た方が良いかもしれない‥‥」

「え?」

 ほんの僅かな間で年相応のハツラツとした少女に戻ったアビゲイルは、膝から飛び降りてミシュレ家の扉に逃げ去ってしまった。

 過ぎ去った後にも残るアビゲイルの濃厚な汗と女性の香りに包まれる店先には、ミシュレその人と共に昨日に気を失った少女達が深紅に染まった顔色で目を逸らしていた。どうしたものか脳髄のどこか一点でそう思考していると、顔を背けたままの店主殿に一枚の布を渡される。

「あ、あの‥‥隠して下さい」

 全てを察した瞬間、自分は足を組みながら下腹部を布で隠した。





「‥‥どっちの方がつらいか」

 ミシュレさんの勧めで、店外で昼食を取る事となった自分はひとり喫茶店でテーブルクロスの上のコーヒーを啜っていた。

 率直な話、確かに店主殿の提案は有難く、一時の情事を見られた異性ばかりの店内では余りの緊張感と共にいたたまれなさで心不全でも起こしかねなかった。けれど、件のアビゲイルは自分が出て行こうとした時には、二階のふたりで過ごした部屋に閉じ籠ってしまっていた。

 ふたりで逃げ出さないか?そう告げたはいいが、「もうこの部屋から出ない!!」と叫び返された。諦めてミシュレさんに全てを任せて逃げ去ってきたはいいが、あのままでは近々餓死すると確信した。よって喫茶店には持ち帰り用紙袋を注文していいた。

「心配すべきなのは俺も同じだ。どうすべきなんだ、ミシュレさんとも顔を合わせられない。いや、そもそもあの人はああいう人だった」

 自分の出会って来た中で最も良心的で道徳性に溢れた大人の女性で、比較的耳年増な方だった。全てをあの笑顔で誤魔化し、受け入れて何も言わずに流してくれるだろう。今も布団を被って泣き叫ぶアビゲイルを宥め、友人達のいる中に導いてパンを焼いている事だろう。

「———そうだ、俺初めてひとりで店に入ったのか。金の払い方って同じだよな?」

 先ほどとは違う緊張感に包まれてしまい、ひそかに会計を覗き見る。が、店長らしき男性はお得意様である男性と談笑を進めている。無論、他の店員も厨房に籠り、会計などする暇は見当たらなかった。何を焦る事があるか、受け取った金銭である硬貨と紙幣を差し出せばいい。

 この世界の金銭感覚など、とうに会得している。だが、アビゲイルという屋敷のご息女と一般的な庶民の昼食は隔絶された違いがある。

「いや、まだまだここは兵士達がパトロールしてる。水増しされたりなんてされない」

 自分に言い聞かせれば言い聞かせる程、焦りが増していくのがわかる。恐喝も窃盗も強盗も何もかもを経験しているのが自分だというのに、初めての会計というだけで、ここまで心臓が鼓動している。口から溢れ出る血の味がする唾液を飲み干し、決して弱みは見せてはならないという向こうでの日常を取り戻す。

「ご注文の品です。どうぞごゆっくり~」

 若い女性店員の足音と声に跳ね上がりそうになるのを舌を噛みながら耐え、無言で頷いて見送る。

「‥‥耐えた」

 そう密やかに笑むと、僅かながらの自信を取り戻せた。

 まずは食事をしようと、注文したスパゲッティにフォークを突き刺す。どのような土地であれ原材料が小麦粉であるというだけで安堵出来る。しかもよく腹に溜まる。その上、トマトソースはよく熱せられているので寄生虫も消え、慣れ親しんだ味は舌先で毒物を検知できる。

 そして太いパスタと付け合わせのコンソメスープは、あちらの世界から見ても極々庶民的だった。

「結構美味いかも」

 挽肉とトマトだけで造り出されたとは思えない濃厚で旨味あるパスタと、薄めのコンソメスープはよく舌に馴染んだ。あの街でもパスタはよくよく食されていたが、本場と言えるのかもしれないこちらの味も決して劣っていないと断言できる。

「‥‥ひとりでの食事か。最近はずっとアビゲイルと一緒だったから、久しぶりかも」

 邁進していたフォークを止め、窓から外を眺めると新たな発見はそこかしこから確認できる。

 隊列を組んでパトロールをする兵士の数が普段と比べて数割も増している。

 獣への対応なのだとわかるが、彼らだけで対抗できるとは到底思えない。恐らくは———獣の情報を求める市民達を制圧するのが目的だと言える。構える小銃は人に対しての装備であるのは述べるべくもない。同時に抜き身の銃剣は、それだけで威圧感を与える。

 集団を操作するのなら、敢えて情報は与えない。これは往々にして繰り返された、弾圧と粛清の歴史だった。

 ならばこそ兵士達も、ああも呑気でいられる。何も知らない彼らは別区画から呼びされた素人。狩場に餌として補充されたのだろう。

「あの、お客様?」

「は、はい」

「相席をお願いできますでしょうか?」

 ようやく振り返った自分に問い掛けた女性の店員は、断らないだろうとという確信の元で新たな客人に席を既に引いていた。

 そして自分も反射的に「わかりました」と返すと、待ってましたと足早に去っていく。余りにも忙しいと言わんばかりに去った後ろ姿を、新たな客人と共に眺めると、思い出したように眼前のその人が腰を掛けた。

 若い女性———アビゲイルと同じか年若い薄い金髪、茶髪とも言える少女が赤い外套を纏っていた。

 つい眺めてしまった顔から視線を逸らしてパスタに戻ると、「構いませんか?」と愛らしくも威厳ある声が掛けられた。

 思わず顔を上げたが、彼女が呼び止めたのは新たな食事を運んできた女性の店員だった。疲れなど一切見せない玄人店員は、「はい、ご注文でしょうか?」と僅かに語気を荒めた返答を返す。けれど、それに挫けなかった少女は「前の方と同じ物を」と注文、店員を下がらせた。

「すみません、とても美味しそうに食べているので」

 この庶民的な店には似つかわしくない気品ある微笑みを浮かべた少女は、やはり自分に話かけていた。

 愛らしさも感じるが、それ以上に美しいと評せる顔立ちと雰囲気を纏った少女だが———それら以上に目を向けなければならない特徴を持ち合わせていた。深紅の外套、これも昨日視界に収めていたのだから。十中八九、貴族の、それも自身は帝国の礎となり得る英雄の末裔だと宣言する家々の色を纏っていた。

「もし?」

「すみません。あまり話し慣れてなくて」

「あ、ごめんなさい。実は私も、家の方々以外とは話し慣れてなくて」

 演技なのか本心なのか、火を見るよりも明らかだった。紛れもなく彼女は話し慣れていた。

 貴族の未成年たる彼女が一人で『この店』に入る訳がない。高貴な身分である彼女が道を歩くだけでも、それ相応の意味がなければならない。何も考えずに三流の店に足を運ぼう物なら、それだけで家に泥を塗る。しかも深紅の外套に袖を通している彼女は公務の途中、もしくは———これが目的である。ならば、何度か試されたのを思い出した。

「沢山の兵士の皆様がいますね。皆、帝国と家族の為に戦い続けた英雄。だからこうして私達も食事を楽しめる。素晴らしい事だとは思いませんか?」

「‥‥はい、とても安心出来ます」

 目を離せない。食事に毒を盛られ、気まぐれに拳銃を向けられる。その可能性をこの目で見ていたのだから。

 人を人とも思わない人間によって試練だと銘打たれた『遊び』に付き合わされたのを思い出す———未成年である子供に、立場を偽られて暗殺を施された者達がいた。同時に———彼女の佇まいは危うい黒髪の人間たる自分を、疑い罰する為に派遣された裁定者を感じさせる。

 まるで、昨夜の一連の流れを全て見通していたかのように。

「だけど、もしあの兵士の方々が諸手を上げて帝国の反旗を翻したのなら、とても恐ろしい矛となるでしょうね。彼らには無理を強いて来たのですから。敵方の砲弾によってもはや自力では歩けない身体となってしまった者、精神を狂わされ安眠など夢のまた夢と相成ってしまった者、挙げれば限りない戦争の英雄達が、この帝国には数え切れないほどいます。あなたはどう思いますか?」

「‥‥隠さないんですか?」

「あなたには不要と考えていました。それに、私の予想は当たっていたよう」

 食事を届けられた少女は「ありがとうございます」と、にこやかに店員を見送る。そして瞬きをする暇もなく影が出来たのを良い事に白いテーブルクロスを軽く持ち上げて鈍色に輝く筒を隠した。

 悪くない手際だと感服する。

 銃声を出来る限り抑え、火花を隠す、修練によって培われた確かな技術。ある意味において貴族に相応しい交渉材料であった。

 その上、引金を指で遊び、発砲寸前までトリガーを引き込んでいる。僅かな振動を手掛かりに完璧に整備された拳銃を自分の指のように扱っていた。あれを他人の手によって造り出せる筈がない。全て自分で分解、油を塗りつけ手に滲ませている。

「あまり驚かないんですね」

「慣れてますから」

 僅かに肩を震わせて、フォークを握っていた腕を僅かに浮かせる。そして軽くテーブルに当てた硬質の鉄塊の音を気付かせる。

 ようやく彼女は気づいた。

 上着の中で腕に添わされ隠されていた、こちらの拳銃を。

 大佐と呼ばれた男性より受け取った、彼女の物よりも銃口が巨大で軽々と胸を撃ち抜ける角度を彼女が座った時には捉えていた。

 前屈みに食事を取っていた事で気付かせなかったが、既に数度も触れていた。スパゲッティに口を付ける度に、スープカップとフォークに触れる度に自分は彼女の胸を撃ち抜けていた。確かに彼女の方が一足先に発砲出来ていたかもしれない。

 けれど、自分は一歩先を行っていた。

「慣れていない。向けられるのは初めてか?」

「‥‥わかりました」

 テーブルクロスに巻き込んでいた銃口を下げた彼女に習って、自分も上着から拳銃——―と思わせていたスプーンを取り出してテーブルに戻す。あっけに取られている彼女の前で、取り出したスプーンでスープの具材をすくい上げる。

 流石にこの場で発砲する訳がなかった。自分は恐喝も脅しも数度経験している。年若い経験が足りない少女ひとりに遅れは取れない。

「あなたは貴族同士の荒事には慣れているのかもしれない。だけど、あくまでも一般人たる俺に向けるべきじゃない」

「——―自分を一般人だと言っているの」

「それ以外の何者でもありません。そして、あなたの期待にも応えられない」

「どういう意味?」

「そのままです。俺は巻き込まれたにすぎません。通報でも何でもお好きに」

 既に自分は大佐クラスの人間と通じてしまった、この帝都の暗部に触れてしまった悪魔。なまじ触れた闇が深かった所為で、俺を手放す訳にはいかないが彼らの選択だろう。教授も俺も裏切って獣の襲撃の責任を被せたとしても、結局兵士達の小銃では手も足も出ない。

 少なくとも人間達は、この異郷の土地から現れた悪魔との契約を反故にするなど不可能である。

「‥‥あなたは勘違いしています。私は、あなたに用がある訳じゃない」

 未だ想定内の言葉であったが、決して無視できない範囲に触れた。

 自分が見知っている人間など数える程もいない。なのに、わざわざこの自分を狙って接触して来ている。

 どれを指名されても、やはり手酷く退去を求める訳にはいかなくなった。

「何が知りたいんですか?」

「その前に、あなたが保護されている屋敷について、どれだけ知っている?」

「元は酒造、アルコールを中心に香水や医療用消毒液を精製していた会社の社長宅。そしてつい最近までは爆薬も手掛け、兵器製造すら可能としていた国家運営にも等しい工場。同時に屋敷の一部でありながら実証実験の現場すら持ち合わせている」

「それは公になっている事実だけ。もっと知りたくはない?」

「話の趣旨が変わってる。俺を取り込みたいのなら真摯に返答して下さい」

 追随も退却もしない自分に焦りが見え始めた。見えざる壁に手をこまねている彼女は場の支配権は未だに掴めずにいる。

 一拍置いた深紅の外套を纏う少女が届いていた皿にフォークを突き立てる。作戦を変えて沈黙に耐えられず、自然と問い掛けてくるまで待機を選択したようだが、自分はただただ食事に寄っただけである。よって、既に終わりを迎え始めた皿は残り2割もなかった。

 時間稼ぎは無意味としか評価できない。

「何がご用があれば、帝都大の教授を訪ねて下さい。———―アビゲイルについて話せるものはない」

 罠にかかった。ようやく驚愕の事実を告げられる。そう確信していた少女は受け身の姿勢には慣れていなかった。先手を打たれた事で苦々しい顔こそ浮かべるが、遅かれ早かれ自分から告げる話でもあったのだ、僅かに顎を引く程度で耐え凌いだ。

「‥‥あの人は無事なんですよね」

 次に訝しんだのは自分だった。

「はい、無事です」

 続いて向けられた応対にも、つい首を捻りそうになった。まるで本当に彼女の身を案じているようであった。

 演技とは思えなかった。小さいな拳を胸元に当て、震える肩を自力で抑えている。そのまま奥歯を噛みしめながら眼球を貫くブラウンの瞳には、殺害も殺傷も全てを覚悟したもの———自爆すら厭わない、最も危険な人物達が浮かべる最後の怒りにも似ていた。

「あなたとアビゲイルさんが、親しい間柄になったのは知っています。だから問わなければなりません。昨夜の襲撃で狙われたのは、あのヒトだとは感じませんでしたか?」

「——―昨日は俺もアビゲイルも必死で破れかぶれでした。誰を狙っていたのかなんて、考える暇もなかった。だけど違和感は覚えたかもしれません」

 あまりにも都合が良過ぎた。

 昨日、ミシュレ家に泊まった自分達は花を愛でたくなった。ここまでは、いずれは起こり得る事象として計算できる。

 けれど、毎晩帝都を見回っている兵士すらろくに視認出来ていなかった獣の本体が店を突き破って侵入してきた。あれはアビゲイルが声を出したからだ、と考えればあり得るのかもしれない。だが、たった一言で、『この声の持ち主は殺害できる』と確信して襲い掛かるだろうか。

「今まで屋内に侵入して、人間を襲った事はありましたか?」

「いいえ、私の知る限りでは」

「ならば、あなたの狙いは正しい。昨夜、この区画にあの獣がいた理由は、ここに訪れた誰かを狙う為。そして店だというのも見当をつけていた。だけどその場合、あの兵士達すら」

「知っていた可能性がある」

 断じた言葉に心意を問おうと口を開くが、首を振って喰い止められる。

「あなたに近づいて正解でした。次は、アビゲイルさんも交えてお話をしましょう」

 最後に、いつの間にか平らげていた食事の二食分の代金を置いて店から出て行った。

 最後の最後で主導権を奪われた。約束を取り付け、断る暇も与えずに消える。向こうのペースから始まる次の会談のキーパーソンは、アビゲイルとなってしまった。けれど、今の彼女が強気に出れる筈がない。何もかもが彼女の計算だったのかもしれない。

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