34,我忘れじの慟哭の歌



 ヒカルは何処とも知れない空間にいた。壁も床も天井もなく、無限に灰色の空間が広がるばかり。

 目の前に見知った顔がいた。レト—―否、患者衣を着た彼女は五代ごだいれいか。やはり、アンナに似ていると思った。彼女は泣いていた。流れ落ちる涙を拭う事もなく、幼子のように。ヒカルはその様を痛ましく思ったが、目を逸らす事も閉じる事も出来はしない。

「父に乱暴されたんです」彼女は切れ切れにそう言った。「始めはただのスキンシップだと思ったんです。でも、だんだん変な所を触るようになって。何度止めてって言っても聞いてくれなくて、母に相談しても『あんたが誘ってるんじゃないの』って。一線を越えてしまったのは、夏の事でした。それから毎日のように。あのひとに屈服する度、心が死んでいくのが分かりました。私一人が我慢すればいいって思ってたけど、そうじゃなかったんです。ある日突然、ご飯を全部吐いてしまって。いつも通りのご飯なのに、それまでと全然味が違っていたんです」

 次の言葉が出るまで少し時間が掛かった。「私には分かったんです。。誰に相談出来たでしょう? 母でさえ守ってくれないのに? それでも父はお構いなしに私にし掛かってきました。丁度いい、降ろすのを手伝ってやる、なんて言って。私は死のうと思っていて、ポケットにカッターナイフを入れていました。もう何もかも嫌になりました。私は、わたしは、どうせしぬならわたしをいじめるこいつもみちづれにしてやろうとおもったのです。でも私は死ねませんでした。その日だけ偶然早く帰って来た母に止められたからです。ねえ、私はどうしたら救われますか? 貴方はどうやって私を救ってくれますか?」

 ヒカルは何も答えられない。礼は涙の溢れるまま悲しげに目を伏せた。










 ヒカルはあおぐろい空間にいた。虚ろな目をしたイライアス――江崎えざき永理也えりやが幽鬼のように立っていた。

「俺の母親は、おかしかった」その言葉はほとんど唇を動かさずに発せられた。「親父は俺が六歳の時に家を出て行った。『お前はお兄ちゃんなんだから、弟を大事にしてやるんだぞ』だと。親父もおかしくなってたのかな。六歳の子供は、お前が考えるよりずっと非力だ。ほとんど年の変わらない、しかも歩けない弟にしてやれる事なんて、それこそ数える程しかなかったのに。それでも俺は、自分で言うのもなんだが随分頑張ったよ。いい子にしてれば親父が帰って来ると思ってたし、それに弟は――吉哉よしやは俺の一番大切な親友で家族だった」彼は束の間視線を彷徨わせた。

「でもそれも長くは続かなかった。クラスメイトが間違えて俺のノートを持って帰った、って言うから、まだ日も暮れる前だったし取りに行ったんだ。帰って来れば、家から嫌な臭いがした。生魚の臭いをうんと強烈で不快にしたような臭い。その理由はすぐ分かった。吉哉はリビングで俯せに倒れていて、その下のカーペットが赤い絵の具みたいなもので真っ赤になっていた。血の臭いだったわけだ。母親はさ、憑き物が落ちたような声で、あらお帰りなさいエリくん、なんて言うんだ。『お母さんも頑張ったのよ、この子の脚を治す為に色々試してみたけど、もうお金がないの、このカルマはお母さんには重すぎたみたい、だから三人で清算しましょ』、ってな。よく覚えてるよ、夢の中で何度も繰り返してもらったからな。

 俺は咄嗟に逃げようとして、首が熱いな、と思った時には動けなくなってた。母親が持ってた包丁で俺を切りつけたんだそうだ。俺はその時は何も分からなくて、後から警察に教えられた話だが。次に目が覚めたら病院の中だった。

 まず医者に『母はどうしてますか』って聞いたよ。死んだと聞かされた時はそれ程驚かなかった。直感みたいなものだな、もうあの人は駄目だろうって。俺にとって重大なのはその後だ。『弟さんも、残念ながら』って言ったか言わないかの内に、親父が部屋に入って来た。俺の知らない――母親よりも若そうな女の人と、吉哉よりずっと小さい子供を連れて。体はベッドに寝ているはずなのに、俺の下に底なしの穴が開いて、何処までも落ちていく錯覚さえ感じた。俺の努力は全部無駄に終わった。あの絶望で俺は狂った。こんな現実は間違いだ、弟はまだ何処かに生きている、俺が頑張って探せばきっと見つかる、そう思い込もうとした。

 ――なあ、俺はあと何処を探せばいい? いつまで調べれば終わりに出来る? お前は沢山本を読んでいるから賢いんだろう、教えてくれよ」

 ヒカルは返す言葉を持たない。永理也は項垂れた。







 



 殺す、殺す、殺してやる――。身を焼くような苦痛と憎しみは、しかしヒカルのものではない。彼はその感情を傍観するだけだ。

 が母親に去勢されたのは五歳の時だ。手足を縛り付け、火で炙ったナイフで、まるで豚の丸焼きを振る舞うように。切り落とされたそれは、くじ引きで決まったがあっという間に頬張り、飲み込んだ。

 その日から一週間、は高熱にうなされた。にきょうだいはおらず、母の下で働く娼婦達が姉代わりだった。彼女達も、見舞いに来なかった。手を出すんじゃないよ、と母に命じられたからだ。痛めつけた犬を首だけ出して埋め、周りに食べ物を置くように、これなるはヒトを魔性に変える儀式、これを乗り越えねば死ぬだけさね。はともすると息が止まりそうな程の苦しみの最中、母への憎悪のみを文字通りの命綱として、吐く息は火のように感ぜられた。自分が変質していくのは熱のせいか、あるいは憎しみか。

 母は悪魔だった。の前に生まれた六人の兄姉は、『悪い奴になるといけないから』と皆へその緒を切るよりも先に縊り殺された。だけが生き残ったのは大した理由でもない、頼みにしている医者が『恐らく最後の妊娠になるだろう』と言ったから。幼児性愛者がを高く買った。その方が客が喜ぶからと、いつも女物の服を着せられ、髪も長く伸ばしていた。

 「調子はどう?」ふいに戸が開いて、一人の女が入って来た。が最も親愛の情を寄せていた娼婦だった。その手には鈴蘭が握られていた。

「まだ、熱があるみたい」彼女がの額に手を当てた。そのひんやりした感覚が、暫し憎悪を忘れさせた。「お母様が、これなら持って行ってもいい、って。普通の人間には毒だけど、魔物になりつつあるなら、きっといい薬になるから、って……」白濁した視界で鈴蘭が揺れた。小さな白い花が六つ並んだそれは、とても綺麗で――

「ねえ」ヒカルは背後から声を掛けられた。「忘れてくれない? これは『私』だけの記憶ものだからさあ」

 ……。


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