32,ヤルダバオートの女帝

 ああ、お前に一つ、断っておかなくてはならない事がある。おれ達は――つまり、おれと我が主においては――この世界の全てを知っている、というわけではない。我が主が転がり込んだ時にはこの世界は既に成長軌道上にあったというし、おれがこの世に生を授けられたのはそれからもっと後の話だ。だから、この世界がどのようにして始まったのか、については答えようがないのだ。もっとも、其処にいる金星スファノモエーならあるいは何か知っているかもしれんがな。

 お前は心の何処かで疑問に思っていただろう。「何故、この世界は異世界のはずなのに自分の持つ知識が当て嵌まるのか?」そして『お前』はこう結論した。「この世界は、自分の知識と記憶から織り上げられた虚構なのだ」とな。

 ……あまり何でもかんでも自分の妄想だと思われても困るから、これは訂正せねばなるまい。この世界の人物と、お前が元居た世界であった人々と。確かに類似しているだろう。もしくは、曖昧な記憶からのモンタージュによって生み出された群衆、とこじつける事も出来よう。しかし、だ。お前をあの大蛇ヨルムンガンドから救い出したアンナ=テラスや、お前に秘密を打ち明けるこのおれは、

 答えられまい。当然だ。おれ達は向こうの世界で出会った事などない。世界そのものの類似性は否定しないが、此処にいるおれ達は虚構ではない。苦しみも、喜びも、作り物では断じてないのだ。

 お前は、多世界解釈という言葉を知っているか? よく似た異世界パラレルワールドとはつまり、限りなく近くに隣接する世界なのだ。そこに在るのは物理的な遠近ではなく、因果の構成の相似だ。まあおれはここ以外の世界を知らないし、これは我が主が出来る限り平易に噛み砕いた表現だが。全てを正確に説明しようとしても、この世界にある言葉ではどうやっても足りないそうだからな。

 

 無駄話が過ぎたな。話を戻そう、この世界についてだ。

 鶏の卵は知っているな? 世界をこの卵に例えた時、我々が過ごすこの地上は『卵黄』、天蓋そらとは我々が卵の内側から見た『殻』のようなものだとか。そして星は――一部の例外を除けば――エーテルの『卵白』の中を漂う『魔力の塊』だそうだ。中天から我らを睥睨する、今の我が主が正にそれだ。

 そう、この例外が重要なのだ。このせかいの外殻は、完全に閉じているのではない。。地上から見れば同じ星のように見えても、その性質は大きく異なる。其処に輝くのは外宇宙より流れ込むエーテルに似た成分の魔力だ。

 月になれ、とは要するに、、という事である。

 かつての月はそうではなかったらしい。他の天体と同じく中空に座する精霊の一であった。しかし『冬の戦』の中で月は魔物に喰われ、魔性の軍勢への馳走と成り果てた。お前の疑問はこうだろう、「何故月は戦の後も復活しないのか?」――これはきわめて簡単なことだホーク・エスト・シンプリキシムム。お前の知る神話で語られていた、戦争の後に再生すべき万物が、。この世界は停滞している、それも唯一人の思惑によってのみ。

 『』と、その女は我が主に名乗ったそうだ。かつて存在していたこの世界における造物主――今どうしているかは分からん、異界へ去ったのか、それともその御身ごと世界の礎となったのか――に叛逆し、世界を夜と昼に裂いたという。各地で様々な名と姿を使い分け、ある場所ではエリスとして大戦の引き金となる黄金のリンゴを送り、またある地ではグールヴェイクと名乗って神々に無用な欲望や怒りをもたらした。この女神は夜空を己の領域としているから、当然我が主の下へとやって来て、『何者か、何が目的か』と尋ねたそうだ。彼のお方が経緯いきさつを話してやると、彼女は大層興味を持った。特に『飛ぶ鳥』のくだりを気に入り、「ならばわらわもそれに倣おう」と宣った。そして我が主にこの世界そのものの在り様に介入しない事を条件に、この天空に留まる事を許した――という。

 かつて、この世界の数多の神々は自分達の生命と引き換えにしてでも、悪霊たる存在を未来に残さぬようにと戦った。しかし彼らも知り得ない程ふるい、原初の悪霊を除く事は出来なかった。それこそがこの世界の全ての事の始まりなのだ。支配者のいなくなった世界を己の意のままに堰き止め、敗残者達に地上の玉座を与え、その果てに完全なる自分の帝国を造り上げんとする偽りの主ヤルダバオート

 この世界の外殻に今ある穴は、ごく小さなものばかりだ。しかしお前が我が主に断片を譲渡し、その力でもって穿孔すれば、それはかつてない程に巨大な穴を穿つだろう。エーテルは瀑布となって流れ込み、この世界にあるものは一つ残らず新たな性質の魔力によって崩壊するか、そうでなくとも大きく変容するだろう。それがリリスの狙いなのだ。エーテルの流れに手を加え、旧時代の残骸を押し流し、月の浮かぶ天と、その引力で浮上する常世にて真の主になるのだ。もう間もなく。




 最後に、おれの身の上話でもするか。星の射手いてやじりがおれを指した時、おれは母胎の中で死んだ。もうすぐ生まれるはずだったが、まあ星辰の力とはそういうものなのだろう。おれは嘆きと共に葬られた。本来ならばそれでお終いのはずだった。だがそうではなかった、我が主がおれの亡骸に手を差し出されたのだ。

 偶然にエーテルの巡りが比較的良かった時分であり、我が主は地上において御自分の代わりに動く使いを必要としていた。理由としてはたったそれだけの事。それだけで、おれのまだ腐っていない肉体に残っていた魂の残滓に生命の息吹を送り、仮初の人生をお与えになった。流石に赤子の体では不便が過ぎると言うので、おれは一晩にして青年期まで成長し、埋められた墓地から這い出した。

 ああ、お前が以前行こうとしていたバベルの塔にも登ったよ。そのいただきで、おれは真なる教えと魔力を授かった。あ、お前は登ろうなんて考えるなよ。疲労や痛みを知らぬこの身でも苦行以上のものだったからな。

 ……苦労話をすればキリがないが、省くと実に単純な半生だな。これでお前の聞きたい事は概ね話したと思うが、まだ質問はあるか?






 東の空が白み始めていた。それに合わせて赫星の輝きは薄れ、ノアの纏う雰囲気は次第に神秘性を失っていった。

 質問はあるか、だって? ノアの話には致命的に欠落しているものがある。そこまで考えが及ばないのか、あるいは意図的に伏せているのか。だがすぐにそれを切り出す気にはなれなかった。だからヒカルはもう一つの、さして重要ではなさそうな質問をまずする事にした。

「……その杖も、その時に貰ったの?」

「杖?」ノアは手にした杖に視線を落とした。丸ごと黒曜石の塊のようなそれは曙の中で鈍く煌めいた。「ああ、がそう見えるのか。これは教典テスタメントなんだ」

 突然、杖が無数の粒子にばらけ、燃え上がった。よく見れば、それは燃えながらも何かの独立した記号を象っていた。記号は未知の規則に基づいて整列し、ノアの周りを漂い出した。

しゅの教えがおれの杖として歩みを支え、時には剣として障害を切り払う、だそうだ。これ自体がひと塊の魔術のようなものらしい」

「そうなんだ。――あのさ、もう一個、いいかな」

「どうぞ」記号は炎を失い、また一つの杖の形に戻った。

「あのね」自分の口がひどく乾いている。ヒカルはそっと唇を舐めた。「その……、『光』の断片、なんだけど。それを僕から取り出したら、?」

「あー」ノアが頭を掻いた。「知りたいのか、それ」

「その反応で予想はつくけど、はっきり言ってほしい」

「インフォームド・コンセントだっけ? おれは医者じゃあないが、黙ってろとも言われてないしなあ。いいか、覚悟して聞けよ」軽薄だったその表情に真剣さが滲んだ。

「動力炉を抜き取られた。日取りはもう決まっている。七日後の夜だ」










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