20,昔話

「物事には順序がある。それに沿って、そうだね、一つ昔話をしてやろう。お前さまの旅路を決める何かがあるかもしれない」ヘルはそういって節くれだった指を一本立ててみせた。

「お前さまがこの世界についてどのくらいの知識があるのか、私は推し量る事しか出来ないが、かつて偉大な巫女が一人いた。ヴォルヴァという名のその巫女は、オーディンにも見えないくらい遠くの未来を見る事が出来た。しかしその精度は主神オーディンには及ばぬ。ぼんやりと広範囲を見るヴォルヴァと、狭い範囲をつぶさに見られるオーディンと、そんな具合に成り立っていた。

 さて、ある日ヴォルヴァは――既に死体として墓に眠っていたけれど――オーディンに請われて未来を予言した。ほんの一時ならば、この大いなる巫女は墓より蘇ってかつての力を振るう事が出来たのさ。どんな遣り取りがあったか、私は人づてに聞くばかりだが、ともあれ彼女は神々の支配する時代の終焉が間もなく訪れると予言した。避けようのない戦争が起こり、神は皆死に絶えるであろう、と。実際、不穏な予兆は既に始まっていた。不吉の女巨人グールヴェイクというのが神の国アスガルドに入り込み、良からぬ企みのかどで処刑され、しかしその肉体は滅びる事がなかった。火を持って来て焼き尽くしても心臓だけが残り、何を思ったか私の父はそれを喰らった。それは親父殿に理由のない怒りをもたらした。気が違ったみたいになった親父殿は祖国でもある巨人の国に降り、そこで三人の子供をもうけた――と、ここまではいいかね?」

「もしかして、貴方の父親はロキという名前ではありませんか?」

「おや、よくご存じで。ならこの後の顛末もお分かりかね」

「えーと、要するに神々の黄昏ラグナロクですよね」

 ヘルは少し嫌そうな顔をした。「どうしてお前さまはそうせっかちなんだね。急いては大切なものを見落とすよ」

「あ、ごめんなさい」

「ロキの子の名前は? 知っているかな?」

「えーと、フェンリルと、ヘルと、あとは……」

「ヨルムンガンドだ。形は違えど、皆魔物だよ。人にあらざる私達には、やはり人のものならぬ欲求が生まれつき具わっていた。これも知っているかね?」

 はて、そんな事を記した本があっただろうか。「うーん、分からないな」

 かつての女王はまたもやあの不気味な引き攣りを顔に表した。笑ったのだ。

湿地に棲む者フェンリルは『破壊』、大いなる精霊ヨルムンガンドは『破滅』。そしてこの私、冥府の女主人ヘルは『死』。いずれも人や神を脅かす、危険な欲望だったのさ。それ故に神々は私達をばらばらの方へ追いやった。ああ、フェンリルは野放しに出来ないから縛りつけてたんだっけ。私はむしろヘルヘイムに放り込まれて、毎日やって来る死人を眺めているだけでもまあ満足したけど、改めて考えてみると変な話だね。私だけ仕事を任された、なんて」

「他の二つと違って、『死』だけは避けようがないからかもしれませんね」ヒカルはふと思いついた事を言ってみた。

「あ、成程。神の命とて有限だものね。もっとも光の神バルドルの死は全くの予想外だったろうが……」

「それで、あなたの他の兄弟は野望を諦めていなかった、という事ですか?」

「しぶとさは親父譲りさね。執念深い、とも言い替えても良い。いや、実際のところ私はよく知らないのさ。同じ母親のはらから出て来た、という以外は他人に等しい。人のきょうだいはどうだろうね」

 ヒカルは脳裏に姉を描こうとして、未だ成功せずにいた。同じ胎から出て来ただけの、他人。脳髄にリフレインする言葉を否定するようにかぶりを振る。そんなはずはない、もっと濃密な関係がある――と、信じたかった。

「私は生まれつき脚が不自由でねえ。歩けないのさ。だからオーディンもそこまで脅威とは思わなかったのかもね。さてあまねく人の子に死が降り下るように、私の兄弟の戒めも永遠にはたなかった。フェンリルは鎖を千切り、ヨルムンガンドは怪物の名に相応しい大きさに成長して海から飛び出し、かくしてお前さまのお待ちかねの戦争ラグナロクだ。とは言え、私の口から言うべき事は然程ない。私の領地で眠っていた死者――老いや病で命を落とした、戦士ならざる者達――は、霜の巨人に駆り立てられて船に乗って、神の国アスガルドに向かった。私は歩けないから、ずっと座ったまま、待っていたのさ」

「何を? 何を、待っていたんですか?」

「予言にあった、新しい世界を造る予定の人間さね。リーフとリーフスラジルという夫婦めおとがいつかやって来て、『新しい世界を造るから、古い神は他所へ行け』と言う。ヴォルヴァはそう言っていた」

「歩けないのに、どうやって何処かに行くんですか? まさか這って行くとか?」

「その時は、椅子に車輪でも付けてもらおうと思ってたんだけどねえ」ヘルの顔の痙攣えみ。「まあ、世界丸ごと焼き尽くすような戦火だったから、そこから立ち直るには時間が掛かるだろうとは私も思っていたけど。どうも様子がおかしい。新しい命が芽吹いた気配もない。そしてが現れたのさ」

「奴ら?」

「初めは予言にあった夫婦だと思ったが、人数が合わない。。年齢もまちまちだったが、少なくとも一人は私よりも年寄りだった。それが、息子に王位を簒奪された東の神だった」ヘルはそこで一旦言葉を切り、真剣な眼差しでヒカルを見据えた。冷徹にして厳かな、年齢不詳のその表情かおは怪物的でありながら女王の名に違わぬ威厳を纏った。

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