19,監視
『僕』は暫し立ち尽くす。ホワイトアウトした視界。白昼夢だ、と声なく呟く。
初めの内は、目の前に立つその人が誰かピンと来なかった。髪型と、雰囲気の為だ。一本に纏められて背に垂れていた長い髪は解かれ、肩に落ちている。イライアスその人だった。生前の、閉ざされた武器庫のような穏やかさは微塵もない。血の気の引いた顔と赤黒い胸の穴が対照的に映った。
「なあ、教えてくれよ」幽鬼のような男は力なく問う。「俺の人生は何だったんだ? 何の意味があった? 死ぬ事は怖くなかった、だが簒奪され、裏切られるだけの生涯を突き付けて、
「『僕』は君の苦しみを
「……で、なんで先生がここにいるんですか?」
「監視を命ぜられたので」『僕』の向かいにテレーズ先生が座っている。彼女の食事は奴隷達のそれより数段豪華だ。瑞々しい野菜、色の薄い
「あげませんからね。規則ですから」
「交換ならどうですか? 一口だけでも」
「駄目と言ったら駄目です。私は罰を受けるのを好みません」
「むう、じゃあいいです。それで、監視の理由は?」
「答える義理はありません」先生は
『僕』はさっと辺りを見回した。「訓練士を総動員してまで、何を警戒するっていうんです?」頭数の都合上だろう、全ての
「知る必要はありません。いいですか、貴方は筋は悪くない。余計な事を考えず鍛錬を重ねれば、自由の身になれる日もそう遠くは――」
「余計な事を考えた人がいたんですね。だから皆ピリピリしてるんだ」先生は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「……本当、自分で自分が嫌になります。要らない事まで喋ってしまう癖、どんなに気を付けていても出て来る」
「
「――ここは他の目があります。訓練場で、稽古の合間だけなら」彼女は渋面のまま囁いた。
「――『僕』達が考え得る余計な事の大半は、『どうにかしてすぐにここを出て行けやしないか』だと思うんです。でも、それには障害が少なからず存在する。この首輪がその筆頭でしょう」そっと触れた首輪は無機的な冷ややかさを指先に返した。
「外せないものではないはずです。でなければ自由市民になった時に困るでしょう。ところで少し話は変わりますが、この国は近年急激に人口が増加しているそうですね。これは『僕』の推測ですが、広い領土を所有する貴族階級と、辺境に住む平民との対立が根底にあるのではないでしょうか。この国に与する人々の中には
ところが先生は困った顔をしただけだった。「私はそこまでちゃんと教育を受けたわけではありません。ですから、貴方の推測とやらがどこまで当たっているのかは答えかねます」
「単刀直入に言って、首輪が粗悪品になっているのでは? だからそれを外して逃げた人――剣闘奴隷がいたのでは?」なるべく彼女に近づき、声を低く。盗み聞きされないように。
先生はじっと『僕』の顔を見つめていた。黙っているといつまでもそのままでいそうな雰囲気だったので急かそうとしたのと、彼女が僅かに顎を引いたのは同時だった。
「……一つ、ヒントをするならば。ただの脱走なら、ここまで
示された点はすぐに線へ繋がった。「主人を殺して逃げた?」
「そういう事です」
その時、秘書の男が訓練場に入って来た。『僕』の所へ真っ直ぐ向かって来る。「何をしている。執務室に来るように言っただろう」
「あー」『僕』は頭を掻いた。「すみません、すっかり忘れてました」テレーズ先生との話ばかりに気を取られていた。
男はあからさまに機嫌が悪くなった。「今すぐ来い。大事な話だ」
「『剣』と『盾』。どっちがいい」アントニウス氏はぶっきらぼうにそう言った。
「はい?」
「明日、新入りが来る。お前の次の相方だ。お前が役割を決めろ」
『僕』は少し考え込む。「レトにも同じ事を訊いたんですか?」
「レト? ああ、前のか。業者の手違いであいつだけ一日早く届いたからな」間近でこうしてこの男を見ると弱そうに思えた。鞭を持っているが、それだけだ。ちっとも怖くない。イライアスもこんな風に彼を見ていたのだろうか。
「それで、どっちにするんだ。早く答えろ」
「どっちでも大して変わらないんじゃないですか?」
「なら試してみろ」
「じゃあ、『僕』が『盾』でお願いします」レトの事に思いを馳せた。まだ会った事もない相方を、それでも守ると決めた人。
病室は移動になっていた。四人部屋から個室へ。彼が引き戸を開けた時、妙齢の看護師がちょうど点滴を取り換えるところだった。
「あら、こんにちは」看護師は愛想よく微笑したが、瞳の冷徹な光は至には分からない感情を込めていた。「お会い出来て光栄ですわ。お噂はかねがね伺っておりました」
「君は……、見慣れない顔だが……」息が切れる。運動不足だ。
「ああ、先日まで産休を取っておりまして。先日こちらへ異動になりました。
「よしてくれ。ここでは患者の父親でしかないんだ」思わず苦笑が漏れた。サカキはしょっちゅうササキと聞き間違えられる事を逆手に取ったペンネームだった。
「ところで、息子の容態についてだが」
「ああ、先生をお呼び致しますわ」
「うん、よろしく頼む。ついでに一つ訊きたいんだが、いいかな」
「何でしょう?」織部照子が振り返る。冷たい笑みだ、と彼は思った。看護師という職業は、それこそ様々な人と接するものだ。彼女の笑みは心に壁を造る為のもの、という直感があった。いちいち感情を動かしていてはやっていけないから。
「息子と同じ部屋だった皆さんは、今どうしている?」行きがけに通りかかった時は、全ての名札が空白になっていた。
「転院した人、退院した人。皆それぞれ違う方へ行きました」
「えーと、何ていったかな、彼、
「江崎永理也さん?」
「そうそう、その人は?」髪の毛を切るのが怖いからとずっと伸ばしっぱなしにしていたあの青年。エリヤとは預言者の名、英語圏ではイライアスと教えたのは自分だ。
「退院されました。何ですか、何処かの専門学校に入るんだとか。あらいけない、余計な事を言い過ぎるのは私の悪癖ですわ」ふふ、と看護師は吐息のような笑い声を零した。
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