第5話 ことの理由

 翌朝、どうにかいつもの時間に目を覚ました佳鳴かなるは、歯を磨いて手早くシャワーを使う。そのお陰かしゃっきりと目が覚めた。


 千隼ちはやも佳鳴の後に風呂場に入る。左頬は昨日よりれているだろうか。


「痛みある? お風呂大丈夫?」


「温めない方が良いから、さっと入って来る」


「痛み止めは?」


「ご飯食べたら飲む。昨日より痛くなってるから。青タンになってるし。でもやっぱりそこまで強く力が無かったみたいだ。多分今日明日がピーク」


 千隼がシャワーを使っている間に、佳鳴は掃除を始める。佳鳴のシャワー中に千隼がハンドモップを掛けておいてくれたので、佳鳴は掃除機を掛けるだけで良い。


 千隼がシャワーを終えてキッチンに入り、ブランチを作ろうとした時、インターフォンが来客を知らせた。リビングで洗濯物を畳んでいた佳鳴が対応する。


「はい。あら?」


 モニタに映し出された来訪者に佳鳴は驚いて声を上げる。


『お、おはようございます。辰野たつのです』


 慌てているご様子だ。息も上がっている様に見える。スピーカーから小さく『はぁ、はぁ』と聞こえて来る。


『お家に押しかけちゃってすいません。あの、さっきうちにおまわりさんが来て』


 きっと昨日の件だ。佳鳴は「お待ちくださいね。すぐに行きます」と言い置いてインターフォンを一旦切った。


 玄関を開けると辰野さんが所在無さげに立っている。ただでさえ小柄なのにますます小さく見えてしまう。佳鳴は室内へとうながした。だが辰野さんは玄関先で構わないからと固辞される。


「いえいえ。こんなところでする様なお話ではありませんから」


 佳鳴が優しく言うと、辰野さんは青い顔をして「本当にごめんなさい!」とがばっと頭を下げた。


「本当に大丈夫ですから。大したおもてなしもできませんが、どうぞお上がりになってください」


 今度は辰野さんも佳鳴に付いて家に上がってくれる。階段を上がり、リビングに案内した。


「千隼、辰野さんが来られたよ」


 キッチンにいる千隼に声を掛ける。辰野さんは千隼の顔を見てますます青ざめる。患部の湿布が目に入ったからだろう。余計に小さくなって深々と頭を下げた。


「本当に、本当にすいません!」


「いえいえ、大丈夫ですから。すぐにお茶を入れますね。コーヒーと紅茶、どちらが良いですか?」


「あ、そんな、お構いなんて、本当に」


 辰野さんはすっかりと恐縮してしまっている。慌てて首を振られた。


 佳鳴は辰野さんにリビングのソファを勧めた。辰野さんは「ありがとうございます」と消え入りそうな声で言いながら、長ソファの端に浅く腰掛けた。


 佳鳴は少しだけ距離を取って横に座る。千隼がお茶を運んで来た。好みがあまり分かれない緑茶だ。辰野さんにお出しし、佳鳴の前にも置いて、千隼もひとり掛けのソファに掛けた。


「警察の方が尋ねられましたか?」


 佳鳴がやんわりと聞くと、辰野さんは「は、はいっ」とびくりと肩を震わせた。


「ハヤさんが暴行を受けたって聞いて、防犯カメラから抽出したっていう犯人の顔を見せられました。知ってる人かって。……あの人でした」


「あの人とは?」


 辰野さんは両手で、辛そうな顔をおおってしまう。


「覚えてらっしゃるでしょうか。頻繁ひんぱんにメッセージ送る様になって来た男性がいるって。うちの工場勤務の」


「ええ、もちろん。まさか」


 佳鳴は驚きで目を見開いた。


「はい。その人でした……!」


 辰野さんの絞り出す様な声がリビングに響く。


「え、でもそうしたら、どうして俺、いや、僕が殴られる羽目になるんです? そもそも頻繁なメッセージと言うのは?」


 千隼はすっかりと動揺している。千隼には辰野さんのお話を共有していないのだ。まさかこんな展開になるだなんて思ってもみなかったのだし。


 お客さまのプライベートである。煮物屋さんに関わることなら共有するものもあるが、今回はそうでは無いと判断していた。


 辰野さんは佳鳴にしてくれたお話を、千隼にもしてくれた。千隼はそれに眉をひそめる。


「それは、まるでストーカーでは無いですか」


 千隼も佳鳴と同じことを感じた様だ。辰野さんも以前はそこまで思っておられなかった様だが、今ではさすがに異常性を感じておられるだろう。


「……はい。実は昨日の夜から内容もおかしくなっていて、スクショを撮りながらもブロックしたくてたまらなかったんです。でも場所は違えど同じ会社ですし、下手に逆上とかさせちゃったらどうしようって。あの、実は」


 辰野さんは迷う様に一旦言葉を切り、何かを決した様にすぅと息を吸い込んだ。


「あ、あのっ、あの人がハヤさんを殴ったの、きっと私のせいなんです!」


 そう一気に言い切った。それにまた佳鳴と千隼は戸惑ってしまう。


「どういうことですか?」


「あの、最初は金曜日にご飯を誘われたんですけど、煮物屋さんに来たかったので、約束があるからって断ったんです。で、平日にご飯に行った時に、また次は金曜日にって言われたので、金曜日はいつでも駄目だって。どうしても行きたいお店があるからって」


 その話を聞いて、その人は連れて行って欲しがったそうだ。だが辰野さんはひとりで行きたいからと断られたのだ。


「煮物屋さんは私の憩いの場です。癒しです。職場の人を連れて来るのは嫌だったんです。だってどうしても気を使ってしまうので」


 それはそうだ。お友だちや、職場繋がりでも気安い方ならともかく、知り合ったばかりなのだから。


「その時に聞かれたんです。その行きつけのお店に会いたい人でもいるのか、と。どういう意味なんだろうかと思ったんですけど、素直にそうだと答えました。他の常連さんともそうですけど、店長さんやハヤさんとお話をするのも、私にはとても大事なことなので」


「私たちも、辰野さんとお話ができるのは楽しいですし嬉しいです」


「ありがとうございます。それはそれで終わったんですけど、もしかしたら金曜日に私を付けて来たのかも知れないんです」


「そうなんですか?」


 千隼が目を丸くすると、辰野さんは「はい」と頷く。


「工場にも事務部はありますけど、まとめが日毎に本社のこちらに上がって来るんです。そしたら一昨日の金曜日、あの人午後休を取ってたんですよ。多分私を本社の前で待ち伏せして、煮物屋さんを見つけたんじゃ無いかと。ハヤさんがあの人に殴られたって聞いて、もしかしたら、ハヤさんが私の会いたい人じゃ無いかと誤解されたんじゃ無いかと思うんです」


「そんなに飛躍ひやくしますか?」


 千隼がついと言った様子で言うと、辰野さんは「信じられないですけど」と辛そうに目を伏せる。


「いくら鈍感な私でも判ります。あの人は私に特別な感情を持っていたんですよね。ただメッセージが多いだけなら判らなかったかも知れないですけど、一昨日から内容がおかしかったですから。「悪者は成敗した」とか、「これで僕たちは幸せになれるね」とか、気持ちが悪かったんです」


 それは確かに恐怖心が芽生えてもおかしく無い。それまではメッセージが頻繁でも、内容は当たりさわりの無いものだったのだろう。少なくとも佳鳴がお話を聞いた時はそうだった。だがいきなり距離感を詰める様なものになると、警戒心も出て来るというものだ。


「ハヤさんは、私が毎週金曜日にほぼ確実にお会いする男性ですから」


「ああ……」


 に落ちたと佳鳴は呟きを漏らし、千隼も理解したと言う様に小さく息を吐いた。

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