第4話 突然の非日常

 千隼ちはやが病院から戻って来たのは、約2時間後のことだった。少しふくらみ始めた様に見える左頬には湿布しっぷが貼られている。何とも痛々しい。


「戻りました。お騒がせしてすいません」


 厨房に戻った千隼が客席に頭を下げると、お客さまから「大丈夫?」とお気遣いの声が掛かる。千隼は「大丈夫です。ありがとうございます」と、やはり殴られた影響があるのか、少し引きつった様な笑顔を浮かべた。


「おかえり。どうだった?」


 佳鳴かなるはひそひそと声を落とす。千隼も佳鳴にしか聞こえない様にか、顔を近付けて来た。


「うん、骨とかは大丈夫だって。れて来てるけど、今は冷やしてるからか今はあまり痛みは感じない。どうも、そう強い力じゃ無かったみたい。多分あまり長引かないって。診断書書いてもらったし、写真も撮ってもらった」


「それだったら良かった。いや良く無いんだけど。お店終わったら交番行くよ。私、警備会社に電話掛けて来る。防犯カメラの映像持って来てもらうね」


「ああ」


 煮物屋さんは警備会社さんと契約しており、念のためにと店内にひっそりと天井に防犯カメラを取り付けているのである。主に金銭を扱うレジ周辺をカバーするものだが、店内がそう広く無いこともあって、全体が写っている。


 なので今日の一件も録画できているはずだ。特に出入り口、レジ近くの席だったから、大きく写っているだろう。それを交番に持って行こうと思っている。警備会社の方には煮物屋さん閉店時間に合わせて持って来ていただこう。


 幸いにもこれまで、煮物屋さんは警備会社さんに動いてもらう様な事態になることは無かった。ただやはりこうしたシステムは大きな安心材料になるので、ずっとお世話になっているのだった。


 まさかこんなことで連絡をすることになるなんて。憂鬱ゆううつな気分になってしまった佳鳴は小さく息を吐きながら、店の電話の受話器を上げて電話帳機能ボタンを押した。




 閉店時間になり、お客さまが全て去られた後、それを見計らった様に警備会社の方が訪れた。恰幅かっぷくの良いスーツ姿の男性から受け取ったのは、1本のUSBメモリスティックだった。


「ありがとうございます。遅い時間に申し訳ありません。助かります」


 頭を下げる佳鳴に、男性は穏やかに「いえいえ」と手を振る。


「何かありましたらいつでもご連絡ください」


 男性はそう言い残し去って行った。


 佳鳴は片付けを千隼に任せ、2階の住居エリアに上がる。自室でパソコンを立ち上げてUSBメモリを刺した。


 無事マウントされたので、マウスを操って画像データを確認する。思った以上に鮮明なカラー映像で、厨房で立ち回る佳鳴と千隼、お食事を楽しむお客さま方の姿がしっかりと撮影されていた。音声は無い。佳鳴は視認できる範囲で早送りをする。


「あ、ここだ」


 すかさず一時停止し、少し戻す。すると予想通り、千隼が暴力を受けた現場がしっかりと録画されていた。


 男性は細っこい腕を振り上げて、千隼を殴り付けていた。佳鳴は格闘技などに明るく無いが、男性のフォームは無茶苦茶に見える。体幹たいかんが弱いのだろう。ただ腕を振り回しているだけの様だった。


 なるほど、これならそう強い力では無かっただろう。もちろん痛かっただろうが。


 警備会社からいただいたのは今日のデータだけである。なので容量はそう重いものでは無い。佳鳴は自分のパソコンにバックアップを取り、念のためSDカードにもコピーする。クラウドへのアップは万が一のことを考えて止めておいた。


 佳鳴はUSBメモリとSDカードを小さなポーチに入れ、それを普段使いのトートバッグに入れる。財布なども入っているのを確認して、下に降りた。


「千隼、ちゃんと写ってた。きりの良いところで交番行くよ」


「ああ。もう洗い物終わる」


 食器をすすぎ終え、濡れた手を拭いた千隼はバッグを取りに上に上がる。降りて来た時には普段使いのボディバッグを掛けていた。


 交番は駅前にある。煮物屋さんからも近い。ふたりはしっかりと戸締りをし、店を出た。




 交番の駐在警官さんは、佳鳴たちの話を親身に聞いてくれた。被害者は千隼なので、主に口を開くのは千隼である。


 ふたりは警察官にパイプ椅子を勧められ、机越しに警察官と向き合っていた。


 警察官は佳鳴が出したUSBメモリとSDカードからUSBメモリを選び、ノートパソコンに刺して映像を確認する。


「ああ、確かに。お加減はいかがですか?」


「今のところは大丈夫です。あ、病院は行きました」


「危害を加えられる心当たりはありますか? 誰かとトラブルがあったとか」


「実は」


 加害者が煮物屋さんの常連さん、辰野たつのさんのお名前を出したことを伝える。お客さまを巻き込んでしまうことは本意では無いが、何せ佳鳴にも千隼にも事情が判らない。警察に任せるのならなおさら言っておかなければ。


「辰野さん、お店のご常連ということは、この辺りにお住まいの人ですか?」


「そう聞いています」


「下の名前は分かりますか?」


「いえ、分からないんです」


「と言うことは、と」


 警察官はノートパソコンに何かを打ち込む。佳鳴たちの位置からは画面は見えないので何をしているかは判らない。


「ああ、こちらで把握している限りですが、この地域に辰野さんは2世帯ありますね。そうある苗字では無いので、絞るのは難しく無さそうです。おひとり暮らしですかね?」


「そう聞いてます」


「でしたらこちらでしょうね。辰野舞美まみさん。もう遅い時間なので明日にでも訪ねて話を聞いてみます。映像はコピーさせてもらっても?」


「もちろんです」


 警察官はマウスを動かす。ノートパソコンがががっと小さな音を立てた。交番の備品なのだろう。旧式らしく厚みがある。


「あ、その前に被害届を作成しましょう。それが無いと警察は基本動けないので」


 警察官は引き出しを開け、何やら書類らしきものを取り出す。机に置いたそれを見ると、上部に「被害届」とあった。


「病院に行かれたとのことですが、診断書などはありますか?」


「あります」


「ではそれも提出してください。今回は傷害罪になります。お時間はありますか? あと身分証明書と印鑑はお持ちですか?」


「全部あります」


「では」


 千隼は警察官に名前や住所などを聞かれ、警察官はその内容を丁寧ていねいに被害届に記入して行った。




 交番を辞して家に帰り着いた佳鳴と千隼は、競う様にリビングのソファに身体を投げ出した。


「……疲れた」


「ああ」


 疲労困憊ひろうこんぱいである。交番にいたのは時間にして1時間ほど。いつもなら煮物屋さんの片付けを終えて、軽い夜食を食べ終わっているぐらいの時間だ。


 時間が押していることもあるが、千隼は暴力を振るわれ、交番でも緊張した。こんな非日常、疲れるなと言うのが無理である。


「軽く残り物食べて……、お風呂入る気力が沸かない……」


「俺も。今日は食って飲んでとっとと寝ちまおう。俺残った小鉢取って来る」


 千隼がのそりと立ち上がり下に降りると、佳鳴もどうにか重い身体を持ち上げる。食器棚からお箸と小皿、グラスを出し、冷蔵庫からはビールを取り出す。今夜のビールはいつも以上の癒しになりそうだ。


 今夜は良く眠れそうだな。佳鳴はそんなことを思いながら、出したものをダイニングテーブルに運んだ。

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